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スポーツ選手の心の汚さ

 スポーツ、特に対戦相手と直接戦う競技って、ある程度心が汚くないとやってられないと思うんです。スポーツっていうのは押し並べて人と戦うもんですが、ここで念頭に置いているのはゴルフみたいに「ひたすら自分との戦いで、あとはその結果が人と比較されるだけ」というようなものでなくて、対戦相手と同じフィールドに立って、対戦相手と直接相対するスポーツです。代表的なのは、野球・サッカー・バスケみたいな対戦型の球技です。

 これらのスポーツでは、心が汚い人がのし上がれる仕組みができています。といっても、サッカーにおけるシミュレーション(ファウルを受けたフリのことを指します)とかそういうレベルの汚さの話じゃなくて、もっと手前のレベルの話です。

 筆者は運動全般が苦手なので、学校の体育ぐらいでしかこれらのスポーツをやったことはありません。運動が苦手な筆者でも、バスケやサッカーにおいてたまたまゴールに近い位置でボールをもらって、シュートを試みたぐらいの経験はあります。それなのに、対戦相手は、人がシュートを撃とうとしているのを邪魔してくるのです。本当に心が優しい人だったら、人がシュートを撃とうとしているのを邪魔はできないと思うのです。でも勝利のために、敢えて人の邪魔立てをしようという汚穢な心で、人の邪魔をしてくるのです。
 このような例は、枚挙に暇がありません。逆に自分を邪魔してくる相手がいたら、相手をペテンにかけるためにフェイントみたいなことをする必要があります。体のぶつかり合いも厭ってはいられません。遠慮してコースを譲ったらこっちが負けるので、相手を押しのけてでも前進する気概が必要です。勝利のためには、明らかに自分より実力の劣る相手でも手を抜いてはいけません。大量に点差が付いた試合でも、得失点差みたいなものが絡んでくる状況では心を鬼にして点を取り続けられる奴の方が上にいける可能性が高くなります。筆者なんか、サッカー日本代表がアジアの弱い相手に大量の点差をつけて勝っている状況だと、相手が可哀想になってそれ以上見ていられなくなります。でも、それではダメなのです。
 サッカーやバスケのプロの世界で栄達できる人は、みなこの種の心の汚さを持った人間(加えて、いい意味で痛みと恐怖に鈍感な人間)だと筆者は考えています。じゃなきゃ、あの厳しい世界で生き残れません。

 スポーツの起源は戦争だという言説も頷けるところであります。陳腐なことを言えば、人間にはこの種の闘争心というか、他人を蹴落とすためにある程度のことをやる汚い心を持てるような仕組みが備わっていてるのでしょう。

 この闘争心を否定するつもりはありません。これを「汚い」と評価するのも早急というものでしょう。体育やスポーツだけじゃなくて、勉強の世界にだって競争はあって、「相手を蹴落としてやる」という気概が必要になってくる場合もあるでしょう。人間がみなこういう闘争心を持っているから、お互いに争いあって社会が発展してきた側面もあると思います。資本主義っていうのは、それを肯定する考え方だと思います。

 筆者が言いたいのは、「スポーツは汚いから学校で教えるな」ということではなくて、その汚さを明示的に教えていないから子供が混乱しているのではないかということです。学校では、一方で道徳教育などで人に優しくあれと教える一方で、他方で体育の時間で他人を蹴落として勝利することを教えます。といっても、体育の時間ではこのような汚さもある種肯定されるということを明示的には教えてくれません。それは、両者の間に致命的な矛盾があって、双方を明示的に教えると説明がつかなくなってしまうからでしょう。子どもは、この矛盾に直面するとフェイタルな混乱に陥って、フリーズしてしまうのです。現に筆者も、学校が一方で他人に優しくあれといい、他方では他人を蹴落として勝利せよと二枚舌を展開することに混乱した人間の一人です。何で、人の邪魔をしてまでシュートを止めてくる汚い奴が体育では高い評価を受けられるのかが、よく分かりませんでした。

 「人に優しくあれ」というのも絶対的な価値観ではなくて、こういう汚さが時には必要になるということを、もっと子どもに分かるように教えた方がいいのではないでしょうか。

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