掌の中で、飾り気のない銀の剣が微かに鳴動する。
目の前にある大きな力に反応して――“憤怒の神剣”は斬るべきものを前に興奮したように震えていた。
それを直に感じながら―――アル・イーズデイルは強く奥歯を噛み締めた。

「…俺は………俺は、こんなことのために剣を取ったんじゃない……!」

絞り出すような声にも、目の前にいる少女は瞼を閉じたままだった。
ピアニィ・ルティナベール・フェリタニア―――彼の主君にして、護るべきもの。
アルの肩ほどの、小柄で華奢な身体のうちに―――神竜王と、邪神の御子とを取り込んだ少女。
身のまわりの、生きとし生けるものを吸収すると言う、厄災としか思えない力を備えてしまったピアニィは、アルに願ったのだ。



―――――自分を…殺してくれと。



それはかねてからの、ピアニィの望みだった。『自分の存在が人に迷惑をかけるなら、いっそ』と。
そしてそれは、アルの宿願でもあった。邪神の御子を斬り、亡き師匠――テオドールの無念を晴らすこと。

おのれの本懐、斬るべき対象を目の前にして、“憤怒の神剣”は歓喜に震えている。
自らが命を取り込み、枯れ果てた草木の中で、ピアニィはただ瞑目し、佇んでいた。

ここでピアニィを斬れば、自分の目的は果たされる。
ピアニィもまた、自身を苦しめる力から解き放たれるだろう。
けれど―――――

「―――――アル………?」
いつまでも振り下ろされない刃に、ピアニィは訝る声を上げながら目を開く。
翡翠の瞳に射貫かれて、アルの両手から力が抜け―――
乾ききった大地に、銀の双剣が落ちた。アルもまた、崩れ落ちるように膝を落とす。

安全になるまで護ると、約束した。死なせたくないと思った。傷つけさせないと誓った。

――――ひと目で心を奪われ、愛していると囁いた。この腕に幾度も抱き、けして離さないと誓いもした。

全てにかけて、永遠に共にあると誓った、誰より愛しい女。
願ってきたものすべてのために、守り抜いたものすべてを失うのか―――。


「アル…どうしたんですか?」
愛する騎士の様子に不審を感じて、ピアニィが声を上げる。
駆け寄ろうとした細い肩から、アルのかけた濃紺のマントが落ちて――その足が止まった。
…近寄ればまた、命を吸い寄せる力が影響を与えるかもしれない。自らが愛するものを傷つける恐怖に、ピアニィの表情に怯えが浮かんだ。
アルもまた、そのことは理解していた。地に落ちてなお微かに震える“憤怒の神剣”なしでは、まわりの草木と同じく枯れ果てるしかない。

ピアニィの兄ヒューバードの告げた言葉が、自らの誓いが、頭の中にこだまする。
混乱する頭を抱え、支えるものが欲しくて―――地に置いた膝でにじり寄り、華奢な身体に縋りついた。
「あ――――――アル…っ……!?」
戸惑う声も耳に入らない。細い腰をしっかりとつかむと、そのぬくもりを抱え込む。
だが、ピアニィの小さな掌が、縋りついた肩を必死に押した。
「あ、アル…だめ、あたしに触れないで……!!」
切羽詰った声が、アルの顔を上げさせた。目にしたものは――――翡翠の瞳に浮かぶ怯え。震えて強張る白い頬。その奥に透ける、不安な心。


――――かすかに滲む涙の意味に、アルの心が鋭く痛む。
気づいたときには立ち上がり、抵抗をものともせずにピアニィを胸に抱え―――地に落ちた自分のマントの上に、華奢な身体を横たえていた。
「い、いや…離して、アルっ…!! ダメ……!!」
鋭く囁く声を無視する。抵抗する腕をつかみ、引き止める。逃れようと逸らした顎を捕らえ――深く口付ける。
「―――――――――っ!! ……っ、ん…!! んぅ…っ!!」
叫ぶ声を舌で蕩かし、ただひたすらに抱きしめた。やがて暴れていた手足が動きを止め、アルの肩をつかんだ手が滑り落ちる。
静かに身を離してみると、赤く色づいた唇が小さく吐息を漏らした。
「は―――――…っ…、ぁ………」
意識が朦朧としているのだろう、ほっそりした肢体からは抵抗の意志がすっかり抜けていた。
アルの手がブローチを外してケープを落とし、ミスティックガーブの前を止める編み上げ紐をほどく。
そのまま、細い肩に沿って手を滑らせ、赤いローブをはだけて―――華奢な背中、肩甲骨の間あたりに触れた指が、微かな違和感を伝えた。
ピアニィの身体を抱え込み、ゆっくりと引き起こして。アルは、ほとんど見えなくなっているそれに―――傷痕に口付けた。


