ある日の午後。
アル・イーズデイルはバーランド宮の廊下を歩いていた。
手には、バターの香りもかぐわしい焼き菓子の包み。
―――その包みをちらりと見ながら、アルは先程のやり取りを思い返していた。

……その日の朝食の時間、ピアニィは食堂に下りてこなかった。
「書類仕事がたいそう溜まっていてな。執務室で軽食をお取りになるゆえ朝食はいらぬと、厨房に伝えてくれ」
それだけ告げて、自身もせかせかと執務室へ向かうナヴァールを見送った時には、そんなこともあるだろうとしか思わなかった。
午前中も一切姿を見せず、昼食も同じく執務室で済ませる――とメイドが告げに来たのを受けて、厨房側が動きを見せた。
いくらお忙しくとも、お腹に溜まるものも召し上がっていただかなくては、お体に関わります――との言葉とともに、厨房を取り仕切るメイドの一人が、アルの手にやや大きめの焼き菓子の包みを持たせた。
――それと、必ず陛下に手渡しして下さいませ。くれぐれも、執務室に置いただけということのないようにお願いいたします…

念を押すメイドの言葉を思い返しながら、アルは空いた手でぽりぽりと頬を掻いた。
「……っつっても、姫さんの仕事の邪魔するわけにもいかねえしな…」
女王の執務とあっては、庇うことも手伝うこともできまい。どうしたものかと思いながら、執務室に続く廊下を曲がると、正に目的の部屋から出てきたベネットと目があった。
「ややん? 珍しいでやんすね、アルが執務室に来るなんて?」
なにやら荷物の載った手押し車らしきものを押しながら、ベネットが目を丸くする。
「ああ、ちょっと頼まれてな。――で、そういうお前は?」
「いや〜、通りかかったら是非にと頼まれてお手伝いでやんす♪ こういう時人徳があるってのは辛いでやんすなぁ〜」
……なぜかやたらと幸せそうなベネットに、ツッコミを入れるのもはばかられて、アルはスルーを決め込むことにした。
「―――で、姫さんは………うわっ!?」
戸口から覗き込んだ執務室の光景に、アルは思わず叫び声を上げた。
決して狭くは無いはずの執務室が、床から立ち上がった幾本もの白い柱で覆われている。正面に鎮座しているはずの大きな執務机が、柱の陰に寸断されていた。
―――そして、アルは気づいた。白い柱と見えたそれは、アル自身の背丈にも届きそうな――書類の山だということに。
「…………これ、全部、姫さんが目を通さなきゃいけない書類なのか……?」
呆然と呟くアルに、ベネットはため息をついて答える。
「………まあ、サインをするのはこの半分だそうでやんすよ?残りの半分は資料でやんす」
「―――それにしたって……」
良く見れば、ベネットの持つ手押し車にもサイン済みと思しき書類が積みあがっている。
「………ひょっとして、それを運ぶと…」
「……新たな書類が運ばれてくるわけでやんす。女王様も大変でやんすねえ……」
しみじみした口調のベネットを横において、アルはもう一度執務室の惨状を眺め…手の中の包みに視線を落とす。―――確かにこれは、手渡ししないと書類の山に埋もれてしまいそうだ。
「ナイジェルとナヴァールは、今はサインした書類の確認に行ってるでやんすよ。そうでなかったら、こんなに喋ってる暇も無いでやんす」
手押し車にもたれるようにして、ベネットは愚痴をこぼす。その言葉に顔を上げて、アルは気づいた――執務室に、その主の薄紅色の頭が見当たらないことに。
「―――ベネット。姫さんは……?」
なんとなしに声をひそめて聞くと、ベネットは眉を寄せて周囲を見回した。
「………まあ、アルがナイジェルに言いつけるとも思えないでやんすからな……こっちでやんす」
その場に手押し車を置くと、獣人娘は器用に白い柱を避けながらひょいひょいと進む。そのベネットを追いかけてアルも慎重に執務室へ入り込む。
白い柱の中を進む鮮やかな緑の髪を目印に歩くと、その動きが大きな執務机の脇で止まった。
「…………ココでやんす」
周囲を憚るように声を潜めて、ベネットがわずかな壁面の隙間に手を伸ばす。文字を描くように指を動かすと、小さく何かが動く音がして――ただの飾り板と見えた部分が、音も無く開いた。
「………―――隠し部屋かよ…」
驚きすぎて反応の遅いアルに、ベネットがにやりと笑って見せる。
「仮眠用のソファがおける程度でやんすがね。前に手伝いに来た時、ぐーぜん発見したでやんす」
人ひとりがやっと通れそうな隙間の奥は、窓があるらしく暗さは無い。覗き込もうと身を乗り出したアルに、ベネットが呆れたような表情になる。
「………この手の仕掛け、好きでやんすねえ……ついでだから、そろそろピアニィ様を起こしてくるでやんす、アル」
「―――ああ、わかった」
ベネットの促しに応じて、アルは細い隠し扉をくぐる。わずかに歩いた先には確かにソファが置かれていて、その上に―――
………小さな窓から差し込む光に、柔らかく広がる薄紅色の髪が輝く。広い座面にうずくまるようにして、無防備な表情のピアニィが横たわっていた。疲労のせいだろう、アルが入ってくる気配にも気づかぬ様子で、懇々と眠っている。
「―――これを起こせってのか…?」
