ピアニィとアル、ナーシアとアンソンのベルクシーレへの旅は、当然ながら騒ぎを避けるために人目を忍ぶ旅である。
もちろん毎回宿に泊まれるわけでもなく、幾たびかは野営で夜をしのいできたのだが…

「…これ以上は進めない。今日はここで野営」
斥候として先頭を歩いていたナーシアが、足を止め一同を振り返った。
「日が落ちる前に、準備しちまうか」
茜色の空を見上げ、アルが同意する。隣に立つピアニィは手を上げて、支度に名乗り出た。
「じゃあ、あたし水を汲んできます」
「わかった。僕は薪を探してくるよ」
最後尾にいたアンソンが言うと、ナーシアの瞳が厳しくすがめられる。
「アンソン? 一人だけ楽な労働に流れていかないで」
「いやいやッ!? 冬の薪集めは十分重労働だよ!?」
慌てて首を横に振ったアンソンに、ナーシアの無情な声が追い討ちをかけた。
「わかった。じゃあ、薪集めのついでにかまど組みと火熾しもお願い」
「なんでーっ!?」
わめくアンソンに、アルとピアニィは顔を見合わせて小さく笑った。


「…じゃあ、くじ引き」
野営の準備が整ったところで、ナーシアが数本の小枝を片手に掴む。
火の傍の見張り、休息の順番と組み合わせを決めるためのくじ引きである。―――最初の頃は立候補制だったが、揉めに揉めたためにこのような形態となった。
四本の小枝のうち二本はナーシアのナイフで綺麗に断ち割られていて、残る二本は普通に折られている。つまりは、これを引いたもの同士が組になるのだ。
何故か漂う微妙な緊張感の中、三人は一斉に小枝を手に取った――――。

※    ※    ※

・見張り:アル、ナーシア/休息:ピアニィ、アンソン
 
――焚き火の炎を見つめながら、アル・イーズデイルは内心で溜息をこぼした。
火の番として組になったのは、十年来の幼なじみにして兄妹弟子。付き合いだけなら、一行の中で誰よりも長く会話の共通点は多い。
しかし、もとより寡黙で無駄口を叩かない――そのくせ、自分をからかう時だけは多弁になるこの相手を、アルは正直誰よりも苦手としていた。
おまけに、現在の互いの立場は、ついこの間までは戦争がおこりかけていた国同士の騎士と密偵でもある。昔話をしようという雰囲気にもならない。
――…とは言え…交替するまで無言ってわけにもな…。
視線を火から外さぬまま、ガシガシと赤銅の髪をかき回す。無言であること、それ自体は問題ではない。アル自身とて、そうおしゃべりな方ではないからだ。
ただ――――ひたすらに気まずく、居心地が悪い。
こういった空気が集中を乱すことになるのを、アルは何より恐れていた。ナヴァールのいない今は、ただ自分だけがピアニィの壁となる。
わずかな失策ひとつが、女王の危機に繋がりかねない。―――護れないこと、それがアルの最大の恐怖であった。
ピアニィに申し訳ないような気分になる、というのもなくはない。はっきりと、『アルが好きだからヤキモチも妬く』と宣言した少女の顔を思い返して、アルは再び内心で溜息をついた。
……自分だったら、と考えてみる。火の見張りとして、アンソンと親しく話をするピアニィ―――確かに、心穏やかなものではない。
だが今は、感情より優先しなければならないものがある。一種悲壮な決意(いじられる覚悟含む)を秘めて、意を決したアルが口火を切ろうとしたその時―――
「続けてる? 鍛錬」
「――――え?」
静かなナーシアの声が、アルの機先を制した。明るい炎から移したばかりの視界に、俯けた顔の表情までは見えない。
「テオに教わった鍛錬。ちゃんと毎日、続けてるの?」
戸惑ったアルの声を動揺ととったのか、どこか大人びた――故郷の姉たちを思わせるような口調に、咎める響きがこもる。
「………当たり前だろ。文字通り毎日――ってわけにはいかねえけど、できる時は必ずやってる」
おおっぴらに溜息をつき、眉をしかめて。憮然と言葉を返すアルの眼に、かすかにナーシアが眉を上げるのが見えた。
「――――ふぅん。もう忘れてるのかと思った」
「忘れるわけねえだろ。『剣を取って、動かして、力の動きを息をするように身体に染み付けろ。毎日の鍛錬、それだけが――』」
「『…それだけが、自分の技と力を支える最後の礎になる。』……テオの言葉ね」
思わず口にした、師の言葉―――それを引き取ったナーシアの声に、アルは驚きで目を見開いた。
「お前こそ、よく覚えてたな。まぁ、テオの口癖みたいなもんだけど――」
「それこそ心外。私だって、その教えのおかげでここまで生きてきている…女の子にうつつを抜かしてるあなたと違って」
しれっとした表情で、ナーシアは手元の小枝を火にくべながら――言葉の爆弾を落とす。アルの顔に、炎のせいでない熱が上った。
「――――――だ、誰が…っ」
「……あなたはもう少し、自分がわかりやすい人間だって自覚した方が良いと思う。ノルウィッチでは、婚約の話も聞いたし」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ…あんのくそばばあ…っ!」
手近な薪を手に取り力をこめると、ばきりと呆気なく砕け散る。炎の向こうで、ナーシアがあからさまに溜息をついた。
「『貴族嫌い』で通ってたくせに、女の色香ひとつであっさり鞍替えするなんて…お姉さん悲しい」
「誰がお姉さんだ!? だいたい色香って誰がっ―――」
「静かに。ピアニィ女王が起きる」
思わず立ち上がりかけたアルに、口元に立てた人差し指つきでナーシアが警告を発する。しぶしぶと腰をおろして、アルは今度こそ盛大に溜息をついた。
「…騒がせたのは誰だよ…。ったく、お前は本当に変わんねえな」
じろり、と睨むと―――先ほどとはちょうど反対に、ナーシアは炎から目をはなさずにポツリと呟いた。
「あなたは変わった。―――だから、忘れているのかと思った」
どこか、うつろなものを含んだその声に―――返す言葉を失って、アルはじっとナーシアを見つめた。
「…『貴族嫌い』が、貴族どころか王族の為に剣を取って。騎士になって、戦争に加わって。――テオの所にいた『アル・イーズデイル』じゃないみたい。あなた、誰?」
光の加減で、鮮やかな紫に燃える瞳が――真っ直ぐにアルに向けられる。その視線を臆することなく受け止めて、アルは小さく微笑んだ。
「俺は俺だ。何にも変わっちゃいない。貴族だ王族だじゃねえ、俺が護りたいと思ったからあいつを――姫さんを護っているだけだ。騎士なんて名前がついたのは――まあ、成り行きだけどな」
固っ苦しいのは苦手だ、と軽く肩をすくめるアルに、ナーシアがじっと視線を注いでいる。いくらか眩しそうなのは、炎越しに見ているせいだろうか。
―――ふと。人形のように身じろぎ一つしなかったナーシアが、姿勢を変えて立ち上がりかける。
「…………薪を取ってくる。このままじゃ、朝まで火がもたない」
「だったら、俺が行く。さっき一本台無しにしちまったからな。お前は火のそばにいろ」
それを手で制して、アルは素早く立ち上がり林の奥へと歩き始める。気恥ずかしさも手伝って、その足取りは早かった。

…だからアルは知らない。その背中を見送ったナーシアの、呆れたような呟きを。
「―――やっぱり、変わってない。肝心な所は鈍いくせに、変なところだけ鋭いんだから」
小さく溜息をついて、ナーシアは林の反対側――休息組の休んでいるはずの場所へ、目をやった。

