ファラフナーズとの戦いを終え、グラスウェルズから帰還して――バーランドに戻ったアルを迎えたのは、城をあげての大騒ぎと、十年ぶりの母からの手紙であった。
その的確な情報網と、手紙でも変わらぬ威圧感に脚をふらつかせながら――それでもアルは、ピアニィ達のいる執務室へと廊下を歩いていた。
…本音を言えば、疲れている。道中よりバーランドに着いてからのほうが疲れるという理不尽さも相まって、出来れば今すぐ布団にもぐって寝てしまいたい。
だがそんなことをしても母からの手紙が無くなる訳ではなく――それに何より。
「……ちゃんと顔出さねえと、姫さんとの約束守ったことにならないからな」
一人、ポツリと呟きながら、アルは石造りの床を踏みしめる。
サイラスやナーシアが聞いていたなら、アルはやっぱり要領が悪い、妙なところで律儀だと笑うだろう。
ナヴァールやベネットだって、顔を見せて挨拶することまではないと思っているかもしれない。
だけど、アルは。――そして恐らくピアニィも。
顔をあわせて、きちんとただいまと言わない限り、『帰ってくる』約束を果たしたことにならないと、信じていた。
ようやっと執務室にたどり着き―――階下の騒ぎは伝わっているだろうと、軽いノックの後返事を待たずに扉を開く。
「―――よお、今帰ったぜ」
なるべく普通どおりに、軽く聞こえるように注意して声をかける。室内の反応は―――
……執務机についたピアニィは、きょとんとした表情のまま硬直している。書類を運んでいたベネットも同じくきょとんとした表情で、口まで開けて固まっていた。
唯一――羽ペンを手に書類を確認していたナヴァールだけが、ふっと微笑み挨拶を返してきた。
「――――良く帰った、アル」
「…あ、アルでや――――んすっ!! 帰って来たでやんすかっ!? いつ来たんでやんすっ!?」
「さっきだよ。てか、下で大騒ぎされたけど、聞こえなかったか?」
「ココは防音が効いてる上、忙しすぎて何にも気づかなかったでやんす」
書類をそこらに置き去りにして近寄ってきたベネットが、獣人の知覚能力に疑問を抱きたくなる言葉を返す。こちらは書類を丁寧に置いて、ナヴァールもアルの隣までやってきた。
「色々あったろうが、元気そうで何よりだ。こちらも、平穏無事――とは行かなかったが。聞いているかな」
「ああ―――街の中で、少しな」
……市街の人々から聞いたことは、嘘ではない。曖昧に濁しながら頷くと、ベネットが身振り手振りを交えて説明を始めた。
「でっかい鯨が飛んできて、大変だったでやんす! ま、あっしの活躍で街の被害は抑えたでやんすがね?」
「街に届く前に、光の中に消えてしまったのでな。まあ、ベネット殿が住民避難の役に立ったことは嘘ではないが」
さすがに、それをやったのは自分だとも言えず――アルはひたすらに頷き驚いているフリをしてみせる。
「そうか。本当に大変―――」

―――――――……がたん。

大きな音に、アルの言葉が止まる。ベネットとナヴァールは背後を、アルはふたりの後ろを覗き見ると――
執務机に手をついて、ピアニィが立ち上がっていた。先ほどの音は、大きな椅子が動いたせいだろう。暢気に構えていたアルの前で、ピアニィは静かに顔を上げた。
―――桜色の小さな唇が引き結ばれて、頬はこわばり――翡翠の瞳には、間違い様のない怒りが燃え上がっている。
無言のまま――ピアニィは執務机を回り、書類の山をすり抜けて大股にこちらへやってくる。ナヴァールとベネットが、示し合わせたように左右へ退いた。
―――………こりゃ、文句どころか…魔法も覚悟しとかないとな……
密かにそう考えたアルの前に、少女はぴたりと足を止める。微かに俯き気味なのと身長差から、アルには引き結んだ口元だけが見えていた。
「……………あー、姫さん、その………ただいま」
無言で、怒りのオーラだけを放出するピアニィに、アルは恐る恐る声をかける。―――外から見てもわかるほどに、少女の華奢な体が震えて。

―――――……………光り輝く小さな粒が、アルの目の前で床に落ちた。

「…………え?」
アルが呆然と声を上げる間にも、光る粒は次々と床に落ちて砕け散り、丸く染みを作る。それが、ピアニィの流す涙だと気づいた瞬間――剣士の前で、少女は静かに顔を上げた。
大きな翡翠色の瞳から、ほろほろと零れ落ち――陶磁器を思わせる白い頬を伝う涙。
その表情は、怒りや悲しみといった感情が全て通り過ぎてしまったかのような、透明なもので――アルは大きく息を呑む。

