架空の世界で創作活動及びロールプレイを楽しむ場所です。

シルクジャケット(本名:イシャイニシュス「二つの月」)ヌナブト諸民族連邦の先住民族パヤブヤ族のチーフ、呪術師、戦士。
凡そ40年間に渡って当時の植民地政府と戦い続けたイースト・ネイティヴ(東部先住民の総称)最大の英雄であり、征服者達の前に立ちはだかった「最後の長老」であった。
降伏後の記念写真



生涯

前半生

パヤブヤ族の口承によれば、イシャイニシュスー後にシルクジャケットととして恐れられることになるーは、ヌナブト東部のグリージーグラス川流域の集落で生まれた。
父親は部族の大戦士の一人であるジャンピング・フット、母親は当時のチーフの娘であった。
幼い時の彼は非常に物静かな人間で、生まれた時もほとんど泣き声を上げなかった。故に父親は彼の最初の名前に、「サイレンスマン」、ついで「スリーピー」と付けた。
パヤブヤ族の価値観では、勇猛果敢で敵を恐れずに戦える男が最も尊ばれた為、物静かで争いを嫌う彼は他の若者達から侮られ、「老人」や「生ける屍」と言った侮辱的な名前で呼ばれた。しかし、一方で実直で優しい性格は年嵩の戦士達や女達から好まれ、10歳の頃には早くもチーフの一人であったリターンズ・アゲイン老人の助手の一人として、調停者の仕事を学んだという。
15歳になる頃には、彼は卓越した知識と明晰な頭脳を持つ若き呪術師として、部族の人々を助ける様になっていた。父親は自分とは対照的に育った息子に対し「イシャイニシュス」の名前を贈り、その前途を寿いだ。(空の月はパヤブヤ族の神話において知識の象徴とされ、力を象徴する太陽とは対をなす)

ギアピット族との戦い

イシャイニシュスが15歳から20歳の頃にかけて、パヤブヤ族はギアピット族との激しい戦いを経験した。
ギアピット族は当時10万以上の人口を擁するヌナブト最大の先住民集団の一つであり、パヤブヤ族をその強大な武力で圧迫していた。典型的な草原先住民であったパヤブヤ族は、卓越した騎馬の戦闘技術で彼らに対抗したが、数の不利を覆せず段々と狩場を東に移さざるを得なかった。
そんな中、彼は数十人の戦士達で構成された略奪部隊に参加し、幾度となくギアピット族のティピーを襲撃して馬や物資を奪った。
グループ内で彼は主に作戦を立案する役割を果たし、後に肩を並べて戦うナイトホースらの戦士達が戦闘を担った。これにより彼は「プランナー」の渾名を仲間から付けられるとともに、卓越した武勲の証である鷲の羽を贈られた。(パヤブヤ族をはじめとした草原の先住民は、敵を討ち取ったり、人命救助に活躍したりした構成員に、功績の証として鷲の羽を贈る風習がある。これらの羽を集めて作られるのが有名なウォーボンネットである)
彼が20歳の時、第三次ギアピット戦争によりギアピット族が滅亡する。これによりパヤブヤ族は同じ先住民の脅威からは解放されたが、より恐ろしい敵に相対することとなった。