…その頃の休息組。
ピアニィ「…(ごそごそもそもそごそごそ)」←アルを信じているけど気が揉めて仕方ないらしい
アンソン「…(ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり)」←何やらどうにも気が収まらなくて歯軋りをしているらしい
…………休め、お前ら(笑)


※    ※    ※


・見張り:アンソン、ピアニィ/休息:ナーシア、アル


「……………」
「……………」
焚き火の炎をはさんで向かい合いながら、ピアニィとアンソンは互いに気まずい沈黙を味わっていた。
ともに王族・貴族の生まれとは言えど、白竜と赤竜――遠く離れた、それも対立する二大国の首都で生まれ育ったもの同士である。
共通する体験などあろうはずもなく、故に会話の糸口も見つからず――ただ、ひたすらに沈黙が続いていた。
(うう…気まずいよぅ…)
内心で呟きながら、ピアニィは膝にかけた毛布の端をいじりまわしていた。と、そこへ――
「………………え、と…ピアニィ女王」
「え、あ、はいっ!?」
躊躇いがちながらも、突然かけられた声に、ピアニィは慌てて顔を上げた。
焚き火の炎の向こう側で、アンソンは意を決したように頷くと、言葉の続きを絞り出した。
「―――その、申し訳ない…この間の、話ですけど…」
自らの不明に、唇を噛み締めながら――アンソンは真摯に謝罪の言葉を紡ぐ。それが先日の宿での出来事――ナーシアの弟、ロッシュをめぐる話についてのものと理解して、ピアニィは柔らかく微笑んだ。
「…その話は、もう、大丈夫ですよ。あたしも失礼なことを言ってしまったから―――お互いに謝ったから、もうおしまいにしましょう?」
おおらかに、慈母の如き微笑で、若き女王は許しの言葉を口にする。……大柄な体を折り曲げて、アンソンは無言のまま深く礼を返した。
「―――えと、かわりってわけではないんですけど…アンソンさん、ひとつ聞いてもいいですか?」
「僕に、ですか? ええっと、答えられることなら何でも」
こちらも、どこか言い難そうに――切り出したピアニィに、アンソンは頭を上げて頷いた。
だが、アンソンの答えを聞いても、ピアニィはいまだ迷うように視線を走らせている。――彼女の騎士が休んでいるはずの、林の奥へ。
その仕草で、質問の内容に大体見当をつけながらも、一応問い返す。…どこかでぱきりと、木の枝の折れる音が響いた。
「………で、質問というのは?」
「――――――えぇっと、その…リシャールさんの事なんですが…」
アンソンの敬愛する先輩――そして、ピアニィの『婚約者』。予想はしていたその名前に、アンソンの眉間にかすかな皺がよった。
「先輩――いや、リシャール隊長の事ですか? 僕でわかる範囲でしたら、答えますけど」
「はい、あの…この間の戦闘の時もお聞きしましたけど、リシャールさんってあたしの事をどう思っているのかなって…」

それはこの旅のきっかけとなった、ピアニィ達一行とアンソン達ファントムレイダーズとの戦闘のさなか。
『敬愛する先輩の婚約者にして敗北の相手』へ敵意を剥き出しにするアンソンに、ピアニィがある種無邪気に問いかけた質問だった。
が、アンソン自身が拒否した事と――ピアニィは知らないが、彼女の背後にいた第一の騎士の恐ろしい眼光によって、その質問の答えは得られないままとなっていた。
アル・イーズデイル…ピアニィ女王の第一の騎士にして、彼女にとって欠くことのできないパートナー。
婚約の噂さえある彼が、ピアニィ女王の『婚約者』であるリシャールを気にするのは当然の事と言えるだろう。女王もまた彼に聞かれないときを選んで質問をしていることからもそれは明らかだ。

―――しかし。質問の内容に、アンソンは顎に手を当てて考え込んだ。
正直に言って、リシャールからピアニィへの感情というものを、アンソンがはっきり聞いたわけでもない。
そして、聞いていたとしても――あまりにも踏み込んだその内容を、アンソンの口から話しても良いものかどうか。
しばし考えて、アンソンは潔く頭を下げた。
「………すいません。それはやっぱり、僕の口から答えることはできません。どの道ベルクシーレに行くわけですし、もしどうしてもと言うことなら会えるように手回しはしますけれど――」
「あ…………そう、ですか…」
明らかに落胆した様子で、ピアニィが視線を自分の膝へと降ろす。…どこかでべきりと、太い木の枝の折れる音が響いた。
直接聞くことができるなら、ピアニィとてわざわざ聞いたりはしない。それはアンソンにもわかっているが、それでも―――答える事のできない質問だった。二重の意味で。
いくらか申し訳ない気分で、アンソンは自分の記憶を探った。
「ただ―――僕がこちらにくる前の話ですが、先輩に婚約者について聞いたら、はっきり『ピアニィ様』と答えました。ですから、先輩はそのおつもりなんじゃないかと。…今はわかりませんが」
何しろピアニィは、ベルクシーレではフィリップ王暗殺の首謀者とみなされているのだ。それについての感想までは聞いていない事を、アンソンは少し後悔した。
しかしその言葉に、ピアニィはかすかに困ったような笑顔を見せた。
「そう、なんですか……でも、ほんとに口約束だけだったのに」
「例え口約束でも、騎士として違える事はありませんよ。先輩はそういう人です」
少々ムキになりながら、アンソンはリシャールの騎士道を弁護する。が―――さらにピアニィの戸惑いは深まった。
「―――だけどあたし、五年前にお会いしたっきりですよ? その間に、お手紙や贈り物をいただいた記憶もありませんし」
………一瞬、レイウォール王宮内で握りつぶされてるんじゃないだろうかという疑問がアンソンの頭に浮かぶが、国際問題になりそうなので口にするのは避ける。
闇の中からぼきりと、結構な太さの枝が折れた音がする。獣でも歩いているのかと思いながら、アンソンはふと話題を変えた。
「ところでピアニィ女王…寒いんですか?」
「え? あたしですか? いえ、大丈夫ですよ」
「いや、毛布をかけてらっしゃるので……」
きょとんとした表情のピアニィの膝に、しっかりとかかった毛布を指さす。ピアニィが、どこか嬉しそうな顔で納得したように頷いた。
「あの、これは……アルがかけておけって。寒くないっていったんですけど、心配性ですよね」
「はァ、なるほど…」
完璧に惚気る顔のピアニィに、アンソンは曖昧に頷いた。…恐らく女王は、短いスカートとその下の細い脚を男の目に晒さぬ為の配慮だとは気づいていないのだろう。
なんともいえない顔のアンソンに、今度はピアニィが別の話題を切り出す。
「あの、アンソンさん、その『女王』って………やめてもらえますか? あたしはそんな、畏まられる人間じゃないですし…それに、人前で呼んだらすぐに周りにわかっちゃいますよ」
現に女王位にあるのだから、畏まるも何も正式名なのだが、居心地が悪そうにピアニィは肩をすくめる。
騎士として育てられた常識に反するものではあるが、これからベルクシーレへ向かう道中なら、身分を隠すことも重要かと思い直して――アンソンは大きく頷いた。
「わかりました。じゃあ、なんとお呼びしましょうか」
「えと、普通に……『さん』とか、『ちゃん』付きでもいいですけど」
身分を隠す為とは言えいくらなんでも、他国の女王をちゃん付けにはできない。ということで――
「―――じゃあ、『ピアニィさん』ということで。いいですかね?」
「はい。よろしくお願いしますね」
アンソンの言葉に、若き女王はにっこりと、花の咲くような笑顔を浮かべる。どこかでまた、木の枝の折れる音が響いた――。

