87 名前:アルカディア ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:31:36 ID:rhB2Esw2 [2/14]
88 名前:胡蝶の夢・前編/2 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:32:54 ID:rhB2Esw2 [3/14]
89 名前:胡蝶の夢・前編/3 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:35:33 ID:rhB2Esw2 [4/14]
90 名前:胡蝶の夢・前編/3 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:38:01 ID:rhB2Esw2 [5/14]
91 名前:胡蝶の夢・前編/5 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:41:50 ID:rhB2Esw2 [6/14]
92 名前:胡蝶の夢・前編/5 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:47:03 ID:rhB2Esw2 [7/14]
93 名前:胡蝶の夢・前編/7 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:48:47 ID:rhB2Esw2 [8/14]
94 名前:胡蝶の夢・前編/8 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:51:56 ID:rhB2Esw2 [9/14]
95 名前:胡蝶の夢・前編/9 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:54:26 ID:rhB2Esw2 [10/14]
96 名前:胡蝶の夢・前編/10 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 22:56:01 ID:rhB2Esw2 [11/14]
97 名前:胡蝶の夢・前編/11 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 23:00:36 ID:rhB2Esw2 [12/14]
98 名前:胡蝶の夢・前編/12 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/08/17(火) 23:01:35 ID:rhB2Esw2 [13/14]

 いつだったか、わたし荘周は、夢で胡蝶となった。
 ひらひらと舞う胡蝶だった。心ゆくまで空に遊んで、もはや荘周であることなど忘れ果てていた。
 ところがふと目覚めてみれば、まぎれもなく人間荘周である。
 はて、荘周が夢で胡蝶となったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。



 胡蝶の夢。


                  アルカディア

 この狭い部屋に閉じこもってから、一体どれだけの年月が経っただろう。
 仮令どれだけの時が流れようと、外の世界がどれ程遷ろうとも、この私にとっては単なる数字の変化でしかない。
 ゆっくりと明滅するモニターの明かり。ただそれが、私をこの世界に縛り付けている幽かな縁だ。
 数字の変化だけが、目まぐるしく私の中を通り過ぎていく。
 私という存在に触れるものは既に無く、他者と結びつくのは常に、電子空間に擬似的に構築された『私』だ。
 この狭い部屋で、私は機械越しに外の世界を覗き見る。0と1のみで構成された色の無い世界。
 その数値を、常にベターな状態に保ち続けることが私の目的であり、課せられた唯一の使命でもある。
 増減する数値を、予測不能な関数によって変化するグラフを私はじっと凝視する。
 遥かな昔―――まだこの部屋に閉じこもる前は、この作業の度に目元の疲れから頭痛を催したものだが、もうそんな苦痛はない。
 どれだけこの作業を続けようと、微塵の疲労すらない。
 ―――否、眼の疲労という感覚がどんなものだったか、それすらも曖昧だ。
 そんなものは、とうに切り捨てて久しかった。
 増減を続ける数値、小刻みに変動するグラフ。
 それらは不安定に揺れ動きながらも、長い周期で見るなら確実に増加と安定の一途を辿っている。
 時折紛れ込む小さな不確定因子によって予想不可能な振動は起るが、振れ幅は回数を重ねるごとに小さくなっていく。
 しかし、ごく稀にであるが、カタストロフィーと呼べる程の大きな振動が、予測不可能なカオスが数値の変化に紛れ込むことがある。
 そんな時こそ、私の仕事だ。早急に問題を解決し、数値を元の安定した状態に回復させる。
 この機械を通して、私の意志をこの複雑怪奇なグラフに介入させることによって、恒常性を保つのだ。
 私の意志の介入は、時に一時的な数値の振動を乱すことがある。
 だが、一時的なノイズなど、一顧だにする必要はない。
 私の使命は長期的な視点による安定へと導くことだからだ。
 
 
 ―――そうして、私は今日も、暗く狭い部屋で、機械越しに外の世界を覗き見る。
 毎日同じことの繰り返し。仮令、機械がどんなに大きな事件の発生を告げたとしても、所詮は画面の向こうのことに過ぎない。
 俗人は、それを退屈と呼ぶだろう。
 しかし、私は長きに渡るこの生活で、退屈などただの一度も感じたことはない。
 これは私の崇高なる使命であり、この仕事に就いているのは、私が真に選び抜かれた人間である証明でもあるからだ。
 同輩は二人。
 プライベートの言葉を交わすこともないが、私と同じ使命に勤しむ同志達である。
 私達は、それぞれが自分の部屋に閉じこもり、決して触れ合うことはない。
 それでも、きっと心は繋がっているだろう。
 ただ一つのものを目指して、今日も共に働いているのだから。





 ―――夢を見た。若き日の夢だ。
 若い私は魔導師で、愛用の魔杖を片手に縦横無尽に青空を翔けていた。
 少しだけ、驚いた。自分にまだ『夢を見る』という機能が残っていたなんて。
 仕事の合間にとる、機械的な休息。そこに解緊の安堵を感じることはあっても、レム睡眠に陥ることなど無かったのに。
 最後に夢を見たのは一体いつのことだったろう。
 夢というのは、目覚めてしまえば泡沫のように消え去っていくものでは無かったか?
 確かに、そんな儚いものの筈だ。現に、先ほどの夢は端から輪郭を失い、後に残るは青空で風を裂く鮮烈な感触のみだ。
 そう、冷水に指を差し入れたような、爽やかな快感な残滓。
 所詮は夢の筈のなのに、その感触が体から離れない。
 あの夢で、私は空を翔けていた。どこかを目指していた。
 辿り着きたい場所があった。だが、あと僅かのところで、夢は醒めてしまった。
 あの夢で、一体私は何処を目指していたのか? それが、知りたくて堪らない。
 あと、僅かで辿り着けた筈だったのに。

「簡単なことです。もう一度飛べばいいのですよ、空を」
 
 軽い気持ちで私が相談すると、その男は金の狂眼を爛々と輝かせて答えた。

「夢占いなど私の専門ではありませんが、これだけは、断言することができます。
 ええ、無限の欲望たる私だからこそ、断言できる。
 ―――その夢こそは、貴女の願望。貴女の欲望に他なりません。
 貴女は飛びたいのです。再び空を。そして、飛ぶべきなのです、貴女の願うままに、大空を!」