チーフとして

ギアピット族が滅亡した後、大陸全土の植民地化を目指す白人達の植民地政府は、依然として先住民集団が割拠していた大陸東部ー現在のヌナブトとフリージアの東部国境地域ーに目を向けた。
植民者による遠征は、三度にわたるギアピット戦争以前に幾度か行われていたが、ギアピット族の絶滅後その動きはさらに加速し、騎兵隊に護衛された開拓者たちが侵犯を繰り返した。
しかし、精強を誇ったギアピット族が長きに渡る戦いの結果滅亡したことは、多くの先住民に心理的な打撃を与え、武力抵抗の気概を奪い去った。結果として、パヤブヤ族と祖先を同じくするピクンチェ族、ハンクパパ族などの集団が続々と降伏し、イースト・ネイティヴ達は分裂状態に陥った。
また、植民者達は各部族間の争いを煽り、元来敵対してきた先住民同士を凄惨な戦闘に引き込んで、力を削いだ後併合するなどの策謀を弄し、幾つもの部族が壊滅の憂き目にあった。
イシャイニシュスが22歳の時、植民地政府はイースト・ネイティヴの10の部族(パヤブヤ族は含まれていない)の「大酋長」との間に条約を結び、彼らを植民地の国民として偶し、その土地を接収すると宣言したが、それは元来絶対的な支配者を持たない直接民主主義社会の先住民達をさらなる混乱と悲劇に突き落とした。
元よりヌナブト先住民の多くは「酋長」の語で連想される様な絶対的な支配者を頂かず、部族構成員による直接民主制によって社会を運営してきた。酋長にあたるチーフはそうした場所での調停者、ピースメイカーであり、部族全体の代表でも、ましてや主権者でもなかった。部族の人々は皆平等な権利を持つ個人であり、何人にも命令を受ける必要はなく、もしも彼らがチーフや長老達の合議に従うとすれば、それはあくまで優れた年長者達に対する敬意からに他ならなかった。
しかし、そうした先住民の社会を理解できない植民地政府は、「すべての部族民を統べる酋長」と条約を結びたがり、筆記の文化すら持たない彼らに不平等な条約への署名(×印を書くだけ)を強いた。
結果として先住民達の多くは植民地の隷属民として編入され、広大な土地を彼らにとっては何の価値もない二束三文の金銭で買い叩かれた。それだけでなく、彼らは不毛の保留地への移住を余儀なくされ、時に起こる反抗は苛烈な虐殺によって鎮められた。
この様な破滅的混乱がパヤブヤ族にも忍び寄りつつある中、イシャイニシュスは24歳にして部族のチーフの一人となり、その他のチーフや年嵩の長老達と共に部族の調停者として白人達が言うところの「部族評議会」に参与した。以降彼はその死に至るまでパヤブヤ族の精神的支柱として、人々の尊敬を集めることになる。

シルクジャケット

イシャイニシュスが25歳の時、パヤブヤ族と植民地政府の支配圏とを隔てていたクロウ族が圧力に負けて逃亡し、パヤブヤ族のテリトリーに流れ込むと言う事件が起きた。
元来クロウ族は草原の先住民としてパヤブヤ族と厳しく対立していた集団であり、部族の中には彼らを受け入れずに悉く処刑するべきとする意見も多かった。
しかし、彼は逃げ込んできた2,000人近いクロウ族の殆どが女子供、老人であることから、チーフ達の会合で受け入れることを主張した。彼は精強なクロウ族をいとも容易く崩壊させるだけの武力を持った、桁違いの敵が襲ってくることを既に予期していたのである。
三日三晩の協議と折衝により、クロウ族の人々はパヤブヤ族の一部として受け入れられた。元々彼らのチーフを務めていた人々は新たにパヤブヤのチーフ達の中に加えられ、戦士達も戦士団に編入された。クロウ族のテリトリーも、また併合されることとなった。
この決断によってパヤブヤ族の規模は大きく拡張し、イースト・ネイティヴの中でも抜きん出た勢力を持つ様になったが、結果としてイシャイニシュス、およびチーフ達の判断はパヤブヤを危機に瀕させることになった。
二ヶ月後、パヤブヤ族のチーフ達は植民地政府を名乗る「ワシチュー(白人)」の使者の訪問を受けた。使者はチーフ達を前に次の様に述べた。

・クロウ族の人々は、酋長ワイドボーンが条約を結んだにもかかわらず、保留地入りを拒否して逃げ出した犯罪人であるから、すぐに引き渡すこと
・グリージーグラス川以北の土地はクロウ族のテリトリーであり、それは既に植民地政府に譲渡されたものであるからすぐに立ち退くこと
・パヤブヤ族の酋長達はすぐにライミー砦に参集して、植民地政府と条約を結ぶこと