……その頃の休息組。
アル「――――(べき。ぼき。ばき。)」←嫉妬心からそこらへんの木の枝を折りまくっている
ナーシア「…すー」←ハンカチを耳に詰めて就寝中
…寝ろ、約一名(笑)


※    ※    ※


・見張り:ピアニィ、ナーシア/休息:アル、アンソン

「……」
ピアニィの手の中に、ナイフの切り口の美しい小枝があるのを見て――アルは思い切り眉をしかめた。
「えっと、じゃあ、あたしとナーシアさん、アルとアンソンさんが組み…で、良いんですよね?」
それぞれの手にした小枝を見て、ピアニィが確認の声を上げ、ナーシアが無言で頷く。が――
「…………ナーシア。くじ引きやり直せ」
「あ〜…僕もちょっと、やり直して欲しいかも」
憮然とした表情のアルが異を唱え、折れ枝を手に持ったアンソンも恐る恐る手を上げる。
「―――わがままを言わない。 くじはきちんと、公平に作ったし皆で同時に引いた。やり直す理由はない」
男二人の申し出に、呆れた声と――どこか、母親めいた口調でナーシアは却下を申し渡す。
「そうですよっ。くじ引きにしようって、みんなで決めたんですから。ルールは守らなきゃダメです!」
「いや、しかしな姫さん……」
ピアニィの援護に、アルがしかめた眉をそのままにさらに声を上げる。だが――
「………それに、そのぅ――女の子だけでしたい話だって、あるんです…よ?」
何故かはにかむように、もじもじと――上目遣いに告げられて、アルは言葉を飲み込むしかなかった。
「……そういうことだから。そっちは男同士の友情とやらを温め直したら良いと思う」
「お鍋の料理じゃ無いんだからさ……」
野営の準備を始めながらさらりと言うナーシアに、アンソンが力なく突っ込みを入れた。
「―――けどな、姫さん。これだけは言っておくぞ…ナーシアの言う事は真に受けるなよ? 特に俺に関する話は。どうせ出鱈目しか言いやがらねえんだから」
薪を集めようとするピアニィに、幾本か束ねた木の枝を渡してやりながら、アルは真剣な顔で念を押す。
「…心外。私は、事実しか話していないのに……」
「――だからじゃないかなあ…」
「…アンソン。何か言った?」
かまどを組みながらぼそりと呟くアンソンに、毛布を手にしたナーシアがにこやかな笑顔を向ける。慌てて無言で首を横に振る聖騎士をよそに―――
「―――大丈夫ですよ? あたしはアルの事、信じてますから」
ピアニィのにっこりと花開くが如き微笑に、アルは本日二度目の絶句をする破目になった。
その有様に、ナーシアはぼそりと、呆れた表情で呟く。
「―――――――まったく…学習しないんだから」

まだ何か言いたげな男性陣を、半ば無理やり林の奥の寝床に追いやって―――ピアニィとナーシアが焚き火を挟んで向かい合ったのは、それから一時間も後のことだった。
「そういえば、ナーシアさんって…メルトランドの人なんですか?」
火の側に座り一息つきながら、ピアニィはふと浮かんだ疑問を口にする。
膝にかけた毛布を整えていたナーシアが、ちらりと視線を上げた。
「……女の子だけで話したい事って、それ?」
「あ、あぅう、そうじゃなく…っ」
途端に慌てて顔を赤くするピアニィを興味深げに眺めてから、ナーシアは小さく首を横に振った。
「……違う。私の母が、メルトランドの生まれなだけ。私はグラスウェルズ生まれで、メルトランドに住んだ事はない」
ナーシアの答えに、やはり膝に毛布をかけていたピアニィが笑顔を見せる。
「そうなんですか。じゃあ、あたしと一緒ですね!」
女王ピアニィの国土たるフェリタニアはかつてアヴェルシアと呼ばれた王国であり、ピアニィの母ティナの故郷である。
意外な共通点に瞳を輝かせるピアニィに、ナーシアは冷静に釘を差した。
「…だからって、私は別にメルトランドの女王になる気はないから」
「あ、あぅう…」
再び萎れて俯くピアニィを愉快そうに眺めて、ナーシアもまた質問を口にした。
「私からも、ひとつ。―――――何故、アルだったの?」
「――――っ! …ぇ、あの、な、何故って……」
あまりにも簡潔な問いに、ピアニィが狼狽し、その意図を聞き返す。
だが、ナーシアは答えない……答えられない。自分でも、自身の質問の意味を図りかねていた。
だからただ、ピアニィを闇紫の瞳で見つめる。――――その答えが、自分の質問の意味を語ると信じて。
見つめられている方のピアニィは、ナーシアに説明する気がないことを悟り、混乱した頭で思考する。
あまりにも抽象的な質問に、どう答えるべきか。どこから説明したらいいのか。そもそも、ナーシアはどこまで知っているのか。
なまじ生真面目なのが災いして、ぐるぐると堂々巡りに陥ってしまいそうな思考の中から、ピアニィは何とか答えとなるべき言葉を選び出して―――
「―――え、っと…あのぅ――――」
「―――――……………」
おずおずと口を開いたピアニィを、急かす事もせず――ナーシアはただ視線を注いでいる。
話を逸らさせてくれない視線に、少しだけアルの事を思い出しながら。ピアニィは乾いてしまった唇を舌で湿らせて、答えを告げた。



