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レッスンが終わってロッカールームで着替えるため事務所の通路を歩いていると、向こうからあずささんが来るのが見えた。
確か、今日はこれからライブの衣装合わせだと言っていた。

「おはよう、春香ちゃん」
「あずささん、今日、ですよね……?」
「ええ。例のものも準備できてるわ」
「では、いつもの場所で待ってますね」
「また、後でね」

短い会話の後、反対の方向へ歩き出す私とあずささん。
お互いいつもより少し素っ気ないのは、きっと内心の昂りを隠しているから。
私は数歩歩いてから振り返って、立ち去るあずささんの後ろ姿を見た。
豊かな長い黒髪が、足取りに合わせて揺れていた。

いよいよ、今夜だ。

  ※ ※ ※

その後は、事務所で新曲の企画会議と、雑誌取材。
その間、努めて今夜のことは考えないようにしていた。
一度心に浮かんでしまったら、平静を保っていられる自信がないから。

だから今日のスケジュールが全て滞りなく終わって事務所を一歩出た時、私は思わず大きく息をついてしまった。
お仕事の時間はもう終わり。
ここからは、アイドルではなく天海春香という一人の女の子の時間。
心の扉の鍵を開けて、さっきまで閉じ込めていた思いを解放すると、たちまち持て余す程の期待に満たされて、私は小走りに駅へと急ぐ。

一度乗換えをして更に数駅過ぎたところで電車を降り、駅前の広場のベンチに腰を下ろす。
待ち合わせをする時は、いつもこのベンチで待つ。周りの景色も、もう見慣れた。
時刻は19時を少し回ったところ。
この間今年初めての木枯らしが吹いたと天気予報で言っていたけど、確かに足元を吹きぬける風の冷たさは冬がもうそこまで来ていることを告げていて、スチール製のベンチに座っていることもあってじわじわと体が冷やされていくのを感じる。
でも今日はそれすらも、この後約束された温もりをより確かに感じるためのお膳立てのように思える。

いつもなら携帯でもいじって暇つぶしをするところだけど、今日はそんな気にもなれなくて、手をこすり合わせて暖めたりしながら、じっと駅の出口を見ていた。
そして何度か通勤客の波が過ぎた後、人ごみの中に昼間見たあの黒髪を見つけて、私は立ち上がった。

  ※ ※ ※

「じゃあ春香ちゃん、いいわね?」

あずささんは真剣な面持ちで私の目を見据えて、最後の確認をする。
期待と、不安。いや、不安はないか。
これから始まるのは、悦びのみの時間であるはず。

「はい……お願い、します」

なのに私は変に緊張してしまって、返事の声がすこし上ずってしまった。
落ち着かなきゃ。これからのひと時を存分に味わうために。

あずささんはいつもの穏やかな微笑みに戻り、ゆっくりと手を伸ばし――。
次の瞬間、視界が真っ白になった。

「――すごーい!!」
「じゃじゃーん。三浦家秘伝のおでんよ〜」

目の前には色とりどりの具がぎっしり詰まった、大きな土鍋いっぱいのおでん。
もうもうと湯気が立ち上っている。
ていうか「秘伝のおでん」ってちょっと駄洒落っぽいですねあずささん。

「あら〜そういえばそうね」
「きっと千早ちゃんだったら大受けですよ」
「上手いこと言っちゃったわ〜」

土鍋の蓋を持ったまま頬を赤らめて照れてるけど、大して上手くもないですから。
そんなことより、いただきましょうよ。

「どうぞ、召し上がれ」
「それでは、いっただきまーす」

どれからいくかちょっと迷ったけど、やっぱりまずはじっくり味の沁みた大根から。
箸を入れると難なく割れるくらい柔らかくて、きっちり四分の一切り取って口に入れれば、熱い絶妙な出汁の味の向こうにしっかりと大根の風味も残っていて、こりゃたまらんです。