この提案はチーフ達を困惑させた。そもそもとしてヌナブト先住民の社会には、一人で全てを決する様な「酋長」は存在せず、もしも「酋長」とやらと条約を結んだとしても、それはあくまで個人間の約束であって部族全てを拘束する様な物ではない。
加えていえば、縄張りや狩場の所有権は武力抗争の結果か、部族全体の意思で譲渡されることで動くものであり、酋長の判断で取捨などできるはずもない。現にパヤブヤ族が持つグリージーグラス川以北の土地は、クロウ族全体の意思として譲渡された物であるから、よくわからぬワシチューが権利を主張する根拠はどこにも無いはずだった。
チーフ達はワシチューの要求をよく検討したが、やはりその意図をうまく汲み取ることはできず、一先ず彼らが交渉を望むことだけはわかったので、パヤブヤ族の意思を代弁する使者として、その頃30人いたチーフの半数を派遣し、残りの者達は引き続き部族内の調停を務めることにした。
そして、約束通りライミー砦に現れた15人のチーフ達に対し、砦の司令官であるジョセフ・チヴィントン植民地軍少将は、無造作に条約案を放り投げ、一言「大酋長は署名せよ」とだけ告げた。
これに対し、文字を読む文化も大酋長なる存在もいないチーフ達は混乱し、一つ一つ説明を求めた。
その後、拙い通訳によって説明を受けた彼らは、大酋長とはどうやらチーフの中で最も年嵩で、経験豊富な者のことを指すらしい、と考え、一団の中にいたイシャイニシュスの父であるジャンピング・フットを推薦した。ジャンピング・フットは
チヴィントンに対して、ワシチュー達が何を望むのか、こちらへの見返りは何かと粘り強く尋ねた。
そして、なんとかワシチュー達の要求が、パヤブヤ族の植民地統治下入りと、先住民保留地への移住であることを引き出すと、他の14人のチーフ達と口を揃えて拒否の返答をした。

"我々はこれまで仲良くやってきた。これまで通り、私たちは馬を増やしてバッファローを狩り、あなた方は道具とトウモロコシを作る。そして、互いに時折それを交換する。それでいいのではないか"
「東部先住民戦争」より、ライミー砦の交渉でチーフ達が出した結論

すると、遅々として進まない交渉に激しく苛立っていたチヴィントンは逆上し、15人のチーフ達を不当に拘束すると、事実上の人質としてパヤブヤ族に条約締結を迫った。
牢獄では公然と法律で禁止された拷問が行われ、また劣悪な衛生環境のせいで病気も蔓延した。
結果、一カ月間の拘束によって15人中5人が拷問と病気に苦しめられ獄死に至り、残る10人のうち4名は脱走を試みて射殺され、生き残った6名が半死半生の状態で条約に署名することとなった。
威圧的な騎兵隊に護送されて帰還したチーフ達の姿を見たパヤブヤ族の人々は激昂し、ワシチューに報復するべしと声高に叫んだ。
そんな中でもイシャイニシュスは冷静さを保っていたが、父が惨たらしく殺害されたと知ると彼も態度を豹変させ、「年相応の荒々しさ」で開戦を主張した。
そして一週間後、彼も参加する略奪部隊100人がワシチューの警備隊に物資を輸送する幌馬車隊を襲撃し、大量の武器弾薬を強奪する事件が起きる。この戦いの後、彼は荷物の中にあった軍服の一部であるシルクのシャツと革製のベストを自身の晴れ着として着用する様になった。部族の人々は、彼に新たに「シルクジャケット」の渾名を付け、ワシチューへの抵抗の象徴としたのだった。

ブラッディジャケット

輸送隊が襲撃され、数百丁の銃と2万発余りの弾薬が強奪された事件は忽ちフロンティア全体に伝わった。パヤブヤ族が行動を起こしたという報は、悲惨な移住を強制されつつあった先住民達を勇気づけ、他方植民地政府を筆頭とするワシチューの態度を硬化させた。
植民地政府はパヤブヤ族を徹底的な掃討の対象とし、凡そ2,000人の武装した騎兵隊を砦に送り込んだ。
一方パヤブヤ族も、ワシチューが攻撃を目論んでいることを知ると即座に部族の意見を交戦に纏め、周辺の部族にも協力と援軍を要請した。シルクジャケットは各地で卓越した言語力を発揮し、演説によって戦士達を鼓舞した。
彼の下に集まった各地の戦士達は10,000人にもなり、かき集めた火器の総数は1,500丁を数えた。
条約締結から一月後の満月の夜、シルクジャケットら先住民達は、砦を騎兵隊が出立してパヤブヤ族のティピーを襲おうとしているという情報を知り、直ちに戦士達を集めて予想される進路で待ち伏せを仕掛けた。待ち伏せをしたのはグリージーグラス川の流域、かつて大小の古代生物の化石が発見されたことからリトルビックボーンの名前がついている場所である。
先住民達は街道を見下ろす丘の上に騎馬隊を配置し、側面の森の中に弓や銃を使う徒歩の戦士達を潜ませた。シルクジャケット本人は、道の正面にティピーを張って敵を引きつけ、総攻撃のために隊列が伸びた騎兵隊を包囲しようと考えていた。
翌朝。フィリップ・シェリダン将軍率いる1,500人の騎兵隊は、リトルビックボーン周辺を通りかかったところを先住民達に強襲され、忽ち数に勝る彼らに包囲された。
シルクジャケット本人も前線で手斧を振るい、10人以上のワシチュー達の首を切って落とした。この返り血で彼の白いシャツは真っ赤に染まり、その姿は敵味方から「レッドジャケット」、「ブラッディジャケット」と呼ばれ恐れられた。
昼になるまでに植民地軍の騎兵隊は、砦への使者として隊列を離れたジョン・ピンカートン少年志願兵を除いて文字通り全滅した。シェリダン将軍も首を取られ、原野には1,500人の騎兵隊の死体が延々と横たわったのだった。

