朝鮮史のデータベース

鳴梁海戦は丁酉再乱(慶長の役)の1597年9月16日に陸軍に呼応して全羅道を西進して漢江を目指した日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった海戦。韓国では鳴梁大捷と呼ばれ、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦いとして名高い。



戦闘の背景

1597年8月、左軍に属して南原城攻防戦に加わった藤堂高虎や加藤嘉明らは左軍を離れて、海上から陸の左軍の進撃に呼応するため、全羅道南岸を西進して漢江を目指した。8月28日には8隻の日本水軍が於蘭浦に侵入したが、戦わずして退いている。また、碧波津に停泊していた朝鮮水軍は西進する五十五隻の日本水軍による攻撃を受けたが、これを撃退した。夜になって再び襲撃を受けたが、これも撃退している。
9月16日、藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総、菅達長、波多信時、軍目付の毛利高政らは軍船133隻を以て、鳴梁海峡*1に押し寄せた。なお、日本水軍は、狭い鳴梁海峡で大船の運用は困難だとして100隻以上の中型船に乗り換えている。

戦闘の経過

一方、朝鮮側の戦力は漆川梁海戦を生き延びた慶尚右水使、裴楔の12隻と鹿島万戸宋汝ソウの1隻の合計13隻であり、李舜臣は真っ向から日本軍と戦うのは不可能だと考え、鳴梁海峡の、潮流が早く潮の満ち引きには渦が発生するという性質を利用することにし、東から迫る日本軍に対して西側に軍船に擬装した漁船を配置した。

海戦の当初、潮は東から西へ流れ、朝鮮水軍には逆流となっていたため、李舜臣は海峡の中流に碇を沈めて流されないようにしてから、怒涛の勢いで迫る日本水軍を迎え撃ち、海戦の最中に潮の流れが西から東に変わったのを見計らって、一転して朝鮮水軍は攻勢に出て勝利を収めた。

この海戦で日本水軍は兵船31隻を失い、来島通総や波多信時が戦死し、藤堂高虎も負傷した。また、軍目付の毛利高政も溺死する一歩手前であった。

戦局への影響

日本水軍は大敗したことにより熊川*2まで退却し、水軍の西方展開作戦は失敗に終わる。日本軍は前役の反省から海上輸送第一の布陣であったが、結局南岸の順天・釜山間の海路しか確保できなかった。一方の朝鮮側は西海の制海権を引き続いて掌握した。また、朝鮮水軍の勝利を聞いた明軍は、明艦隊を朝鮮海峡に南下させることを決断する。

参考文献

北島万次著、日本歴史学会編『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館、1995年
北島万次『秀吉の朝鮮侵略』山川出版社、2002年
上垣外憲一『文禄・慶長の役』講談社学術文庫、2002年
中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
松村劭『海から見た日本の防衛』PHP新書、2003年
久保田正志『日本の軍事革命』錦正社、2008年
小林則子「無敵の李朝水軍」『海の戦国史海賊大将の栄光 (別冊歴史読本 (62)) 』新人物往来社、1996年

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