朝鮮史のデータベース



前半生

1545年、両班(貴族)の家庭に三男として生まれた。両班の家に生まれた以上、仕官するために儒学を学ばなければいけなかったが、舜臣は戦争ごっこばかりやっていた。舜臣はいつも指揮官役で、その巧みな指揮は見物している大人達を驚かせた。
21歳になると、武芸の訓練を始め、特に弓術と馬術で並はずれた才能を示した。舜臣は冷静かつ我慢強い性格で、1572年、27歳の時に訓練院の別科の試験中に落馬したが、自分で立ち上がって、柳の皮を剥ぎ、骨折した左脚に包帯した。1576年、31歳の時に科挙の武科に合格し、二年間、北方の咸鏡道の国境警備に就いた。舜臣は任期を終えて首都漢城に戻った後、訓練院の奉事(書記官)の職に就いた。この頃、舜臣の上官が、親しい人物の階級を特進しようとしたため、舜臣は上官を説得して、これを止めさせている。また、兵曹判書(軍部大臣)の金貴栄に、妾の娘を舜臣の妾にくれてやろうと言われた。出世のチャンスであったが、舜臣は、官職に就いている者が権勢のある人物とつながるのは好ましくないと断った。

権力欲の強い官僚らに毛嫌いされた舜臣は中央から忠清道に飛ばされた。舜臣はそこで軍官となったが、上官の節度使(司令官)が酒に溺れ気味なのを常に叱っていたため、節度使には煙たがられていた。1580年7月、鉢浦水軍万戸(部隊長)に任じられたが、上官の全羅左水使(提督)の成が琴をつくるために役所近くに生えていた立派な桐を伐採しようとしたことに反対して伐採を止めさせたために、就任から半年で任を解かれて、再び都の訓練院に戻った。

1583年、新たに咸鏡道節度使となった李ヒの下で軍官として咸鏡道の警備にあたった。李ヒは舜臣の鉢浦時代の上官で、相手が上官であってもはっきりと物を言う舜臣を嫌っていたが、舜臣の見事な仕事ぶりをみて改心し、己を恥じた過去を持っており、今回、再び舜臣が李ヒの部下になったのは、李ヒ自ら、王に舜臣を自身の部下にするよう願い出たからであった。舜臣は国境を侵す女真族の首領ウルチネを捕らえる大功を挙げたが、直属の上官である金禹瑞が妬んで嘘の報告をしたため、褒賞をもらうことができなかった。

同年11月、舜臣の父が死去した。翌年1月に知った舜臣は、忠清道牙山に行き喪に服し、この間、官職には一切就かなかった。喪のあけた1586年に造山万戸に任命され、再び国境警備の任に就いた。翌年には鹿屯島の屯田の責任者を兼任した。舜臣は全力を尽くして警備をしていたが、警備兵の数が少ないため、女真族の侵入を防ぎきれなかった。そのため舜臣は何度も上官の李鎰に援軍を求めたが聞き入れられなかった。そんな状況の中で女真族の大軍が侵入してきたが、舜臣は勇敢に戦い、遂に弓で敵の指揮官を射殺した。舜臣は指揮官を失って逃げた敵軍を追撃して60余人の捕虜を奪還した。
援軍を拒否していた李鎰は自身の失敗を隠蔽するために舜臣を投獄して殺害しようとした。舜臣は投獄される寸前、李鎰の部下で舜臣の友人である宣居怡が酒で舜臣を慰めようとした際、舜臣は「生死は時の運にあるもの。死を恐れて酒で紛らわすことはない」と述べ、落ち着き払って動じずに獄につながれた。
李鎰は偽の敗戦報告書を書かせるために舜臣を拷問したが、舜臣は反論して言うことを聞かなかった。さすがに李鎰も舜臣を殺せなくなり、舜臣を獄につないだまま出鱈目な報告をした。朝廷は舜臣を白衣従軍*1の刑とした。

1588年6月、舜臣は刑期を終え帰宅した。当時、中央では軍備強化の一環として有能な人物を推薦しようとし、舜臣は第一級の人物として二番目に選定されたが、どの官職も任じられなかった。