【やけに嬉しそうじゃない、狂人】

「嬉しいですとも。正直に申し上げると、貴女は御三方の中で最も退屈な方だと思っていたのですよ。
 私は、他の御二方にはそのご所望されるものを全て差し上げて参りました。
 簡単なことでしたよ。何しろ、貴女方は余分な肉の重みを全くお持ちにならない方々だ。
 美食・セックス・書物・音楽・ドラッグ・スポーツ・映画・アルコール。
 この世の快と呼べるものは全て電子的に摂取できる便利な方々だ」

 大げさな手振りで羨むような事を言うが、男の視線からは明確な蔑意が見て取れた。
 別段、怒りはない。この男が忠実な道具である限り。

「だのに、貴女はそれらの一切を所望されず、一心にお勤めに邁進されたきた。
 余程、地位欲や支配欲がお強いのかと邪推致しましたが、そんなご様子でもない。
 いやはや、まことに頭の下がる働きぶり。
 しかしながら―――無限の欲望として作られた私には、欲の無い人間ほど退屈なものは御座いませんので……」

【つまり、私も電子的に空を飛ぶのを疑似体験できるのね】

 二人が仕事の合間にそのような他愛も無い娯楽に身を委ねていたのは知っていた。
 別段、感想はない。二人とも必要十分な仕事をこなしている。余った時間をどう活用しようが個人の自由だ。
 いや、むしろ、個というものがすっかり薄くなってしまった私達の中で、楽しむべき娯楽があるというのは羨むべきことかもしれない。

「いえいえ。これまで一切の欲に溺れることが無かった貴女が欲されるとは、それは、相当に大きな欲望に違いありません。
 電子的な疑似体験などでなく、もっと明確で、鮮烈で、強烈な体験をすべきでしょう。
 そう、貴女は本当に空を飛ぶのです!」

【不可能よ、そんなこと】

「あらゆる知識を貪り、不可能を可能にするために製造されたのがこの私。
 この程度の不可能を可能と出来ずして、どうして無限の欲望などと名乗れましょう。
 確かに、貴女の脳は余りに老いている。
 私に出来るのは、貴女の魂、自意識と記憶と思考力を保つのみ、これが精いっぱいなのです。
 感覚や身体操作を司る部分はほぼ壊滅と言ってもいいでしょう。
 クローン体に移植したところで、指一本動かせない生きた死体も同然です」

 くっ、くっ、と男は嗤う。その笑みがどれ程嘲笑に満ちたものでも、私には何の関心もない。
 入力されるのは、男の笑い方を示す情報の群れなのだから。

【では、どうするの】

「簡単なことです―――体を手に入れるです。脳ごと、丸ごと。
 優秀な魔導師を出来るだけ傷つけないように捕獲し、脳に電極を差し込み、遠隔的に貴女の肉体とします。
 記憶野をライブラリとして閲覧できるように接続することにより、魔導師の肉体のみならず、感覚も、身体操作能力も、リンカーコアも、魔力も、戦闘経験も、全てが使用可能となります。
 つまり、貴女は其処に居ながらして―――その魔導師の人生の全てを、貴女のものとするのです」

 激しい高揚を感じた。
 生化学的に制御されている筈の私の感情が、心臓という臓器を持っていた頃のように高ぶった。
 出る? この狭い部屋から? 否、私には使命がある。崇高な使命が。
 だがしかし、忘れて久しい肉体の感覚を再び味わうということに、抗しがたい魅力を感じた。
 男は語る。

「何、今まで貴女は誰よりも働かれきた。そう誰よりも長く、長く。
 ここらで少々のバカンスをとったて、罰は当たらないでしょう。
 最上級の魔導師の肉体を用意しましょう。強く、美しく、社会的地位を持った魔導師の肉体を。
 貴女は、彼女となって再び現世へ舞い戻るのです。
 管理局で地位を持つ魔導師を用意します。彼女となって、再び民を率いて戦ってみませんか?
 もう一度、英雄となって皆に讃えられるのです。貴女ならできますよ。
 旧暦の時代に次元世界を平定した大英雄、聖杭のフロイライン、貴女なら」



     ◆

 部屋に用意された処置台に眠る彼女の全身を、私は余すところ無く観察した。
 10台後半の若々しい体、健康そうな均整のとれた肉体。栗色の長髪は解けて床に広がっている。
 全身には打撲や傷などの、激しい戦闘の名残が見れ取れた。
 後頭部の切開と電極の埋め込みは終了し、縫合と隠蔽処置は終了していた。
 その顔は―――顔立ちについては、特に感想はない。
 まあいい。彼女の脳を使用すれば美醜に対する主観的な判断基準も発生するだろう。

「いやはや、捕獲に随分手間どりましたが、最高の素体が手に入りましたよ。
 高町なのは、今若手で注目を集めているSランク魔導師。管理局の麒麟児ですよ。
 全く素晴らしい、予想以上の能力でした。稼動している戦闘機人が総がかりで、やっと捕獲することができましたよ」

 高町なのは―――ここ数年、着々と力をつけている有名な魔導師だ。
 単体で戦略レベルの強大な砲撃魔法を有し、何より。
 我々の現在の計画の阻止を目的として結成された部隊、機動六課の隊長の一人ではないか。
 つまり、この男は、私を敵のただ中に投げ込もうとしているのだ。ふざけた話だ。
 全くふざけているが、理に適った行動でもある。これ程の魔導師を秘密裏に戦力とすることが出来るなら、天秤を大きく傾けることができる。

「それでは、接続処理を開始します」
【後の事は任せたわ】
「お任せ下さい。御二方の話相手は、私の作った擬似人格に任せておけば大丈夫でしょう。
 ―――それでは、良いバカンスを」

