朝鮮史のデータベース

倭寇とは朝鮮や中国を襲った日本人などの海賊に対する朝鮮・中国側の呼称である。14世紀〜15世紀のそれを前期倭寇、16世紀のものを後期倭寇と呼ぶ。前者は主として朝鮮半島沿岸を、後者は中国大陸沿岸を襲撃した。この項では前期倭寇を扱う。前期倭寇は対馬・壱岐・松浦地方を中心とした九州から瀬戸内沿岸を根拠地とした。
前期倭寇の中でも14世紀末の倭寇は南北朝時代日本の南朝側諸勢力によって行われており、南朝の長である懐良親王が統制していた(ただし、全ての倭寇を統制できていたわけではない)。14世紀倭寇は菊池氏一族とともに懐良親王を支える存在であった。

倭寇の構成員については諸説あるために下記に記す。

倭寇の構成員

倭寇の構成員について、田中健夫は、1982年の著書において、1370年から90年初めに倭寇の襲撃がもっとも激しくなったのは新たに高麗の賤民階級(禾尺・才人)が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むものだと述べた)が、1987年の著書においては、倭寇の構成を日本人と朝鮮人の連合か朝鮮人のみであったと述べた。高橋公明は、倭寇が多くの馬を使っていることについて、済州島との関わりを挙げている。当時の済州島は元の直轄地であったため、モンゴル人(牧胡、モンゴル系牧子という)が入植し馬の飼育が盛んであった。倭寇と牧胡との間に何らかの関係があったのではないかという主張である。また、倭寇には朝鮮国内の海上勢力が関わっており、その基層を済州島の海民が担っていたと主張した。

従来の通説では、倭寇の中心は対馬・壱岐・松浦地方の、いわゆる「三島」地域とされていたが、田中・高橋両氏による新説は倭寇研究に大きな衝撃を与えた。その一方で、この新説は様々な批判の対象となった。

濱中昇は「高麗史」、「高麗史節要」にみえる多くの倭寇記事の中で高麗の民衆が倭賊と偽った事例は二例しかなく、賤民が倭寇と偽って略奪を働いた例を検証すると倭寇そのものの襲撃がまずあり、それから若干遅れて賎民の乱暴が発生していることから倭寇とは別のそれに乗じた泥棒の類であると述べた。賤民の盗賊行為の記事自体は多いが、彼らと倭寇が連合したという史料がないことも指摘している。田中が主張の根拠にした1446年の李順蒙の「倭寇に占める倭人の割合は一割から二割」という発言*1についても、その発言は裏付ける史料がないことを示した。
倭寇の組織の特徴である領主制が日本には存在するが、中世の朝鮮には相当するものが存在しないことなどから倭寇の主体を朝鮮国内には求めるのは難しく、仮に朝鮮半島南部の海民が高麗末期の倭寇に加わっていたとしても、それは個別的な次元に止まり倭寇の主力が日本人であることに変わりはないと述べている 。また、多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたことを挙げるなど日本人による大規模な倭寇は可能だと述べている 。

韓国の李領は、高麗・朝鮮において倭寇の始まりと認識されている庚寅(1350)年の襲撃は足利直冬の攻勢に焦った少弐頼尚が対馬の軍勢を動員して兵糧を求めて行ったものとした。
高麗末の倭寇が大規模で、かつ連年発生した背景には、九州全域から瀬戸内海等の広大な地域の悪党を征西府(南朝)が水軍として動員していたという特殊な事情をあげ、高麗末の倭寇は海賊に限定されるものではなく、日本の公権力、特に南朝側と強い結びつきがあり、南北朝時代(高麗末)と足利氏による南北朝統一後(高麗が滅び、朝鮮が建国)では、同じ前期倭寇であっても、その性質は異なると述べている。
李もまた、田中説について大規模な禾尺・才人が倭寇と連合したことを立証可能な史料がないことを指摘し、高橋の説についても済州島の海民が倭寇であることを示す史料が皆無であることを指摘した。李順蒙の発言については発言の根拠が伝聞であり、李順蒙の人格・性向が「狂妄」と評されており、その発言も信用しがたいと述べている。