翌1589年春、舜臣を高く評価する全羅道巡察使・李洸が浪人となっていた舜臣を全羅道助防将に推薦した。軍官となった舜臣は軍備の強化に努めた。一時、宣伝官(連絡官のようなもの)を務めた後12月に井邑県監に任じられた。舜臣は行政を巧みにこなし役人としての才能も示した。また、長期に渡って空席となっていた隣接する泰仁県監を兼任し、山積みとなっていた書類を迅速に処理し、多くの裁判問題に明快な判決を下してあっという間に解決した。これに感動した民衆は、舜臣を泰仁県専任の県監にして欲しいと政府に申し出ている。

舜臣の評判は高く、1590年7月には国境沿いの高沙里鎮の兵馬僉節制使、翌8月にも堂上官に位を上げて満浦鎮の水軍僉節制使に抜擢されたが、いずれも反対勢力によって任命は取り消された。1591年2月、南端の珍島郡守に任じられたかと思えば、赴任する前に北端の加里浦鎮の水軍僉節制使となるようにと命を受け、北方へ行く準備をしている最中に今度は全羅左道水軍節度使に抜擢された。一か月の間に舜臣の役職が三度も変わった背景には中央の舜臣の支持者と反対者の攻防があった。舜臣はどの党にも加わらず、権力者にへつらうこともなかったため、このような攻防はあずかり知らぬところであった。

水軍節度使という、現在でいう管区の司令官となった舜臣は軍備の強化に努めた。建国当初は数十万を数えた軍隊も、約200年間の平和の間に数万にまで減り、軍紀は弛緩し、兵の訓練は不足し、戦船など軍備は修理されずに放置されていた。舜臣は厳しく軍備の点検・修理し、要衝には鉄条網を巡らすなど拠点を厳重にした。兵士の訓練は実戦的なものを徹底した。舜臣は兵器の考案・改造も行った。舜臣は実戦で役立つように長柄の鎖鎌や四本爪の鉤を考案して兵士が自在に操れるようにし、戦船には必ず火砲を装備させた。舜臣の考案した兵器の中で最も有名なのが亀甲船という戦船である(詳細は亀甲船?を参照)。

舜臣は無駄な費用をなくし、個人的な蓄財、賄賂を厳格に取り締まったので管区内の民衆は進んで税を収めた。そのため多額を消費した一連の改革は、あらかじめ管区に割り当てられた国費で実現したのである。

壬辰倭乱・丁酉再乱

壬辰倭乱


1592年4月13日、豊臣秀吉指揮の下、15万の日本軍による朝鮮侵略が開始された。政府が日本の侵略はないと楽観し、防備をせずに少数の兵士を配置するだけだったのとは対照的に、舜臣は日本軍の侵入を警戒して臨戦態勢を整えていた。釜山浦から最短となる海雲台の慶尚道右水営(水軍本営)を守備していた元均は、日本軍の侵略が始まると対抗手段がないと判断して撤退しようとしたが、部下の李雲龍達の諌めを受けて撤退を取り消し、全羅左水営の李舜臣に援軍を求めた。日本軍の侵入から二日後の15日、元均から報を聞いた李舜臣は中央や他の官庁、沿岸の部隊に急報し、自身も水軍を出動させ陣を守備した。4月16日に釜山陥落の知った舜臣は日記に「憤激に耐えかねた」と記している。舜臣は部下を集めて作戦会議を開いたが、大半の部下は「慶尚道は管轄外であり、そこまで進撃するのは越権行為ではないか」として救援に否定的であった。しかし、部下の一人、宋希立が「敵の大軍が国土を侵し続けているのに狭い範囲を守っても守り通せるものではない。ただちに敵を攻撃した方が遥かにましであり、勝利を得れば敵を挫くことができ、戦死したとしても国民の道理として恥ずべきことではない」と救援を主張した。また、鹿島万戸の鄭運も「国恩を受けた民として、こういう時こそ命を賭して国恩に報いるべきで座視すべきではない」と言った。これに舜臣は喜び、出撃準備を整え、5月4日に出撃して巨済島沖で慶尚右水軍と合流し、更には全羅右水使の李億ギにも援軍を求めた。

