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幸州山城の戦い(こうしゅうさんじょうのたたかい)とは、壬辰倭乱・丁酉再乱?において1593年2月12日に朝鮮の首都、漢城*1郊外に位置する幸州山城で行われた戦闘。




背景

1月27日、碧蹄館の戦いで日本軍は明軍に勝利したが、日本軍も多くの損害を被ったため、追撃はせずに漢城へ撤退し、明軍の動向に注意を払いながら、漢城防衛のために南山での築城を推進した。一方、明軍の提督、李如松は戦意を喪失して、坡州、開城を経て平壌まで退いた。

碧蹄館の戦い以前、明軍が開城に到着したと聞いた全羅巡察使の権慄は、漢城目指して南進する明軍に応じて、日本軍を南から挟み撃ちにするために、2300人の軍勢を率いて京畿道水原禿山城から漢城の北西15Kmにある幸州山城に移った。これによって、京畿道の官軍、義兵軍の士気が高まり、他の朝鮮官軍や義兵軍も漢城郊外に結集し始めた。

漢城防衛が限界の日本軍にとって幸州山城の朝鮮軍は気懸りな存在であったし、前述のように漢城郊外には朝鮮官軍、義兵軍の結集が始まっていたため、朝鮮軍の拡大を危ぶんだ日本側は、迅速に幸州山城を攻略することにした。

戦闘の経過

2月12日明け方、宇喜多秀家を総大将に、小早川隆景、黒田長政、小西行長、石田三成ら率いる3万余の日本軍は漢城を出発して、早朝から幸州山城への総攻撃を始めた。しかし、城攻めは狭い通り道や傾斜の鋭い断崖に妨げられて非常に困難で、兵力にものをいわせて一番目の柵は突破したが、死傷者は増加していった。一方、城を守る朝鮮軍は、後方が漢江であるため、撤退が不可能な状態で日本軍の猛攻を凌ぎ続けた。
夕方になると京畿道水師の李蘋が権慄に呼応して、10隻の船を率いて漢江を上ってきたことにより、退路を切断されることを恐れた日本軍は攻略を断念して漢城へ撤退した。

戦後の影響


この戦いで日本軍はかなりの死傷者を出し、総大将の宇喜田秀家と小西行長は重傷を負い、石田三成、吉川広家、前野長康などの諸将も負傷した。一方、圧倒的多数の日本軍を破った朝鮮軍であるが、朝鮮側の損害も大きいため、権慄は日本軍の再侵攻に備えて要害の坡州山城に撤退して軍を再編した。この勝利は朝鮮の官軍・義兵軍の士気を大いに高めた。

権慄は坡州山城を根拠地に、日本軍の北進を抑制し、更に伏兵によるゲリラ攻撃を繰り広げた。日本軍の漢城郊外での行動は、朝鮮軍のゲリラ攻撃により困難となったため、漢城内では燃料として使う薪や馬草が甚だしく欠乏した。この過酷な環境の中で、特に大量の軍馬が餓死した。
朝鮮半島の寒さや物資の欠乏、朝鮮正規軍、義兵軍の圧迫によって、朝鮮に駐留する日本軍の戦意はひときわ衰退しており、幸州山城の敗北後は糧秣の不足、過酷な寒さがより一層深刻となり、厭戦気分*2や撤退願望が軍内に蔓延していった。物資の欠乏や疫病に苦しむ日本軍にとって漢城の維持はだんだんと困難となっていく。
2月27日に漢城で開かれた軍議では、秀吉の渡海を延期するよう上申することが決定された。その他に、内密に漢城からの退却も議論されている。物資の欠乏はどうしようもなく、漢城を放棄して南端の釜山まで退却し、退却後に秀吉に事情の説明を行うというものである。これは秀吉を騙すような内容であった。
諸将は血判付きの連署で、漢城の物資が欠乏していることなど、日本軍の苦しい現状を豊臣秀吉に訴えた。秀吉は、3月に入ると幸州での敗北が耳に届いたのか漢城からの撤退も止む無しと考えるようになる。

参考文献

貫井正之『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』同時代社、1992年
貫井正之『豊臣・徳川時代と朝鮮』明石書店、2010年
中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
北島万次『秀吉の朝鮮侵略』山川出版社、2002年

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