アルは思わず眉を寄せ、口の中だけで小さく呟く。――それほどに、ピアニィは幸せそうに眠っていた。
「……急ぐでやんすよ〜。ナヴァールはともかく、ナイジェルに見つかったらあとあとウルサイでやんすから……」
アルの呟きが聞こえたかのように、執務室からベネットの囁きが届く。
「………ともかくって、旦那は良いのかよっ」
「……たぶん既にばれてるでやんす。それよりホラ、ハリーハリー!」
「…………わかったよっ」
ささやき声の応酬を終えて、アルは眠るピアニィに向き合う。すうすうと、健康的な寝息に逆に眠気を誘われながら、そっと声を掛けてみた。
「―――姫さん…おい、そろそろ起きろよ」
…囁きに近い声では、起きるはずも無く。だからと言って大きい声を出せる状態でもなく――
それでも何度か声をかけ、冗談半分に焼き菓子を鼻先に置いてみたりもしたが、ピアニィが起きる気配は無かった。
試行錯誤の末、小さな声でも距離が近ければ何とかなるか――と、アルはピアニィの耳元にかがみ込む。
「――――姫さん」
囁きの効果は、劇的だった。すっかり眠っていたはずのピアニィがびくりと身じろぎし、長いまつげに縁取られた瞼が開く。
「―――え? え? あ、アル…?」
「よぉ、やっと起きたな」
大きな目を瞬かせるピアニィに、笑いながら囁きかける。――途端に、ピアニィの顔が真っ赤になった。
「えぅ、え、あの、なんで…ここに…?」
「なんでって…姫さんを起こしに来たんだが」
「起こっ――――」
立ち上がりながらアルが告げた言葉に、ピアニィが更に紅くなってわたわたと慌てる。その理由を測りかねて困惑するアルの前で、ピアニィはそっと口元を押さえた。
「………あ、あのっ、起こすって、まさかっ……」
―――その仕草で、ピアニィの誤解に思い当たり……アルの頬までが紅くなる。
「―――い、いや違うっ! そーゆー起こし方はしてねえからっ!?」
「――そ、そ、そうですよねっ……」
………端から見ていたらツッコミどころ満載な会話の末に、微妙な距離を置いて二人は向かい合う。
「―――――あぁ、これ、厨房から姫さんにって預かった、から」
しどろもどろになりながら、慌てたせいで、包みに皺が寄った焼き菓子を差し出す。
「――あ、は、はい」
こちらもぎこちなく――指が触れないように細心の注意を払いながら、ピアニィは包みを受け取った。
「わ、おいしそう…アルもひとつ、食べます?」
「――ああ、もらっとく」
ピアニィの差し出す袋から、焼き菓子をひとつ取り出す。口に入れると、程よい甘さとバターの香りが広がった。
「…姫さん。仕事、大変そうだな」
嬉しそうに焼き菓子を頬張るピアニィに、どう言っていいかわからず――当り障りの無い声をかける。…だがピアニィは、焼き菓子を飲み下してから手を拭いて…にっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。美味しいお菓子も食べたし、アルも来てくれたし、もう少し頑張れます。――あたしのお仕事ですし」
励ますつもりが、逆に励まされた気分になって――アルは小さく苦笑する。
「―――もう少しって量じゃ、なさそうだけどな」
「……うぅ、が、がんばりますよっ。――だから、夕食は一緒に食べましょうね?」
「はいはい、期待しないで待ってるよ」
「あ、ひどぅい!」
くすくすと笑いあう二人に、その穏やかな時間の終わりを告げる声が響く。
「―――ナイジェルが上がってくるでやんすよっ! アルも姫様もそこから早く出て来るでやんす!」
ベネットの鋭い囁きに、いち早く反応したのはピアニィだった。慌てて立ち上がり、執務室に向かおうとするが――その顔が曇る。
「あうぅ、どうしよう、書類全然進んでないですよっ…」
泣きそうな顔のピアニィに、ゆっくりと立ちあがってアルは囁いた。
「……俺が通りすがって、書類そこら辺にぶちまけたことにしとけ。てきとーに怒られておくから、その間に進めとけばいいさ」
「………でも、アル――」
「他に手伝えることなんかないからな。これくらいさせてくれ」
なおも何か言いたげなピアニィの手を取り、隠し部屋から外へ連れ出す。背後で扉が閉まり、周囲の壁と完全に同化した。
そのさまを、やけに熱心な眼で見ながら、アルは小さく――ピアニィにしか聞こえない声で囁いた。
「―――――そのかわり。俺にも隠し部屋の開け方、教えろよな」



〜後記〜

えー…なんか、降りてきました(笑)
もともとのコンセプトは眠り姫ネタだった…はず。
だけどなんにもないよ!ほんとになんにもないよ!!
勝手にバーランド宮改造してます。この手の仕掛けはいつの世も男の子をひきつけるよね、という話。
しかしそもそもこの城は、避暑地として使われていたわけで、だったら何のためにこんな仕掛け?
てか隠し…の向こうに…って、なんだか妖しい臭いがします(笑)

文中登場のメイドさんは、マリエス・オズワルドさん。くっつけ隊隊員です。
厨房からお衣装直し、掃除洗濯と何でもこなします。

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