李舜臣指揮下の左水営の戦力は80余隻で、その内訳を以下に記す。

板屋船 24隻 戦艦  大型
挟船  15隻 補助艦 中型
鮑作船 46隻 偵察艦 小型

朝鮮水軍の全兵船は日本水軍のそれより遥かに少ない160隻余りであった。

5月7日の早朝に、日本軍を攻撃するために加徳島へ向かった李舜臣率いる水軍は、昼ごろに藤堂高虎指揮下の50余隻の日本水軍を玉浦沿岸で発見した。襲撃を予期していなかった日本軍は全船が錨を下ろして、陸上で戦闘を行っており、朝鮮水軍は容易に湾内を封鎖して、日本水軍の中心に突撃し、大砲で猛攻を加えた。日本軍も陸から反撃したものの半数近い26隻を失って船内の留守部隊も船を放棄して陸へ退却し、一方の朝鮮水軍は一隻を失っただけで、最初の海戦は朝鮮軍の勝利で終わった{玉浦海戦)。更に同日午後、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明の指揮する日本水軍と合浦湾で交戦し、朝鮮水軍は日本兵船を上手に楯として活用しながら湾内に突撃し、大船4隻、小舟一隻を撃沈した(合浦海戦)。
李舜臣は最初の出撃から六日間で36隻の日本の兵船を撃沈する戦果をあげた。
5月27日に元均から日本軍が泗川、昆陽に向かっていると急報が入ったので、李舜臣は29日に兵船23隻を率いて麗水を出陣し、途中で元均率いる慶尚道水軍と合流して泗川浦に向かった。そこには加藤嘉明、九鬼嘉隆軍の楼閣船(大型船)12隻が停泊し、兵士400名が陸に陣を敷いていたため、李舜臣はわざと退却して日本軍を海戦に持ち込み、海が満潮になったのを見計らって、日本軍に攻撃を仕掛けて撃破した(泗川海戦)。この海戦では、火砲と新型兵船の亀甲船の成果が特に際立っていた。
6月2日、唐浦で、朝鮮水軍は亀井茲矩率いる水軍と交戦し、朝鮮水軍は亀甲船を船団の頭に配置し、日本の大船に的を絞った攻撃で旗艦を燃やし、指揮官級の武将を殺害した後、残余の軍船も焼やして、この海戦でも完勝した(唐浦海戦)。また朝鮮側は亀井が秀吉から賜った金扇を戦利品として獲得している。
李舜臣率いる水軍は交戦後にチュ島一帯を掃討して、全羅右水使の李億ギと合流したところに、唐項浦に加藤清正配下の水軍26隻が停泊しているという報告が入ったため、すぐに出動し、5日、戦闘が開始された。朝鮮水軍は作戦に沿って、日本軍を海上に誘い込み、陸への退路を断って攻撃を仕掛けて、完勝を収め、清正の旗印である「南妙法蓮華経」の大織を焼いた。この戦いでは朝鮮の官軍、義兵軍も朝鮮水軍に応じて、陸上から日本軍の上陸を防いだ。一連の戦いで功績をあげた李舜臣は資憲大夫(正二品)に叙せられた。
唐項浦海戦後、李舜臣率いる朝鮮水軍は本陣に凱旋する途中で来島通之らの船団(大型船5隻、中型船二隻)に遭遇し、朝鮮水軍の強さは既に日本軍に知られていたため、日本水軍は栗浦から釜山浦に向かって、船の荷まで棄てて逃走したが、朝鮮水軍はこれを追撃して、全滅させた(栗浦海戦)。この戦いで日本側は来島通之が戦死した。
交戦後に、朝鮮水軍は南海を捜索したが残っている日本軍はいなかった。出撃から13日間で朝鮮水軍は日本水軍の兵船72隻を撃破した。


このように、慶尚道南部の海域では朝鮮水軍が連戦連勝しており、日本軍は劣勢であった。7月7日、一連の朝鮮水軍の攻勢を受けて脇坂安治、加藤嘉明、九鬼義隆の三大名は朝鮮水軍の攻撃を命じられ、大型層楼船7隻を含む70隻余りの大軍を駆り出して攻めてきたが、李舜臣率いる朝鮮水軍は閑山島の沖合で鶴翼の陣を用いて日本水軍を包囲殲滅して完勝した。(詳細は閑山島海戦を参照)

休戦期

1593年、これまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。1597年に慶長の役の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らし、朝鮮朝廷は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように李舜臣に攻撃を命令した。しかし、李舜臣はこれを日本軍の罠と考えて独断で攻撃を実施しなかったため、朝鮮朝廷内部では抗命を咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され拷問を受けて一旦は死罪を宣告されたが、鄭琢の取りなしで一兵卒として白衣従軍を命じられた。