「ハフ、あずささん、このお出汁がもうね、ほわ、ヤバイです」
「うふふ。お口に合って良かったわ。沢山食べてね」

たちまち平らげて、すかさず次はあずささんお手製の餅巾着にいっちゃいますよ。
噛みしめると油揚げに染み込んでいたお出汁が口一杯にあふれて、それはさっきの大根より少しだけコクが加わっていて、お餅の弾力と一緒に味わえばここはもう桃源郷。

「お口に合うなんてもんじゃないですよ。ああもう、幸せ」
「うん、こんにゃくもおいしいわ〜」
「さっき駅前で待ってる時結構寒かったんですけど、我慢した甲斐がありました」
「今日寒かったものねえ」
「なんたって今期初おでんですから。寒いのも演出の内みたいな……ってあずささん! なに当然のように飲んでるんですか!」
「もっとあったまろうと思いまして〜」

ちょっと目を離した隙にあずささんのグラスにはお酒が注がれていた。
一升瓶を常備しているアイドルってどうなんですか。

「これは一升じゃないのよ。720ミリリットル」
「そういう問題じゃなくてですね」
「だいじょうぶ。一杯だけ。ね?」

ね?って言われても。
まあこの見事なおでんを昨日から準備してくれたことに免じて、今日のところは見逃してあげます。

「それにしてもおでんにコップ酒って、おじさんの定番じゃないですか」
「そうかしら?」
「波平さんとかよく屋台で飲んでるじゃないですか。あと志村けんのコントとか」
「でもとってもおいしい取り合わせなのよ」

春香ちゃんももう少し経ったら分かるわ。にっこりしてそう言うあずささんの顔は、もうほんのり紅く染まってきていて、なんかその、ちょっと色っぽい。

  ※ ※ ※

元々あずささんも私もお料理が好きだから、事務所で雑談する機会があると、その日の晩ご飯や今度作ってみようと思っているものの話になることが多かった。
私は今までお菓子作りはよくしてたけど、そろそろちゃんとしたお料理も覚えたいなと思ってて、一人暮らしのあずささんは、たまには誰か一緒に食べてほしいと思ってて。

そんなこんなで私は時々あずささんの家にお邪魔して、一緒にお料理をするようになった。
あずささんは材料を切ったりするのはすごくゆっくりだけど、味付けや火加減はとても上手で、お母さんが作る家の味とは違う新鮮味もあって、最近はあずささんの家に行くのが一番の楽しみになっている。

二人で手を動かしながらだと、おしゃべりも弾む。
今日あった面白いことで笑い合ったり、仕事の悩みを聞いてもらったり。
レシピとにらめっこしながら新作に挑戦してみたり。
そうやって作って二人で食べるご飯はとてもおいしくて、嫌なことも水に流せるようないい気分で次の日を迎えることができる。
相手があずささんだから、というのもあると思う。
いつも優しくニコニコと話を聞いてくれて、時には真面目にアドバイスしてくれたり、たまに私もちょっと甘えてみたりして。
お姉さんがいたらこんな感じなのかもしれないと思う。

そんなある日、私にドラマのゲスト出演の仕事が入った。
撮影はスタジオと屋外ロケの両方があって、外では夜に雨に打たれるシーンを撮った。
予定では人工の雨を降らせることになっていたんだけど、たまたまその日本当に雨になって、そのまま撮ってしまおうということになった。

ところが、何故かその撮影は次々とトラブルに見舞われて何度も中断することになる。
共演の役者さんが台詞をトチったり、私が転んだり、上手くいったと思ったら今度は機材が故障してちゃんと撮れてなかったり。
なんだかんだで1時間以上、私は雨の中に立ち続ける羽目になった。

折りしもその日は秋になってから一番の冷え込みだったとかで予想以上に気温が下がり、私はカットの度に車に入って毛布にくるまっていたけど、身体の芯から冷え切ってしまって、台詞を言う時に歯がガチガチ鳴るのを我慢するのに苦労したくらいだ。

