6-203 志乃

 金曜日。放課後、隣のクラスへと向かった。目当ての探し人がちょうど教室から現れる。
 視線が重なるのを感じて、お互いに相手を探していたことが容易に知れた。
「志乃、そっちもホームルーム、終わったところか」
「えぇ」
 椿本 志乃。成績優秀で、学年一、二位を争う彼女は、常に冷めた様な目の色をしている。
 女でありながら、身長が百八十越えの俺とも、目線の位置がさほど変わらない。
 運動音痴で無いということも災いしてか、本人の意思とは無関係に、運動部への入学を勧められている。
 それからその身長と、どちらかと言えば女受けする顔立ちは、同姓にファンクラブを結成させているらしい。
 胸元に肉が詰まっていないのが、新規会員の増加に拍車をかけているとの噂だ。
 だから彼女が間違った方向に走る前に、俺の手で、大きくしてやらねばいけないと思ってる。
「…………君、何か失礼なことを考えてない?」
「とても論理的で、俺と志乃の、利害一致になることを考えてたよ」 
 志乃が「はぁ」と溜息を零した。一応、俺達は自他共に認める、恋人という立場であるはずだった。
 だけど気安い馬鹿なやりとりは、友人の頃から変わらない。
 彼女が昔から変わらず、俺のことを「君」と呼ぶのも変わらなかった。
 それでも互いの距離は、友人であった頃よりも遥かに近い。
「まぁいいわ。君の脳が可哀そうなのは、いつものことよね。…………ところで、明日の予定は?」
「さっき、バイトのシフト変更が入った。二時には終わるから、いつもの店で会おう」
「分かったわ」
 志乃の返事はいつも短かった。

 土曜日。待ちあわせの喫茶店に着いた時、窓際の席に、志乃が座っているのが外から見えた。
 志乃は、読んでいた文庫本から手を放すと、軽く腕を組んで俺を見た。
 眉間に寄せられた眉が「遅いぞ、こら」と言っていた。
「まだ十分前だぜ?」
 腕時計で時間を確認して、一人呟いた。彼女の時計は相変わらず、世界の十五分先を指しているらしい。
 苦笑しつつ店の扉を開けると、女性店員が寄ってくる。
「いらっしゃいませー」
 元気の良い、笑顔の可愛い、揺れる胸元が中々に魅力的な店員だ。
 今までの女性遍歴から、近くの大学生かと当たりをつける。
 志乃がいなければ、今彼氏募集中? と聞く程度には、声をかけていたかもしれない。
「お一人様ですか?」
「いや、待ち合わせ。そこの窓際にいる――――」
 あえて、そこで言葉を区切った。俺の言葉を繋げるように、店員は言う。
「はい。あちらにいる"男性"のお客様の、お席ですね」
 予想していた一言だったのに、久々だったから、思わず噴き出してしまいそうになる。
 どうにか耐えて、極上のスマイルを浮かべて返した。しかしそれだけで店員の表情が赤くなり、硬直する。
 志乃がいなければなぁ、ともう一度不謹慎なことを考えてしまった。
「お待たせ、志乃」
「さっき、何を話してたの?」
 席に座るなり、早速質問が飛んできた。目の前の彼女の表情は、とても穏やかだった。
 顔見知りになって五年、恋人として付き合い始めて一年足らず。
 その経験則から察するに、これは随分とお怒りのご様子だ。
「何を話してたか、気になる?」
「気になるわ。人を瞬間的に沸騰させるのは、君の得意技だからね。今の私の気分も察してくれると、嬉しいわ」
「そう怒るなよ」
「怒ってない」
 再び文庫本へと顔を落とす志乃に、内心微笑んだ。可愛いなぁ。
 これだから付き合うようになっても、以前と変わらぬまま、彼女をからかうのを止められない。

