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  • プロフィール
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、グルジア語:იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი)はソヴィエト社会主義共和国連邦の独裁者である。「スターリン」という姓はロシア語で「鋼鉄の人」を意味する筆名で、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語:Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。
1878年、ロシア帝国統治下のグルジア(現ジョージア)で生まれた。キリスト教正教会の神学校で教育を受けるが、後に無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年10月に神学校を去って革命家へと転身した。
その後、レーニンが率いるボリシェヴィキに加わり、1912年に党中央委員に選出された。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握した後、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となり、1922年4月に党書記長に就任し、同年12月のソ連の建国にも深く関与した。
ソ連の指導者であったレーニンが1924年に死去すると、共産党ナンバー2のトロツキーとの権力争いが始まり、カーメネフとジノヴィエフと同盟(トロイカ)を組むことでトロツキーを亡命に追い込む。自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで最高指導者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派の粛清の大義名分としても用いられた。以降は人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長、軍事大臣、前述の党中央委員会書記長、大元帥などの要職を兼任し、死去する1953年3月まで最高指導者の地位にあった。
スターリンがソ連の二代目最高指導者となると、まず農民にある程度の土地の所有を認めていたネップ政策を終了し、農業の集団化を始め、ソフホーズやコルホーズを建設した。
次に、1928年にから第一次五カ年計画を開始した。当時のソ連は欧米列強と比べて大きく工業化が遅れていたので、ソ連の工業水準を5年で欧米諸国と並ぶまでに成長させようとした計画だ。しかし、工業化にかかる資金は農民から収穫された作物を強制徴収して、それらを他国に輸出することで外貨を獲得し補っていたため、ウクライナなどで計画的な大飢饉(ホロドモール)が発生し、一説には330万人もの死者を出した。しかし、当時は世界各国が世界恐慌による不景気の影響を受けていたのだが、社会主義国だったソ連はその影響を受けず、世界恐慌の期間にも経済的成長を遂げた稀有な国となり、国際連盟に加盟を果たした。ソ連は当時「楽園」とも言われた。
当時、スターリンに次ぐ権力を保持しており、スターリンの権力基盤を揺るがしかねない存在だったキーロフが1934年に「何者か」に暗殺された。キーロフ暗殺を受けて、次は我が身だと思い恐怖したスターリンは、自身に反対する者を次々と粛清するようになった。大粛清の始まりだ。スターリンに対抗していたブハーリンや、かつてトロイカを組んだカーメネフとジノヴィエフなどを次々と粛清していき、周囲をスターリン派であるモロトフやエジョフ、ヴォロシーロフらで固めていった。粛清は政治家だけではなく、赤軍にも及び、赤軍の至宝と言われたトゥハチェフスキー元帥も処刑されてしまった。また、民間人や外国共産党員まで粛清されるようになり、ついには粛清を行っていたソ連の秘密警察であるNKVD議長のエジョフまで粛清された。この大粛清により、一説には1000万人が処刑され、多くの人々がシベリア送りにされた。
ミュンヘン会談にソ連が呼ばれなかったことを不満に思い、イギリスやフランスに猜疑心を向けていたスターリンは、1939年にナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。この条約には秘密議定書が存在しており、その内容はドイツとソ連がヨーロッパを分け合い、ソ連はロシア革命時に失った旧ロシア帝国領を取り戻すことだった。ソ連は秘密議定書に従い、1939年にポーランドに侵攻し東半分を獲得、1940年にはバルト三国を占領しこれを併合、しかし、フィンランドを併合するために1939年から始まった冬戦争ではフィンランドの領土を少しだけ獲得するだけにとどまった。先の大粛清により優秀な軍指導者が処刑され、赤軍が大きく弱体化していたからだ。この出来事は、のちにヒトラーがソ連侵攻を決定する後押しとなった。また、この一連の他国への侵攻により、ソ連は国際連盟を追放された。
1941年、突如としてドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻した。独ソ戦(大祖国戦争)の始まりだ。実は前からドイツがソ連に侵攻しそうな兆候はあったのだが、なぜかヒトラーを信用していたスターリンはそれを信じなかったため、ただでさえ大粛清で弱体化した赤軍は、なんの準備もなしにドイツと戦争するはめになった。そのため、一時はレニングラード(現サンクトペテルブルク)が包囲され、モスクワの一歩手前までドイツ軍が迫る危機的状況だったが、屈辱的だが連合国の支援を受けたためにスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の戦いでドイツ軍を壊滅させると、そのままの勢いで戦線を押し上げ、バグラチオン作戦の成功により一気に戦線を押し戻し、ついに1945年にベルリンを陥落させることに成功した。しかし、独ソ戦でのソ連の犠牲者数はなんと2000万人以上にも及ぶ。そして、ベルリン陥落前のヤルタ会談で取り決められた通りにソ連は対日参戦し、満州や朝鮮半島、樺太、千島列島を占領した。
こうして、第二次世界大戦の戦勝国となったソ連は、国際連合の常任理事国となり、東ドイツやルーマニアなどの東欧諸国を勢力圏において鉄のカーテンを下ろし、アメリカと並ぶ超大国に成長し、アメリカと冷戦を始めることになる。そして、第二次世界大戦を勝利に導いた(?)スターリンの権力は盤石なものとなる。
第二次世界大戦後のソ連は、中国の国共内戦において共産党を支援して1949年に中華人民共和国を建国させるのに成功し、1946年の第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国、1950年の朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していった。
ソ連国内では、スターリン主導のもと戦後復興が行われ、その傍ら科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装・宇宙開発などに予算や費用が投じられており、1949年には核実験が成功し、アメリカについで史上二番目の核保有国になった。
1953年、スターリンは徹夜の夕食会を終えた後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことにスターリンの寝室の唯一の鍵を持つ警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたといわれている。発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。発作で倒れてから4日後の1953年3月5日、スターリンは危篤に陥り死亡した。74歳没。
スターリンの遺体は、本人の希望により防腐処理が施されて1961年までレーニン廟で、同じく防腐処理されたレーニンとともに保存されていたが、ソ連の最高指導者となったフルシチョフによって1956年にスターリン批判が行われ、スターリンが行った大粛清と個人崇拝が全世界に知れ渡り、その煽りをうけてスターリンの遺体は燃やされた後、レーニン廟裏の革命元勲墓に改めて埋葬された。
国家反逆者として処刑された、スターリンの大粛清の犠牲者は、スターリン死後に名誉回復を受けることになる。

  • キャラ栗武器
38式歩兵銃 


(成功時台詞)
「一人の人間の死は悲劇だが
数百万の人間の死は統計上の数字だ」

彼に威圧されて〇〇〇〇は動けない!

栗画像


(通常クリティカル時台詞)
「死が全てを解決する
人間が存在しなければ、問題も存在しないのだ」

正直者の外交官など
乾いた水や木でできた鉄のようなものだ」

わしが小指をちょいと動かせば、お前なんぞ、吹き飛ばされて木端微塵だ」

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