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トロア朝モトゥタエ国
国旗
詳細情報
国の標語定められていない
国歌定められていない
公用語定められていないが、ラピタ語、モトゥタエ語が通用する
首都アランクヴー
最大の都市アランクヴー
人口2504人
憲法定められていない
面積約260平方キロメートル
通貨無し。貝貨が用いられることもある
GDP貨幣経済が未発達のため計算不可


モトゥタエ国は、イオニア州にある君主制国家。ラピタ王国の国王に臣従する首長国である。ラピタ王国内の小島嶼群の1つモトゥタエ島と、その属島のごく小さないくつかの島を領土とする。
君主国ではあるがその体制は部族共和制に近く、首長(アリイ)も指導者というよりは調停者のような役割と言える。

概要

南国の小さな島国であり、国民の大半が黒髪と浅黒い肌を持つ。国民の半数が漁師か海女で、残りが船乗りや水運業者だと言われている。ラピタ王国の中でも辺境と見なされる地域であり、一夫多妻制や生贄、神明裁判などの前時代的な風習が維持されている。モトゥタエ国の宗教観は独特で、神への信仰よりも、自然崇拝・精霊信仰に近い。そのため、自然現象には神々の恩寵として感謝し、人為的災害に対しては禍いとして恐れる傾向がある。
国土の大半は岩場で、海岸から内陸部まで急峻な山岳地帯が続く。そのため平地は少なく、森や林も少ないため木材資源にも乏しい。一方で火山性ガスによる硫黄泉が多く湧出しており、温泉を利用した製塩業が盛んである。特に塩湖であるアヴァリス湾の水を用いた製塩法は、この国の伝統的な産業となっている。
また、良質の真珠の養殖も行われている。これはラピタ王国のみならず周辺諸国においても重要な産品であり、特に良質のものはラピタ王家に献上される。
国内の貧富の差は大きく、人口に比して識字率は低い。教育水準そのものは低いものの、手先の器用な「職人」が多いことで知られている。ただしモトゥタエ国で言われる「職人」の多くはカフナではなくカウバ階級に属する。
また、伝統的に漁民が多いため、漁業従事者の割合が高く、海難事故も多い。このため、船舶の整備技術は高く、海軍力は比較的高い方である。

主要人物

首長:テタマヌア・オーリー
46歳で、 褐色の肌をした中背の男性。
モトゥタエ国の首長で、寡黙だが情の深い人物。モトゥタエの民衆だけでなく、ラピタ王国全体の人々に対して深い愛情を持っている。しかしその一方で、ラピタ王国外の人間に対する評価は極めて厳しい一面がある。また、自分の父に対して強い劣等感を抱いており、父王より優れた息子になりたいと思っている節もある。
カウバの女性を妻にしている。妻は普段は王宮の奥に籠っているが、時折街に出て来ては、子供たちを連れて買い物をしているらしい。
守衛長:モイアウー・イティティ
41歳くらいの男性で、長身で筋骨隆々とした体格の持ち主。
モトゥタエ国の守衛たちのまとめ役で、首長の側近でもある。豪放な性格をしており、部下からの信望も厚い。一方で思慮深さも兼ね備えており、国王と首長の信頼も篤い。
首長の息子(太子):パヌア・テタマヌア
24歳の青年男性で、やや細身の体型。
性格は穏やかかつ聡明で、物腰も柔らか。父親に似て心優しい面もあるが、芯の強いところもある。ただ、あまり女性慣れしていないのか、若干奥手で照れ屋なところはあるようだ。
弁舌家であり、交渉事では辣腕を振るうこともある。
首長の娘(王女)ティーヴァ・テタマヌア
20歳の女性で、息を呑むような美女。しかし、その美貌と首長の娘という地位のために幼い頃から特別扱いを受け続け、傲慢でヒステリックな性格に育ってしまった。常に何人もの従者たちを引き連れ、自分では木の実より重い者を持とうとしない。
人心掌握に長け、統治者としての手腕は一流だが、いわゆる愚民政策を好む。例えばモトゥタエ国では何度か貨幣の導入が図られたが、それを尽く廃案に追い込んで物々交換体制を維持しているのは彼女である。
裏話:コンセプトは「リリィ王女とめちゃくちゃ相性悪い女」