寒い。お風呂入りたい。あったかいもの食べたい。
照明器具がどうかしたとかで何度目かの中断の間、私は震えながらずっとそんなことを考えていた。
あったかいもの。おでん。熱々のおでん。ああ食べたい。
トラブルのせいで撮影が長引いて、お腹が空いていたせいもあると思う。

ようやく撮影から解放されて、おでん、おでんと、ちょっと危ない人のように呟きながら、ヨロヨロと夜遅く辿り着いた我が家で待っていた晩ご飯は、冷めた焼き魚とサラダと冷奴だった。
お母さん、ごめんね。ちょっと日頃の感謝を忘れそうになったよ。
でも、せめてあったかいものつながりであってほしかったな。

翌日、事務所であずささんに会った時、私は昨夜の悲劇を事細かに訴えた。
あずささんは「あらあら、まあまあ」といつもの調子ながら真面目に聞いてくれて、私がひとしきり語って少し気が済んだところで、こう言った。

「それじゃあ、今度うちでおでん食べない?」

聞けば、おでんはお母さんの得意料理で、実家にいた頃はあずささんの友達を呼んで振舞ったこともあるとか。
これは是非とも行かねばなりますまい。

ところがそれから、私とあずささんの予定がなかなか会わなくなってしまった。
私が早い日はあずささんに深夜ラジオの出演が入ってたり、あずささんがオフの日は私の家で法事があったり。
そうこうしている内に一ヶ月以上経ってしまった。
あずささんの家に料理しに行くようになって、こんなに期間が空いたのは初めてだった。

  ※ ※ ※

「もうあの日以来ずっと、おでんのことだけを考えて生きてきたんですよ!」

このうらみはらさでおくべきか。
ごぼう天をハフハフしながら、声高に訴えてみる。

なんせ顔を合わせる度におでんおでんと言っているのに予定は延び延びになっていたから、二人の間でおでん熱が妙に高まってしまい、ジハード状態になっていた。

「まあまあ、それは大変ね〜」
「あずささん、正直どうでもいいでしょ」
「そんなことないわよ〜」

相変わらずニコニコしながら、結び昆布なんかつまんでる。
もしかして出来上がってきてます?
なんだかコップのお酒、飲んでるはずなのにさっきより増えてません?

「め、目の錯覚よ〜」

油断も隙もありゃしない。
ここでご飯を食べるようになって知ったことだけど、あずささんは結構お酒が好きだ。
料理に合わせてビールやワインを飲むことがよくある。

「でも日本酒を飲んでるのは初めて見ましたよ」

ああ、このはんぺんの慈愛に満ちた柔らかさ。

「そうねえ、瓶で買ってきたのは初めてかも。ワンカップなら買ったことあるんだけど」
「さっきも言いましたけど、アイドルとしてどうなんですかそれ」
「うふふ。だって私も今日のこと、とっても楽しみだったから。大吟醸、奮発しちゃった」

大吟醸って、奮発する程高いお酒なんだ。
家のお父さんが飲んでる紙パック入りのより高級だというのは分かるけど。

「ちょっと、見せて下さい。ていうかもう没収しますよ」
「あ〜れ〜」

玉子を頬張りながら、あずささんの傍らに置いてあった瓶を引き寄せて見てみると、ラベルには「越乃寒梅」と書いてある。

「えつ……?」
「こしのかんばい、と読むのよ。新潟のお酒」

へえ。
蓋を開けて、ちょっと匂いをかいでみる。

「あ……」
「いい香りでしょう?」

普段お料理に使っているお酒とは違う、ましてや電車の酔っ払いとは似ても似つかない、果物のような爽やかな香りがした。

「日本酒って、お米でできてるんですよね?なのになんで、こんなにフルーティなんですか?」
「不思議よねえ」

そう言って、あずささんはそのお酒を一口飲む。
口に含んで一呼吸置いてから、ゆっくり飲み下されていくのが白い喉の動きで分かった。
どんな味がするんだろう。
一瞬、ちょっと飲んでみたい誘惑に駆られたけど、だめだめ。
これでもアイドルの端くれなんだから、スキャンダルは御法度ですよ。