「―――は…初めてだった、から………」



―――――その瞬間、林の中に物理的な緊張感を伴う沈黙が満ちた。


「…………まさか…アルが、そんなに早くから貴女に手を出していたなんて………」
わなわなと、声と体を震わせる(八割方演技だが)ナーシアの姿に――ようやくピアニィは、自分の言葉の選択が間違っていたことに気付く。
「―――――っ、え、あのっ…ちが、違うの、違うんです!や、あの、その、違わないんだけど…そうじゃなくってその……っ!!」
真っ赤な顔を左右に振りながら、意味の通らないことを……一部、通ってはいるが聞いてはまずかろうという内容を、ピアニィはうわ言のように吐きこぼす。
それを愉快そうにひとしきり眺めてから――ナーシアは、沸き立つ鍋に差し水をする如く、冷静な言葉を差し挟んだ。
「……わかってる。大方、レイウォールの王宮から脱出して最初に会った人だから、という事でしょ?」
「あ…………はい…。お城の地下牢で…あ、アルは捕まってたんですけど、それは――」
「そっちは別に良い。アルが捕まってるのは、いつもの事だから」
何とか落ち着き、説明を始めようとするピアニィをさりげなく酷い言葉で遮ってから、ナーシアは再び真剣な顔に戻る。
「―――だけど、それでは納得できない。貴族嫌いのアルを、騎士にしてまで手元におく理由は何? 貴女にとって”アルでなければならない”理由は、初めて会ったからというだけなの?」
…自分の言葉に、内心で頷く。ナーシアは結局、アルが騎士になった理由を、自分なりに理解したいだけなのだ。
明確な質問に、問われたピアニィは小さく安堵の溜息をつく。アルでなければいけない理由――それは、明白すぎるほどに自分の中に在った。
「………アルが、約束してくれたからです。あたしを護るって」
小さく微笑むピアニィに対し、ナーシアの柳眉にはかすかに皺が寄る。
「………それこそ、理由にはならない。貴女には悪いけど、アルの約束は――」
「―――わかっています。アルは、誰とであれ約束は破らない。だけどあたしは……約束してくれたことが嬉しかったんです。レイウォールの王女じゃない、ただのピアニィに」
反逆者として汚名を着せられ、それまで優しかったものから敵意をもって追われる――まるで世界が反転したような混乱の極みの中で。
王女でも謀反者でもなく、ひとりの少女として話を受け入れ、護ると約束してくれた――そのことが、ピアニィの心を強く支えていた。
だがナーシアは、理解できないといった表情を崩さない。
「……………やっぱり、納得はできない。その状況なら約束も自然なことだし、貴女が理由とするほどに特別とは思えない」
眉をしかめたままのナーシアにこくりと頷いて――ピアニィは、毛布に包まれた膝を抱えた。
「そう、ですね。―――でもあたしはその約束を、無かったことにして欲しいと言ったんです」
旅路の中で、ピアニィは幾度も命を狙われ――そのたびにアルはひとり、剣を振るって戦ってきた。
そのあまりに孤独な戦い方に危険を感じて、ピアニィは約束の破棄を申し入れていた―――アルを護る為に。
「アルが、大怪我をしたら、いなくなってしまったらと思って――怖くて。…だけどアルは、約束を守ってくれました。自分がそうしたいから、という理由で」
ピアニィを狙う敵を倒し、仲間達と必ず戻ると約束して。―――アルはその言葉どおり、無事に戻ってきてくれた。
「…だから、あたしにとって――この約束は本当に特別なものです。騎士に任命したのは…アルが、どこかへ行っちゃいそうで、引き止めたかったから……」
他に思いつかなかったんです、と身を縮めるピアニィの表情に――ナーシアは大きく息を吐き出す。
―――離れようとしたのはおそらく、アルなりの予防措置だろう…とナーシアは推測する。そんなことをしても手遅れだったに違いないけれど。
騎士叙任などせずとも、アルはこの少女の傍を離れることはないだろう。呆れ果てた気分で、ナーシアは舞い上がる火の粉に視線を移した。
「…あの……ナーシアさん?」
突然目を逸らしたナーシアに、訝しげにピアニィが声をかける。碧玉色の瞳に目を合わせて、ナーシアは小さく肩を竦めた。
「――――理解した。………ところで」
「はい?」
小動物めいた動きで首を傾げる女王に、黒衣の密偵は唇をかすかに吊り上げる。
「………レイウォール王城の抜け道は、地下牢に繋がっているのね?」
「――――ぁ…っ」
王家の秘儀とも言うべき、秘密の通路の存在――そのヒントを与えてしまったことに、今更ながらピアニィは気付き、顔を蒼白にする。
「……まだしばらくは、使う機会はないだろうけど…いい情報」
「な、ナーシアさん、あの、聞かなかったことにっ……!」
「さあて…どうしよう、かな」
ピアニィの慌てぶりを愉しみながら、ナーシアは獲物をいたぶる捕食者の笑みを浮かべる。
―――無論、本気ではない。そもそも、地下牢から抜けた先が不明では情報の価値はゼロに等しい。
それでも――この甘ったるい気分を解消するために、もうしばらくからかっていようと心に決めて、ナーシアは小さく笑い声を上げた。


……その頃の休息組。
アル・アンソン『………………………』←お互いに何となくいたたまれない気分になって無言
――――だから、寝ろというに。


※    ※    ※


・見張り:アル、アンソン/休息:ピアニィ、ナーシア


「ったく………休んだ気がしねえな」
徹頭徹尾、自業自得な文句をいいながら、アルは焚き火に小枝を投げ入れる。ぱちん、と爆ぜる音が、意外に大きく林の中に響いた。
「あ〜…なんか、フツウに宿とって休んだ方が楽な気がしてきたよ……」
アンソンはそう言って深々と溜息をつき、焚き火に手をかざす。途端、炎の向こうから、琥珀の視線が嫌味つきで飛んできた。
「……大概の宿には手配が回ってるらしいんだがな。どこぞのお国のおかげで」
「…………うぅ、べ、別に僕らが悪いわけじゃ…………」
弱々しい反論が、煙とともに天に昇る。大柄な背を丸めて落ち込むアンソンに、アルが小さく声をかけた。
「――――――っつうかな。アンタも相棒ならどうにかしろ、アイツを」
「…………それができるんだったらやってるよ…そもそも、付き合いが長いんだったら、そっちで何とかしてくれよ」
休息組に聴こえぬように振られた話題は、当然ナーシアの事である。今度の反論はいいところを突いたらしく、赤毛の剣士は仏頂面で黙り込んだ。
目の前の剣士――アル・イーズデイルと、ナーシアが同門の弟子だったことは、アンソンも話の流れで多少聞いてはいる。
せっかくだから、この機会に――と、アンソンは抱えていた疑問をぶつけてみることにした。
「…付き合いが長いのは聞いてるんだけどさ、一体どれくらいの長さなんだ? 家が近かったとか――」
あまりにのんきな質問に、アルはかすかに苦笑し、首を横に振る。
「そーいうのじゃねえよ。…まあ、師匠がアイツを連れてきたのが、まだ子どもの頃で――そっからだから、十年近くにはなるかな」
「十年、って―――結構長いんだな…」
「…まあ、一緒にいたのはほんの数年だけどな。アイツは、覚えるだけ覚えたらもう“仕事”に出るってんで師匠のもとを離れたから」
恐らくは意図して、アルは淡々と言葉を重ねる。密偵たるナーシアの、“仕事”―――その意味を理解して、アンソンは暗澹とした気分に沈む。
「………そんなに、小さな頃から――じゃあ、もうその頃には、ロッシュが――?」
「…かもな。もっとも俺は、前にも言ったが詳しい話は聞いてねえ。―――師匠なら、全部知ってたかもな」
しかし、アルの師匠――“堕ちた剣聖”テオドール・ツァイスは、グラスウェルズの騎士団に討ち取られて死んでいる。
その事を、グラスウェルズの騎士たるアンソンと話す皮肉に今更気づいて、アルは小さく溜息をついた。
アルとナーシアの師がテオドールであることなど露知らないアンソンはアンソンで、やり場のない怒りをはるかベルクシーレの上司へと向けていた。
「それにしても、ゴーダ伯……そんなやり口で、小さな子供の頃からナーシアを働かせていたなんて、許せないな」
憤然と、本気で義憤に耐えかねた表情でアンソンは腕を組む。その姿に、アルは思わず突っ込んだ。
「って、アンタらの上司だろうが。それに、その上司に報告するとか言ってなかったか?」
「うあ…そうだった…」
すっかり忘れていた報告の件を持ち出され、アンソンは三度頭をうつむける。
浮き沈みの激しいアンソンの様子に苦笑いしながら、アルは手近の小枝をもう一本焚き火に投げ込んだ。
薪の爆ぜる音、炎の燃える音が静まり返った林に響く。アルが小さく吐いた息が、白く曇って煙と共に夜空に上っていった。
と、その時。頭を切り替えたのか…もしくは落ち込むのに飽きたのか、アンソンが顔を上げた。
「そういえばさ、組みになった時にピアニィさんと…」
「…………ぁあ!?」
地獄の底から響いたような低い声とぎらつく視線が、アンソンの不用意な言葉を遮る。
「……ピアニィ女王と話したんだけどさ、外で女王って呼ぶのはまずいよねって」
「…まぁ、そりゃそうだな」
命の危険を感じて慌てて言い直すと、忠実なる女王騎士は不満げながらも頷いた。密かに安堵の吐息をつきつつ、アンソンは本題を切り出す。
「それで思ったんだけど、アル・イーズデイルってフルネームで呼ぶのも―――ひょっとして、まずい?」
「………まぁ、な」
かすかに強張る頬を意識しながら、アルは小さく頷く。グラスウェルズの一部に、アルの名前は知れている…『剣聖の弟子』として。
過去を掘り返されることも、正体を知られて騒ぎになるのも避けたい。そう、言外に告げるアルに、我が意を得たりとばかりにアンソンは大きく頷いた。
「うん、だからさ、そっちの呼び方も変えようと思って…アルくんでどうかな」
途端、アルの表情が苦りきったものへと変わる。
「…………却下だ。んな余計なもんつけなくとも、呼び捨てでいい」
「え、だって、馴れ合いはしないってことで話はついてるじゃないか? 適度に距離を取ろうと―――」
「それが余計だっつってんだよ!? つーかむしろ呼ぶなっ!?」
「いや、それは無理だろ常識的にっ!?」
ぎゃあぎゃあと、燃え上がる炎のように騒がしく。男二人の言い合いはそれから、空が白み始める頃まで続いたという。