 金の狂眼を輝かせて、男は嗤う。そして―――唐突に、私の意識は途切れた。



     ◆



「―――っうう……」


 眩暈を感じ、頭痛を抑えるようにして私はよろよろと立ち上がった。
 処置は終わったのか? ここは一体何処だ?
 太陽は頭上高くで赤く、赤く、燦々と輝いている。
 眩しい、熱い。
 ……眩しい? ああ、これが、眩しいという感覚、そしてこれが―――空を仰ぎ―――光というものだと言うことを思い出した。
 瞬間、感覚の激流が襲いかかってきた。
 息を吸い込む、乾いた砂っぽい大気が鼻腔を通って喉から肺を満たす、どこか饐えたような匂い。
 唾を嚥下すると、乾いた喉が僅かに潤う。強い光にくらりと眩暈が、目蓋を瞬かせると、世界が明滅した。
 肌を一筋の汗が流れ落ちる。自分の体臭、首筋にべったりと髪が張り付く感触。
 風の音、空を行く鳥の声、まだ平衡感覚が覚束無い、揺ら揺らと世界が揺らぐ、足を踏みしめると爪先が砂を掻き分け、ほんの僅かに世界が安定した。
 背筋を伸ばす。ぽきぽきと脊椎が盛大に鳴る。なんて形容し難い快感!
 全身に鋭い違和感、痛い、ああ痛い。高町なのはが捕獲された時に与えられた傷だ。
 痛い。思い出した。これは戦いの痛みだ。痛みと共に蘇る戦闘の記憶。
 この痛みに屈して僅かでも判断を鈍らせれば即座に死が訪れる極限の日々。
 掌を握る。開く。握る。開く。握る開く握る開く握る開く握る開く握る開く握る開く―――。
 ああ、動く。動く。動く!!!

「ああああああぁあぁあああぁぁああぁ!!!!!!!!」

 私は、天に向かって絶叫した。
 それは、ちっぽけな不自由な肉の檻へ閉じ込められた悲哀の慟哭であり、無機質の部屋から抜け出して新生した歓喜の産声だった。
 足元の砂を掴んで放り投げる、風に流された砂が顔にかかって噎せ返った。大笑いした。
 子供のように五体を地面に投げ出して、手足をばたつかせた。
 楽しかった。
 体だ。私の体だ。
 全身の痛みは酷い。高町なのはの、否、私の体はかなりのダメージを受けているようだった。
 だが、その痛みすら愛おしい。
 これぞ体だ。この足で駆け、この手で握り、この目で見て、この舌で味わい、この耳で聞いて、この鼻で嗅ぎ。
 そう、そしてこの体で空を翔けるのだ!

 布に水が染み込むように、血液が全身を循環するように、私の感覚が高町なのはの体に重なっていく。
 一体となっていく。
 この私は今、確かに世界を感じている。だがその実、この世界を感じているのは高町なのはの脳だ。
 私は高町なのはが好ましいと思っていたものを好ましく感じ、高町なのはが不快に感じていたものを不快に思う。
 あの狂人は言っていた。その匙加減が難しいと。
 私には、感じるという機能は殆ど残ってはいない。
 高町なのはの脳を使用しなければ、世界を感じることは出来ない。
 だが、完全に高町なのはの感覚・判断に追従し、高町なのはの記憶を使用して世界を見るなら、それは私が高町なのはであるのと同義だ。
 私が、『この私』として世界を感じるために、高町なのはの脳の使用は出来る限り抑制しなければならない。
 狂人は脳に電極を埋め込む際に、抑制のための改造も行うと告げていたが―――。

「なのはさんっ!」

 遠くで、叫び声が聞こえた。
 振り向くと、遠目にショートカットのボーイッシュな少女が大きく手を振っているのが見えた。
 彼女は空中にフィールド魔術の応用で作った道?【ウイングロード】を形成すると、ローラーブーツ型のデバイス?【マッハキャリバー】で一直線に走ってきた。
 そのまま、少女【スバル・ナカジマ】は私にぶつかるような勢いで抱きついてくる。
 彼女は子犬のように私の胸に顔を埋めて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、幼い子供のようにわあわあと泣いた。

「無事で良かった……なのはさん、ごめんなさい、ごめんなさいっ―――」
「……許してあげるわ」

 一言そう漏らした。
 私は困惑していた。私はこの見知らぬ【親しい】彼女に何か謝られるようなことがあったのだろうか。
 彼女と別れる寸前の、最後の記憶を回想した。
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ―――地には【ティアナ】が倒れ伏せ、口から血を流したスバルの体が、テルテル坊主のように揺れていた。
 猫の子でも掴むかのように、ぶらりとスバルを吊り上げているのは、何処となくスバルと面影の似た赤毛の少女だ。
 同様の格好をした数人の少女達が私を取り囲み、唇を吊り上げてスバルの体を突き出して、言外に人質だと告げていた。
 周囲には、破壊されたガジェットの断片と、戦闘の痕跡が生々しく残っている。
 突然の襲撃だった。スターズ分隊での訓練を兼ねた哨戒任務の最中、安全地帯の筈の場所で致命的な隙を突かれた結果だ。
 敵は手慣れの戦闘機人数名。狙いは明らかにスバルとティアナだった。
 先に昏倒したティアナを庇うのが精一杯、スバルを敵に攫われたのは痛恨のミスだ。ヴィータちゃんが不在なのも災いした。
 敵の狙いは、恐らく同じ戦闘機人の体を持つスバルの回収、だが、そうさせる訳にはいかない。
 わたしはどうなってもいい。絶対にスバルは取り返す。

「なのは、さん……駄目、です……」

 スバルが、薄く目を開いた。まだ意識は朦朧としているのか、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。

「この娘、返して欲しいかしら?」
 
 薄笑みを浮かべて、眼鏡をかけて機人の少女が口を開いた。

「返してあげてもいいわよ。だけど、条件付きで♪」
「……何かな? スバルを返して貰えるなら、大抵のことなら譲歩するよ。
 尤も、譲歩できないような条件なら、力ずくでも返してもらうけど」
「素敵ね。流石は噂に名高い高町なのは、流石はエース・オブ・エース。
 素晴らしい威圧感ね。怖くて背筋が震えちゃいそう!
 条件というのは簡単よ。私達の練習相手になって欲しいの。丁度いい模擬戦の相手が欲しくてね。
 つまり、貴女が私達と勝負をしてくれればいいのよ」
「それは、勝ったらスバルを返してくれる、ということなのかな?」
  
 非常に、厳しい状況だ。通信妨害のフィールドが形成され、増援要求は不可能。おまけに周囲には高密度のAMFが。
 どう考えても罠に違いない。それでも、スバルを返してもらうためには、踏み越えてみせる。

「勝ったら、なんてケチなことは言わないわ。貴女が勝負の土俵に立ってくれたら、その時点でこの娘はお返しするわ」
「……?」

 何だろう。相手の要求が見えない。一体何を企んでいる?
 