涙の旅路

リトルビッグボーンの戦いの結果は先住民達を大きく鼓舞すると共に、植民地政府の憎悪を決定的なものとした。政府は早くも翌月には「先住民移住基本法」を制定し、「即座に条約を結んでいない先住民と条約を結び、保留地に移住させる。条約締結を拒否する部族は武力で威嚇しても構わず、保留地移住を拒む部族は絶滅させること」を規定した。
この規定に基づき、リトルビッグボーンの戦いに触発されて起きた各地の先住民の蜂起は徹底的に鎮圧され、女子供まで含む虐殺が当然の様に行われたのである。
一方シルクジャケットは、大勝利を生かすべく他のチーフ達と共に植民地政府との交渉を行おうとしたが、彼らは敗北の屈辱から憎悪に凝り固まり、もはやパヤブヤ族は絶滅させるほかないと考えていた。
彼が27歳の時、植民地政府はおよそ15,000人の大軍を東部に派遣し、反抗する先住民達の徹底的な排除と民族浄化を図った。これに対し戦士達は抵抗と最後の決戦を主張し、実際に幾つかのグループが先端を開いたが、油断によって全滅したリトルビッグボーンの戦訓を活かした追討軍に大敗し、多くの死者を出す結果に終わった。
シルクジャケットを含めたパヤブヤ族のチーフ達は幾日にも渡って協議を重ねたが、主戦派も降伏派も一歩も譲らずに膠着。そして、遂にシルクジャケットは自らを慕う人々を集めてパヤブヤ族の居住地を出奔し、未だ白人の勢力が及ばぬ南へと逃走した。
この逃避行にはパヤブヤ族の約半分と、他のチーフ達を中心にした部族集団総勢15,000人余りが参加し、脅威を避けて南へ南へと逃れていった。彼らは最終的に40年間、距離にして5,000キロ余りの道のりを行くこととなり、後にこのルートは「涙の旅路」と呼ばれる。

40年の戦争

シルクジャケットの当時の想像画

「涙の旅路」によって現在のフリージア側に向かったシルクジャケットは、現地に元から住んでいた先住民集団に対して、北からやってくる植民者達の脅威を説いて回った。彼らは概ねヌナブト先住民と文化や社会構造を同じくしており、中には貿易を通じて交流のある部族もあった。
そうしたことからフリージア北部に勢力を持っていたナドワ族やティカソー族、ジャワノー族などが流浪する彼の集団を受け入れ、ワシチュー達に対する抵抗の大同盟を築いた。
一方植民地政府は現在のヌナブトの領域支配をほぼ固めると、ついでフリージア側の先住民族制圧に手を伸ばし始めた。
そして、ティカソー族のチーフの一人であるミキシナクヮが条約交渉のもつれから白人によって撲殺されたことをきっかけに対立は爆発し、以降フリージア北部では10年以上に渡り苛烈な先住民と白人の戦いが繰り広げられた。
シルクジャケットも各地を転戦して戦士達を鼓舞し、幾度となく白人たちの追討軍を打ち破った。後に「ソルトクリークの虐殺」と呼ばれる戦いでは、追討軍は夜間の奇襲によって一度に400人の死者を出し、戦争全体では5,000人以上の損害を被った。
だが、全体として武力においてはるかに勝る白人たちの優位は揺らがず、先住民達はさらに南へ南へと追い詰められていく。シルクジャケットはここでも自らを慕う多くの人々と共に更に南へと落ち延びた。
以降約30年間に渡り、彼の率いる部族の混成集団は大陸各地を彷徨い、追い縋る追討軍と戦い続けた。その中でも執念深く彼を追ったのが、かつてのリトルビッグボーンの生き残り、ジョン・ピンカートン大佐だった。ピンカートン率いる騎兵連隊は脅威的な追跡能力で先住民達を追いかけ、各地で撃破し捕らえていった。
最終的にシルクジャケットとその集団はフリージアの南端に位置するマスコギー半島と、その周辺に広がる山岳まで追い詰められた。彼らはもはや平原でバッファローを狩ることもできず、山中や海から取れる肉や魚、そして白人達の居留地から奪えたわずかな穀物で女子供を養うしかなかった。
最後まで彼に追従した戦士の1人、ナイトホースは、
「居留地を出た時10,000人いた仲間達は、最後の地にたどり着いた時には半分もいなかったはずだ。若い戦士達はみんな死んでしまって、半分以上は戦えない者たちだった…奇しくも俺たちは、あの日俺たちを頼ってきたクロウ族と同じだった」
シルクジャケットは絶望的な状況でも希望を捨てず、ワシチュー達と必死で戦い続けた。既に孫が産まれ、旅立った時の仲間達は次々と死んでいった。もはや、パヤブヤ族の故郷を知る戦士は彼の周りにはほとんど居らず、言葉さえも段々と失われていったのである。