………その頃の休息組。
ピアニィ「…………すー……すー………」←熟睡中
ナーシア「……………2人とも、話があるから……くー……」←寝言
―――――おやすみなさい。


※    ※    ※


「………今日は、くじ引きはなし。文句が出たから」
野営の支度を整え、夕食を食べたあとで――ナーシアは冷たい視線を横に流しながら言った。その先にいた男2人は、縮こまるように首を竦める。
「え、でも、そうすると…今日の見張りはどういう組み合わせになるんですか?」
片付けをしていた手を止めて、ピアニィは首を傾げる。
「そっちはそっちで、私はアンソンと。―――これが一番、不満の出ない組み合わせでしょう」
「…ま、そりゃそうだな」
毛布を準備しながらのナーシアの言葉に、アルがあっさりと頷く。…その背後で、アンソンが眉をしかめたのを黒衣の少女は見逃さなかった。
「――――アンソン? 何か不満でも?」
「い、いや、何にもありませんっ!!」
爽やかな笑顔を浮かべるナーシアに、アンソンは蒼白な顔で首を横に振る。半ば、夫婦漫才化して来たやり取りに、アルとピアニィは顔を見合わせて少しだけ笑った。
「…という事で、順番だけ決める必要がある。先に火の番をするか、休息するか。どちらにする?」
「―――そうだな。姫さん、どっちが…」
「……アル、どちらの方が楽ですか? あたしはそれに従います」
アンソンを一睨みした後で、尋ねてきたナーシアに――一アルが横にいた少女に尋ねようと口を開いた瞬間。
自分がしようとしていた質問を返されて、アルは呆然とピアニィの翡翠の瞳を見返した。
「……………え…っと…」
「アル、凄く顔色が悪いですよ? あんまり休めてないんじゃないですか? だから――アルの体が楽な方にしてください」
「確かに、それは私も感じていた。体調がよくないのなら、考慮するけど」
少女2人に看破されて――アルはますます言葉を失う。確かにこのところ、充分な休息が取れているとは言いがたい状態だったが、それにしても。
「……いや、ありがたいけどな、そんなに気を使ってもらわなくても――」
「―――あなた個人の事じゃない。旅の目的から言っている。…ロッシュを救いにいくんでしょう?」
「そうですっ。このパーティで一番の戦力はアルなんですから、アルの力がきちんと発揮できないとダメですよっ!?」
遠慮しようとしたアルに、ナーシアとピアニィがそれぞれの言葉で食い下がる。後ろで聞いていたアンソンが、思わず額に汗を流した。
「い、いや、ピアニィ女王…そうだろうけどソコまで言いますか……?」
――だがそれが、ピアニィが自分という存在を最大限に評価したゆえの言葉だと、アルは理解していた。――だから、素直に甘えられる。
「………わかった。だったら、出発ギリギリまで寝かせといてくれるか。あと何時間か起きてる分には、何とかなる」
一度休憩を入れると、集中力が途切れてしまいかねない――そう言外に告げると、ピアニィとナーシアが同時に頷いた。
「わかりました。じゃあ、あたしとアルが先に見張り、ですね」
「了解した。私とアンソンは、先に休息を取る―――いいわね、アンソン?」
「う、うん、わかった。じゃあえっと、片付けを――」
それぞれに役割を確認し、慌ただしく動き始める一同を見ながら――アルは小さく溜息をついた。
――――姫さんにまで見抜かれるとはな…だいぶ疲れが溜まってるってことか…。
もっとも、ああ見えてピアニィは感覚の鋭い方だ。女のカン、というものも含めて、甘く見ていた――といえるだろう。
静かに立ち上がり、薪をそろえるアルに――ふとピアニィが振り向いて、にこりと笑顔を浮かべた。