―――その瞬間、ピアニィの顔がくしゃりと歪んだ。

細い眉はきゅっと寄せられ、桜色の唇は大きく震えて――子供のような泣き声を上げる。
「…………っ、ふぇ、えええええ…うぁああああああん………ひぅ、ぅえああああん…っ」
「…っ、ちょっ、ひ、姫さん…っ!?」
小さな両の拳を体の脇に握り締め、泣きじゃくるピアニィの姿に――アルは心底から混乱した声をあげる。
「――――ふ…っく、うええええんっ……ふぇっ、えええええん…………」 
「な、泣くなって……だ、旦那っ、ベネットっ! どーにかして…」
狼狽しきったアルの言葉に――ナヴァールの顔に、生暖かいとしか形容のしようがない笑みが宿る。
「どうにか、と言われても――こればかりはどうしようもないな」
にひひ、と人の悪い笑い声を上げたベネットが、尻尾を振ってからかいの体制に入った。
「まぁまぁ、男でやんしょ? ココはがば――――っと行ってむちゅ――――っと…」
「こんな所でんなことできるか馬鹿たれっ!?」
「ほほう、こんな所じゃなかったらするでやんすか」 
「んなことは言ってねえ――っ!?」
ぎゃあぎゃあと喚くふたりを他所に――感情の爆発は過ぎたのか、声もなくしゃくりあげるピアニィに、ナヴァールは静かに近づいて軽く腰をかがめた。
「……いくらか、落ち着かれましたかな? 陛下」
「…………」
肩を震わせながら――小さく、それでもはっきりとピアニィが頷く。
「では――しばらく休憩に致します。アル殿と庭にでも行かれて、お話をなさると良いでしょう。そのお顔で皆の前に出るのは、心労をかけるばかりですからな」
「…………」
再びピアニィが頷くのを確認して、ナヴァールは姿勢をただし――ベネットの頭頂部に拳をねじ込んでいたアルに声をかける。
「では、アル――陛下を庭までお連れして、休憩を取ってくれるかな。おぬしも、帰ってきたばかりで疲れているだろう」
「あ―――ああ、わかった……」
脇に抱え込んでいたベネットを放し、ピアニィを促してアルは部屋を出て行く。それを見送って―――ナヴァールは小さく溜息をついた。
「…………いま少し、言葉を選んだ方がいいぞ、ベネット。あの手のタイプは、あまり苛めると意固地になるからな」
「いや〜〜、あそこまでわかりやすいといじりがいがありすぎて…ついやりすぎたでやんす」
頭を擦りながらベネットは言い、床の上に胡座をかく。
「まあ、気持ちはわからぬでもないが。ところで、散らばった書類は元に戻しておくのだぞ」
「え!? あっし!? 何でこっちに回ってくるでやんす―っ?!」
喚く狼娘を他所に、ナヴァールは悠然と残った書類の処理を進める。――まだまだ、仕事は終わりそうになかった。


廊下を進みながら――アルは周りからの好奇の視線を痛いほどに感じていた。
当然といえば当然である。帰ってきたばかりで注目度の高い第一の騎士が、これまた城内での注目度は随一の女王ピアニィを――それも、泣きじゃくっている女王を連れて歩いているのだから。
本音を言えば早足で歩き去ってしまいたいところだが、泣きながら歩くピアニィの足取りはとぼとぼと遅い。
そのまま歩いていれば、城中の注目を集めかねないと悟って――アルは後ろを歩くピアニィの腕を取った。
「―――――っ」
「………行くぞ」
怯えたように身を竦ませるピアニィの腕を優しく引き、いくらか早いペースで歩き出す。
―――――――その後しばらく、城内が『泣きじゃくるピアニィ陛下の腕を取ってどこかへ連れ去る女王騎士』の話題でもちきりになったことは、言うまでもない。

