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しんぼる

 2024年3月8日に本稿を書いています。

 松本人志の活動休止を受け、私なりに松本人志という存在を総括する良いタイミングではないかと思ったので、まずはそれまでずっと避けていた彼の映画4本を見てみることにしました。手始めが、一番評判が悪そうでなおかつ一番オチが気になった本作です。

 物語は、メキシコの覆面レスラーの家庭模様と、謎の白い空間に閉じ込められたパジャマ姿の男(松本人志)を並行して描いていく形で進められます。メインは、後者です。このパジャマ男のシーンは、映画の『キューブ』に似ているという声もあるようですが、私が一番似ていると思ったのは、藤井健太郎が水曜日のダウンタウンその他諸々で手掛けている数々の脱出企画です。もしかしたら、藤井氏もこの『しんぼる』から何らかの着想を得たのかも知れません。
 ところが、おもしろさは藤井健太郎作品の方が何倍も上です。後発の藤井作品と比べるのも卑怯なのではありますが、しんぼるが完敗しているのは動かしようのない事実です。藤井作品の方は、閉じ込められる側(主には芸人)をマジで拉致監禁しているため、彼らが真剣に脱出しようともがくことでおもしろさが生まれています。その中で生まれる憤りや、脱出の試みが失敗した時の懊悩・絶望、また不意に発生するハプニングの(いい意味での)しょうもなさは実に真に迫るものがあり、その迫真性が見る者を惹き付けるのです。無論、テレビその他の映像媒体での企画である以上、どこまでがマジのドッキリなのかは疑う余地がありますが、閉じ込められている芸人の鬼気迫るリアクションには、彼らの真剣味を疑うような要素は一切見受けられません。編集でそこに疑わしさを生じさせるようなシーンは切っているということかもしれませんが、そういう編集を徹底できるのもクリエイターの技だと思います。
 他方で『しんぼる』は、完全なフィクションなので、こういった真に迫るリアクションをお芝居で出す必要があります。にもかからわず、主演俳優・松本人志の演技力は必要な水準に達していません。本当に、遠藤や陣内を嘲笑っている場合ではありません。彼が状況に絶望してして叫んだり、脱出に近付いて喜んだりするたびに、大仰な大根芝居に背筋が寒くなります。おそらくシリアスで玄妙な芝居ができないので、大声や大袈裟なリアクションといった分かりやすい「記号」に頼らないと心情の表現ができなかったのではないかと推察されます。藤井作品で閉じ込められた芸人たちが見せる複雑微妙で豊かな表情変化の迫真性とは比べようもありません(ちなみに私は、メキシコのシーンの方も全体的に大根芝居だと思いました。スペイン語なので確実なことは言えませんが)。
 またこの白い部屋は、壁や床に無数のスイッチ(子どもの男性器を象ったもの)が生えており、このスイッチを押すと何かが出てくるという仕組みになっています。スイッチごとに何が出てくるかはきっちり決まっており、例えばある場所のスイッチを押すと決まった場所から菜箸が一膳出てきます。そのスイッチを何度押しても、同じ場所から菜箸が一膳ずつ出てくるだけです。他にもすることもないパジャマ男は色々なスイッチを押して何が出てくるかをひとつずつ確かめていくのですが、前半は、益体もない物の出現が繰り返されるので、「脱出ゲームでこんなアイテムを手に入れても役に立たない」というお題の大喜利を見せられているという側面が強いです。大喜利ひとつひとつのクオリティについては個々人の好みが大きいので詳述はしませんが、まず出てくる無益な物たちの無益さにツッコミを入れているのが当の松本本人なので、そのせいで全体的にスベってしまっています。その理由は簡単です。本作を見る側としては、この大喜利ひとつひとつの中身(=ボケの回答)を考えているのは監督であり脚本も兼ねている松本だと判断するので、「自分のボケに自分でツッコんでいる」という構図が出来上がってしまっているためです。自分でボケてそれに対して自分でツッコむと、鉄板でスベります。嘘だと思う人は、人前で「布団が吹っ飛んだ! なんやその古典的なダジャレは!」と一人で叫んでみてください。
