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この街には、様々な人々が行き交っている。
足早に家路を急ぐ者。
人と会う約束をし、待ち合わせ場所に向かう者。
そして未だ見ぬ恩人を探し求め、一人街を彷徨う者。

自身の目的のために急ぐ者達の群れが、自分以外の人間に対して意識が希薄になるのは当然だった。
ここにも一人、行き交う人々の群れに弾き出され、路上に倒れ込んでしまった少女が居た。
だがそんな少女の姿を見ても、誰も手を差し伸べようとはしない。
まるで凍てついた風が、人々の心までも凍りつかせてしまったかのようだった。

か細く、それでいて乱れた呼吸で覚束ない足取りのその少女。
芹沢儚は路地裏への入り口の壁に身を預け、張り裂けそうなほど激しくなった鼓動が収まるのをじっと待っていた。
全身に行き渡る血管の一本一本が、心臓が脈動するたびに膨張するかのような感覚。
いつもよりずっと酷いな、と儚は思う。
それも当然だった。ここまでの長時間の外出と遠出は、彼女の人生において初めての事だったからだ。

生まれついて身体が弱く、外出はおろか学校へ通う事も満足にできなかった。
そんな自分の境遇を呪ったりもした。
だが彼女は曲がった道を歩むことは無かった。
それは、いついかなる時も自分を支えてくれた兄と、一人の男のお陰だった。

あの時。死を覚悟しそれに恐怖するとともに、死を受容しようとする自分が居た。
これでこの苦しみから永遠に解放される。そう考えると、むしろここで死ぬことは自分にとっての救いなのではないか。
そんな考えが頭をよぎったのだ。
気を失いかけたその瞬間、力強く抱き上げられる感覚が彼女の意識を覚醒させた。

『…大丈夫か?…おい、しっかりしろ!』

次の瞬間、声の主は自分を抱きかかえたまま走り出した。
走るスピードに似合わず、優しく揺れる腕の中で意識が薄れていった。
彼女が次に目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
円城寺羅候。それが命の恩人の名だと彼女は知る。

一言、命を繋いでくれたお礼が言いたかった。
だがいくら連絡しても、円城寺は病院に訪れはしなかった。
聞けば円城寺は地元では有名な不良らしく、そもそも素直に礼を受ける人物ではなかった。
一応の礼を、ということで円城寺羅候の姉に当たる人物が訪れたが、彼女が東京に帰る日まで当の本人はついに姿を現さなかった。

「だけど…今度こそ、会える…よね」

気を抜けば、膝下から崩れ落ちそうなその身体を引きずるように街に訪れ、彷徨い歩く彼女。
彼女の目的は、今この街で騒ぎを起こしている人物に会う事だった。
その噂と共に渦中の人物の名を聞いた時、何かの間違いではないかと耳を疑った。
しかし同時に円城寺に会い、あの時の礼を言うチャンスとも考えた。

しかし、長期間に渡る外出と疲労が、彼女の身体を苛み始めていた。
その限界は、恐らくすぐそこまで来ているだろう。
今の彼女は僅かに残った気力と使命感のみで立っているに過ぎなかった。

「おぉ?こんなところでなにやってんだい姉ちゃん」

後ろからかけられたその声に、儚はぎくりとした。
しまった、と思った時にはすでに遅かった。
朦朧とした意識のまま歩みを進めていたせいか、いつの間にか路地裏の奥にまで入り込んでいたのだ。
ゆっくりと振り返ると、そこには歪んだ笑みを浮かべたチンピラ風の男が数人立っていた。

「…な、なんでも…ないです…」

呼吸を整えながらもそう答え、男たちの脇を抜けて大通りに戻ろうとする。
しかし、彼女のその手を男の一人が掴んだ。

「いやいや、せっかくこんなとこまで来てくれたんだ。もうちょっとゆっくりしていけよ」

後ろに立つ男たちが、下卑た笑い声と共に囃し立てる。
掴まれた腕を振り払うような力を持ち合わせていない彼女は、絶望で顔を蒼白にする事しか出来なかった。

「いや…離して…!」
「そいつは無理だなぁ…姉ちゃん、運が悪かったな」

それでも振り払おうと懸命に手を動かすが、掴まれた腕は振り解けなかった。
一気に引っ張られ、体勢を崩される。
やっぱり、自分には何も成し遂げる事なんか出来なかったんだ。
そんな諦めと絶望に似た感情が、彼女の心を塗りつぶしかけた。
…その時だった。