――――それは、アルにとって、二度とピアニィを傷つけさせないという誓いの証。


「――――あ、る…」
微かに意識が戻ったのか、夢見るような声でピアニィがつぶやく。抱きしめた腕に力をこめて、アルは傷痕から唇を離さずに囁いた。
「……俺はお前を、もう誰にも傷つけさせないって―――誓ったんだ。それが誰であろうと、どこにいようと。…お前の、中にいるものでも」
ほっそりとした背中が、小さく震える。静かに身を離して、アルは微かに潤んだ翡翠色の瞳を正面から見つめた。
「邪神の御子を斬ることは、確かに師匠から――テオから受け継いだ俺の目的だ。それは今でも変わりない」
「―――」
決然と告げた言葉に、ピアニィが小さく息を呑む。肩を抱いた手に、安心させるようにもう一度力をこめた。
「……だけど、それだけじゃない。テオがそうだったように。邪神の御子を斬るのは、守りたいものが――世界があるからだ」

―――魔族の襲撃を隠蔽するため、なかったことにされたテオの家族。
それが許せないからこそ、テオドールはセインを離れ、邪神の御子を斬るために孤独な旅を続けてきたのだ。

「…俺はテオと、同じ間違いをするところだったんだな。同じ道を歩くって決めて、同じ間違いにハマってりゃ世話がねえ」
ぎこちなく。強張った頬を動かして、アルは苦笑いを作って見せる。――まっすぐに見つめてくる翡翠が、かすかに揺れた。
小さく頷いて見せてから、アルはたおやかな体躯を再び胸に抱きしめる。
「邪神の御子は倒すさ。この世界を、護って見せる。だけど、お前のいない世界に――意味はない」
ぴくりと背中が震える。アルの胸に小さな掌があたり、弱い力で押し返す。
「――――アル……はなれて、ください」
拒絶の言葉を奏でる声が、涙に濡れている。触れる手が、震えている。
無言のまま、背中を抱く手に力を込めると、小さな指がアルの服を掴んだ。
「…アル。おねがい……あたし―――――」
言葉の後半が嗚咽に飲み込まれる。抱きしめた細い背中が、しゃくりあげる声に震えた。
「――――――こわい、の……」
消え入りそうな声で、ピアニィが囁く。ようやく引き出せた飾り気のない感情に、寄り添うようにアルは両の腕にまた力をこめた。

神竜王と邪神の御子を取り込んで倒れ、目覚めてからずっと、ピアニィは自分以外の誰かの身を案じていた。

―――命あるものを吸収すると言う特異な力を身に宿したことを知っても、自分の中の力のために傷ついた人々や、奪ってしまった命を思い。

その身のうちに邪神の御子が封じられていると知れば、アルの手で斬られることを望みさえする。

―――誰かに迷惑をかけたくないと、幸せを壊したくないと、心から願って。

誰よりもまず、他者を思うことのできる少女。

―――けれど、恐怖をなくしたわけではないはずだった。


「…怖いの…こわい…っ! あたし…もう……っ、い、やあぁ―――――――――――――……っ!!」
堰を切ったように溢れ出す叫びと嗚咽。
アルの胸に縋りつきながら、ピアニィは――女王としてでなく、選ばれたという存在としてでもなく、ただの一人の少女として、初めて泣き声を上げていた。
「こんな、…っ、――――いや、あぁぁぁぁぁぁ…っ!! やぁっ…ぁあああ、あああああああぁぁぁぁぁっ!!」
言葉にすらならない、嘆きと慟哭。深い絶望に彩られた悲鳴をあげながら、ピアニィは必死にアルの腕を、服を掴んでいた。
縋りつく指の、食い込む爪の痛みは、それまでピアニィの抱えてきた苦しみとは比べ物にならないだろう。
愛するものの苦しみを、痛みを少しでも受け止めようと、アルは腕の中の小さな背中を抱きしめた。

