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【定義】

本来の覚性のこと。一切衆生に本来的に具有されている覚(悟り)の智慧を指す。如来蔵や仏性とも関連があるが、特にそれを覚の側から説いたもの。

【内容】

これは、インドの原典には用例を見出すことが出来ず、中国での造語であるとされており、特に真諦訳『大乗起信論』での用例が基本的なものであるとされる。現実に於ける迷いの状態である「不覚」と、修行の進展によって種々の煩悩を破して悟りの智慧が段階的に当事者に露わになる始覚とが相関して説かれている。そして、本覚とは、始覚によって到達されるべき目標であると同時に、始覚が進展することを可能とする内在的根拠であるともされる。

『大乗起信論』での本覚は、衆生の心を解明する際、生滅する側面(心生滅)を説明するための概念であったが、中国の華厳宗や、密教或いは日本仏教に於いて、次第に絶対的な原理と見なされるようになり、日本では「本覚思想」と呼ばれる絶対一元論的な思想にまで至るようになる。その場合には、本覚とは内在的な原理や可能性ではなく、今ここに顕在しているものであるとされ、現象の世界はそのまま本覚の顕われであると見られるようになった。「本覚真如」とは、そのような状態を示す用語である。
いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず。おほよそ、本覚等を現成せしむるは仏祖功徳なりといへども、始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり。 『正法眼蔵』「海印三昧」巻

なお、道元禅師はこのように説いて、本覚や始覚といった「覚」を以て、仏祖とするわけではないとし、衆生に於ける段階的な修証観を破した。むしろ、「覚」に関しては、以下のように示される。
識るべし、行を迷中に立て覚前に証を獲る。 『学道用心集』「仏道必ず行に依りて証入すべき事」章

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