丁酉再乱

1597年に李舜臣の後を継いだ水軍統制使元均*2が水軍による単独攻撃の命令を嫌がりながらも遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し、戦死した。かわって水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めたのが李舜臣である。李舜臣が再任された時は、朝鮮水軍には僅か13隻の戦船(板屋船)しか残っていなかった。

同年8月、南原の戦いに参加した藤堂高虎ら指揮下の水軍は、穀倉地帯の全羅道支配、更には漢城侵攻を目論み、陸上部隊の進撃に呼応して全羅道南岸を西へ進んだ。そして9月半ば、藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治、来島通総、軍目付の毛利高政らの兵船133隻の水軍は鳴梁海峡に迫ったが、李舜臣率いる朝鮮水軍は潮の流れを利用した攻撃を仕掛けて大勝を収めた(詳細は鳴梁海戦を参照)。

1598年、明・朝鮮軍が日本最西端の拠点である小西行長等が守る順天城を攻撃しだすと、李舜臣率いる朝鮮水軍は明水軍と共に水陸共同の順天攻撃作戦に参加し同時に順天城の海上封鎖を行った。しかし、水陸両面で明・朝鮮軍は損害を出しつつ苦戦し、厭戦気分が蔓延して攻撃は頓挫、海上封鎖を解いて古今島に後退した(順天城の戦い)。

李舜臣と陳リンは順天城攻撃の前の1598年7月中旬に合流したが、驕り高ぶり、乱暴という評判の陳リンと李舜臣が円滑に共同作戦を遂行できるか朝鮮政府も心配していた。しかし、李舜臣は陳リンを可能な限りもち上げ、また巧みな言葉で持ち掛けて、戦果があげれば明軍のものとするが、指揮権は李舜臣に任せるという約束をさせた。
しかし、順天攻撃では李舜臣が、引き潮になっているため一旦撤退した方がいいと警告しても、陳リンはこれを無視して攻撃を続けた結果、明の軍船が浅瀬に乗り上げて日本軍の集中攻撃を浴びている。

秀吉の死によって日本軍に退却命令が出ると小西行長は明・朝鮮陸軍との間に講和を成立させ、海路を撤退しようとしたが、それを知った明・朝鮮水軍は多くとも150隻の軍勢(朝鮮水軍約80隻、明水軍約60隻)で古今島から松島沖に進出し海上封鎖を実施、小西らの撤退を阻んだ。そのため今度は明・朝鮮水軍と休戦交渉を行い、明水軍の陳リンに賄賂を贈り、内諾を取りつけたものの、李舜臣は陳リンを通じて贈られた賄賂を断った。ともかく陳リンに賄賂を渡したことにより小西は島津に救援を求める使者を送ることができた。これを知った李舜臣は出撃を決意して、このことを陳リンに通達した。

島津義弘をはじめ、昌善島に結集した日本軍は11月17日に兵船500隻を以て進撃を開始し、出撃を聞いた明・朝鮮水軍は露梁海峡で迎撃することにした。
18日午前二時ごろ、日本水軍は露梁海峡に入ったところで朝鮮水軍の先鋒と遭遇し、ここにおいて露梁海戦が始まった。
先鋒の明将トウ子龍が島津方の砲撃で戦死すると明軍は不安に陥ったが、李舜臣率いる朝鮮水軍が先行して奮戦したため混戦となった。激しい戦いの最中に李舜臣は銃撃を受け、部下に戦いの最中であるから自分の死を知らせず、防牌で自分を見えなくするように指示して息絶えた。海戦は李舜臣の死を伏せたまま続行され、日本軍は兵船200隻を失って南海に退却し、明・朝鮮水軍の大勝に終わった。なお、退却する日本軍を明・朝鮮水軍は追い打ちして日本軍が放棄した一万石余の食糧と多数の牛馬を獲得している。

