差別・偏見やヘイトスピーチを助長する「嫌韓」デマ・中傷に対抗・反論するウィキです。

差別にまつわる話をしていると、よく「私は差別するつもりはないけれど、でも…」という前置きにする人がいます。常套句と言っても良いでしょう。そしてその後には、たいてい以下のような言葉が続きます。


「でも、それは法律で決まってるんだから差別じゃないよね、区別だよ」
「○○(差別の被害に遭っている人々)の側にも問題はあるよね」
「差別差別って騒ぎすぎるのは、かえって逆効果なんじゃない?」

いずれも差別を正当化・容認する論理や、いわゆる告発を無力化する話法と呼ばれるものです。

ここで、「人はなぜ「私は差別するつもりはないけれど」と言いたがるのか」について考えてみたいと思います。

おそらく一番大きな理由としては「誰しも自分が差別者であると認めたくないし、差別していると非難されたくない」ということがあるのでしょう。一般的に「差別はよくないことだ」という「建前」は広く共有されています。あるいは在特会による醜悪なヘイトスピーチを知っている人からすれば「差別者=在特会のような、酷い差別用語や罵詈雑言をわめき散らす異常な人間」というイメージから、「自分があんな人たちと同じだと思われたくない」というのもあるでしょう。つまり「自己防衛」のための「前置き」ということです。


一方「差別を告発されること」は被差別当事者以外にとっては「やっかい」「面倒」なことでもある、という側面があります。「差別を告発する」というのはしばしば、それまで容認・正当化されていた社会制度(法律によって定められたものも含む)や社会意識に対して「それは不当であり、正すべきだ」と突きつけることです。突きつけられた側はそれまで「当たり前」だと思っていた考え方や認識を改めること(ややおおげさな表現をするなら「自己改革」すること)、そして差別を容認・正当化していた社会制度に反対の声を挙げ、変えていくことを(暗黙のうちに)求められます。実も蓋もないことを言ってしまうなら、そんな「面倒臭い」ことを進んでやりたがる人は(残念ながら)そう多くはありません。ましてや被差別当事者以外の人にとって「差別が存在している現状」は「別にそのままでも困らない(あるいはそれによって利益を得ている)」ので、なかなか積極的な態度にはなりません。


そこで、その「面倒臭いこと」を回避するために「差別の告発」を無効化すること、具体的には「あなたが「差別」だと告発しているものは「差別」ではない(区別だ、仕方がない、合理的な理由がある)」と主張するか「それは確かに「差別」だが(あるいは「差別」かもしれないが)、それをなくすために努力すべきなのは自分(たち)ではなくあなた(たち)の方だ」と反論する必要があります(※注1)。つまり上記のような「差別するつもりはないけれど」の後に続く言葉もまた、一種の自己防衛によるものと言えます。「差別はよくない」という建前が共有されているのにも関わらず、差別をなくしていくことが困難な理由のひとつがここにあります。


こうした現状を打破するのは容易なことではありません。ただ、ここではいくつか、ヒントになるかもしれない事例を紹介したいと思います。

ロサンゼルスにある“museum of tolerance”(寛容の博物館)はナチスによるホロコーストを中心に人権や差別問題にまつわる展示を行っている博物館ですが、その入り口には“Prejudiced”と書かれたドア(差別する心を持った人のためのドア)と“Unprejudiced”と書かれたドア(差別する心を持たない人のためのドア)があります。そして実は「差別する心を持たない人のためのドア」は開かないようになっています。つまり全ての人が「差別する心を持った人のためのドア」を通らなければなりません。



これは「誰もが偏見や差別する心を持っている。差別や偏見をなくしていくためには、まずそのことを自覚しなければならない」というメッセージではないでしょうか。

このことを見事に描いたハリウッド映画の名作が『招かれざる客』(1967)です。



リベラルな新聞社(人種差別問題も積極的に取り上げる)のオーナー、マット(スペンサー・トレイシー)は、娘のジョーイ(キャサリン・ホートン)が家に招いた婚約者を見て愕然とします。なぜならその婚約者・ジョンが黒人だったからです(演じているのは黒人で初めてアカデミー主演男優賞を受賞したことでも知られるシドニー・ポワチエ)。マットは、それこそ「差別するつもりはないけれど」的な態度で二人の結婚に反対します。しかし、ジョンや娘と対話していくうちに自らの中にあった偏見や差別意識を自覚し、それを改めていくことで、二人の結婚を受け入れていくようになります。



差別は「悪いこと(正すべきこと)」ではありますが、「悪い人」「悪意がある人」または「(在特会のような)一部のおかしな人々」だけが差別を生じさせるのではありません(参照:差別は悪意(のみ)によって生まれるのか)。ある差別に敏感でも、他の差別には鈍感な人もいます(たとえば民族差別に敏感でも、女性差別やセクシャルマイノリティ差別には鈍感なケースなど)。『招かれざる客』のマットのように反差別を掲げていても自覚なしに差別意識を抱いてしまっている人もいます。

「自分は差別をしない」という「決意」と、「自分が差別をしているわけがない」という「思い込み」は全く異なるものです。差別をなくしていくためには、単に「差別はよくない」という「建前」で済ませるのではなく、“prejudiced”のドアを開ける覚悟・勇気が必要なのではないでしょうか。



(※注1)
話がやや抽象的になりすぎているかもしれないので、ここで「お茶くみが女子社員にのみ押しつけられている会社で、一部の女子社員から「女子社員だけがお茶くみをやらされるというのはおかしい、女性差別だ。男性社員もお茶くみの仕事を分担すべきだ」という声が上がった状況」を想像してみましょう。それを当然だと認識していた男性社員からすれば「それまで自分たちがやらずに済んでいた(利益を得ていた)仕事をやらなくてはいけなくなる」ということで、何とか現状維持を正当化したい欲望にかられ、たとえば「だって男がいれたお茶より女の人がいれてくれるお茶の方がおいしいでしょ?」とか「俺ら(男性社員)は忙しくてそんな暇ないよ」とか「理屈はそうかもしれないけどさ、そんなギャンギャン言われたら、こっちもハイわかりました、とはならないよ」 などと「反論」するケースが考えられます。

Menu

メニューサンプル1

メニューサンプル2

開くメニュー

閉じるメニュー

  • アイテム
  • アイテム
  • アイテム
【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます