帝国の竜神様56

 マリアナでの茶番劇が終わりその舞台俳優達が戻り始めた頃、入れ違いに連絡機でサイパンに降り立ったのは、南洋の竜捜索のため寝食を忘れて奮闘した海軍将兵へ激励の言葉を述べるためにやってきた一人の男。
 それを出迎えたのは、南洋で竜を捜索するべく昼夜の区別なく働き続けた一人の男。
 海軍元帥伏見宮博恭王と井上成美中将。二人のサイパンでの出会いはそんな始まりだった。

「海軍次官? この私が?」
 南洋特有の日光が照らし付ける地面の上で、井上は呆れた声を漏らした。
 パラオ行きの連絡機が用意されている間、伏見宮は待合室にも入らず、サイパンの青い空を見上げている。
「そう言ったつもりだがね。聞き取れなかったか? 中将」
 淡々とした声は飛行場特有のエンジンにかき消され、側にいる井上にしか聞こえない。
「聞き間違いでしょう。この状況下でおおよそそんな人事がまかり通るとは思えませんので」
 かつて伏見宮の後援を受ける艦隊派に抵抗し、米内、山本と並んで海軍左派トリオと呼ばれた自分がよりにもよって海軍次官などという役職に推挙されるなどとはさすがに予想もしていなかった。正確には、出来るはずもない。ましてや、その話をかつての(そして今も同じく)反対者である伏見宮に教わるなど神でもなければ予想できるはずもない。
 井上は震える手を何とか押しとどめ、乾いた声で口を開く。
「私は軍人です。政治の話は分かりません。そんな正気を疑うような話を推挙したのは誰か知りたいものですね」
「それは儂だよ」
 井上は手にした煙草を取り落とした。
「もったいないな。中将でも取り乱すことがあるのだな」
「そうですな。私も自分がここまで取り乱せる人間だと初めて知りました。」
 地面に落ちた煙草を踏み消すと、数秒の時間の後、目の前の初老の老人の顔を振り返り、訊ねる。
「ちなみに、次の海軍大臣はだれを推される予定で?」
 井上は言葉の中に、誰が、とは付けなかった。海軍が、ではなく、伏見宮が推す、と言う意味で聞いたためだ。
「及川君だ」
 及川古志郎大将は嶋田の前の海相であり大臣の仕事に支障はないだろう。以前支那方面艦隊の参謀長だったときの司令長官が及川大将だったこともあり、多少は気が楽になった。
 だが、及川海相時代に三国同盟締結や仏印進駐など英米に舵を切りつつある帝国にとって外交的ミスリードを喚起しかねない人物でもあった。
「てっきり嶋田さんが留任すると思っていましたが」
「嶋田君は最近疲れが溜まっているようでな。しきりに周囲に辞意を漏らしているようなのだ。『これ以上の職に耐え切れない』とな」
 嶋田海相は東条内閣時に陸軍の主張に引きずられ弱腰と海軍内部でも不満の声があったのは史実だ。
「しかし私が次官なんかにね。理由は、聞かせてもらえるのでしょうな?」
「亜米利加との開戦はほぼ無くなった。
 それに後押しされて東條内閣は倒壊する。内地は安易な縮軍の方向に向かいつつあるが、この流れが続けば我が国の将来に禍根を残すことになるだろう」
 殿下の海軍、の間違いだろう? と思ったがそれは口にしない。
 伏見宮の言うこともすべてが間違いとも言えない面もある。艦も兵員も一朝一夕にはできない。特に、前線を戦う艦艇、兵站をになう船舶、そして、それらを動かす士官や兵員と、彼らを食わせ戦わせるに足る物資──あらゆるものの量が絶望的に不足していることは、たった半月程度の竜捜索で認識せざるを得なかった現実だったから、井上は伏見宮の言葉に眉を顰めただけですました。
「現場の事情をよく知るものこそこういったときに高官に着く必要があるとはおもわんかね」
「こういったことの適任者は他にいるでしょう。たとえば今の軍令部総長を務めておられる方とか」
「永野君はいかんよ。彼は鉄砲を撃つのは得意だが、こういう話はいかにも苦手だ」
「そうですか。私は動かない的しか当てられない人だと思っていましたけどね」
 かつて、日露戦争の時に旅順で行われた28サンチ砲の山越え射撃で、日本海軍一大砲を打った男のことをそう評しながら、井上は別のことを考えていた。
 あれは忘れもしないワシントン会議の時、永野修身があのタイミングでわざわざ陸奥は未完成などと言ったか──それは明らかに政治的な意味を有している。会議をぶちこわし、軍縮をやめさせようとしたに他ならない。そんな事を分かっていて口にしたのは、永野という男が政治というものを理解しているからに他ならない。そして、それを後押しした人間が居るからこそ、あの小心者があんな暴挙を実行できたのだ。
 結局、何とか会議が調印されたものの、あの失言がなければ労せず帝国は米国と同数の40サンチ砲戦艦をもてたというのに。
「……つまり、殿下は私にあの時の永野さんと同じ事をしろと仰りたいわけですか」
 井上は思わず天を仰いだ。
「そこまでしろとは言っていない。だが、欧州、異世界──帝国の回り中で戦争の火種は上がっている。さしあたって太平洋が安泰となったといって安心できるわけではない。にもかかわらず日本中が戦争が遠ざかったと浮かれている。いつまた日本が戦火に巻き込まれるかしれたものでないというのにな。
 国民は降って沸いた政治的権力を振り回すことに執着し、陸軍は異世界の進出に躍起になっておる。
 このような状況だからこそ、海軍だけでもしっかりとした立場を固めて今後に備えなければならんのだよ」
 伏見宮はまるで、信じてもいないことを厳かに、恭しく語る。
「何とも正論に聞こえますな。表面は」
「相変わらず口さがないな、君は。あのころと少しもかわらんな」
「誉め言葉と受け取っておきます」
「だが、米内の考えも極端なものだということも理解しているだろう。陸軍とのバランス上必要とはいえ今海軍軍備を削減すれば、欧州へ介入することも、異世界に介入することもままならぬようになる。それどころか我が国の国威は落ち、欧米に足元を見られ将来の地位を失うことになるだろう。
 国の価値は海軍力で決まる。そして一度一等国の地位から滑り落ちれば、再び同じ場所に立つまで多くの時間を失うことになる。であるならば、海軍の増強を続けるのが正しいと私は信じる。
 米内達の進める英米傾斜はどうみても降伏服従にしか見えないのだよ。
 たとえ、力が無かろうが唯一極東で欧米に蹂躙されずに国を保った曽祖父達の誇りまでは失いたくは無い」
「誇りで飯は食えませんよ」
「それでは軍備を縮小するのに君は賛成か?」
 その言葉に井上は素直に肯くことは出来ない。余りにも流動的すぎる現在の世界環境において、日本が外交的イニチアチブを失いかねない決定には反対するしかない。たとえ、米内達がそれを理解した上で軍備縮小という方法を選択しようとしていると分かっていても。
「であるなら、必要ではない──あるいは、海軍より優先の低い場所を踏みつけてでも予算を奪ってこなければならない。現在の帝国で妥協ではなく最後まで正論を楯に意見を押し通せる人間は君のほかに私は知らない。
 そして、予算をぶんどってくるのならば米内も強くはいえんだろう。だから私は君を推す。それだけのことだ」
 それだけ言うと、伏見宮は新たな煙草に火を付けた。