 個々のボケに着目してみても、まず「漫画の6巻だけ出てこない」というボケについては、非常にご都合主義的で説明的になってしまっています。このシーンは、5巻を読み終えたパジャマ男が次巻を求めてスイッチを押すと、なぜか7巻が登場し、その後別のスイッチを押していくと8巻と9巻が順に出てくるという流れです。パジャマ男は、「スイッチを押すと何が起こるか」という情報を(実際に押してみるまでは)一切持っていないはずなのに、「6巻だけ出てこない」というボケを成立させるために、7巻〜9巻までのスイッチはなぜかピンポイントで当てられているというおかしなことになってしまっているのです。そのうえ、この漫画のクダリの最後に出てくる黒人(その後何度か再登場します)も、ポリコレに配慮せよと言うつもりはありませんが、アレがおもしろさの要素を構成できていると考えているならば、あまりに安易で牧歌的に過ぎると言わざるを得ません。松本は、「ガキの使い」等で2000年代前半ぐらいまでは黒人をギミックとして多用していた(アフリカ中央テレビ等)ので、黒人そのものにおもしろさの要素があると考えている節がありますが、海外ウケを狙うのであれば黒人を笑いの種として用いることが海の向こうでどう思われるかを踏まえたうえで慎重に構成をする必要があります。
 さてパジャマ男が色々なスイッチを押してもがいているうちに、床に設置されているスイッチのひとつを押すと脱出のための扉が押している間だけ開くことを発見し、空間内に溢れた様々な物を使ってそのスイッチを押しっ放しの状態にできないかと奮闘することになります。ここからこの映画は真剣な脱出ゲームの様相を呈していくのですが、まずパジャマ男は別のスイッチで出していた壺で脱出扉のスイッチを押さえつけようとします。この壺は、子どもの背丈ほどもある大きなもので、それ自体で十分重そうなのですが、パジャマ男はなぜかその中に水を入れて重さを増やそうと苦心惨憺します。空の壺だけでは重さが足りなかったのかもしれませんが、それをきちんと描写してくれないので、見る方はパジャマ男のピント外れの努力をポカーンと眺めることになってしまいます。この事態を避けるためには、「空の壺だけでは重さが足りず、スイッチが固定できない」ということをきちんと観客との共通認識とするためのカットが不可欠です。またこの壺が、先述の黒人の軽めの膝蹴り一発だけ真っ二つにで割れてしまうのも全く納得がいきません。そんな脆そうな壺には見えないので、過度にギャグ漫画チック(「アメリカのカートゥーンのよう」と形容してもいいかもしれません)になっており、非常に白々しいです。
 またその後には松本が部屋の中央から垂れてきたロープを使い、ターザンのように部屋を行き来することになる(=そうやって素早く移動しないと解けない脱出ギミックが登場する)のですが、それに成功するクダリではカットが細かく割られており、「成功したように見える映像を作っただけだな」というのが一発で分かります。藤井作品で苦心惨憺して困難な脱出を成し遂げたパタパタママや落とし穴の尾形と比べれば、その作り物感は非常に強く、やっぱり鼻白んでしまいます。
 また真剣な脱出ゲームになってからも、パジャマ男はいちいちコミカルな感じで「無理やな」と言ってみたり(こちらも真っ二つの壺と一緒で、アメリカのカートゥーン風の演出だと私は思いました)、彼が音楽に合わせて指パッチンをしながらアメコミ風の絵でその考えを説明したりする演出が入るのですが、いずれも余計だと思います。脱出ゲームの真剣味を削いで観客の心の置き所が惑わされるだけなので、その手のおふざけは要らないでしょう。特にこういうコミカルな演出の時に限って松本の演技は徹底しておらず、そのふざけた表情に若干の照れが混じっているように見えました(特にアメコミ風の絵の隣で指パッチンしている時の表情は、アップなうえに何度も使い回されるので見ていられません)。見ている方にも松本本人の照れが伝わって目を背けたくなるので、求められる演技ができないのであればそんな演出はすべきではないでしょう。

 さて、このパジャマ男のシーンと並行する形で散々フリとして見せられたメキシコのシーンがどう交錯してくるか、また本作のオチをどのように付けるのかは、芸人・松本人志の大喜利力と発想力を見せる絶好の機会だったと思いますが、前者はメキシコシーンのフリとしての長さに比較すれば悪い意味でしょうもなく、後者はワケが分からないだけでした。後者については、見た側に深読みを強いるような画作りをしてはいますが、何か伝えたいメッセージがあるのであれば映画を作るのではなく直接それを言えばいいだけだと思います。無論、直接言葉で伝えるよりも、映画で画作りをした方がメッセージの訴求力が上がる場合はあるのですが、本作ではその意味での訴求力を生ぜしめるような圧倒的な画作りはできていないと思います。またそういう動機で映画を作るのだとしても、後で「あれはこういう意味だったんだよ」という答え合わせをしてあげる必要があると思います。松本は本作の解釈を見た側に委ねるというようなことを言っていたようですが(この情報のソースが示せないので真偽は不明です)、これは答え合わせを放棄したということであり、要は、フリのシーンを延々と作ってきたにもかかわらずその長いフリに見合うような圧倒的なオチを思い付かなかったんだと思います。最後の最後に出てきた巨大な男性器スイッチを押す前にスタッフロールに入ってしまったのも、押したらどうなるかを思い付かなかったことの証左だと思います。意味ありげなだけのクライマックスを流して誤魔化し、その意味も説明せずに逃げ回っているという意味では、夢オチや爆発オチと同水準の、最低レベルのオチです。私もフリの展開だけ思い付いた4コマのオチが思い付かずにこうやって誤魔化すことは多々あるので気持ちは分かるのですが、不誠実極まりない態度であることは言うまでもありません。現にこの映画は、脚本を完成させずに見切り発車で撮影を開始したそうじゃないですか(こちらもソースが示せないので真偽は不明です)。
 メキシコのシーンやら、意味ありげなクライマックスやら、途中のアメコミ的な画やらカートゥーン的な演出やら、あるいは屁といった妙に分かりやすい(=大喜利としてのレベルは低い反面、下ネタであるがゆえに老若男女問わずなおかつ万国共通で理解可能)ボケも含めて、本作に散りばめられた諸々の要素を見ていると、やっぱり松本は海外ウケを狙っていたのではないかと思えてきます。あるいは、知識人から芸人ではなく芸術家としての支持を得たかったのかもしれません。そして、昨今の報道を見ていると、芸術家としての支持を得たうえでの松本の最終目標は、「モテること」だったのではないかと推察されます。ここに来て、点と点が繋がったのです。確かにダウンタウンがテレビメディアを席捲する前は芸人はまだまだ芸能人の中でも差別された存在であり、若かりし頃のダウンタウン本人もそういう扱いを受けていたのは想像に難くありません。ゆえに彼の気持ちは分かってあげたいのですが、松本のそういった(文字の通りの)助平心のせいで、本作では松本人志の作家性がかなりの程度希釈され、松本ワールドの個性が死んでしまっていたのは否めません。その意味で、松本の作家性が全開だった『大日本人』と比べても、普通の駄作に成り下がってしまっています。
 もしも松本が活動休止の原因になった疑惑を払拭し、芸能界に復帰できることがあったら、一発目の仕事として藤井健太郎に閉じ込めてもらえばいいと思います。脱出するためにもがく松本をワイプで見ているおぎやはぎに、「しんぼるより全然おもしろいよ」と言ってもらいましょう。そこまでやれば、世間も納得してくれると思います。もちろん、「疑惑を払拭したうえで」というのが大前提ではあります。
 嫌だと言うなら、浜田も一緒に閉じ込めてもいいですよ。第1ステージは松本ソロでの脱出ゲームで、それを抜け出たら終わりかと思ったら実はまだまだ序の口で、今度はダウンタウン2人での第2ステージに突入するという構成でもいいかもしれません! 本作を参考にしました!

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