死後

李舜臣には葬儀の時に右議政の地位を朝廷から追贈された。1604年に、正式に戦争の勲功者を選定するときに第一等功臣の筆頭に挙げられ、「効忠仗義迪穀協力宣武功臣」の弥号と共に「大匡輔國崇禄大夫議政左議政兼領経筵事徳豊府院君」の地位を贈られた。
また、彼を追慕する朝鮮全土の各地の人々によって、李舜臣に縁のある地に祠や石碑が建てられた。その中でも李舜臣の埋葬地である忠清南道牙山市芳華山にある顕忠祠は韓国の国家管轄の祠堂に選定されている*3
韓国には約1000体の李舜臣の像が建てられており*4、ソウル市世宗路と釜山市海雲台の像が有名である。

国際的評価


イギリス海軍・海軍大将を務め、バス勲章受章者でもある、海軍戦略家のジョージ・アレキサンダー・バラード(1862-1948)は、李舜臣について、戦略的状況を広く理解し、特に優れた海軍戦術で戦争におけるただ一つの正しい理念である不屈の攻撃規則により、常に鼓舞された統率原則を合わせ持ち、彼の激しい攻撃は断じて盲目的な冒険ではなかったと述べた。また、イギリスの英雄、ネルソン提督*5と肩を並べる人物がいるとするなら、それは、一度も敗れず、敵軍の中で戦死した李舜臣だとも述べている。バラードは、李舜臣が初めから終わりまで失敗しなかったというのは言い過ぎではなく、様々な状況下で完璧な対応を採っており、批判しようがないと述べ、そして、李舜臣の全業績を要約するなら、過去の歴史に手引きとするほどの教義が存在していなかったにも関わらず、彼は戦わなければならないときに戦って常に勝利を収め、祖国を守護する最も優れた犠牲で生涯を終えたと述べている。

旧日本海軍中将で、戦史研究の大家である佐藤鉄太郎(1866-1942)は李舜臣を「ネルソン以上の提督」と評し、ヨーロッパで李舜臣に匹敵する人物を挙げるなら、オランダのミヒール・デ・ロイテル以上でなければならないと述べている*6。佐藤は、李舜臣の活躍を知ることで「攻勢防御」という概念を得たといい、処女作「国防私説」を書くきっかけとなった。これを発展させたのが帝国国防史論である。帝国国防史論はマハンの「海上権力史論」の影響を強く受けているのであるが、出版されたのは1890年であり、翻訳出版されたのは1896年である。田中秀雄は、佐藤が制海権の概念を思い浮かべたのは李舜臣を知った時からであり、それはある意味、マハンを必要としていなかったとも考えられるが、少なくともほぼ同時期だと考えられる、と述べている。

国家主義者で、明治・大正・昭和の三代にわたって日本の世論形成に重要な役割を果たした、評論家、歴史学者の徳富蘇峰*7(1863―1957)は、『朝鮮役』の中で、李舜臣について「彼は死してなお生き、死してなお勝った。日本水軍の諸将らは李舜臣に敵う人物ではなく、ひとは彼を恐れた。彼はじつに朝鮮の英雄にとどまらず、七年戦中の三国第一の英雄であった。」と称えている。

旧日本軍参謀本部編纂『日本の戦史−朝鮮の役』においては、李舜臣について、「朝鮮の陸兵が連敗したのに反し、水軍が連勝し、日本の水軍の西進を拒んだのは、一つは船舶建造が日本よりすぐれていたことにあった。しかし、戦船の運用や武器の使用は将帥その人の良し悪しにある。朝鮮の水軍は名将李舜臣を得てはじめてその効果をあげた」と賞賛している。

参考文献

李殷直『歴代朝鮮名将伝』太平社、1975年(前半生の項のみ)
金奉鉉『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』彩流社、1995年(徳富蘇峰についてのみ)
貫井正之『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』同時代社、1992年
上垣外憲一『文禄・慶長の役』講談社学術文庫、2002年
中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
北島万次『秀吉の朝鮮侵略』山川出版社、2002年
田中秀雄『石原莞爾の時代-時代精神の体現者たち』芙蓉書房出版、2008年(佐藤鉄太郎についてのみ)
George Alexander Ballard, The Influence of the Sea on the Political History of Japan (1921), Kessinger Publishing ,2009
Hawley, Samuel 2005 The Imjin War: Japan's Sixteenth-Century Invasion of Korea and Attempt to Conquer China. Republic of Korea and U.S.A.: Co-Published by The Royal Asiatic Society and The Institute of East Asian Studies, University of California, Berkeley.

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