…どのくらいそうしていたのか。ピアニィの悲鳴はやがてかすれて消えていき、すすり泣きに変わっていた。
必死にすがり付いていた腕と食い込む爪は、優しくアルを抱きしめている。
「アル………ある…っ」
泣き声の合間に、少女は最愛の人の名を呼ぶ。それに応えて、アルはそっと薄紅色の髪を撫で下ろした。
「―――――少し…落ち着いたか?」
「…………」
ピアニィは俯いたまま、アルの腕の中で静かに頷く。強く抱いていた腕を緩めると、アルは少女の小さな背中を優しく叩いてやった。
「…どうしていいのかなんて、まだわからねえ。だけど、誰であれ―――仕掛けられたことに変わりはない。だったら、どうにかする方法がどこかにあるはずなんだ。
諦めるな。―――俺が、そばにいるから」
細い背中が、ぴくりと震える。自らの負った呪わしい力を思ったのだろう、顔を上げてなにか言おうとするピアニィを遮って、アルは小さく微笑んで見せた。
「『世界を護るために、一緒に戦う』って―――お前が言い出した約束だろ? 俺が道を間違わないように、そばにいてくれるんだよな」
「アル…………」
「もう一度言うぞ。お前のいない世界なんて、意味はない。俺の命は、お前の盾だ。俺が護りたいのは――お前のいる世界なんだ。ピアニィ」
まっすぐに目を見て告げると、泣き腫らした翡翠から再び涙がこぼれて落ちる。抱きしめた胸に沁みる雫は、凍てつく絶望ではなく暖かな安堵に満ちていた。
「これでも、諦めと往生際は悪いほうなんだ。約束したことを、ちょっとやそっとで放り出してたまるかよ」
「――――アルの…取り柄ですもん、ね?」
笑顔こそないが、軽口をきくピアニィに――意識したものでない、本物の笑顔がアルの口元に浮かぶ。
「ああ。…今日はもう、このまま――――」
休ませた方が良いと、アルが身を離しピアニィをマントの上に横たえてやろうとする。
そのとき、おそらくは無意識に―――背中に回っていた小さな手が、アルの服を強く掴んだ。
「………………ピアニィ?」
「本当は…今のあたしが、こんなこと言っちゃ、ダメなんだって…わかってる、けど…」
小さな肩が、細い指が、哀しげな声が――アルのぬくもりを求めて震えている。
「――――そばにいて…離さないで。あたしを…抱きしめて、いて…」
囁く声に導かれるように、再び唇が重なって。――――重ねた掌が離れることは、なかった。





静かに眠るピアニィの表情は、決して安らかとは言い切れない。
夜紺色のマントに包んだ華奢な背中を抱き直して、アルは大きく溜息をついた。
――――何度、この背中に負うものが大きすぎると思ったことだろう。
小さな国の行く末も、戦場に立つ兵士達の命も、たおやかな背中には過ぎる荷物のはずだった。
それでもピアニィは押し潰される事もなく、女王の名にふさわしく――堂々と己の使命を果たし、幾度も凱旋してきた。
…だが、今回は。
「いくらピアニィにだって…重すぎる」
思わずこぼれた言葉と溜息に、静かに燃えていた焚き火が揺れる。
薪の弾ける音にピアニィが身動ぎし、アルが宥めるように肩を叩いてやると、再び静かな眠りについた。
――――不安はある。ヒューバードの計画、これからのこと、何より――ピアニィの体のこと。
「………それでも、諦められるわけねえよな」
手近の枯れ枝を炎に投げ込みながら、アルは小さく呟く。それは幾度も口にした言葉だった。
テオの死を知らされたときも。ピアニィの追っ手となった魔族と戦ったときも。―――テオの魂と対峙した時も。
胸の奥底に、何か暖かなものが満ちる気配を感じる。
それがまるで、己の内に取り込んだテオの魂が励ましてくれているようで、アルの口元にまた微笑みが戻った。
「そうだよな。世界を護ることになっても―――惚れた女を斬った剣なんか、伝えられるかよ」
星ひとつ見えない夜空を睨み、眠るピアニィを抱きしめて、アルは決意を口にする。
どれほどに朝が遠くても、進む道に光が見えなくとも―――護りたいものが、護るべきものがこの腕の中にいるから。



だから、決して――――諦めたりしない。














「…ところで、お前らはいつまでそこで覗いてんだよ。火の傍来いよ」
「いや何、せっかくなので具体的に二時間ほど二人きりにしておいた方が良いかと思ってな」
「だから何なんだよその妙に具体的な時間指定はっ!?」
「はっはっは。何しろ先ほども、様子を見に戻ったら………」
「……アル殿が地面に押し倒した陛下のミスティックガーブをひん剥いてるとこだったでやんす」
「………………………………」
「具体的に二時間そっとしておこうと思った理由に納得していただけたかな?」
「…………………………………。…俺が悪かった」

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