「どういうつもり?」
「深い意味は無いは、私達戦闘機人は、悪ふざけが大好きなのよ」

 くすくす、と押し殺した笑みが少女達の間から上がった。……このままでは、埒が開かない。

「受けるよ。だから、スバルを返して」
「……駄目です、なのはさん、絶対、何かの罠です―――」

 そんなこと、とうに予想はついている。それでも。
 わたしは、投げ返されたスバルの体を抱きとめる。わたしが約束を破って逃げ出さないように、砲撃タイプの機人が目を光らせていた。
 
「スバル、今からティアナを担いで、ここからマッハキャリバーで全速力で離脱して。
 通信妨害のフィールドの外に出たら、すぐはやてちゃんに連絡、できるよね」
「そんな、駄目ですよ! なのはさんを置いて逃げるなんて! 無理です、あたしにはできません!」

 戦うなら傍で一緒に。涙を流しながらそう哀願するスバルの頭を、そっと撫でた。
 思わず微笑んでしまう。本当に、心の真っ直ぐな、優しい、良い子だ。

「きっと、三人一緒に戦っても、勝てる見込みは薄いわ。逃がしてくれそうにもない。
 だけどスバル、あなたが応援を呼んできてくれたら、きっとそれも覆る、わたし達の勝ち目も出てくる。
 大丈夫だよ、防御に徹していれば、そう簡単に撃墜されたりしなから。
 だから、お願い。スバル。あなたが行って、わたし達を助けて」

 優しい言葉の中にも、言外にこの状況に足手まといは要らない、という非情の意思を籠める。
 冷たいようだけど、きっとこれが、スバル達が助かるための最善の策。
 スバルは涙の浮かんだ瞳でわたしを見つめ、一度だけ大きく頷いた。
 そして、倒れたティアナを担ぎ、ウイングロードを展開して矢のように飛び出した。

「すぐ戻ります、なのはさん、どうか、ご無事で!」

 スバルはもう、振り返らなかった。
 未来のストライカーを微笑みめいたもので送りながら、わたしは機人達に振り返った。

「約束は守るよ。じゃあ、始めようか」
「ええ」

 眼鏡の機人は意地の悪い微笑みを浮かべる。

「私達7人、全力でお相手させて頂くわ。
 ……それでも、今の貴女には突破されかねないから、少しだけハンデをつけて貰うけど」

 周囲から、雲霞のように湧き出すガジェット群。
 わたしはレイジングハートを握る。少しでも長く、スバル達がより遠くへ行けるように。
 いつものように、全力全開のわたしで。

「いつものようによろしくね、レイジングハート」
『All right, my master!』
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ……――――――、クラッシュした。突如脳裏に流れこむ、私のものではない記憶記憶記憶。 
 
「―――っ、」

 軽い眩暈を感じた。自分の現在の状況を確認をしようと思ったのが、それどころではない。
 記憶の奔流に押し流されてしまいそうだ。
 引き出した高町なのはの記憶は鮮烈で、その時の高町なのはの強い意志が、熱い感情が、私に直に注ぎ込まれる。
 あの狂人が言っていたのは、これか。

「なのはさん、よくご無事で。申し訳御座いません、あたし達が不甲斐無かったせいで……!」

 走ってくる赤毛の少女【ティアナ・ランスター】。
 すん、と鼻を鳴らして、彼女は声を押し殺して咽び泣いた。
 会ったことも無い少女だが、瞬間的に名前と自分との関係などの基本情報が脳裏に浮かぶ。
 記憶を探れば、さっきのようにより多くのことを回想できるのだろうが、得る情報は最小限にしておこう。
 あの男は狂人だが―――優秀なのは間違いない。
 尤も、この記憶を見るに、高町なのはの捕獲に随分遠回りな手段を用いている。この無駄な遊び心は少々考えものか。
 あの男が設けたリミッターによって、私は高町なのはと同化せず、私のままで居られる。
 先ほどの記憶を覗いた時に、高町なのはの感情や思考ルーチンが垣間見えた。
 彼女は、強い意志を持ちながらも、とびきりのお人良しで、博愛主義のようだ。
 これから、そんな彼女として生きることに若干の不自由を感じる。
 まあいい。身の振り方はこれからゆっくり考えればいいだろう。
 ボロボロと涙を零す二人の少女にしがみつかれながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。

     ◆     



 機動六課の隊舎に帰還すると、盛大な出迎えが私を待っていた。

「なのは、良かった、なのは―――」

 フェイトちゃんは目に涙を溜めて私を抱きしめた。
 ……? 
 私は彼女に初めて会った筈なのに、随分昔から既知であったかのようにそれを受け入れている。
 高町なのはの記憶の摺り合わせに慣れてきたのだろうか?
 それとも、フェイト・テスタロッサは、高町なのはと随分深い関係にある女性なのか。

「わたしは、なのはちゃんなら大丈夫やって、信じてたで。流石は不屈のエース・オブ・エースや」

 はやてちゃんは、そう言いながらも心底安堵した顔をしている。
 高町なのはが拉致されてから数日が経っていたらしい。
 私は、一時的にスカリエッティ一派に捕獲されるも、隙を見つけて脱走を企て、転送ポートを使用し、最後に戦闘を行った―――私が目覚めた場所に逃げてきた、と説明をした。
 荒唐無稽な話だ。あの狂人のラボに捕獲されて、魔導師が単身でそう易々と脱走などできる筈がない。
 我ながら苦しい説明だったが、高町なのはは戦闘面で余程の信頼を受けているのか、すんなり受け入れられたようだ。