地理

自然環境

国土の大半は岩場で、平地や森は少なく木材資源にも乏しい。硫黄泉が多く湧出しており、製塩業が盛んである。また良質の真珠の養殖も行われていて、特にアヴァリス湾の水を使った製塩法で作られた塩と、その塩を使って作られた塩水漬けの魚は特産品として知られている。
農業に適さないためラピタ王国の他の地方に比べても貧しい地域であり、生活環境も決して恵まれているとは言えない。
ただし、モトゥタエ国の人間は海や潮風と共に生きることを喜びとしているらしく、むしろ海や潮風の恩恵を受けて暮らしていると言えるだろう。
気候は南国らしく温暖で湿度も高い。夏は非常に暑くなり、冬も気温が低くなりにくいが、その代わり春から秋にかけて雨が多くなる傾向にある。雨量は年によってまちまちであるが、概ね1日300ミリ前後の降水量があると言われている。
台風の被害に見舞われることがあり、過去には多くの死者が出たり家屋や橋などの建造物が損壊するなどの被害があった。
一方、地震はほとんど起こらないと言われるほど珍しい自然災害である。また火山性ガスによる硫黄泉も多く湧出しており、製塩業や温泉利用が盛んである反面、これらの影響による健康被害も報告されている。

地方行政区分


モトゥタエ国は、ラピタ王国の行政区分だと「モク」に当たる。下位の行政区分としてアフプアアがあり、モトゥタエのアリイに服属する下位のアリイによって治められる。
県知事は各県の首長が世襲で任命される。

主要アフプアア

アランクヴー・アフプアア
モトゥタエ国の「首都」である、首長が暮らす村。アフプアアのアリイはモトゥタエのアリイが兼任している。他のアフプアアと比べれば、いくぶんか立派な造りの家が並ぶ。
ロードェ・アフプアア
アヴァリス湾に面した漁村で、モトゥタエ国の唯一の港がある。モトゥタエ国の交易品は主にここから船便で輸出されている。
港を握っている事から、ロードェのアリイはモトゥタエ国の中でも高い権威を持っている。
シェン・アフプアア
製塩業が盛んな町で、アヴァリス湾の水を用いた製塩法が伝わっている。また良質で安価な真珠の養殖も行われている。
アヴァリス湾の真珠養殖場は、モトゥタエ国の心臓部として立ち入りも厳重に制限されている。
ドォフイゾ・アフプアア
真珠や塩の集積地であり、モトゥタエ国最大の市場。またアヴァリス湾の真珠養殖場の管理も行っている。
グロォ・アフプアア
守衛の詰め所が置かれ、首都のイスルからも近いことから、モトゥタエ国の軍事・警察の中心となっている。

歴史

初期の歴史

モトゥタエ島にはじめて人が住み始めたのは5000年ほど前だと考えられている。
しかし、その当時の記録はほとんど残っていないため、詳しいことは分かっていない。モトゥタエ島には古代より独自の文化や文明が栄えていたと考えられている。そして、その文化は1000年も続いたとされている。この当時の記録は、島の南西部に残されていた遺跡から断片的に見つかっている。
また、モトゥタエ島は様々な種類の動物が住んでいた。その中には、現在の動物とは異なる姿形をした生き物もいたと言われている。
その後、ラピタ島などの大きな島との交流が盛んになり、徐々に人の行き来が激しくなっていった。その頃のモトゥタエ島は、何人かの首長が割拠する戦国時代だったが、やがて首長たちの間で統一国家を築こうという動きが生まれた。これがモトゥタエ国の始まりで、およそ聖歴400〜450年頃とされる。
最初の王朝はラ・ナ朝で聖歴1250年頃まで勢力を持ったが、やがて第二の王朝であるコータラ朝に滅ぼされた。その後コータラ朝もユタ朝に滅ぼされ、ユタ朝はモトゥタエ島外にも勢力を広げる力を持ったという。この頃、現在のラピタ王国全体が群雄割拠の時代であり、ユタ朝も周辺の島々の首長国と争ったという。