「あらそう?それならあんたたちも相当運が悪いわね」

澄んだ声と共に、何かを殴りつける音が聞こえる。
続いて情けない悲鳴が路地裏に響き渡った。
固く閉じていた目を恐る恐る開き、何が起こったのかをその目で確かめる。
凛とした態度。何者にも臆さない強い意志を秘め、チンピラ達を見つめるその瞳。
一切の隙を見せず、儚を守るように立つその姿。

「消えなさい。…次は無いわよ」

ただの一撃で戦意喪失し、逃げ腰になったチンピラ達を一瞥し、その女性はそう言い放つ。
怯えとも憎しみとも取れぬ表情を浮かべ、男達は路地裏の闇に消えた。

「ケイト…さん…」
「怖い思いさせちゃったわね。…見つけ出すのが遅れて本当にごめんね」

先ほどまでの鋭い顔つきとはまるで違う、柔らかな笑顔を浮かべた彼女…円城寺ケイトは、儚に手を伸ばす。
その手を取り、引き起こされる形で立ち上がると儚はふらつき、ケイトに抱き止められた。

「怖かった、です…もう、ダメだと思って…」
「ごめんね…もう大丈夫だから…お兄さんも今こっちに向かってるから、ね?」

そう言って、胸に抱いた少女の頭を優しく撫でる。
小さく震える儚の肩を抱きながら、ケイトは目的を一つ成し遂げた事に安堵した。
しかしもう一つの目的は、未だ果たせずにいた…。




切れかけた蛍光灯の明かりだけが、ひと気の無い路地裏を照らし出す。
明滅する光に、まるでストロボフラッシュに当てられたかのように一人の男が姿を現した。
日の当たらない路地裏であるが故に数週間前からそこにあったであろう水溜りの上を、まるで意に介さずに走ってゆく。
やがて男は背後から迫る追っ手の気配が消えたことを確信したのか、その足を止めた。
長い間使われていない錆びついた鉄の扉に背を預け、乱れた呼吸を整えるように深く深呼吸する。

「…予想通りになっちまったな」

誰に語りかけるでもなく、その男…円城寺羅候は一人ごちた。
話が旨すぎると思っていた。
東京包囲殲滅戦の作戦立案から資金提供まで、全てを支援するという条件を提示してきた男、獅子神大吾。
こちらの報酬は街の掌握。獅子神への見返りは「街を支配したチームを擁する」という事実。
何のことは無い、この作戦が成功すれば自分たちは獅子神の傘下に組み込まれるだけの事だったのだ。
しかし東京を手に入れるなどという、誇大妄想狂ですら呆れるような野望の成就へのお膳立てをしてくれるというのならそれでも良いと思っていた。

そして獅子神の掌で踊った結果がこの有様だ。どうやら自分はこの賭けに負けたらしい。
いや、元から渡りきれる可能性など皆無に等しい、極めて危険な綱渡りだったのだ。
だがそれが一体なんだというのだ?
チャンスが目の前に転がっているのならば、命がけで獲りに行く。
それが自分たちのような不良として生きる者達の本質であり、本能だからだ。

荒々しくはあるが愚鈍ではない、と評される円城寺羅候。
呼吸が整い、全身から噴き出た汗が引いていく。
その冷静な思考回路はいまだ健在であり、現状の把握と今後の指針を頭の中に巡らせ始めた。

状況を逆転できる可能性は…すでに皆無だろう。
四強に潜入させていたメンバーも捕えられたと聞いているし、そこから今回の作戦の全容も明らかになっているはずだ。
ならば撤退すべきか?今となってはそれが最も現実的な選択肢だろう。
尋常ならざる痛手を負いはしたが、これ以上の争いはだたの自暴自棄に過ぎない。
決定的な壊滅に至る前に、事態を収拾すべきだ。

幸い…と呼べるかどうかは分からないが、すでに付き従ってきた舎弟やチームメンバーの多くは捕えられるか、街の外に逃亡している。
単独行動ならば、身を隠しながら脱出することも難しくは無いだろう。
そして当分の間は身を隠す。これしかないな。
次は逃走経路だ。その道を使えば奴らに見つからずに…。

その時だった。
自分が逃げてきた路地裏の奥から、アスファルトを踏みしめる音が聞こえたのだ。
反射的に身構える。足音から察するに、駆け寄ってきているわけではないな。
ならばすぐにこの場を離れるまでだ。
近付いてくる足音に背を向け、円城寺は駈け出そうとした。

その瞬間、この路地裏の唯一の明かりであった切れかけの蛍光灯が、軽い音を立てて爆ぜ散った。
周囲が完全な闇に包まれ、円城寺は駈け出すタイミングを見失う。
一歩一歩、確実に歩み寄ってくる足音の主。
いずれにせよこの場に留まるのは愚策だ。暗闇に慣れない目を凝らし、足音と反対の方向へ走り出す。