冬が深まり、少なくなってきた枯葉を辛うじて集めた寝床に向かって、アンソンとナーシアが歩いていく。
その背中を見送り、炎に薪をくべて、アルは大きく息をつく。――――吐いた息が、白く曇った。
「この何日かで、どんどん寒くなっていく気がします……こんなに寒い冬は、はじめてかも」
同じように、白く大きな息を吐きながら、ピアニィはしみじみと呟く。海沿いで温暖なノルドグラムで生まれ育ったピアニィからすれば、経験した事のない寒さなのだろう。
「ああ、向かってる先が北で、山沿いだからな…けど、バーランドも相当寒いぞ? 山間だからな」
「そうですよね…ナヴァールとベネットちゃんは、フェリタニアの皆は…どうしてるのかな…」
仲間の名を、王国の名を、炎を見つめながら――ピアニィは小さく呟く。気分の沈みかけた様子を察知して、アルはわざと明るく、暢気な声を出した。
「――ま、俺たちより寒い思いをしてるってことはねえだろ。あっちにゃナヴァールの旦那がいるんだから、何とかしてるさ」
「…ふふっ。そう、ですね―――次の冬は、皆でバーランドで過ごせたら…良いですね」
「そのために、俺たちはここにいる……だろ。こっちが終わったら、次はエストネルだ。のんびりしてるヒマはねえぞ」
「そうですねっ。頑張らなくちゃ――」
小さく拳を握り締め、自らに気合を入れるようにピアニィが笑う。―――その肩先を、風が通り過ぎた。
「―――――っと」
傭兵として野営に慣れ、寒さには強いつもりのアルさえも身を竦めるほどの冷たい風。旅装の膝に毛布をかけただけのピアニィは、慌ててミスティックガーブの前をかき合わせた。
「――日が落ちたら、急に、寒く…なりましたね…」
身を縮めるピアニィの様子に、アルは毛布を手にして立ち上がり――焚き火を回り込んだ。
「え? あ、アル?」
「…いいから。姫さんはそこにいろ」
戸惑い、大きな目を瞬かせるピアニィに構わず隣に座り、手にした毛布を広げ自分とピアニィの肩を覆うようにかける。
「―――毛布だけ渡そうかと思ったんだが……正直、俺も寒いんでな。窮屈だろうが、我慢してくれ」
「い、いえ、あったかい……です……」
かすかに頬を染めながら、アルに身を寄せて――ピアニィも、自分の膝にかけていた毛布を広げて自分とアルの体を覆う。
薄手とは言え、2枚の毛布で包まれたふたりだけの空間は、確かにそれまでより格段に暖かい。ふたりは同時に、深く大きな息をついていた。
毛布がほどけないよう、より身を寄せようと、アルは毛布の下からピアニィの背中に腕を回す。
見えないせいで驚いたのか、華奢な背中が一瞬硬直し――おずおずと、アルの腕に身を委ねてきた。
―――静まり返った闇の中で、互いの鼓動だけがとくとくと響く。無意識のうちに力の入っていた腕を通じて、ピアニィの体温がアルに伝わる。
「…………こんな風に姫さんと焚き火を眺めるのなんて、レイウォールの城を出たとき以来だな」
意識して腕から力を抜き、のんびりとした声でアルは呟く。どこか緊張の解けた様子で、ピアニィも小さく頷いた。
「そう、ですね…あれからずいぶん経ったような気がしますけど、半年も経ってないんですね」
――ノルドグラム城で出会ったのが、八月。ほんの四ヶ月の間に、様々な事が起こりすぎていて、まるで何年も経過したかのようだった。
どこか感慨深げに呟くピアニィの横顔をちらりと見て――アルは小さく、自嘲めいた笑いを浮かべる。
「そういえば、俺は――姫さんとの最初の約束もまだ、果たせてないんだな」
「…えっ――?」
ピアニィの振り向いた気配を、驚いたような凝視を感じて――アルの声に、心に苦いものが滲む。
アルとピアニィが交わした、最初の約束――『牢から解放する代わりに、ピアニィを安全な場所まで連れて行く』…アルは無論、自由になった。しかし――
「フェリタニアを創ったはいいが、戦争は起きるし、姫さんは狙われるし…おまけに姫さんは、自分から揉め事に飛び込んで行っちまうからな。安全な場所なんて、どこにあるやら――」
それは、アルからしてみれば――自嘲を含んだ、軽い当てこすりのつもりだった。生真面目なピアニィはそれをいなせず、困惑した声をあげるだろうと、そう思っていた。―――だが。
「…………ありますよ。安全な場所―――」
「――――え?」
予想に反した、静かな声に――アルは間の抜けた声をあげて、肩に寄り添ったピアニィを振り向く。
「―――ここです。アルの隣………世界で一番安全で、安心な場所――」
「――……………………………っ」
「…………ね?」
言葉に詰まるアルの前で、ピアニィはそっと顔を上げて、柔らかに微笑む。それはまさに、咲き誇るそのときを待っていた大輪の花のような、あでやかな微笑で。
――自分の頬が、顔全体が熱くなるのがわかる。自分の頭に血が昇る音さえ、アルは聞こえたような気がした。
「………アル? どうし――――ひゃうっ!?」
「―――い、いいから、その…っ、…い、今、顔見せるな…っ」
きょとん、とした顔で首を傾げるピアニィの頭を乱暴に引っつかみ、胸元に押し付ける。……さすがに『いま顔を見たら、何をするかわからないから』とは言えず。
じたじたと暴れるピアニィを胸に抱えたまま、気を落ち着ける為に――アルは視線を空へと向けた。
………そこに在るのは、満天の星。冬特有の澄み切った空気を、さざめく星の瞬きが埋め尽くしていた。
あまりの星に見惚れた一瞬、腕の力が緩み――ピアニィもまた、アルの視線を追って顔を上げた。
「………わぁ…凄い、星――」
「ああ………」
感嘆の声をあげるピアニィに同意し、視線を移す。夜空を見上げる翡翠の瞳に、星のきらめきが映り込んでいて―――輝きに魅入られたようにアルは顔を寄せた。
………優しく重ねた唇を静かに離し、華奢な体を腕の中に抱きしめる。
「―――ずっと、傍にいる。…約束だからじゃない。俺が――そうしたいんだ」
囁いた声に、ピアニィが小さく頷き―――細い腕が、アルの背中を抱き返した。

―――静かな夜に、炎の弾ける音だけがやけに大きく響いた。




…その頃。
「……うぅ……耳から…耳から砂糖が…」
「……くー………」
妙なことを言いつつうなされるアンソンの横で、例によってハンカチを耳に詰めたナーシアが熟睡していた。