トプリ朝とトロア朝

ユタ朝はやがて衰退し、ついに他島の首長国に首都プキが占領される事態に陥った。
ユタ朝の戦士だったタークン・バワアはモトゥタエ国の残党をまとめ、その後2年間に渡るゲリラ戦などの結果プキの奪還に成功した。タークンは民衆の支持を集め、ユタ朝の首長から禅譲を受けるかたちで新たな首長を名乗った。首長就任はモトゥタエ西端の村トプリで行われたため、彼の王朝はトプリ朝と呼ばれる。タークンは、ラピタ島の統一によって誕生した近隣の新興強国ラピタ王国へ使者を派遣し、同盟関係を結んだ。これにより、モトゥタエ国はラピタ王国の属国となり、ラピタ王国の一部となった。
タークンはラピタ王国の後ろ盾を得て近隣の首長国と戦い、次々と制圧していった。当時のラピタ王ポマレ2世は好戦的な人物であり、タークンは彼のライアテア島征服戦争にも参戦している。また、当時モトゥタエ島にはタークンへの反対派もおり島ではしばしば争いが起こっていたのだが、タークンはそれを平定し、自らの支配権を確立させた。
こうして現在のモトゥタエ国の4倍近い領域を支配したタークンだったが、晩年は乱心し各地で反乱が起こるようになった。最終的には側近で猛将として知られた戦士クビイレ・タッロに討たれて死亡し、トプリ朝はタークン1代限りで滅亡した。
クビイレ・タッロはトロアの村で即位し、トロア朝を開いた。クビイレは即位後も猛将ぶりを発揮し、わずか数年で周辺諸国を制圧したという。国内が安定してくると、彼はモトゥタエ島とラピタ島の交流を積極的に推進した。これは両島の発展に繋がり、両国はますます友好を深めていった。
クビイレは元戦士であるため粗野な言動が非難されることがしばしばあったという。そこで文化的な印象をアピールするため、詩人や織物職人をよく保護した。彼らは芸術面でモトゥタエ国に貢献しただけでなく、文化的水準を高めることにも大きく貢献したとされる。また、織物技術の向上にも力を入れており、後にモトゥタエ国の国旗となる"青地に赤の縦縞が入った旗"のデザインが考案されたのも彼の時代だとされる。

発展と繁栄の時代

クビイレの死後、息子のワイナ・クビイレが後をついで即位した。彼は父に似た勇敢な武人であると同時に、優れた詩人でもあった。そして、彼の治世の間にモトゥタエ国は大きく発展したという。
特に彼が重視したのは教育制度の充実で、識字率を向上させるために学校が設立された。この学校は当時としては先進的なもので、庶民に対しても無料で授業を行うことができたという。また、学校では農業・漁業・商業・工業など様々な分野について学ぶことができ、優秀な人材を数多く輩出したという。他にも、音楽・絵画・彫刻といった芸術の分野も盛んになり、これらの作品は現代まで残っているものも多い。
ワイナの治世は15年間だが、この時期はラピタ国王ポマレ3世の治世終盤にあたり、ラピタ王国自体が文化の発展期だった。この時期に生み出されたラピタ文字はモトゥタエ国にも導入され、モトゥタエ語を表せるようになった。
ワイナの死後、首長を長男のベラ・ワイナと次男のトィアニ・ワイナのどちらが継ぐか論争が起きたが、ベラは父の詩人としての才能を受け継いだ芸術家気質の人間であり、政治には興味を示さなかったのでトィアニが首長となった。
トィアニは父や兄にはない優れた商売の才覚があった。ラピタ島との交易を推進し、莫大な富を築いた。ラピタ王国には貨幣はなかったため、富は家畜と宝石のかたちで蓄えられた。また、それまでは工芸品の輸出が中心であったのに対し、真珠の売買も始めるなど貿易に力を入れた。トィアニは戦争は苦手だったが、平和を愛する人格者であり、そのおかげで長く安定した統治が続いたとされる。
しかし、トィアニは芸術面においては保守的な人物だったため、後世になると彼の時代に確立された芸術品の価値はほとんど認められないようになってしまった。

二人の大首長

トィアニは子供を残さなかったので、ベラが4代目の首長となった。前述のとおり彼は詩人であり、芸術家であった。奇しくもラピタ王国はポマレ4世による外国文化奨励の時期であり、ベラも諸外国の文化に詩作の強いインスピレーションを受けたという。そのためポマレ4世や外国文化に対して好意的であり、多くの反感をかったポマレ4世の伝統宗教抑圧政策にも諾々と応じた。
ベラはソティル教の宣教師と親交を深め、積極的に布教活動に協力した。いくつかの国とは通商上の協定も結び、外国人の登用にも積極的だった。輸出用に製塩業を振興したのもベラの業績である。
ベラは学問にも興味を示し、外国人から医学を学んで医者として活躍できるようになった。実際にモトゥタエ国に流行り病が起こった時に医療活動に従事したが、自身も感染し死亡した。
ベラの息子ダムロイ・ベラは、ベラの判断で海外へ留学させられていた。ロノク・ポマレがラピタ王国全体に鎖国政策を発したことで帰国し、ベラの死と共に首長となったが、彼は外国と比べたモトゥタエ国の後進性に失望を覚えた。
そこでダムロイはピトゥニ改革と呼ばれる大規模な改革を行い、モトゥタエ国の近代化を試みた。
まず幼児婚の風習を廃し、男女ともに最低結婚年齢を16歳以上にした。また、初等教育の義務化も行い、文字の読み書きなどを教えさせた。さらに、女性の地位向上を目指し、女性がアリイ位を継げるようにした。
また、アフプアアのアリイの権力を奪い、モトゥタエ国全体がモトゥタエの首長によって治められる体制を築いた。
しかしピトゥニ改革はやがて行き詰り、ダムロイは知見を得るため再び外国と接触することを熱望した。しかし、ラピタ王国がロノクに支配されている内はその望みは無いように思われた。
そこでダムロイはロノクの死後、彼の跡を継いだ摂政に働きかけることになる。トプリ朝首長タークン、トロア朝初代首長クビイレ以来の広大な征服地を王室御料地として献上し、その代償に小規模な視察団を外国に派遣することを許されたのである。これによりモトゥタエ国の版図は狭まり現在のものになったが、ピトゥニ改革は再び指導した。
モトゥタエ国はそれなりに整備された官僚制を持つようになり、国内産業もますます発展した。
ダムロイは自身の思想と改革の日々を綴った自伝「モトゥタエの海」をラピタ語で執筆し、これを出版した。この著書によりモトゥタエ国の識字率は飛躍的に高くなり、また国内経済も安定するようになった。
ベラとダムロイの二人は、モトゥタエ国を飛躍的に発展させた首長として、大首長と呼ばれ尊敬されている。

