重ねた唇は柔らかく甘く、離れがたいものだった。
それでも何とか身を離すと、桜色の唇がかすかに震えた。
薄く開かれた形良い唇から、天上の調べを思わせる可憐な声が溢れ出る。

『アル…さん』

自分の名を呼ぶ声は限りなく甘く優しく、聞きほれてしまいそうになる。
それが、誰の声かと認識するより先に…目の前に、ひとつの姿が形を結んだ。

桜色の唇の下の細い顎、小鳥のような華奢な首。花を紡ぐが如き薄紅の柔らかな髪が、ふわりと流れ落ちる。
流れ落ちた先にあるのは、なだらかで完璧な曲線をえがく鎖骨。思わず抱きしめてしまいそうな頼りない肩に、掴んだだけで折れそうな細い腕と脚。
絹のように白くなめらかな肌が、ほんのりと色づいている。
湯に薄く透けた湯浴み着に包まれたたおやかな体躯は、描く曲線こそゆるやかだが、男の庇護欲をそそる色香を備えていた。
あるいは――――雄の支配欲を。
我知らず熱い息を吐いて、速くなる鼓動を聞く。
伏せられていた顔が上がり、瞼が開く。かすかに潤んだ翡翠の瞳が、まっすぐにこちらを向いた。
そこに宿る光は、甘やかに―――そして明らかに男を誘うもの。
ふ、と桜色の唇が笑みを象り、ほっそりとした腕があがる。自分だけに向かって、真っ直ぐに。

『――――――アル……』

優しい声に秘められるのは、強すぎる誘惑。
それに抗うのものはもう、なかった。
抱き締めたい、手に入れたい、何もかも全てを自分だけのものにしたい――――



「…………って、待て。ちょっと待て」
起きるなり、アル・イーズデイルは思わず自分の夢に突っ込みを入れた。
それはダメだろう。それはまずい。いくらなんでも、それは――――
「………シャレにならねえ、っつーんだよ…」
深く溜息をつきながら、アルは寝台に身を起こす。
見回せば、ニアリームの宿屋。四人部屋の隣のベッドではナヴァールが静かな寝息を立て、ひとつ向こうのベッドではベネットが豪快に毛布を蹴っ飛ばしている。
壁の向こうの部屋では、魔族の呪いからようやく解放されたピアニィが眠っているはずだ。
――本当に、なんという夢だろう。もう一度、アルは深い溜息をつく。
ピアニィは、国を追われたといえども大陸一の大国の王女で、さらには安全な場所まで護ると約束をした相手だ。
それをあんな目で――――ひとりの女として、見ているような夢は……あまりにもまずい。

たしかに護ると、約束をした。約束は関係なく護りたいと思った。ピアニィが生き残ることを心の底から願った。
………ついでに言えば、この宿の露天風呂でピアニィの体を見たことも、間違いない事実では、ある。
再び浮かびかけた映像を、アルは慌てて頭を振って散らす。
どの道、いつもの鍛錬をする時間だ。体を動かして気を紛らすべく、アルは剣と装備を持って静かに部屋を出た。


朝特有の冷たい空気を胸に吸い込んで、アルは大きく深呼吸をする。
どうにか気を静めて、剣を手にしようとした瞬間―――――
「あ、アルさん。おはようございます!」
横合いからかかった声に、心臓が一足跳びに跳ねた。
「…姫さん。やけに早いな」
何とか動揺を押し込めて、声の主――ピアニィに振り返る。夢の中で見たものと、よく似てはいるが無邪気な笑顔がこちらを見上げた。
「はい。ずっと横になっていたから、あんまり眠たくなくって――――小鳥さんもたくさんいるし、起きてきちゃいました」
確かにピアニィの周囲には、逃げもせずに小鳥たちが集まっている。
動物達と話せる、というピアニィの特技を思い出して納得しながらも、アルは王女に苦言を呈した。
「けど、横になってても休めたわけじゃねえだろ。体力も回復してないんだろうから、もう少し寝とけ。飯の時間になったら起こしてやるから」
「――――そう、ですね。じゃあ…もう少し寝ておくことにします。……あの、アルさん」
「…? なんだ?」
軽く頷いたあと、逡巡しながら。自分の名を呼んだ王女に、アルは訝しげな視線を向けた。

「――――ありがとうございました。約束…なしにしたのに、護ってくれて」

微笑み、軽く礼をするピアニィに、アルの胸が再び高鳴る。そんな動揺など、ピアニィが気づく由もなく。
「…約束ったって。まだ、あんたを安全な場所に届けてはねえだろ」
意識して、無愛想にこぼした言葉にも――ピアニィは優しい笑みを崩さない。
「そうかも、しれません。でも――――助けたいって、必ずみんなで戻るって、言ってくれて――嬉しかったんです」
柔らかに笑む王女に、アルは言葉を返せない。高鳴る鼓動が、口から溢れ出そうだった。
「………じゃあ、休んでますねっ。失礼します――――」
たおやかな体躯を翻して、ピアニィが駆け去ろうとする。薄紅色の長い髪が風に舞う、その瞬間―――


完全に無意識に。何も考えないままに。

アルは手を伸ばし、ピアニィの華奢な腕を掴んでいた。


細い腕は想像していた以上に柔らかい感触で。そのまま握っていたら壊してしまいそうで、アルは慌てて手を離した。
「あ………いや、そのっ…」
「…アル……さん?」
自分でも、なぜそうしたのかわからない行動に――――アルは表情を取り繕うこともできずに動揺する。
きょとん、と首を傾げるピアニィの表情に、ひとつだけ言わなければならないことを思い出した。

「――――――あぁ、えっと、その……なんだ。…………あんたが無事で――――よかった」

しどろもどろになりながら、軽く視線を逸らして。アルが呟いた無骨な言葉に――――ピアニィの顔に、花開くように朱が広がった。
「……………っ…あ、あぅ……ありがとう…ございます………………えと、じゃあ、あの…し、失礼します!」
「――――――――………」
ぴょこりと礼をしたピアニィが、起き上がる勢いのままに駆けて行く。
それを追うように、集まっていた小鳥達が一斉に飛び立った。
―――――ピアニィの腕を掴んだ掌が、少し熱い。
その手を一度、強く握り締めて――――ひとつ息をつき、アルは邪念を振り払うように剣の柄に手をかけた。


……それを二階から見る、二組の目があったとも知らずに。

「………………え〜〜〜〜〜〜っと……ツッコミ入れて良いんでやんすか?」
「野暮なことはしない方が良かろうな。馬に蹴られたいかね?」

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