「悪かった。ごめん、志乃。ほらほら、俺ってば昔から、女心が分からない奴だから」
「よく言うわね。君が覚えていないのは、付き合ってきた女性の数でしょう?」
「今は一人しかいないよ。それにこれからも、一人しかいないよ?」
 出来る限り、悪ふざけをするように言ってみせた。
 それは何処かにある本心で、言葉にすることが苦しかったせいもある。しかし志乃は只の出任せだと思ったみたいだ。
 露骨に眉を潜めて、呼んでいた本に栞を挟んで手を離し、それから俺を見て、溜息を一つ。
「君は、相変わらずの"ちゃらんぽらん"だ。自分から信用を落とす事を言って、何がしたいわけ?」
「悪かった。悪ふざけが過ぎたよ。志乃がどんな気分になるのか、よく考えるべきだった。
 遅れて来たのに、呑気に店員と話をするなんて、申し訳無かったと思ってる。ごめん」
「……素直に謝らないでよ、調子狂うから……」
 頭脳明晰、学年トップクラスで通っている彼女が言葉に詰まる様は、大変可愛らしい。
 思うように動かない口から、どうにかして言葉を絞り出そうと、懸命になっている。
「ほら……私って、君の、か、かのじょ、なわけでしょう……」
「だから、他の女と話してたら、気になった?」
 少し意地悪く言うと、志乃は逃げるように、水をちまちまと飲み始めた。
 身長が百七十ある癖に、そういう仕草は小動物みたいで可愛いんだよな、
 そう思って見ていると、先程の店員が注文を取りにきた。
 俺はコーヒーをブラック、志乃はアイスフロートをそれぞれに注文した。
 ふと窓の外を見てみると、今日は土曜日だというのに、同じ高校の学生服を着た女子生徒が二人、
 囁き合うようにこちらを指差していた。軽く手を振ってやると、嬉しそうに手を振り返してくる。
 すると隣から、露骨な溜息の音がもう一つ。
「……軽率」
「サービス精神に溢れる好青年の義務だと言って欲しいね」
「黙りなさい。口先ナルシスト」
 何気にぐさりと突き刺さった、その言葉。じわじわと上々していた株が、一気に暴落してしまったらしい。
 しかしここで後手に回ってはつまらない。
「そうだな、確かに俺はお喋りだ。だから余計なことを言ってしまう。
 たとえば、俺の向かい側に座る彼女は、恐らく俺の次に顔のいい、寡黙な"男友達"に見られてる……とか」
 思いっきり、コンプレックスを突いてみる。予想通り、向かいの席に座る志乃の表情が、沸点に到達した。
 そこを狙って、小さな声で囁きかける。
「志乃、キスしようか」
「……!?」

 おぉ、いい顔。完全に虚をつかれたことが、とても分かりやすい。うん、最高に可愛い。
「な、な、な、にゃにをいっつて!?」
 動揺して舌を噛むとは。お約束を天然でやってしまうのが、志乃の素晴らしいところだった。
 くそ、録音しておくんだった。せめて映像だけは残しておこう。俺は携帯を取り出した。
「志乃、こっち向いて」
「ちょっとっ!?」
 志乃が席から身を乗り出して、俺の両腕をしっかり掴む。俺は大物がかかったと喜んで、ぐいと手前に引き寄せた。
 志乃の真っ赤な顔が、すぐ鼻先に見えていた。
「何するのよっ!」
「俺はね。志乃が男友達に見られるのが、許せないわけですよ。
 志乃は誰よりも可愛い女の子ですよって、キスでもして、証明する必要があると思わない?
 まぁ、同性愛好者に見られたら、それはそれでいいかもしんない」
 目の前の顔が、私はもう限界です、と叫んでいた。
「き、き、君はっ! 正気なのっ!? そんな不埒なこと、公共の場で口にしないでよっ!」
「残念ながら俺は、口先ナルシストらしいので。ところで志乃、プライベートな場所だと、問題は無いわけだ?」
「二度も言わせないでっ! このバカッ!」
 幸いにも隣の席は空いていたが、そんなことは関係ないぐらい、志乃の声は店内に筒抜けだった。
 それに気が付いて、彼女は慌てて一礼をして、椅子に深く腰かけた。
 予想より少々怒らせてしまったので、机の下で行われる踏みつけ制裁は、甘んじて受けておく。
 昨日買ったばかりの二万の靴が、ぎりぎりと踏みつけられるのは、堪えるなぁ。