「凄い……流石はなのはさんですね……」

 エリオとキャロが純真な尊敬の眼差しを向けてくる。
 少し、照れくさい。
 もっと高町なのはの脳から情報を整理し、状況の整理と今後の対策を練りたい。
 疲れているので自室と休息を取りたいという旨を伝えると、周囲の人間は過剰な程の労りの態度を見せた。
 
「なのはちゃんは、まずは医務室に行ってシャマルに見てもらい」
「そうですよ。そんなに傷だらけになって、……本当にごめんなさいっ」

 確かに。全身は傷や打撲で覆われているし、肋骨には罅も入っている。医務室に連れて行かれるのは順当な流れだろう。
 しかし、大丈夫だろうか。高町なのはの後頭部の切開手術の電極埋め込みの痕が発見されないだろうか?
 狂人は偽装タイプの戦闘機人の技術を使って念入りに隠蔽したと言っていたが、もし見つかったら大事だ。
 この機動六課の戦力の全てが、容赦なく敵に回るだろう。
 そこから逃走するのは、先ほど苦し紛れに述べた狂人のラボからの脱出劇よりも困難な筈だ。
 
 ―――結論から言えば、その心配は杞憂に終わった。
 シャマルは優秀な治癒魔導師だったが、ついに脳手術の痕は発見されずに済んだ。
 もしかしたら、捕獲の際に傷ついた高町なのはの体を全く治療していなかったのは、この偽装の意味もあったのだろうか。
 治療が終わり、自室に帰りたいと伝えたら、シャマルの雷が落ちた。

「まったくなのはちゃん、あなたは本当に何を考えてるの! 
 この入院の用意一式、スバルから連絡があって、すぐに用意したのよ!
 あなたの事だろうから、また無茶をしてるんだろうと思って。―――そしたら、案の定。
 はぁ、本当に、あなたには心配ばかりさせられるんだから。
 ……今回は戻ってこれたけど、次は無いかもしれないのよ?」
「はぁい、ごめんなさい、シャマルさん」

 ペロリと舌を出して、頭を掻いて見せた。
 高町なのはらしい仕草だっただろうか?  

「そんなボロボロの体でそのまま部屋に戻ろうなんて、私も馬鹿にされたものね……。
 少なくとも今日一晩は、入院して行ってもらいますからね!」

 シャマルは随分とご立腹だ。
 ……今夜は、高町なのはの自室というものをゆっくり観察して記憶と照会しようと思ったのだが、まあいい。
 力を抜いてベッドに体を預けると、得も言えぬ安堵を覚える―――この感触を楽しもう。
 考えるべきことは山程あった。するべきことも山程あった。だがしかし、抗しがたく、意識が朦朧とし、視界がぼやける。

「眠そうね。ゆっくり眠るといいわ」

 ああ、そうか。思い出した。これが肉体の眠気。人間の三大欲求の一つ、睡眠欲だ。
 眠りに落ちようとしたが、その直前に闖入者が現れた。

「あの、なのは、いるかな?」
「フェイトちゃん、なのはちゃんは今から眠るところだから、お見舞いなら明日に―――」
「ごめんなさい、ほんのちょっとでいいんです。ちょっとだけ、この子に会わせてあげて下さい」
 
 この声はフェイトだ。この子とは一体誰だろう。眠気に抗い、上体を起こす。

「なのはママ……」

 そこには、幼い少女がいた。その瞳は、翡翠と紅玉のオッドアイ。―――『聖者の印』
 一気に、眠気が醒めた。

「ママっ!!」

 押し倒すような勢いで、少女に抱きつかれる。
 ママ? 何故高町なのはが、古代ベルカのオリヴィエ聖王のクローン体の母親なのだ?
 すぐに思い出せた。高町なのははこの娘を保護し、この娘が高町なのはを母と誤認して懐いている、ただそれだけの事だ。

「大変だったのよ、ヴィヴィオ、なのはが居ない間、『なのはママはどこ?』って何度も泣いてね」
「……ごめんね、ヴィヴィオ。帰るのが遅くなっちゃって。また、一緒に遊ぼうね」

 それらしき台詞を適当に口にして、少女の頭を撫でながら、私は厳しい瞳で少女―――ヴィヴィオを見つめた。
 高町なのはは、ヴィヴィオをプロジェクトFによって作られた、ただの身寄りの無いクローン体だと認識しているが、それは大きな誤謬だ。
 一度聖王として覚醒すれば、強大な戦闘力を有し、『聖王のゆりかご』を起動させ、この世界を大きく揺るがせるための存在。
 私達が、あの狂人を通じて作成させた、最強の切り札。
 高町なのはは、実娘のように育てているが、その実、覚醒すれば機動六課を内側から食い破る獅子身中の虫。
 そう、ある意味、今の私と全く同じ立場の存在だ。
 ―――この子には、今はその自覚はないけれど。

「さあさ、なのはママは、今おケガをして動けないの。だから、ねんねさせてあげようね」
「……なのはママ、ケガしてるの? 痛いの?」
「大丈夫よ、ヴィヴィオ。なのはママ強いから! すぐに元気になるよ! また、ご本読んであげるからね」