田中の説について村井章介は、多くの人員や馬を海上輸送させる困難さの説明も含めて説得力があるとしたが、田中が主張の根拠とした朝鮮王朝実録に記されている世宗王代の判中枢院事・李順蒙の発言について、膨大な朝鮮の史料のなかで倭寇に占める日本人の比率が記載されているのは田中が挙げた一例しか存在せず、その上、その史料は倭寇の最盛期から50年以上後のものであることを指摘した。また、その史料における李順蒙の発言は、賦役から逃亡する辺境の民が多いため軍隊の数が足りなくなっているという文脈で述べられており、また、賤民階級に対する蔑視が基本的な考え方となっているため、倭人が一割〜二割に過ぎないという数字をそのまま信用することは出来ないと述べている。
また、賤民階級が倭賊に偽装したことはあったが、それは彼らが倭賊と連合して一つの集団として倭寇行為を行ったことを証明するものではないと述べた。
倭寇の正体について、村井は、当時国家概念が明確ではなく、日本の九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が国家の枠組みを超えた一つの共同体を有しており、村井は彼らを「倭人」という「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団だとし、境界に生きる人々(マージナル・マン)と呼んでいる。村井によれば、倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている 。

村井の説が一部の人間によって恣意的に利用されているという意見が2007年に出版された日韓歴史共通教材で出されており、恣意的に利用している例として扶桑社の中学歴史教科書が挙げられている。同教科書において倭寇は「朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには朝鮮人も多く含まれていた。」や「16世紀の中ごろ、再び倭寇が盛んになったが、その構成員は殆ど中国人であった」と記述されているが、この記述について、倭寇に占める日本人の数を低くみせるために村井の理論を利用した上で、村井の理論とは相反して「日本人」、「朝鮮人」、「中国人」と国籍を強調していると批判している。
中国の沈仁安は、村井のいうように倭寇を国境をまたぐ海上勢力ということも全体的にみれば可能だが、13世紀から16世紀にかけて性質が変化している倭寇を包括的に解釈することは、具体的な歴史過程を隠し、具体的な問題の具体的な分析の手法として原則に合わないと述べている 。前期倭寇の主力が日本人であることに疑いを挟む余地はなく、村井は古代において「倭」という呼称が日本列島以外の地域の呼称としても使われており、「日本」とは別個のものだと述べているが、千数百年以降の歴史的事実を紀元前後に生まれた「倭」「倭人」で解釈すること自体、全くの不適当だと述べている。
濱中は村井の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮が日本を国家として意識した場合とそうでない場合(蔑視の心がある場合)との使い分け、九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし 「倭」と「日本」は事物の本体としては同じものだと述べ 、「倭」と中世の日本は別個のものではないと述べている 。

高麗前期には見られなかった「倭」が高麗後期になって現れて「日本」と併用されているが、武田幸男は、「倭」が現れた原因を倭寇だと述べている。武田は高麗が日本を国家レベルで意識、または正式な通交相手と認識した場合は「日本」とし、国家レベルで意識せず「敵対者」と認識した時は「倭」と記しているとした 。また、武田幸男は14世紀倭寇の首領の装備について「典型的な中世日本武士」だと著書の脚注で述べている
斎藤満は高麗史が「倭」と「日本」を別個のものとして扱っていることを指摘し、その例として「日本国」と「倭国」を区別して記録していることを挙げている。そして高麗史に一度のみ登場する「倭国」を征西府だと推定した。斎藤は、当時の日本は二つに分裂しており日本を単一のものとして扱わないのはおかしいことではないと述べている。
渡辺昭夫は、倭寇の首領が日本の精鋭部隊と同じ装備であることを指摘し、南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて日本の正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加した述べている。 その背景を渡辺昭夫は「長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったので高麗の水路と地理に詳しくなっていた」と説明している。
矢沢康祐は前期倭寇の主力は、対馬・壱岐・松浦地方を中心とした九州から瀬戸内沿岸にかけての中小領主層(土豪)、零細農漁民、海上の浮浪者群であり、数百隻の大規模な倭寇は松浦党をはじめとする海賊武士団だと述べている。

田中・高橋の新説は真正面から批判を受け前期倭寇の主体を日本人と高麗・朝鮮人の連合、あるいは高麗・朝鮮人とする理解は再検討を必要としており、むしろ日本の歴史学界においては旧説の日本人主体説が再評価されてきている状況にある。ただし、李領による庚寅年の倭寇が少弐頼尚によって行われたとする説については日本の歴史学界は否定的である。

なお、当時の高麗・朝鮮、日本(室町幕府)、中国明朝という東アジア各国において前期倭寇の主体は対馬・壱岐・松浦を中心とする北部九州島嶼部の海民と領主らであり、特に壱岐・対馬の海民と領主が中心だということが共通認識であった。この認識は国家レベルでの表面的なものでないことは、実際に倭寇の禁圧と被虜人送還に尽力した九州探題*2の今川了俊(今川貞世)も同じ認識であったことから分かる。