 日曜日、彼を家に招いた。
 昼前に下拵えを済ませておいた料理に火を通し、机の上に並べると、彼は酷く感心したように頷いていた。
「正直驚いた。志乃、凄いなお前。女だって中々、ここまで美味そうに作れる奴はいないぞ?」
「妙に含みのある発音は、聞かなかったことにしてあげる」
「あ、照れてる?」
「照れてない。私も女の端くれなんだから、このぐらい出来て当然よ」
 そうは言ったものの、心臓は酷く高鳴っていた。大丈夫だろうか、上手に出来ただろうか。
 今まで母親に任せきりだった料理を、自分で学びたいと思った元凶が、机の向かい側に座っている。
 彼と入れ替わるように食事に出かけていった両親は、
「それじゃあ、ごゆっくり」
 などと告げて、何やら含みのある笑みを浮かべていた。
 仮にも一人娘にかける言葉が、両親揃ってそれですか。まったくもう。そんなんじゃないんだからね!
「どしたの、志乃?」
「何でもない。それより、私の料理に無理に感想言わなくてもいいからね。
 自分の腕前ぐらい、よく分かってるつもりだから」
「了解」
 フォークを手に、どれから食べようかなと選んでいる私の――――か、かれし、は!
 不意に顔をあげて、いつもの調子で軽薄に微笑んだ。
「そこまで見つめられると、食べにくいんだけど?」
「な、なによ。自分が作った物を、最後まで見届けるのは……ぎ、義務、でしょ……?」
「そう来たか。なるほど、語尾が若干疑問形だったのは気になるけど、それは確かに一理ある」
「うるさいわね、早く食べなさいよ」
 私達は、いつもこんな調子だ。私が何を言っても、余裕を持ってさらりと返されてしまう。
 それから時々飛び出す爆弾発言に、私はいつも、くらくらさせられている。
 そんな関係が、中学の時から続いている。友人だった頃は素直に悔しいと思うだけだった。だけど今は違う。
 何の役にも立たない言葉のやりとりが、嬉しくて、楽しくて、仕方が無い。
 逆に、彼が女性と会話をしているのを見るだけで、不安に苛まされてしまう。
 会話の相手が、たとえ私の友人だったとしても、平たく言ってしまえば―――嫌なのだ。
「志乃、何か考えてる?」
「…………なんでそう思うの」
「凄く可愛い顔してたから」

 お見通しだ、と言わんばかりの得意気な表情に、また腹が立つ。
 彼は軽薄でお調子者で、躊躇いもなく気障な台詞を口にする。
 いつも空に浮かぶ雲のようにふわふわしている癖に、相手の心情を察する時は、驚くほど鋭い一面を見せるのだ。
 そういうところは、全然可愛くない。
「まぁいいや。普通に腹も減ってきたし、いっただっきます」
「……!」
 よしきた。君が手にしたのは、一番の自信作よ。テーブルの下、見えない位置で両手を握りしめた。
 雲のように軽い彼の言葉には、不思議と偽りは混じらない。
 きっと私の料理を食べた後も、沢山の冗談を交えながら、しかし手放しで褒めたりはしないだろう。
 それが、彼なりの誠実な一面だと知ってしまった時から、ずっと惹かれ続けてきた。
 恥ずかしくて、面と向かっては言い出せないけれど。
「どうかな、おいしい?」
「……うん」
 私の作った料理を、何処か楽しそうに頬張る彼。ごくりと飲みこんで、水を飲み、それから口元に手を添えて微笑んだ。
「志乃、流石にそこまで見られてると、やっぱ食べにくい―――――――」
 言葉の最中、不意に彼の笑みが凍り付いた。そしてそのまま、机の上に突っ伏した。
「あ、あれ……?」
 彼はそれきり動かない。大の男が、料理の並んだ机に上体を預けている光景は、中々にシュールだ。
 いや違う、そうじゃない。私は席を立ち、彼の肩を揺すってみるが、反応は無い。
「冗談だよね?」
 この人なら、近付いた途端に顔をあげて「想像以上に美味くて驚いた!」などと言う演技をやらかしかねないので、
 私は何度も、何度も、小さく肩を揺り動かしてみた。だけど一向に反応は無い。
「……嘘」
 自分が器用な女じゃないということは、分かってる。だけど壊滅的に料理が下手な女なんて、そんな。そんな……。
「―――やだよぉ、死んじゃやだぁ……」
 じわりと眼尻に涙が浮かんだ時だった。ぎゅうと抱きしめた彼の身体が、小刻みに震え始めた。
「っ……!」
 震えは大きくなる。急いで彼の顔を確かめると、そこには私と同じように、眼尻に涙を浮かべた彼がいた。
 いつもは嫌味と共に吹き出る軽薄な様子は無く、その代わり、次の瞬間大笑いした。
「ぶははははっ! 志乃、お前、どういうわけ。俺を持て成すフリをして、暗殺でもしようと企んでたのか?
 それとも何、このままお前の部屋まで拉致って、ベッドの上に縛りつけて、お楽しみの予定だったりする?」
「そんな訳ないでしょうっ!? このバカ! なんでいつも、いつも、いーっつも、そういうことするのっ!?」

