朝鮮史のデータベース

第二次晋州城の戦いとは、講和交渉中の1593年6月に朝鮮軍の守る晋州を日本軍が攻めた戦い。1592年10月にも晋州を巡って戦いが起き、この時は朝鮮軍が勝利を収めている(第一次晋州城の戦い)。



日本軍の狙い

豊臣秀吉の狙いは、和議条件の朝鮮南四道割譲の既成事実化、全羅道への要衝、晋州を陥し、穀倉地帯の全羅道を占領して日本軍の兵糧を調達すること、劣勢となっている日本軍の士気高揚、晋州を拠点とする朝鮮軍の撃破であった。前年より、晋州を拠点とする義兵が、釜山-漢城間の輸送路において思うがままに勢力を振るっており、日本軍の物資輸送は困難を極めていた。秀吉は、日本軍を劣勢に追い込んだ義兵の首領を晋州だとしていた。

第一次晋州城戦以降、日本軍にとって、晋州城攻略は最重要課題となっており、秀吉は、3月に漢城を退いた時に、晋州城を必ず攻略するよう命じていた。

日本側の戦闘準備

秀吉は、和議交渉の進展に関係なく晋州攻撃を決め、93年5月20日、約9万3000の日本軍を慶尚道へ南下させ、晋州付近の広範囲に陣取ることを定めた。

日本軍の編成

鍋島直茂・黒田長政・加藤清正勢約2万
小西行長・宗義智勢約2万6000
一番備:宇喜田秀家勢約1万8000
二番備:毛利輝元・小早川隆景勢2万2000
その他

合計約9万3000

小西行長と加藤清正の対立

戦争が始まって以来、各場面で和議を主張する小西行長と戦闘を主張する加藤清正は対立を起こしており、この時も例外ではなかった。行長は朝鮮軍と交渉して城を空けさせようとしていたが、清正は攻め込むことを主張していた。結局、晋州城に攻め込むことになり、行長は、日明和議の交渉相手沈惟敬に咎められた際、清正が自身の意見に耳を貸さなかったと弁明している。

朝鮮側の戦闘準備

朝鮮側は6月初めに日本軍が全羅道を目指して晋州城に攻めてくるとの情報を得た。全羅道巡察使権慄*1は、同年2月に幸州山城の戦いで勝利していたこともあり、都元帥金命元*2と共に官軍、義兵を率いて宜寧に集結した後、晋州に進もうとしたが、慶尚道義兵将の郭再裕と慶尚道左兵使、高彦伯は、日本軍の勢いが強くなっている一方で、朝鮮軍は寄り集めになっており、実際の戦闘を堪えうる者は少ないと述べ進撃をしないよう忠告した。

これに対して、倡義使判決事の金千鎰は、晋州が陥されれば全羅道に日本軍が侵入するとして、晋州での迎撃、即ち籠城戦を主張した。

以上のように朝鮮側では日本軍の侵攻に対する方針が定まらなかった。

6月中旬に都元帥金命元は、慶尚道大邱に駐留する明軍総兵の劉テイ*3に援軍を求め、権限を持たない劉テイはそのことを上官の宋応昌と李如松に伝えたが、宋応昌と李如松は日本軍と講和する道を選んでおり、この要請を無視した。和議で日本側との交渉を担当していた沈惟敬は金命元に晋州を空城にするように通達した。

こうして晋州城の兵力は金千鎰らの部隊のみとなり、その兵力は約2300であった。金千鎰以外の将を以下に列挙していく。

忠清道兵使・黄進、慶尚道右兵使・崔慶会、復讐義兵将・高従厚、左義兵副将泗川県監・張潤、熊義兵将・李継レン*4、飛義兵将・閔汝雲、彪義兵将・姜希悦、高得賚、呉宥熊、巨済県令・金俊民、金海府使・李宗仁、晋州牧使・徐礼元。

戦闘の経過


日本軍は昌原、咸安を経由して、6月19日には宜寧から晋州へ進撃を開始し、これと同時に丹城*5、昆陽*6、泗川*7、などに斥候を送って、朝鮮軍の晋州救援を抑制した。
全羅道兵使・宣居怡と京畿道助防将・洪季男は晋州へ行き退却を促したが、金千鎰は聞き入れなかった。

6月21日、一部の日本軍が晋州の北東に位置する馬ケン峯から晋州城内を探り、次に日本の大軍が晋州城を包囲した。前年の攻城戦において、後方から義兵に襲撃されたことを踏まえ、小早川隆景の軍勢は城の北にある山上から、宇喜田秀家・小西行長・加藤清正らの後方支援を担った。また、日本軍は水壕の水を南江に流す工事を始め、城内に鉄砲を撃ち込むための大高櫓も組み立てた。
翌22日、金千鎰は、別将の林遇華を救援要請の使者として送ったが日本軍に捕まってしまい、日本軍は遇華を縛って晋州城内に見せつけ、東門へ攻め込んだ。金千鎰、崔慶会、黄進らは兵を指揮して一進一退の攻防を繰り広げた。
23日、日本軍は西北面の壕を破壊して水を南江に流し、壕を土砂で埋めて渡れるようにした。朝鮮軍は城南は南江に面する絶壁であり、ここからの日本軍侵入はないと考え、高い城壁に囲まれた西北面には水壕をつくり、日本軍を城の東面で阻止する計画を立てていた。日本軍は東門に宇喜田秀家ら約1万8000、北門に加藤清正・鍋島直茂・黒田長政・島津義弘ら約2万6000、西門に小西行長・宗義智・松浦鎮信・長谷川秀一ら2万4000を置いた。
25日、宇喜田秀家軍は小丘をつくり、そこに櫓を組んで城内に銃を乱射し、これに対抗して黄進も城内に丘をつくって玄字銃筒で反撃した。
26日、日本軍は大櫃に兵を入れて獣皮で覆い、朝鮮軍の攻撃を避けながら近づき、城壁の破壊を試みたが、朝鮮軍は大石を落とすなどして阻止した。東門では、日本軍が上に囲いをつくった大木を立てて城内に攻撃をしかけたが、朝鮮軍は大砲でこれを破った。ここにおいて宇喜田秀家は「将帥を人質として出せば、皆殺しせぬ」と投降を求めたが、朝鮮側はこれを受け容れず、一進一退の激戦が継続した。
27日、北門の日本軍は城内に火を放ったが、李宗仁の部隊がこれを防いだ。加藤清正の家臣、森本儀太夫・飯田覚兵衛、黒田長政の家臣、後藤又兵衛らは、加藤清正と黒田長政が考案した亀甲車を用いて城北の石垣を破壊し始めた。徐礼元はこれを察知できなかった。
28日、日本軍は西門の石垣にもを開けて、西門を集中的に攻め、黄進が銃撃を受けて戦死した。
29日、ついに西門と北門の城壁を崩した日本軍は、牛皮で覆った亀甲車で、城内に侵入し、朝鮮軍は激しく抵抗した末に、金千鎰、崔慶会、金俊民、高従厚らは楼閣で送別の宴を催して、南江に身を投げた。

こうして一週間に及ぶ3000の朝鮮軍と9万の日本軍の戦いは終結した。

戦後

豊臣秀吉は、戦前に晋州城内の人間を皆殺しにするように発令しており、日本軍は城内の民衆6万余を虐殺し、更には、犬、猫、馬、牛まで殺し、城を完全に破壊した。日本軍は、朝鮮各地で多くの民衆が参加している義兵に対して懐柔ではなく皆殺しという対応をとってしまったため、日本軍もまた、他民族を侵略する軍隊が嵌まる泥沼に陥っていった。
城を破壊した後、日本軍は晋州から撤退して日本へ帰還していった。

秀吉は、自身の海外における「雄飛」の証拠として、この勝利を大々的に国内に知らせ、また、晋州牧使・徐礼元の首を京都の聚楽近くの橋に晒したため、国内では日本軍の侵略が順調であるとの誤解が生じた。

参考文献

貫井正之『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』同時代社、1992年
中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
上垣外憲一『文禄・慶長の役』講談社学術文庫、2002年
北島万次『加藤清正』吉川弘文館、2007年
金奉鉉『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』彩流社、1995年(戦闘の経過、朝鮮側の準備態勢の項目のみ)

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