高麗の対応

前期倭寇が活動していたのは14世紀から15世紀とされているが、朝鮮半島への倭寇の襲来自体は13世紀はじめから行われており、高麗の武臣政権は襲撃の度にこれを撃退して鎌倉幕府に禁圧を強く求めた。高麗の働きかけに対して、1227年に大宰府は独断で対馬の悪党90人を斬首して謝罪、これによって倭寇は止んだ。1350(庚寅)年以降倭寇が大規模化し、なおかつ襲撃回数が増えたために朝鮮の人々にはこの年から倭寇が始まったという印象が残った。この記憶が永く伝承されて「庚寅以来」が常套句となった。
1350年より約20年間は、元や紅巾賊といった北方勢力との戦いに力を傾けており、国内的には内政改革に余念がなく、倭寇にまでは中々手が届かなかった。ようやく、恭ミン王(在位1352年〜1374年)末期になり、倭寇を陸上で迎え撃つ陸戦主義から、海上で撃破する海戦主義に戦略を転換した。その計画に従い、高麗は失われていた水軍を再建し、火桶都監を設置して火器を開発・製造した。火薬製造技術の習得は崔茂宣の個人的努力によるところが大きい。火桶都監の設置も彼の再三の建議によって、ウ(示に禺)王(在位1374年〜1388年)3年に設置された。崔茂宣は火桶都監の責任者に任命され、多くの火器を開発した。再建された高麗の水軍は海戦によって何度も倭寇を撃退した。ウ王6年(1380年)には、崔茂宣自身が副元帥として、都元帥・沈徳符、上元帥・羅世らと共に100隻余りの戦船を率いて、鎮浦で倭寇の船団約500隻を火砲で焼き払って多くの敵を殺傷した。すでに陸に上がっていた倭寇達は、雲峰で李成桂率いる高麗軍に殲滅された。ウ王9年(1383年)には海道元帥・鄭地率いる47隻の戦船が南海観音浦で120隻の倭寇船団に追いつき、火砲でこれを大破した。南海観音浦の戦いは「倭寇、高麗に志を得ず」とみた事例として高く評価された。1389年の朴イ(草かんむりに威)ら率いる高麗軍による対馬攻撃以降、倭寇の侵入回数は激減し、こうして14世紀倭寇は下火となる。

朝鮮の対応

参考文献

伊藤亜人他監修平凡社編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年
稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』吉川弘文館 、1957年
高橋公明「中世アジア海域における海民と交流−済州島を中心として」『名古屋大学文学部研究論集』史学33、1987年
武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年
武田幸男編訳『高麗史日本伝(上)』岩波文庫、2005年
田中健男『倭寇』教育社歴史新書、1982年
濱中昇「高麗末期倭寇集団の民族構成−近年の倭寇研究に寄せて−」『歴史学研究』第685号、1996年
村井章介『中世倭人伝』岩波新書、1993年
永留久恵著『武門の興亡と対馬の交隣 (対馬国志 第2巻 中世・近世偏)』対馬国志刊行委員会、2009年
『高等学校 世界史のしおり』2009年10月号、帝国書院
安部桂司「加賀の火矢所と朝鮮」『季刊三千里』第19号、1979年
金在瑾著、桜井健郎訳『亀船』文芸社、2001年
李殷直『朝鮮名人伝』明石書店、1989年
朝鮮史研究会編著旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』三省堂、1974年
韓日歴史座談会の記録 - 座談会資料 - 第9回「十四世紀(高麗末)、韓(朝鮮)半島における日本の精鋭部隊」
李領『倭寇と日麗関係』東京大学出版会、1999年
沈仁安著、藤田友治、藤田美代子訳『中国からみた日本の古代』ミネルヴァ書房、2003(1990年六興出版「東アジアのなかの日本歴史・1」の増補版に最近の論文を追加)
斎藤満「征西府とその外交に関する一考察」『史泉』第71号、1990年
杉本尚雄『菊池氏三代』吉川弘文館、1966年
佐藤進一『日本の歴史〈9〉南北朝の動乱』中央公論新社、2005年(原著1965年)
宇田川武久『戦国水軍の興亡』平凡社新書、2002年
九州朝日放送「九州歴史シリーズ・南北朝争乱編(3)征西将軍の道」2009年9月20日放映
佐伯弘次「14-15世紀東アジアの海域世界と日韓関係 」『第2期(2007〜2010年) 日韓歴史共同研究報告書 第2分科会(中近世史)篇』

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