※    ※    ※


「そんじゃ…後は頼む」
「ナーシアさん、アンソンさん、よろしくお願いしますねっ」
先に火の見張りをしていたふたりが、にこやかな笑顔とともに林の奥へと消えてゆく。
その背中が完全に見えなくなったことを確認してから――ナーシアは、焚き火の向こうに座るアンソンに鋭い視線を向けた。
「―――アンソン。あなた、あっちのふたりに余計なことは喋ってないわよね?」
「よ、余計なことって何さ…何も言ってないよっ!? …たぶん」
狼狽したあげくに情けない答えを返すアンソンに、ナーシアは深く溜息をつく。
「……全く、あなたは本当に自覚が足りない。迂闊な言動を取れば、もしかしたらグラスウェルズそのものが危険に晒されることもあるのよ――?」
「……………い、以後気をつけます…」
「以後じゃ遅い。もう、この瞬間から気をつけて」
反省の意を示すアンソンに、厳しい声がぴしゃりと追い討ちを掛ける。…俯いてしおれる姿は、大柄な体躯と相まって叱られた犬を連想させた。
少し、言いすぎたかと――ナーシアの表情がわずかに曇る。だが、それ以上声をかけるのも躊躇われて、そのまま毛布を抱え込んだ。
……どちらも無言のままの空間に、薪の爆ぜる音が妙に大きく響く。
「え…っと、あのさ、ナーシア」
―――敵方のはずのフェリタニア女王やその騎士相手より、よほど気を使いながら…アンソンはおずおずと口を開く。
「―――何?」
「……あの…カテナとゼパは、今どのへんかなあ?」
「さあ。レイウォールの地理には詳しくないから」
「………じゃ、じゃあ、ミネアはどうしてるかな?」
「これから行くんだから、そのときに聞けばいいでしょう」
「あぅ………………」
まさしく一刀両断。切り出しかけた話題を全て斬って捨てられて、アンソンは再び顔を俯ける。そのあまりの落ち込みように、ナーシアも思わず声をかけた。
「…私たちは馴れ合いの旅をしてるわけじゃないでしょう。無駄話をしてる余裕はないはず」
「……そりゃ、そうなんだけどさあ…僕たちは仲間だろ?」
「………」
情けない声を上げるアンソンを再びばっさり斬り捨てようとして―――ナーシアは戸惑った様子で口を閉ざす。
―――仲間。ともに戦い、歩むことのできる仲間がいれば…強くなれるだろうか。自分に勝った、アルのように。
「……………ナーシア? どうかした?」
様子の変わった少女に、アンソンは恐る恐る声をかける。思索に沈んでいた意識を引き上げて、ナーシアは首を横に振った。
「―――なんでもないわ。ただ少し、疲れただけ」
「そっか……だけどもうすぐ、グラスウェルズだしね。国境内に入ったら、少し休めるんじゃないかなあ」
暢気に言い、白い息を吐くアンソンに――ナーシアは鋭い視線を向けた。
「………アンソン。あなたは――どうするつもりなの?」
「…え? どう、するって……」
「―――あの二人がもし、本当にロッシュを救い出したら。もしくは、失敗したとしても。どうするのか、考えてる?」
あの二人――フェリタニア女王ピアニィと、その騎士アル・イーズデイルがベルクシーレへ行く目的は、ロッシュを救い出すこと――ナーシアを、メルトランドに連れて行くために。
現在ロッシュの後見人を務めているのは―――そして、命を握っているのは、自分達の上司であるゴーダ伯だ。ピアニィ達がロッシュ確保に動けば、その原因がナーシアにある事は過ぎるほどに明白で。
……つまり、それは――ナーシアの、上司への反逆を意味する。同じチームで動いているアンソンも、無論その一党と見られるわけで。
「…………………って、え、―――そ、それは…」
今の今まで、全く考えていなかった方面での危機に、アンソンはいやな汗が全身を流れ落ちるのを感じた。その様子に、ナーシアは小さく溜息をつく。
「―――思ってもいなかった、って顔ね。まあ、あなたは貴族だし、リシャール団長の覚えもめでたいから考える必要もないんでしょうけど…」
「だ、だけどこれって、ゴーダ伯の命令に背くわけで、つまり…」
「……反逆罪とは言わないけど、加担した事は責められるかもね。今からでも、言い訳を考えておいたら?」
冬の最中というのに汗をびっしょりとかいたアンソンに、しれっとした顔でナーシアは告げる。――その顔は、奇妙な静かさをたたえていた。
「…ひ、卑怯かもしれないけど、ベルクシーレに入るときに二人とも拘束して王宮に引き渡しちゃう、とか…」
「――全く同じ状況で、あの二人はバーランドを奪回しているのよ。捕まっていることはハンディにならない――特にアルには。…それに、そんなことあなたにできるの?」
「…うぅ………」
頭を抱え込んでしまったアンソンをよそに、細くなりかけた焚き火に枝を放り込んで――ナーシアはちらりと、林の奥に目を走らせる。静かな気配が、肌をさすような冷たさだけが、周囲を漂っていた。
――命令を果たすには、グラスウェルズの為には、ピアニィ女王をゴーダ伯に引き渡さねばならない。しかしそれでは、ロッシュが救えない…。
ぐるぐると、思考の迷宮に入り込んでしまったアンソンが、ふと視線を上げる。―――そこには、ナーシアがいた。わずかに顔を焚き火から逸らし、闇紫の瞳に夜より暗い影をまとわせて。
「………………」
「―――どうしたの? アンソン」
視線に気づいたのか、訝しげな声を上げてナーシアが振り向く。揺らめく炎に照らされた姿は、どこか頼りない歳相応の少女のものだった。
「…え、と……ナーシアは、どうするのさ? ロッシュを連れ出せたら―――」
「………成功しても、失敗しても――どちらにしろ私は、グラスウェルズには居られなくなる」
…覚悟はしていても。どこか冷たい、他人事のようなその言葉に、アンソンは息を呑んだ。
ピアニィ達によるロッシュ救出が成功すれば、ナーシアがゴーダ伯に―――グラスウェルズに仕える理由はなくなる。
もし、失敗したら――対象がロッシュである以上、ナーシアに責が及ぶことは間違いない。それでなくとも既に、ナーシアはピアニィ女王暗殺任務に失敗しているのだ。
ロッシュに危害を与えるか、それともナーシア自身に処罰が下るのか――いずれにしても、グラスウェルズを逃げ出さなくては姉弟の無事は確保できまい。
「――――…………」
「…アンソン、混乱しているところ悪いけど。少し話を聞いてくれる―――?」
次々に与えられる情報に、困惑し――沈黙するアンソンに、ナーシアが静か過ぎるほどに静かな声をかける。
険の抜けた表情のナーシアはひどく大人びていて、頼りなくて――アンソンは思わず反応が遅れた。それを警戒ゆえと取ったのか、ナーシアは力ない苦笑を口元に載せる。
「…別に、罠にかけたりはしないから。―――もし、あの二人が失敗して、ロッシュをグラスウェルズから連れ出すことができなかったら…あの子を保護して欲しい。あなたと、あなたの家で」
「―――――っ…!?」
今度こそ本当に返す言葉を失って、アンソンは青い瞳を見開いた。ナーシアにとってロッシュは、ただ一人の家族で誰より守るべき存在――それを、アンソンに頼むという事は。
「………あなたの家なら、リシャール団長の支援も受けられるだろうし、あの子が騎士になりたいと言ったらその道も開いてやれるでしょう。――本当は、危ない事はさせたくないけれど。
それから、私の事は――」
「…う、うん。もしそうなったら、いつでも会えるように連絡して――」
冷静に、淡々と。言葉を紡ぐナーシアに気圧されていたアンソンが頷き、そのあとを引き取る。が――ナーシアは首を横に振った。
「―――いいえ。私の事は、あの子に言わないで。姉がいるといったのは、ゴーダ伯の嘘だと。ロッシュには姉なんかいないって」
冬の夜風より冷たく、その場の空気が凍りつく。炎を見つめる闇紫の瞳は影を宿して、夜よりもなお暗かった。
「………できるなら、あなたも忘れてしまって。そうすればきっと、ロッシュとも本当の兄弟みたいに――」
「――――っ、そ、そんなこと…っ、できるわけないだろう!?」
深い闇を纏った、平坦に語られる無情な言葉に――アンソンは激昂して立ち上がる。肩に巻いていた毛布が落ちて大きな音を立て――ナーシアは背後の林をちらりと振り向いた。
「……………アンソン、静かに。あっちの二人が起きる」
「静かになんてしてられないよっ!? 忘れろって、何で、そんな―――」
「――――その方が良いでしょう。ロッシュにとっても、あなたにとっても」
物心ついたときから密偵として訓練を受け、日陰仕事に従事してきたナーシアの存在が、聖騎士の名に傷を落とす――そう、含ませた言葉に。
眦を決し、激しい感情に顔を染めながら――アンソンは拳を握り、全力を持ってその言葉を否定する。
「…………っ、ふざけるなよっ!! 忘れるなんて、そんなこと…そんな馬鹿なことできるわけないだろうっ!?」
「――――………アンソン…?」
「大体っ…人をあれだけ馬鹿にして、それを忘れるなんて都合のいい事、許さないからなっ!?」
あまりの真剣さに戸惑いの声を上げたナーシアの表情が、アンソンのなんとも情けない主張に――ふっと緩む。
「…え、ちょっと――――そういう意味なの…? 心配とか、最初にこないで…?」
「―――あ。え、あ、いやその、それはそのっ………」
「――――もう、ほんとに…アンソンらしいっていうか…」
思わず呟くと、今度はアンソンが目に見えて狼狽する。その姿がおかしくて――ナーシアはくすくすと笑い出してしまう。
どこか、憑かれたような暗さがもう抜けていることに安堵しつつ…アンソンは咳払いをし、声を張って話題を変えた。
「…いや、うん、この話はコレで終わりっ!! ―――僕は聞かなかったし、ナーシアは何も言わなかった、ってことで!」
「――――そうね。そういう事にしましょう」
まだ笑いの残る、柔らかな声で――ナーシアは肩にかけた毛布の位置を直しながら頷く。それを見ながら――焚き火の向かいに腰掛けたアンソンの口から、ふと溜息が漏れた。
「………って、結局、ゴーダ伯になんて報告するか、まだ決めてないんだよなぁ…どうしようか……」
「頑張ってね、アンソン」
「が、頑張ってって―――そーゆーのって本来隊長の仕事じゃないのっ!?」
「じゃあ、隊長命令。アンソン、報告よろしく」
「なんで―――――っ!?」
……すっかり、いつもの調子に戻った会話に、互いに安心しながら。夜明け前の林に、騒ぐアンソンの声が響く。
――明ける直前の、もっとも冷たい夜の空気。笑いの隙間にふと、アンソンはナーシアが白い息を吐いているを見た。
毛布とマントに覆われた肩が、自分の半分ほども細くか弱いことに、今更のように気づいて――
「…………あ、あの、ナーシア、コレ使ってよっ!」
とっさに、何も考える間もなく。アンソンは先ほど落とした自分の毛布を、焚き火越しにナーシアに差し出していた。
「――――……あなたも寒いでしょう。これから冷えるのに」
「い、いや、僕は…っ、ホラ、ベルクシーレで生まれ育ってるからさっ! このくらいなら何とか…」
突然の申し出に目を丸くするナーシアの前で、アンソンはひたすらに慌てふためきながら――引っ込める様子もなく毛布を差し出している。
そのあまりの焦りように、小さく溜息をつきながらナーシアが折れた。
「……………わかった、使わせてもらうわ。そのままだと毛布、燃えそうだし」
「――あ…っ」
二人の間で燃えつづけている焚き火――その、燃え上がる炎の上に毛布を差し出していたことに、アンソンはようやく気づいた。
慌てて、炎を避ける位置に動いて――差し出されたナーシアの手に恭しいといえるほど慎重に毛布を乗せる。
軽く炙られていた毛布は、驚くほどに暖かかった。身体に巻きつけると、その暖かさにナーシアの口から小さな溜息が零れる。
口元までも毛布で覆って、ぬくぬくとした様子のナーシアに、アンソンもようやく安堵し腰をおろす。――ふと、闇紫の瞳がこちらを向いて。

