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大日本人

 2024年3月11日に本稿を書いています。『しんぼる』の次に本作を見ました。

 松本はウルトラセブンが好きだと公言していますが、そんな彼が子どもの頃から慣れ親しんでいる特撮巨大ヒーローに材を取った映画になっています。主に描かれているのは、そんな巨大ヒーローたちの裏の部分です。「原典」となった特撮ドラマで描かれているのが、ヒーローたちがかっこよく怪獣を倒していく光の部分だとすれば、本作がスポットを当てているのは彼らの日常生活の部分です。いわば、元ネタの特撮ドラマでは編集で切られている部分と言ってもいいでしょう。
 映画はモキュメンタリー方式になっており、松本演じる大佐藤(だいさとう)と、彼に密着しているインタビュアーとの(「情熱大陸」的な)一問一答が本作の大部分を占めています。ヒーローの裏側のバックステージの部分に着目するという発想は実にお笑い的で良いです。今ではもうコントの設定としてはありふれたものになっているでしょうが、本作が公開された2007年当時はまだ新鮮味もあったことでしょう。おもしろいことは、光の当たる部分の周辺にあるのです。ドラえもんを題材にネタを作るのであれば、ドラえもんやのび太のことはいったん脇によけておいて、ジャイ子やドラミや出木杉やセワシに着目すべきなのです。あるいは作品ごとずらしてコロ助やオバQに焦点を当ててもいいかもしれません。花火大会に行ったら花火を見ずに、少し視線を落として花火を見てる客を観察してみるべきなのです。

 こういう「ズラしの視点」の作り方において松本の発想力は図抜けたものがあります。本作も、ヒーローの日常生活に着目するという大元の発想は大いにありだと思います。ただ、その後の細かい部分を見ていくと、松本にしては1周目の発想に終始している感は否めません。劇中の大佐藤は、良くいえばとても質素、悪くいえばとても落魄した生活を送っており、家の壁に心無い落書きがされていたり、場末のスナックでかなり年配と見受けられるママと乱痴気騒ぎをしていたり、妻と離婚していたり、認知症の祖父の介護に追われていたりといった模様が描かれています。ただいずれも、ヒーローにそういう人間臭い面があるという意味では意外性があるのかもしれませんが、落魄した人を描写するための要素として見たときには、とても普通です。こういう時の大喜利ではぶっ飛んだ発想力を出せるのが松本のはずなのに、1周目までの発想で止まってしまっているのです。にもかかわらず家の落書きなどはいちいちアップで撮った画を挿入してくるので、見る方としては辟易してしまいます。そんなにアップで見せるほどのおもしろ要素とは思えないからです。この手の分かりやすい「落魄」要素は単なるフリとしてサラッと流し、もっと周辺的でもっと些末なポイントにスポットを当てるべきです。一言で言えば、「このヒーロー落ちぶれてるな……なぜそう思った?」という大喜利を徹底的に練り抜いていないのです。このお題に対する回答としてこの映画に散りばめられた色々な要素を見てみると、「離婚している」とか「場末のスナックで騒いでいる」とか「家に『死ね』と落書きされている」とかは全て、IPPONグランプリなら4〜5点に止まる回答でしょう。冒頭に見られた「冷ややっこに増えるワカメをかけて食べる」というものであれば7点ぐらいあげられるので、それのもっとクオリティが高いやつをもっともっと増やして欲しいのです。それこそ、ガキの使いで「我が田中」が見せた黒い前歯みたいなインパクトのあるやつを見たかったのです。
 他方でこの映画には、笑うべきポイントを分かりやすくする演出はほとんど入りません。大佐藤の生活がいかに落ちぶれていようと、インタビュアーがいかにナメた質問をしようと、一切それに対するツッコミは入りません。そのせいで私の定義するところの「シュール」な作品に仕上がっています。「相席食堂」みたいにきちんとツッコミ能力のある芸人がこの映画を見ながら、ポイントポイントでいちいちツッコミを入れてくれたらもっと分かりやすい仕上がりになったとは思いますが、そうはなっていないので、見る方が自分でツッコミポイントを見付けて、自分でツッコみながら楽しむ必要があります。そして、一般の方にそこまでの能力を求めるのは酷な話です。お笑いの玄人であればあるほど、普段からお笑いに触れているがゆえに自分でツッコミポイントを探すのも得意になっていくので、シュールに傾倒していくきらいが強くなります。「ごっつ」の中期〜後期にかけてのコントを見ても、ツッコミは抑えめにされる傾向にあったので、松本もツッコミに頼るのは好みではなかったのでしょう。加えて言うなれば、「ごっつ」にはあったラフトラック(編集で後から人工的に足す笑い声)も本作では一切排除されています(VISUALBUMと同じです)。ラフトラックは、笑い声が聞こえてくることで「ここがおもしろポイントなんだな」というのを見る側に分かってもらう効果(+誘い笑いの効果)がありますが、それもないので、「ごっつ」を飛び越えてVISUALBUMと同列の最上級者向け構成になっているということです。そして、その点を責めるつもりは別にありません。松本がやりたいことをやったのであればそれでいいでしょう。ただ、その構成で大衆ウケもすると思っていたのであれば勘違いがあったと言わざるを得ません。そもそも高く評価されることの多い「ごっつ」のコントですら、私はこの意味でのシュールさが強すぎて、言うほどおもしろいものではないと思っています(「ごっつ」に対する高評価は、ダウンタウンと吉本いう巨大すぎる存在が作り上げた虚像だとすら私は思っています)。私が「ごっつ」のコントの中で楽しめるのは、「ゴレンジャイ」と「AHO AHO MAN」ぐらいです。両者に共通するのは、浜田がきちんとツッコミの役回りをして分かりやすいコントに仕上げていることです(奇しくも、どらも本作と同じでヒーローもののパロディです)。松本の作家性がどんどん強く出るようになって一般の方には分かりづらいコントが増えていったからこそ「ごっつ」の視聴率も落ちていったのでしょうが、その作家性を更に強めれば大衆にもウケると松本本人が思っていたのであれば、当時から既に裸の王様化が進んでいたと言わざるを得ません。