すると、少し先に建物の隙間から僅かに外の明かりが差し込んでいる場所が見えた。
当面はあの場所めがけて走ればいい。そこでこちらの姿も見られてしまうが、距離を稼ぐには十分だ。
そう判断し、円城寺は全速力でそこへ目掛けて走り出した。

だが次の瞬間、円城寺は自身の判断が誤っていたことを確信した。
いや、すでに状況が八方塞であったことに気付くのが遅かったというべきか。
数メートル先の明かりが差し込む場所。そこに、一人の男が立ちはだかっていることに気付いたのだ。

「…どうにもいけねぇなァ…」

隙間明かりを受けたその男は、呆れたような、あるいは憐れんだような声でそう言った。

「お気に入りの玩具ってやつはよ、面白くて仕方ねぇからついつい遊び倒しちまう。
だが…遊んで、遊んで…遊び尽くした玩具は大抵ブっ壊れちまうんだ…」

眼前の男の顔を自身の記憶と照合する。
そして次の瞬間、円城寺は戦慄を覚えた。この男…今自分の前に立つこの男は…。

「最近は俺に向かってくる奴なんざ、てんで見かけなくなったんだがなァ…。
だが…俺の街で好き勝手やってくれたって事は、俺に喧嘩を売ったって事で良いんだよなァ?」

四強を含め、どのチームにも属さず孤高を貫く男。
この街を自身の物と言い放つ、『魔王』の二つ名を持つ最強の一人…織田大牙。

「簡単に壊れねぇ玩具であることを願うぜ…?
お前は、俺を満足させてくれるのか?円城寺羅候よォ…!」

驚喜にも似た叫びと歪んだ笑みが周囲を支配する。
その覇気に一瞬身体が怯み、身動きが取れなくなるほどに。
次の瞬間『魔王』の手に握られた刃が、鋭い弧を描いて円城寺に襲い掛かった。




「羅候さんは…」

ようやく落ち着きを取り戻し、自身の力で立てるようになった儚が口を開いた。
その言葉の続きを、ケイトは黙って待つ。

「羅候さんは、何故あの時私を助けてくれたんですか?」
「…不良なのに、ってこと?」

その疑問はある意味当然だった。
他者の問題は自身には無関係である、という考えはその辺の人間ですら抱く考えの一つである。
ましてや羅候はいわゆる不良と呼ばれる類の人間なのだ。
真っ先にそう言った考え方をしてもおかしくはない。
それ故、儚は羅候が自分を助けたことに疑問を抱かざるを得なかったのだ。

「そうね…確かに今のアイツのやってる事を考えたら、とても信じられないと思うわ。
あの悪餓鬼が、誰かの命を救ったことがある、なんて…」

立てるようになったとはいえ、未だふらつく儚の身体を支えるようにして歩みを進めながら、ケイトは答える。

「…実はね。私も昔、儚ちゃんみたいに身体が弱かったのよ」
「そう…なんですか…?」

信じられないといった表情で、儚はケイトの顔を見つめた。
ゴロツキを一撃で殴り倒すほどの強さを持ったケイトが、昔は自分と同じくらいの虚弱体質だったなんて、と。

「あれは…確かまだ5、6歳だったかなぁ。父親が再婚して、日本に来たばかりの頃だったわ。
事あるごとに体調を崩しては、すぐ病院に担ぎ込まれて…。その度に羅候が泣きそうな顔して私の傍で言うのよ。
お姉ちゃん、元気になって。ってね」
「………」
「今じゃその願い通り、すっかり元気になったけどね。…でも、多分その事が原因なんじゃないかな。
あの時、病院のベッドで生死の淵を彷徨い続けた私と、儚ちゃんの姿を重ねてしまったんじゃないかしら…」
「…だったら…今、羅候さんがやっている事は…」

ケイトから聞かされた話は、羅候が命の尊さを知る者であるという事に他ならなかった。
だからなおの事、儚には理解できなかった。羅候がこのような騒ぎを起こし、他者を傷つけているという事が。

「そう。アイツは今、変な意地と衝動に駆られて暴れてるの。
これ以上面倒なことにならないうちに、引っ叩いてでも連れ戻す。それが私の目的よ」

そう言い切るケイトの顔には、不安など微塵も浮かんでいなかった。
そこには絶対の自信。そして、馬鹿をやらかした弟を叱る姉としての責任だけがあった。




「窮鼠猫を噛むってか。思ったより全然遊べそうじゃねぇか」

『魔王』織田大牙は、刀を持つ右手から痺れが引くのを待っていた。
振り下ろした刃は円城寺の身体に深手を負わせた。
だが円城寺はそこで退かなかった。続けて斬り付けた刀を、右手への蹴りで止めて一瞬の隙を作り、そのまま織田の背後の闇に消えたのだ。
少しでも怯めば刀の間合いに入り込み、切り捨てられていただろう。
しかし円城寺は敢えて前に踏み出し、刀の間合いのさらに内側に踏み込むことでそれを無効化したのだった。