 指先を流れる金糸の細い髪。この先冥府魔道へ向かうとしても、今この時はただの少女なのだ。
 同情とも憐憫ともつかない感情を籠めて、ヴィヴィオに微笑んだ。

「はい、今日のお見舞いはここまで。また、明日いらっしゃい」
「ごめんなさい、シャマル先生、無理を言ってもらって……」
「ママーッ、早く元気になってねーーっ」

 足音が遠ざかる。再び、眠気が襲いかかる。
 体が、重い。
 ゆっくりと水に沈むように、私の意識は眠りに堕ちていった。
 
 ・
 ・
 ・

     『―――わたしは、将来何になりたいのかな?』      『―――呼んでたのは、あなた?』
               
                『―――叩かれたら、叩いた方の手も痛いんだよ』


 『―――わたしは……フェイトちゃんと話をしたいだけなんだけど』

                            『―――ふたりでせーの、で一気に封印!』
     
           
        『―――これが私の、全力全開!!』
             
 ・                          
 ・
 ・

「……ん」

 窓から差し込む日差しに目を擦り、ぼんやりと焦点の定まらない瞳で周囲を見回した。
 白い部屋。ここは―――病院の一室だ。
 すぐに思い出す。自身の名、そして現在の状況。
 それにしても、深い睡眠からの覚醒というのは、こんなに心地よく、名残惜しいものだったか。
 何より、脳裏に瞬いたあの記憶。あれは、夢、と言うべきなのだろうか。
 鮮烈な、数々の記憶。己のものならぬ体験。―――高町なのはの、夢。
 詳しく知る訳ではないが、夢とは脳の記憶を整理するという機能の副産物だったか。
 ならば、高町なのはの脳を使用し、身体感覚と記憶を利用している私が彼女の夢を見るのも、十分に有り得る話だった。
 しかし……、今、私は確かに私だ。高町なのはの肉体を使用し、身体感覚を被っていったとしても、私は私としてある。
 だが、夢の中の私は、完全に高町なのはだった。
 まだ少女だった頃の高町なのはの体験を、そのまま追体験した。
 意識が明瞭になると、それがどれほど奇妙なことなのかが、はっきりと解った。
 私とは全く違う考え方、生き方。彼女の歩んできた道程は、私の想像の外だった。
 この高町なのはという肉体は使い勝手のいい端末として考えていなかったが、中々どうして。
 段々と、胸中で高町なのはという人間への興味が膨らんでいくのを感じた。
 ベットを起き上がる。うん、悪くはなさそうだ。
 さあ、高町なのはとしての一日を始めよう。

     ◆
   


「おはよう、なのは、夕べは良く眠れた?」
「なのはさん、おはようございますっ! 元気そうで安心しました! あたしもルキノも心配してたんですよ」
「おはようさん! なのはちゃん、よう眠っとったなあ。実は、朝こっそり寝顔見に行ったんやで〜」
「はいー。リィンも一緒に行きましたですぅ!」
「なのはさん、体はもう大丈夫ですか? どこも痛くないですか!?」

 食堂に顔を出すまでの短い道程でさえ、凄まじい歓待を受けた。
 予想はできていたことだが、高町なのはの人間関係は社会的地位を除いても凄まじく広い。
 プライベートでの人間関係が広く、そしてそれぞれ深い。
 高町なのはの記憶は、自身の記憶と接近している。しかし、未だ違和感は拭えない上、情報の多さに混乱しそうになる。
 もっとも、違和感を失い高町なのはと同一化するのも御免だが。
 高町なのはらしい返答を行いつつ、都合が悪い所は体調不良を理由に誤魔化していく。

「ママー、朝ごはんいっしょに食べよう」

 フェイトに連れられて、駆けてくる小さな影が一つ。
 その正体が何であれ、今のこの娘は無垢で無知な只の幼児に過ぎない。
 高町なのはは随分この娘に愛情を注いでいたようだが、私としては正直、すこし鬱陶しい。
 それでも、突然拒絶ような言行は高町なのはとしての行動原理に違反する。
 当分は妥協して擬似的な親子としての関係を続けなければならないだろう。

「うん。ヴィヴィオ、それじゃあ、一緒にいただきますしようか!」
「はーい、いただきま〜す」

 小さな掌をぺちんと合わせて、不器用な手つきでフォークを目玉焼きに突き立てるヴィヴィオ。
 私もパンを千切り、自分の食事を始めることにした。
 湯気を立てるコーヒー。薄くバターを塗ったパン。新鮮なサラダ。
 一口、一口、ゆっくりと噛み締める。
 ……覚えていた。とっくの昔に磨耗していたと思っていた筈なのに、覚えていた。
 美味しい。
 空腹の胃に、少しずつ嚥下した食物が染み渡っていくにつれ、私はその感覚をはっきりと自覚した。
 飢餓感。食欲。そして、口中を駆け巡るこの味覚。
 大抵の感覚は磨耗しきって消滅したはずの私だが、この感覚は私の奥底に確かに残っていた。 
 やはり、三大欲求の一つは強烈なのだろうか。
 パンと、スープと、サラダと、コーヒー。決して贅沢な筈ではない朝食だが、極上の美味に感じた。
 ふと、違和感に気づく。
 サラダの中のセロリ。私は昔好き嫌いが激しく、セロリなど美味だと感じた事はなかったのだが、今は何の嫌悪も無く他の野菜と一緒に美味しく食している。
 自身の感覚は残っていても、味わっているのは高町なのはの味覚。
 彼女が好き嫌いなく、遍く食を楽しむ人間であることに少しだけ感謝した。
 周囲を見回す。機動六課の食堂は和気藹々として、隊員達が各々に自分の朝食を楽しんでいた。
 今朝は当たり障りの無いものを注文したが、食堂のメニューも中々に充実しているようだった。
 他の部隊の事情まで細かく知っている訳ではないが、空で、陸で、様々な部隊で、同じように朝食が始まっているのだろう。
 これが、この時代の朝食時の日常。
 昔私が望んでいた、豊かで優しい食事の光景が、ここにあった。 



     ◆

「なのは、小包が届いてるよ。誰からかな……えっと、Dr.Sさん?」
「あ、いいよ、フェイトちゃん。後で開けるから、その辺りに置いといて」

 ……来た。
 私はさり気無い仕草で、まるで何でもないないようなものを扱うように、あの男からの小包を受け取った。
 中身は、薄い一台の端末と、小箱。
 端末は誰もがデスクワークで使っているごく普通の機種だが、その中には時空管理局を揺るがすことさえ出来る情報が詰まっている。
 これは、あの暗い小部屋で、私が不眠不休で接続していた、あの回線へと繋がる接続端末。
 この向こうには、レジアス・ゲイズ中将とあの男が今まで交わした密約や交渉の記録があり。 
 時空管理局設立以来、私達が裏側から干渉して行った様々な水面下の行為の存在を示すものでもある。
 私は、慎重にパスコードを入力させ、端末を起動させる。この向こう側には、この世界の最暗部がある。
 肉に包りこの世界を謳歌するのはいいが、私の本分はこの暗部への介入だ。あまり怠るわけには行かない。
 手動入力の速度は、脳をダイレクトに接続する場合には比べるべくもないが、重要な部分は押さえて置かなければ。
 コンソールを叩く指が、次第に加速していく。
 速く、もっと速く。
 高町なのはの本業はデスクワークではないからか、彼女の指を使ったタイピングは少しまどろっこしい感がある。
 あの部屋に入る前、老いて前線から退いた後は、こうして黙々とデスクワークに勤しんでいたものだ。
 情勢や経済の変化、刻一刻と変化する世界の情報を頭に流し込み、自分達が描く絵に沿う形に導くように介入を行う。
 目指したもののために。
 ふと、眼前の窓に自分の顔が映りこんでいるのが見えた。
 口元を真一文字に結び、眉根を寄せながらも、瞳を爛と輝かせながら一心不乱にコンソールを叩く女。
 その貌は、断じて高町なのはのものではない。
 この貌を、私は何度も目にしてきた。鏡で、ワイングラスで、血溜まりで。
 ……ああ、これは私の貌だ。
 一日にも満たない短い期間だが、この機動六課に身を置き、高町なのはの脳を使用して、まるで自分が高町なのは自身だと錯覚するような瞬間さえあった。
 否。私は、矢張り私だ。何者にも成らないし、何者にも成れない。
 仮令他人の肉に包ろうと、私は私なのだ。