 
「………やっと着いたか。ホラ、姫さん座っとけ」
たどり着いた庭の一隅、古いが良く手入れのされたベンチにピアニィを座らせ、自分も反対端にかける。ふたりの間に、微妙な距離ができた。
しばらく、くすんくすんとしゃくりあげるピアニィの声だけが響く。
「――――あの。アル、さん………」
「あ?」
涙に濡れた声で、ようやく呼びかけたピアニィに――アルは精神的な疲れと、少しばかりの警戒心で無愛想な返事をする。
それを怒りのためと解釈してか、身を竦ませながらも――ピアニィはおずおずと言葉を紡ぎつづける。その内容は、アルの予想の範囲を越えていた。
「………あの………ごめん、なさい…こんなに泣くつもりは、なかったんです―――」
「え――あ、いや…」
困惑しながら、アルは曖昧な言葉を返す。
今まで周囲にいた女性が、母親や姉妹、ナーシアと言う『控えめに言って気が強い』というレベルの個性の持ち主ばかりであった為に、アルは女性に対して警戒心が強い。
泣いた所はほとんど見たこともなく、仮に涙を見せても、即座にその対価を(精神的、物理的に)要求されるようなメンツで――だから、この反応はあまりに予想外だった。
「――――ほんとはちゃんと、アルさんが帰って来たら、笑って迎えるつもりだったんです」
ぽつぽつと言葉を繋ぎながら、ピアニィは再びしゃくりあげる。その目に再び涙が溜まりはじめるのを見て、アルはどうして良いかわからず目を逸らした。
そんなアルの戸惑いに気づかぬまま、ピアニィはハンカチで目元を拭い――小さな唇を尖らせた。
「……なかなか帰ってこないから、文句言おうって思いましたし――あんまり遅いようだったら、攻撃魔術でも撃ち込んじゃおうかと思いましたけど…」
「…………」
その点だけは予想が当たっていたようである。うそ寒い思いで、アルは身を竦めた。
「…だけど、アルさんの顔をさっき見たら………涙が止まらなくなっちゃって……」
湿った声とともに――大きな瞳から、再び涙がこぼれ落ちる。真正面ではないにしろ、逃げようのない距離での涙に、アルは再び動揺した声を上げた。
「―――だ、だから泣くなって……っ」
「……っ、ご、ごめん、なさ………」
ハンカチで、謝罪の言葉を押さえつけて――何とか涙を止めようとしているピアニィの姿に。アルの手が、無意識にのびた。
―――ぽんぽん、と、優しい手付きで薄紅色の頭を叩く。その動きに、ピアニィは驚いたように目を見張った。
「―――――ぇ…っ」
「どうしていいかわかんなくなるけどな………別に、姫さんが謝ることねえだろ。ちょっと落ち着け」
小さな子どもをあやすような気分で、アルは静かに声をかける。目に見えて落ち着いた様子ながら――ピアニィは、かすかに不満げに唇を尖らせた。
「……あたし――子どもじゃないですよっ」
「似たようなもんだろ。泣かれたらどうしようもないってことじゃ一緒だ」
「もう………」
軽口を叩くアルに、ピアニィが大きく溜息をつく。――その時、翡翠色の目に光がひらめいた。
「―――――っ、そ、そうだ、アルさん、あの…っ!」
「ん?」 
突然顔を上げるピアニィの動きと、表情の必死さにアルの手が止まる。
振り返り、正面からアルを見据えたピアニィが――両拳を握り締めて宣言した。

「…あ、あたしっ、これからアルさんの事――『アル』って、呼びますからっ!!」

……それは、恐らくピアニィにとっては、一大決心なのだろう。
決然とした表情と声、それにかすかに震えてさえいる小さな拳が、そこに至るまでの少女の決意の程を物語っている。
―――――が、アルにとっては。
「…………あぁ、まあ…いいけど」
曖昧に返すアルの、反応の薄さに――ピアニィはぽかんと口を開けた。
「え、そ…それだけ…ですか?」
「いや、つーか…そもそも、さん付けで呼ばれる方が居心地悪いからな。そう呼んでくれると助かる」
もとより傭兵で、丁寧な言葉遣いになど縁のないアルにとっては、自分を丁寧に扱おうとするピアニィの態度の方が――悪い気はしないが、戸惑いの対象だった。
だから、その方がいいと――気楽だと告げたアルに、なぜかピアニィはがっくりと肩を落とした。
「――――――あたし…すっごく考えて、帰って来たら絶対そう呼ぼうって決めて、すごい緊張してたんですよぅ……」
ぽつぽつと呟きながら、なにやら本気で落胆している姿に苦笑しながらも、アルは立ち上がると大きく伸びをした。
「そんなに気負うほどの事じゃねえだろうに、なに緊張してるんだか…ほれ、落ち着いたんならそろそろ戻るか?」
いくらか顔は赤いものの、ピアニィの様子は平常と代わらない程度に戻っている。ハンカチでもう一度だけ目元を拭って、ピアニィはすうっと息を吸い込んだ。
「――――そうですね。お仕事もたくさん残ってますし、もう大丈夫ですっ」
「ん。じゃあ行くか――」
背筋の伸びたピアニィの様子に、小さく笑顔を返して。ごく自然に、アルはベンチに座ったままのピアニィに手を差し出していた。
その手を同じく、ごく自然に取って立ち上がり――ピアニィははっと、再び息を飲む。
「―――あ。あたし、肝心なことをアルさ……アルに言ってませんでしたっ!」
「………肝心なこと?」
なんとか、さん付けにしようとしたのを引っ込めたピアニィに――アルは戸惑った声を返す。


「はいっ。―――――お帰りなさい、アル!」


――――それは正しく、大輪の花の咲きこぼれるような笑顔。
自分に――自分だけにむけられたその微笑に、アルは数秒の間、息をすることを忘れた。
「――――――アル? どうかしましたか?」
「…………い、いや、なんでもねぇ。ともかく――戻るぞ」
きょとんと見上げてくるピアニィから、必死に目をそらして。アルは自分の掌の中の小さな手を握り締め、歩き出す。

―――さっきの泣き顔といい、この笑顔といい。どれだけこのお姫様は、自分の心を騒がせてくれるのかと、益体もない文句を内心にこぼしながら。

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