「だがあの傷じゃあ長くはねぇだろうな…後始末は任せたぞ」
「…はい。わかりました」

闇の向こうから、声が返ってくる。
丁度通路の反対側、さっきまで円城寺を挟み撃ちにする形で歩いてきていた男、菅生光秀が姿を現した。

後始末、か。相変わらず軽く言ってくれる。
だがこの人の覇道を成すために傍に在るのが自分の使命なのだ。
その程度の汚れ役ならば、喜んで引き受けよう。
そう心の中で考えつつ、織田の次の言葉を待った。

「しかし…俺を楽しませる事が出来る奴ってのはなんでこうも少ないかねェ…。
こうなりゃ東京中のチームやゴロツキども全部に向けて宣戦布告でもしてやろうか…どうだ?面白そうだろう?」

その言葉を聞き、菅生は閉口した。そして改めて理解する。
この人にとっては戦う事だけが存在意義の全てなのだ、と。
揺るぎない『魔王』のその姿勢を頼もしく感じるとともに、戦慄も覚えた。
やはりこの人は理解の範疇を超えた存在だと。より多くの混乱を招きかねない危険人物であると。

…やるか…?今ここで。
菅生はそれと気づかれないほどの動きで、腰に備え付けたナイフに手を回した。
今この人は、自分に背を向けている。やるのは…今しかない…!

「あァ…それとな」
「…なんでしょう?」

不意に織田から声をかけられ、一瞬動きが止まる。
意識がこちらに向いている時は不穏な行動は慎むべきだ。
ナイフに添えた指はそのままに、織田の次の言葉を待った。

「大吾の野郎に伝えておけ。俺への刺客に光秀を選んだのは悪くない判断だが…まだまだ役者不足だ、ってなァ」
「…!!」

振り返りもせずにそう言い残し、織田は闇の中に消えていった。
その顔は恐らく、してやったりという表情だろう。
いつから気付かれていたのだろうか。
この騒動が起こる数日前、確かに菅生は獅子神大吾からの接触を受けていた。
ここ最近立て続けに起こる『東京』への襲撃事件。
『東京』を自分の街だと吹聴する織田にとって、見過ごし難い状況であるに違いない。

『織田は必ず動く。奴が隙を見せたら、お前が奴の首を獲れ。
その為のお膳立てはしてやる。』
それが獅子神大吾から伝えられたメッセージの内容だった。

だが…織田はその全てを見透かしていたのだ。
その上で自分を舎弟として傍に置くことを許している。
そんな小細工では自分の首を獲ることは出来ないという、絶対的な自信の表れだった。
『魔王』の肩書は伊達ではない、ということか。
菅生はナイフから指を離し、立ち去る織田の背中をただ黙って見つめていた。




斬られた身体が焼けるように痛む。
この傷では逃げ回る事はより困難になったようだ。
路地裏の階段から上ったこの小さな建物の屋上に身を隠しはしたものの、あまり長くは居られないだろう。
いや、それ以前に意識が遠のき、身体の自由が利かなくなりつつある。

その時、階段を上る足音が円城寺の耳に届いた。
乾いた金属音が、やけに大きく聞こえてくる。
いよいよ俺も年貢の納め時か…身の丈も考えずに馬鹿な夢を見ちまったツケだな。
そんなことを考えながら、もはや立ち上がる気力も失っていた。

「…見つけたぞ、彼だ」
「羅候…?羅候!」

畜生…どうにでも、なれ…。
最後にそう呟こうとして、円城寺の意識は闇の淵に滑り落ちていった。




私たちが彼…羅候さんを見つけた時は、極めて危険な状態だったそうです。
それこそ生きていることが不思議なほどに。
だけどケイトさんやお兄ちゃんは、羅候さんを救う事を諦めませんでした。
そのお蔭か、羅候さんは一命を取り留めました。
けれど…あの時以来、羅候さんの意識は戻ってこないままです。

私は今も、羅候さんが戻ってくるのを待ち続けています。
あの時、私が目覚めても貴方はそこに居なかったけど、貴方には私が居ます。
そして貴方の心が戻ってきたら、最初にこう言います。


『ありがとう。そしてお帰りなさい』って。


「東京包囲殲滅戦 -完-」

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