「怒るなよ。俺の言い分も、少しは聞いてくれてもいいんじゃないか?」
「何の言い分よっ、バカじゃないの! バカじゃないのっ! バカじゃないのっっ!?」
 盛大に罵りながら、頬を思いっきりつねってやる。加減などしてやらなかった。
 結構本気で痛がっているように見えたけど、それがどうした!
「そうよね。良く考えてみたら、そんなことあるわけないわよ。
 だって普通に食材を買ってきて、レシピ通りに作っただけだもの。アレンジなんて一切加えてないんだから。
 気を失うような料理を作る真似、出来るわけないわ。あぁもう、馬鹿みたい!」
「……志乃、口、開けてみ」
「なによ?」
「いいから、ほら。あーんして」
 彼は再びフォークを手に持って、先ほどとは別の塊をぷすりと突き刺した。
 いつもの軽薄で、楽しそうな笑顔を作って、それを私の口元に差し出してくる。
「ちょっと、そんなことしなくても、食べられるわよ」
「いいからいいから。恋人同士の特権だろ、こういうのって」
「やめてよ、恥ずかしいから!」
「志乃。もしかして自分が作った料理、自信なくて食えないわけ?」
「……君ねぇ……」
 分かりやすい挑発だった。あまりにも分かりやすくて、逆に有無を言わせる暇も無く、乗せられてしまう。
 私は彼に弱い。ジャンケンの強弱関係のように、私は彼に、けっして勝てないのだと思う。
「ほら、恥ずかしいなら、目、閉じて」
「……」
 素直に目を閉じた時点で、私の負けだった。堪えようもない恥ずかしさの中で、小さく、小さく、私の口が開いた。
 指し込まれる銀色のスプーンを舌先に感じて、そっと口を閉ざした。
 ゆっくり、引きだされていく感触に、背中に震えが走る。
「おいしい?」
「……おいしいに決まってるじゃない」
 私が作ったんだから。それから、君が食べさせてくれたんだから。

「志乃、次に料理をする時は、俺も呼んで」
「……うん」
「それから、一つ忠告な」
「……うん?」
「次に料理をする時は、きちんと味見をしような」
 ずびしっ! と額に強い痛みが走った。
 指で突かれたのかと思ったが、次の瞬間、全身に寒気が走り、視界が閉ざされていく。両足の力が抜けてふらついた。
 最後に残った感触は、腰元に回された両腕が、私の全身を支えてくれた温もり。
 私は珍しく、彼の忠告を厳守しようと思った。そして、しばらく意識を失った。

 ――――その、数分後。意識が戻った私が見たのは、私を楽しそうに見降ろしている、彼の視線だった。

「志乃、口開けて。気ぃ失ってる間に、お粥作っといたから」
「……ありがと」
 ぼんやりする頭で、私は餌を求める雛鳥のように、口を開けた。
 くつくつと笑いながら、彼は囁いた。
「俺のふーふー代は、高いよ?」と。
2009年10月28日(水) 19:56:21 Modified by amae_girl




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