「―――――ありがとう、アンソン」

今まで聞いたことのない――優しい声で名前を呼ばれ、感謝の言葉を口にされて。アンソンの動きが凍りついたように止まった。
「………………何をそんなに硬直してるの。毛布のお礼よ、一応」
「――――――――あ、そう、毛布ね…うん、そうだよね、いやそのどういたしまして……毛布の…」
「そう。毛布のお礼」
ガッカリしたのか、安心したのか。自分でもわからなくて混乱するアンソンの前で、ナーシアは再度毛布をきっちり口元まで巻きなおす。――――――微笑む唇が、見えないように。

夜明けまで、あと、もう少し。


※    ※    ※


時は少し戻って―――

林の奥、乏しい枯葉を集めて作った二つの寝床に、ピアニィとアルはそれぞれの毛布にくるまって横になる。
枯葉の量は冷たい地面から身を守るには十分とは言えず、ピアニィは毛布を抱きしめて軽く身を震わせた。
「―――――寒い……アル、大丈夫ですか?」
隣の寝床に横たわったアルは、視線だけをこちらにちらりと向けて――優しく微笑んだ。
「ああ、なんとかな。あんまり休めてないのがかえって幸いしたみたいで、よく寝れそうだ」
「そう、ですか…良かったぁ…」
恋人の笑顔に、心だけはほんのりと温かい。と、毛布ごと丸くなったピアニィの身体に、ヤンヤンが寄り添って丸くなった。
「ヤンヤン…あったかいよ、ありがとう」
小さな動物特有の高めの体温に、身体を内から温められたようで、ピアニィはほっと息をつく。その様子に、アルの口からもほっとしたような吐息が漏れた。
「姫さんも、大丈夫そうだな……じゃあ、おやすみ。明日も早いからな」
「はい、おやすみなさい――アル」
挨拶を交わし、瞼を閉じて。しばらくすると、二つ並んだ寝床のひとつから、深く静かな呼吸が聞こえてきた。
………ピアニィはそっと目を開き、注意深くアルを見つめる。仰向けに寝転がっている為、ピアニィの位置からは横顔しか見えない。胸にかかった毛布が、大きくゆっくりと動いているのを見て――
――――…良かった…ちゃんと寝てくれてる…
気配に聡いアルに気づかれないよう、ごく小さく安堵の吐息をこぼす。眠っているアルの横顔は穏やかで優しくて、見つめるピアニィの顔にも微笑みが浮かんだ。
…思っていたより長い睫毛が、傷痕のある頬に影を落とす。目をこらして、じっとアルの寝顔を見ていたピアニィは――ふと気づく。
――――……そういえば、アルの寝顔見るの…はじめてかも……
出会った頃、バーランドへの旅をしていた時は、魔力の消費の多いピアニィとナヴァール優先、と休まされてばかりいた。
そして、普段は―――ピアニィがアルより早起きできた試しは、一度だってない。かすかに頬を染めながら、それでもピアニィはじっと恋人の寝顔に見入っていた。
「―――――……ん…」
幾度めかの深い吐息に、かすかに声が混ざる。子供のようなあどけない声に、ピアニィの微笑みも深くなる。
「……………おやすみ、なさい――――アル…」
毛布の端を握り締めて、ヤンヤンの暖かな毛皮を感じながら。ごく小さく呟いて――ピアニィも再び、瞼を閉じた。

……おやすみなさい。


※    ※    ※


…そして、夜明けの直前。
休んでいた二人が起きて合流し、全員で焚き火や野営の痕跡を消して――出立の直前、ナーシアが宣言した。
「――――今日の夜は、街に出て宿を取る。野営で凌げるのは、ここが限界」
深まる冬、厳しくなる寒さ、乏しくなる物資。それらを加味した上での判断に、アルとピアニィは同時に頷いた。
「…だな。これ以上寒くなると、眠ったら朝には凍死って事にもなりかねねえ」
「そうですね。動物さんたちも、もう出てこられないみたいですし――」
…歌で動物を呼び出し、意思の疎通を図るというピアニィの特技は、ベルクシーレ行きの旅路で最大限有効に活用されていた。
しかしそれも、獣たちの冬眠する本能には勝てず――この数日は、人力だけでわずかな物資を探している状態だった。
「え、でも、このくらいは何とかなるんじゃない? 僕は平気だし――――っくしょン!!」
…絶妙なタイミングでのくしゃみに、アルとピアニィが噴きだし、ナーシアは氷のように冷たい視線を向ける。
「…ベ、ベルクシーレ育ちのアンソンさんでも風邪引いちゃうくらい、寒いんですね…」
「………えーと、そういうわけじゃ……いや、まあ、いいです、そういう事で」
笑いながらのピアニィの言葉に、アンソンは頭を掻きながら同意する。実のところは、夜明け前の一番寒い時間を毛布無しで過ごしたから…とは言えない。
「………ともかく。今日は街に入るまで歩き詰めになるから、そのつもりで」
「―――ああ、わかった。…姫さん、大丈夫か?」
小さく溜息をつき、一同を見回しながらのナーシアの言葉に、アルは力強い頷きを返す。隣に立つピアニィに視線を向けると、明るい笑顔がそれに答えた。
「はいっ、大丈夫です! しっかり休みましたから!!」
グッ、と小さな拳を握りこむ、その仕草に―――ふと微笑みながら、アルも頷いた。
「よし、その意気だ。―――さて、行くか」
軽い号令とともに、四人が揃って歩き出す。
「…ってことはさ、今日は炊事当番無しだよね? あ、ちょっとラッキー…」
「―――じゃ、今日の昼食はアンソンの自腹で奢り」
「ちょ―――っ!?」
こっそり喜ぶアンソンを見逃さず、ナーシアが冷たい声で断定する。情けない絶叫に、アルがにやりと笑った。
「お、いい話だな。姫さん、今日はいいものが食えるぞ」
「え、えと、いいのかな…あの、じゃあお願いしますね」
「いやいやいやっ、ちょっと待って――――っ!?」
冬の弱い朝日が差し込み始めた林に、情けなくも必死なアンソンの絶叫が響き渡る。


――――ベルクシーレへの旅は、続く。


…そして、『あんみん』へ、続く。





…長くってすみません…野営会話というシチュは本当に楽しく書けました!
BGMは、水樹奈々さんの『PHANTOM MIND』でどうぞ(笑)

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