忘却からの帰還〜Atomic Age - 米国動画・音声
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米国動画・音声

戦時放送
軍内動画

核爆発の影響を詳細に測定すべく、住宅や中継塔などを建てて行われた、11回の核爆発を含む1953年の核実験。これらのうち、Annie(16kt)は住宅などへの影響を調べたOperation Doorstepに利用された。
核爆発の影響を詳細に測定すべく、地上や空中に線を引き、計測器を配置した1955年前半の14回の核爆発を含む核実験Operation Teapotを解説した映像である。Operation TeapotのApple-2の爆発は、住宅などへの影響を調べたOperation Cueに利用された。
ICBMやIRBMや対空・対潜核兵器などの開発、民間及び軍事施設への核爆発の影響、放射線の生物への影響などを調べた、27回の核爆発を含む1957年の核実験Operation Plumbbobを解説した映像である。
  • Operation Plumbbob

専用車両で高速移動できる核兵器発射システムの機動性を宣伝する、アトミックキャノン紹介動画。
陸軍の支援砲撃兵器として、M388核砲弾を発射する、M-28/M-29アトミックランチャーDavy Crockettを紹介する動画。砲兵3人で、20トン爆弾相当の砲弾を投擲できるのが特徴。

Project VELAは部分的核実験禁止条約(1963)及び地下核実験制限条約(1974)の遵守検証のための米国エネルギー省とDARPAのプロジェクトであり、その一つが地震計による地下核実験探知を目指すVera Uniformだった。その実験がアラスカ州アリューシャン列島アムチトカ島で行われた。
地下核実験のフィージビリティスタディとして実施されたアムチトカ島での核実験第2回。
Milrowに基づき、「スパルタン弾道弾迎撃ミサイルのための強化X線弾頭」のための核実験がアムチトカ島で行われた。これがアムチトカ島での地下核実験3回目である。
一方、核爆弾の平和利用も研究された。
平時の教育用動画・放送

住宅や住民への核攻撃の影響を調べるための2回の実験に基づく、民間防衛映画や報道など。1953年に行われた核実験Operation Upshot-KnotholeのAnnieを使ったOperation Doorstepと、1955年に行われた核実験Operation TeapotのApple-2を使ったOperation Cueの民間防衛動画。
核攻撃への備えや放射性降下物対策などを教育する短編映画集。 1950年代には既に米国でも核攻撃対策をガイドするブックレットが作られていた。それを、映像化したものだが、ブックレットよりも楽観的な雰囲気がただよっている。
市外への退避計画や核戦争時の行政府機能継続のための施設整備などを推進した自治体として知られるのが、オレゴン州ポートランド市である。退避計画に基づいて、1955年には市中心部からの10万人規模の退避訓練"Operation Greenlight"を実施した。それを含め、ドキュドラマ形式で、ポートランドの核戦争対応プランを紹介したのが、CBSが1957年12月に放映した30分番組"A Day Called X"である。なお、この番組では、ソ連爆撃機の探知からポートランド市上空への到達までを描き、実際の攻撃のシーンはない。
複数回実施された民間防衛演習Operation Alertのうち、1961年バージョンでは、ConelradでJohn F Kennedy大統領のメッセージが放送されている。
1分から数分程度という、Protect and Surviveテレビバージョンと同様のラジオスポットも制作された。
民間防衛教育LPレコードも制作された。インストラクションを音声で吹き込むだけでなく、ドラマ編をつけたものもあった。
プロパガンダ・公共広告

ネバダ核実験場に近い、ユタ州セントジョージでは、人々は、核実験を日常の出来事として経験しており、何も気にするようなものではないことが提示されているネバダ核実験場解説動画。

1951年に作られた、とってもアメリカンな反共プロパガンダ。
1952年に作られた、わりと穏当な反共プロパガンダ。ロシア革命前から歴史をたどりつつ、ソ連に対抗する必要性を訴えかける。
放射性降下物に対する恐怖心をなだめる広告
自宅シェルター建設の無料相談を州政府が行っていることを広報する広告
奇襲攻撃に備えて空中待機する核爆撃機。墜落したり、誤った核爆弾を投下しないのだろうか。そのとき、核爆弾は爆発するのか、放射性降下物をまき散らさないか。この問いに答える、米国空軍の一般向け動画(1960)
1948〜1958年の間に43回の核実験が行われたエニウェトク環礁。実験開始前には北東部エンジェビ島と南部エニウェトク島に住民がいたが、ウジェラング環礁に強制移住させられた。その後、1972年から放射線及び瓦礫調査が始まり、除染計画が立てられた。そのことを紹介する国防総省核兵器局(現: 脅威削減局)による解説動画(1976)