 このように浅い大喜利がツッコミもラフトラックもなく進行していく大佐藤の日常生活のシーンは、ハッキリと退屈です。中盤以降インタビュアーの質問がどんどんナメた内容になっていくので、だんだん見る側が自分でツッコミを入れるのも楽にはなっていくのですが、それでも基本的にはずっと退屈です。大佐藤もインタビュアーの質問に淡々と対応するばかりで、感情を表に出さない演技に徹しているので、悪い意味での「普通のいい人」(すなわち、密着しても撮れ高のほとんどない人)にしかなっていません。全体的にどことなくヘラヘラしているようにも見えるので、生活は落ちぶれているにもかかわらず悲愴感のようなものもイマイチ漂ってきません(そういう演技をしているというよりは、松本にシリアスな芝居ができないだけかもしれません)。インタビュアーのナメた質問に感情を露わにして憤慨すれば、それはインタビュアーに対するツッコミの役割を果たすので、即興の漫才のようなおもしろさを生みます。あるいは大佐藤を「ごっつ」のキャシィ塚本や、インストラクターコントのイントストラクターや、前述の我が田中(本作と同じヒーローものでいえば、「ごっつ」の「正義の見方」というコントで松本が演じていたヒーロー)みたいなもっとぶっ飛んだキャラクターにするやり方もあった(そのキャラクターは、生活が苦しく孤立を深めているという設定の裏打ちにもなる思います)と思いますが、そういう演出はほとんど施されていません。

 また、日常生活の合間合間に大佐藤と街に登場した獣(「じゅう」と読みます。作中では大佐藤が対峙する怪獣のような巨大生物をこのように呼称しています)との戦闘シーンが入りますが、当時の邦画の中ではクオリティが高めのCGで描かれています。「ごっつ」のコントではこういった異形はもっとチープな着ぐるみで造形されていたと思いますが、CGのクオリティだけ妙に高いので、若干かっこ良く仕上がってしまっています。そのせいで大佐藤の日常の落ちぶれっぷりとの食い合わせが悪くなってしまっており、「大佐藤に対する国民の関心が離れている」という作中の設定とも摩擦が生じています。かと思えば、クライマックスの戦闘シーンはミニチュアのセットと着ぐるみを使った昭和特撮風に撮っており、画の見た目がCGよりだいぶショボくなっています。この演出の意図は、ハッキリとは分かりません。ただ作品全体の一貫性を損ない、行き当たりばったり感を強めていることだけは確かです。また途中に板尾が演じる獣と大佐藤との漫才のようなやりとりも入ります。このやりとり自体はある程度おもしろいのですが、立て板に水で板尾と口喧嘩をする大佐藤はインタビューシーンでの朴訥さと全くキャラが合っていません。また大佐藤は、前述のクライマックスシーンでも彼を助けにやってきたスーパージャスティスというヒーローたちに若干ツッコミを入れてしまっています。この展開も、大佐藤のキャラクターや作中全体からツッコミをできるだけ排するという演出方針に合っていません。更に言うなれば、作中では「獣は自衛隊に任せればいい」という発言をする人も登場するのですが、獣の対処に自衛隊が動いている様子は一切見受けられず、大佐藤をボコボコにした獣が再登場した時には国家権力が彼の家に突入して無理やり巨大化させている描写まであるため、そのあたりの設定が緻密に詰められている様子は見受けられません。全体的に、深夜の打ち合わせのノリでその場その場で思い付いた「こうすればおもしろいんじゃね?」というアイディアを行き当たりばったりに詰め込んで尺を埋めた感は否めず、作品全体に一本通っている筋のようなものが見受けられません(次作『しんぼる』はその傾向がより強くなっています)。

 あっ、大佐藤について街頭インタビューを受ける人たちの演技はとても自然で良かったと思います。
 本稿を書いているうちに改めて思いましたが、やっぱり主演を田中にして「我が田中」風なキャラクター造形の大佐藤を描くのが一番良い気がしてきました。田中であれば、松本と違ってきちんと涙と狂気の芝居を両立させることができます。

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