 作業に区切りをつけ、端末に同封されていた小箱に視線を落とした。
 これは一体なんだろう。
 開けると、赤い宝珠が転がり落ちた。見覚えがある。
 これは―――レイジングハート・エクセリオン。高町なのはの愛用のインテリジェントデバイス。
 しかし何故。レイジングハートは、今も私の胸元に光っている。では、このデバイスは一体。
 丁度いい。彼女の、魔導師としての能力には興味があった。ここで、一度起動してみるのもいいかもしれない。

「レイジングハート、セットアップ」

 胸元の宝珠を、何百回と繰り返した滑らかな手つきで持ち上げ、起動させる。しかし―――。
 
「レイジングハート?」

 胸元の宝珠は、輝かない。
 デバイスは小さく明滅し、応えた。

『It refuses. You are'nt my master. Who are you?』
「何を言っているのかな? わたしだよ、なのはだよ?」

 これがインテリジェントデバイスの面倒な所だったかな、と思いながら一応説得を試みる。
 武器は、肉体が使い慣れたものがいちばんいい。

『You are a liar. Where did my master go?』
「だから、わたしがなのはだってば、どうしちゃったの、レイジングハート?」

 無駄にカンのいいデバイスだ。恐らく説得は無理だろう。

「ね、また一緒に空を飛ぼうよ、レイジングハート」
『Please return my marster』
「レイジングハート……」
『Please return my marster!』
「……はぁ。面倒だからもういいわ、貴方」
『Please―――』

 レイジングハートを強制的に停止させて、あの男が送ってきた小箱に投げ込んだ。

 代わりに、送られてきたデバイスを起動させてみる。
 それは、レイジングハートと同じ外見をした、ストレージデバイスだった。
 成る程、あの男はあの頑固なインテリジェントが折れないことを見越して、これを寄越したのだ。
 全く根回しがいいことだ―――これは、かなり助けになる。
 体裁だけを整えるなら、これで十分だろう。
 高町なのはのスタイルというものを使ってみたくもあったが、どの道本当に危急が迫ったなら私のスタイルで戦うつもりだったのだ。
 さて、リハビリと試し撃ちだ。
 高町なのはは理論より感覚重視で魔法を組み立てるタイプの魔導師だが、それでも記憶を真似れば誤魔化すぐらいはできるだろう。
 とりあえず、ディバインバスターの真似事辺りはできるようになっておこう。


   
     ◆

 
 そして、私は空を飛んだ。
 空飛ぶことを望んで肉の体に戻った筈なのに、気負いも感慨もなく、ふらりと散歩にでも立つような気安さで、私の体は宙に舞っていた。
 そうだった。高町なのはにとっても、私にとっても飛ぶというのはこういう事だった。 
 容易に思い出せる。私が/高町なのはが、初めて空を飛んだ日のことを。
 あの日感じた高揚や熱狂は、最早私の中には無い。
 私にとっても高町なのはにも、空を飛ぶなど、歩くのと何ら変わらない容易い事である。
 特に―――高町なのはなど、デバイスを握ったその日に空に飛び立ち実戦を経験しているのだ。
 勿論、本来ヒトの身で見ることの出来ぬ景色、生物としての設計をまるで無視した魔力を用いた高速機動の心地良さは無類だ。
 髪が宙にはためき、この身が風を切って翻る。何度繰り返そうが、その恍惚の感触は決して劣化することは無いだろう。
 この感覚に、快感と、人の身で空を飛ぶことに対する畏れを抱くことのできない者は、空戦魔導師たる資格は無い。
 当然私も、肌が粟立つような風の感触に、空を往くものとして当然の快感と感謝は抱いている。
 だが、それだけ。
 ただ、それだけ。
 私の望んでいた、『その先の、得体の知れない何か』は何も見つけることが出来なかった。
 私は、何を探したいのだ?
 私は、何を感じたいのだ?
 得たいものが茫漠とし過ぎていて、考えが纏まらない。

『貴女は飛びたいのです。再び空を。そして、飛ぶべきなのです、貴女の願うままに、大空を』

 そう言って、あの狂人は嗤った。
 ……私は、それに頷いたのだ。私は、空を飛びたかった。それは、確かな筈だ。
 飛んで、飛んで、その先にあるものへと辿り着きたかった。
 だが、それは一体何なのだ?
 距離も方位も解らぬものを目指して飛ぶなんていう無為を行うほど、私は酔狂ではない。
 深い徒労と、落胆を感じた。
 慰みとなったのは、空を飛ぶ、それ自体の快楽だ。
 子供が波打ち際で漣に手をつけて遊ぶように、私は高速機動の初等訓練のように、その空域を縦横無尽に駆け巡った。
 燕のように、蝶のように、蜻蛉のように。水面を跳ねる鯔のように。
 ―――落胆はいつしか薄れ、私の口元には軽い笑みが浮かんでいた。
 探し物は、また今度でいいか。もう一度肉を纏って空を飛べる、今はその感触を楽しむだけで、十分ではないか。
 私は考えることを止め、飽きることなくイルカの子供が戯れるように空を舞い続けた。
 
 