降伏と余生

パヤブヤ族の地を旅立ってから凡そ40年、シルクジャケットは68歳になっていた。すでに老境に達し、戦士として戦うことができなくなったことを悟った彼は、遂に植民地政府に対して降伏を申し入れた。
最期の日まで戦い続ける気概であったこの老戦士が降伏を決断したのには、二つの理由がある。
一つ目は40年の時を経て植民地政府が統治方針を大きく転換し、先住民との共存を図り始めたからである。
シルクジャケットが消えてから既に長い時が立ち、植民地政府の統治は日に日に磐石になっていった。余裕の出た政府は、これまで不安要素として徹底的な抑圧策を取っていた先住民に対し、共存と共栄を図る施策を打ち出し始めた。総督が交代したこともその動きを加速させ、パヤブヤ族を含めた多くの部族が、より環境が良く、故郷に近い肥沃な保留地に移住できることになっていたのだ。
二つ目は彼を最後に追い詰めたのが、あのピンカートンだったからである。
30年以上に渡る激しい戦いの末、ピンカートンとシルクジャケットの間には奇妙な友情が形成されていた。シルクジャケットは苦労して読み書きを覚え、ピンカートンに宛てて捕虜交換や酒などを贈る手紙を送り、一方ピンカートンの方も彼に宛てて医薬品や食料を融通する手紙を出した。
そんな友人が最寄の砦の司令官を務めていると知った彼は、遂に戦いを終えて降伏する決断をしたのだった。
使者を立てて降伏する旨を伝えさせると、ピンカートンは快く了承し、すぐに砦に戦士とその家族が休息できる設備を用意させた。
約束の日、シルクジャケットは正装し、自らを慕ってここまで付いてきた3,000人の先住民達と共に降伏した。彼の最後の晴れ姿であった。

ピンカートン将軍は、馬から降りたシルクジャケットの肩を抱き、長い間の苦労を労った。もはや二人は敵ではなく、互いに敬意を払い合う友人であった。
「ピンカートン将軍遠征記」より

その後シルクジャケットは、騎兵隊に護衛され、連れてきた同胞達と共に40年ぶりにパヤブヤ族の故郷に帰還した。保留地に残留した人々は、暫しの間艱難辛苦を味わったが、やがて共存政策によって満足な物資や医療の供給が受けられる様になった他、自治権を利用したカジノの経営を成功させて安定した暮らしを営んでいた。
彼らにとってシルクジャケットの名前は、自由のために旅立った伝説的な戦士として記憶されており、その帰還は熱狂的歓迎で迎えられた。
そして、彼は以後の余生を保留地にあてがわれた小さな家で過ごし、戦いを知らない子供達や若者に対して、自らの戦いの記憶や部族の歴史を口伝する語り部となった。戦争で研ぎ澄まされた苛烈な性格は、円満で温厚なものに変わり、時折訪れる友人と思い出を語る宴に興じた。
シルクジャケットは78歳で没した。遺言通り遺体は火葬されて草原に撒かれた為、墓はない。だが、命より大切にしていたウォーボンネットと、彼を記憶するシルクのシャツは今でも博物館に保存されている。

その後

シルクジャケットが亡くなった後、ヌナブトは正式な独立国となる。その際、最初に選ばれた国会議員の一人であるジェームズ・ツームーンズ・パーカーは、彼の子孫である。
彼は生涯で7人の妻を持ち、16人の子供を残した。その子孫は今でも続いており、高名な学者や政治家を輩出している。
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