「あずささん、結構お酒好きですよね。よく飲みに行ったりするんですか?」
「そうでもないのよ。私、ちょっとのおつまみでお酒だけを沢山飲むのはあまり好きじゃなくて。 お仕事関係で誘われることもあるけど、よく知らない人の前では飲めない振りしてるの。 小鳥さんとはたまに、お料理がおいしいお店で飲んだりすることはあるけど」
「そういうもんですか」
「そう。おいしいお料理に、おいしいお酒、っていうのがいいの。 今日はそれに大好きな春香ちゃんが一緒で、とっても幸せ」
「えっ?」

なんか今、唐突にサラッとすごいことを言われたような。
思わず牛すじの串を落としそうになってしまった。

「わ、私ですか?」

動揺を隠しつつ牛すじを串から外して口に入れる。
あ、くにくにトロトロでこれまたおいしいんだけど、今はあずささんの真意が気になる。

「最近なかなか春香ちゃんが来られなかったから、とっても寂しかったのよ〜」
「え、ええと、なんか改めてそう言われると、照れちゃいますね。はは……」

なんかもう動揺を隠しきれてない気がするし、うふふと笑いながらまた一口お酒を飲むあずささんは胸元まで桜色になってきていて、それがさっきよりもっと色っぽく見える。
服で隠れてるところも桜色なのかな。って何考えてるの私!?
なんだろうこれ。なに?

「春香ちゃん」
「はい!?」
「大好きよ」
「は、はい……」

ええと、なんて言ったらいいのかな。
頭の中がこんがらがってぐるぐる回ってて、なのに言葉が出てこなくて、今にも破裂しそうなんだけど、なんか言わなくちゃ。

「あ、あの、私もあずささん、大好きです、よ……?」

え?ちょっと私!?なんか言っちゃった?
いやその、あながち嘘でもない気もするけど、おでんから急カーブ過ぎて、展開についてけないっていうか。

「本当に?うれしいわ〜」
「そ、そうですね、両想いっていうんですかねこういうの」

あああ、なんか自分で駄目押ししちゃってるし!

「つきましては」
「なななんですか?」

あずささんはお酒のグラスを置いて、まっすぐこっちを見る。

「一緒に住みませんか」
「は?」
「このお部屋で、春香ちゃんと一緒に暮らしたいなって。 もちろん、ご両親からOKが出たら、だけど」
「ど、同棲ですか……」

なんで私はいちいち単語のチョイスがおかしいんだろう。

「奥の部屋、少し狭いけど片付ければ空くから、春香ちゃんが使ってくれていいわ。 事務所が近くなるから通勤も楽になると思うし」
「はあ」
「お仕事のある日はここに泊まって、ない日はお家に帰るという感じで」
「あの、お家賃は……?」
「私がそうしてほしくて言ってるのだから、それは気にしなくていいのよ。 今まで時々泊まりに来てたのが、ちょっと多くなるぐらいの気持ちで、どうかしら?」
「はあ」
「私は、もっと春香ちゃんと一緒に過ごしたいです。春香ちゃんは、どうですか?」

あずささんは、いつも通り穏やかな微笑みを浮かべているけど、決して軽い気持ちや冗談で言っているのではないと思う。
まあ飲んでるんだけど、それでも至極真面目な気持ちなのは間違いない。
私も、ちゃんと答えなきゃいけないよね。
私は、どうしたいのかな?

「あの、あの、ふ、不束者ですが、よろしく、お願いします……」

やっぱり単語のチョイスが変な気がするけど、正直な気持ちだし。
お仕事が終わったらこの部屋に帰ってきて、あずささんと一緒にお料理して、今日みたいに温かくておいしいご飯を食べる毎日。うん、いいと思う。
そうだ、お酒を飲み過ぎないように見張ることもできるし。
おでんが発端なんて、いまいちロマンチックじゃないけど、こんな始まりがあってもいいんじゃないかな。

湯気の向こうであずささんが、こちらこそよろしくね、と今日一番の笑顔で言った。

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