「殿下に対しては感謝していますよ。一つだけですが」
 しばらく、無言で青い水平線を眺めていた井上は静かに言った。
「──比叡か」
 伏見宮はかつて、予備役編入間際だった──正しくは、自分がその立場に追い込んだ──井上に与えた艦名を伏見宮は口にした。
「練習の二文字が着くとはいえ戦艦は戦艦です。私は軍人です。潮の匂いのする場所に立つと心が浮き立ちます」
「儂が初めて朝日に乗ったときも、君と同じ感想を抱いていたがな。儂も、軍人であるからな」
「同じ感想を抱くとは、なんとも嫌なものですね」
 井上は声をあげて嗤った。
「全くだ、気が合うな」
 伏見宮もまた大きな声で嗤った。
 やがて、井上はかつて最後まで抵抗した男に対し向き直った。
「私はあなたのことが嫌いです。正直に言わせてもらえば国賊だとすら思っています」
 伏見宮も、昔刃向かっていた男に向き直る。
「儂も君のことが好かんよ。それは自信を持って断言しよう」
 そして、伏見宮はくわえていた煙草を足下に落とすと無造作に踏み消した。
「それで、次官の件はどうする?」
「殿下は僕がどう答えるのか分かっているのでしょう?」
「ああ、そうだ。君は断らない。正確に言えば、断ることが出来ない。なぜならば、祖国の危機を救うのが軍人であるからだ。そうだろう?」
 しばしの無言。やがて、はっきりと分かる声と仕草でため息を一つ。そして井上は口を開いた。 
「わかりました。お受けしましょう」
「君が帝国を良い方に導く事を期待しているよ。井上次官」


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2008年08月30日(土) 19:01:24 Modified by nadesikononakanohito




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