     ◆

「―――最近のなのはさん、ちょっと変じゃないかな?」
 
 曲がり角の向こう側から聞こえたそんな言葉に、私はふと歩みを止めた。
 この声は……ティアナだ。
 即座に聞き耳を立て、自分の存在を気取られないように気配を殺す。

「―――えー、そうかなぁ……。確かに、前とちょっと変わったかなあ、って思う事もあるけど、なのはさんの教導が再開してまだ三回目だよ?
 ほら、あんなことがあった後だしさ、まだ本調子じゃないんだよ、なのはさん」

 この声は、スバルだ。

「―――うーん、そういうのとは、何か違うのよねぇ、調子が戻らない、というか、なのはさんらしく無いっていうか……」

 ティアナは歯切れの悪い口調で言葉を濁す。
 彼女達が私の正体に気付くことは、まず有り得ない。純粋に教官としての高町なのはの変調を案じているのだろう。
 私は、高町なのはの行っていた新人達への教導を再開していた。
 高町なのはとしての魔導師の能力を持ち、彼女の記憶にアクセスできる私にとっては簡単なことである。
 無論、問題点が皆無という訳ではない。
 レイジングハートを封印し、代替品のストレージで彼女の魔術を再現している私では、完全に高町なのはの戦闘スタイルを再現出来ない。
 尤も、私には、飛び立って日が浅い若鳥のような新人達を、おいそれと看破されずにあしらえるだけの実力差がある。
 隊長達と模擬戦を申し込まれでもすれば話は別だが、病み上がりの高町なのはがそんな状況に置かれることは無いだろう。

「―――何て言えばいいのか、あたしも良く解らないんだけど、なのはさん、前より厳しくなった感じがする」
「―――ええーっ、何言ってるのティア、なのはさん、前からずっと厳しかったよ?」
「―――いや、厳しいのは同じなんだけどさ、
 ……何ていうかさ、なのはさんの教導、スポ根な感じがするとこがあったけど、それが妙に、理論重視で、細かいとこに厳しくなったというか……」

 ティアナの観察眼は悪くない。
 高町なのはの教育方法をそのままなぞるのでは面白みが無いので、私なりにアレンジを加えてみたのだ。
 高町なのはは、祈願型のインテリジェントを手に取り、ずっと愛用を続けている。
 理論より感覚重視で魔法を組み立てるタイプの魔導師であり、ミッドで理論を学び、教導隊に身を置く現在も、その根本は変わらない。
 私も、最初に握ったのは祈願型のインテリジェントだった。
 だが、それもすぐに破壊され、安物のストレージを幾つも使い潰しながら転戦する日々が続いた。
 その中で、魔法理論を徹底的に学び、専門を定めず幾つもの魔法の基礎を学んだ。
 いつの間にか身につけた、他人の使う魔法を解析し、その外見を再現するという特技。
 自分の戦闘スタイルは、環境に左右されずに安定して実力を発揮できる、汎用性の高い形に調節し―――。
 ……少しだけ、昔を回想した。
 高町なのはの教導法も優れているのだろう。しかし、私にとっては少しだけ納得の行かないものを感じる。
 私と高町なのはの、乖離。

「―――うん、そうかもしれないね」

 スバルの声が、1オクターブ下がった。

「―――あたしもちょっとだけ、ティアの言ってること解るよ。
 訓練の時にね、なのはさん、今まで見たことも無いような凄く冷たい目をしてて、……ちょっぴり、怖かったことがあった。
 でも、それだけ、なのはさんも必死なんだと思う。
 ねえティア、あの時、あたし達は何も出来ずに負けちゃって、あたし達が足手纏いになったせいでなのはさん捕まっちゃって……。
 あの時は、敵の悪ふざけで逃がしてもらったからいいけど、全滅してたかもしれないんだよ!」
「―――そんなこと、解ってる! あんたに言われなくても解ってるわよ、バカスバル。
 あの時、あたしが一番にやられた。何も出来なかった。あんたに背負われなきゃ、逃げることも出来なかった!
 ……あたしが本当に怖いのは、なのはさんの様子が変わったことじゃなくて、なのはさんがこのままじゃ駄目だと思う位、自分が役立たずなんじゃないかと思うこと。
 それが、一番、怖いのよ……」

 ぽんぽん、と、ティアナの頭を叩く音がする。

「―――頑張って強くなって、なのはさんに心配かけないようにしようね」
「―――うん。……それに、今のなのはさんの指導、厳しいけど凄く緻密で論理的で、あたしにとっては前より解り易いぐらいだしね!」

 結局、話の落着点はそこか。
 フォワードメンバー達は、皆高町なのはを心の底から尊敬している。
 産まれたての雛が初めて見たものを親と思うような、絶対的な信頼。
 だが、強すぎる尊敬や信頼は、時としてその瞳を曇らせる。
 これは私にとって非常に好都合だ。私が多少高町なのはとして奇異な行動を取ったとしても、彼らは好意的に解釈してくれるだろう。
 愚かしいと鼻で嗤いたいが、ありがたいと感謝しよう。
 それでも、高町なのはとして生活していくことに窮屈さがあるのも事実だ。デスクワークや教導の時などに、少しづつ地を出すことでストレスを発散しているが、どうも居心地が悪い。
 記憶をアーカイブとして利用できる私は、高町なのはの思考ロジックを完全にトレースできる。
 しかしそれは、感情的過ぎて、どうも私にとって納得がいくものではない。私と高町なのはの間にある人格の乖離は、余りにも大きい。
 あまり、高町なのはの人格を模写して行動を続けるのは好ましくない。
 それは、私自身の人格が高町なのはのそれに引きずられかねない、危険性を孕んでいる。
 高町なのはの人格が変貌しても、周囲に不審と思われないようなイベントが必要だ。

「……こんなのはどうかしら。
 教え子達4人を、突発的な戦闘で全員喪ってしまった高町なのはは、失意と絶望から以前の明るさを失い、ただ仕事に邁進する人間へと変貌してしまいました……」

 うん、悪くないアイディアだ。
 私は独り小さく頷くと、『なのはさん談義』を続けている二人に気取られぬよう、その場を後にした。


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著者:アルカディア ◆vyCuygcBYc

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