暗黒の時代

ダムロイの息子クァバト・ダムロイも、父の精神を受け継ぎ改革を推進した。しかし彼は財政管理には放漫で、モトゥタエ国は改革のためのコストで破綻寸前まで追い詰められたという。またクァバト自身、贅沢好きのきらいがあり、しばしば民衆と対立した。また、彼は父以上に外国への憧れが強く、使者の不法出国を試みてラピタ王国本国との関係も悪化した。モトゥタエ国が取り潰しされなかったのは、ポマレ6世の隠棲や立憲革命でラピタ王国政府の目が配下の首長国から逸れていたからにすぎない。なお、一応改革者であったクァバトは、立憲政治を強く支持したという。モトゥタエ国にも立憲制を導入しようとしたが、志半ばで病死した。
クァバトの後を継いだ弟のマキュパ・ダムロイは、悪化した経済を回復させることに熱意を注いだが、父と兄の改革精神は持たなかった。つまり、ピトゥニ改革を財政負担としか見なさず、次々と廃止することで財政回復を図ったのだった。
官僚制は解体され、女性は政治に関与しないことになった。また学校制度も取り潰し、子供は家で親が教育を行うものとした。また、ピトゥニ改革以前の慣習を復活させることに努めた。例えば男性の成人儀礼や、近親婚、幼児婚の推奨などである。
しかし、こうした反動改革で財政が回復したのはほんの一時だけだった。官僚への給料や学校の維持管理に必要だった経費が浮いた分より、非効率的なアリイ専制統治によるコストのほうが高くついた。
さらにこの時期、ラピタ王国本国ではアスタ戦争が勃発していた。マキュパは当然ながらロト側に与し、モトゥタエ国は憲政政府と戦った。この戦費により財政はさらに悪化し、もはや取り返しがつかないレベルになりつつあった。そこでマキュパはラピタ島へ派遣した戦士たちに略奪を許可し、ラピタ島の富をモトゥタエ国へ持ち帰るよう指示した。この暴挙に怒ったロトはマキュパの首長位を剥奪しようとしたが、アスタ戦争の戦力は失いたくなかった。そのためモトゥタエ国へ8ヶ月の猶予を与え、その間にマキュパが専横を改めなければ首長位を剥奪すると脅した。
そこで知識人や職人の指導者などが中心となって長老会議を結成し、以後は首長は長老会議の議長役にすぎないと定めて、マキュパへ承認を迫った。しかし、マキュパはこれを拒否して長老議会を解体し、再び独裁体制を敷いた。
そしてロトの警告を無視して略奪を続け、その結果、ロトからモトゥタエ国に対して宣戦布告がなされた。モトゥタエ国はロトに占領され、改めて長老会議による統治が確立された。

中世への逆走

マキュパは処刑され、甥のオーリー・オルルアが首長となると、ラピタ王国全体の鎖国政策もあってモトゥタエ国の時計はほぼ止まった。むしろ、逆向きに回転しだしたと言っても良い。ピトゥニ改革の成果はほとんど消え失せ、外国の文化は排斥された。
モトゥタエ国の人々は外国に無関心になり、またラピタ王国内の他島に対しても排他的になった。各アフプアアのアリイたちは外国との交易を独占し、民間の商人はアリイの許可無くモトゥタエ国を出ることはできなくなった。ラピタ王国の鎖国政策のなかで、2重の鎖国が始まったのである。
こうしてモトゥタエ国は、ラピタ王国の中での影響力も失い、極小国に過ぎなくなった。他島の首長たちとの関係は断絶し、ラピタ人相手でさえ交流がほとんど無くなったのである。
市井の人々の中にはそうした情勢を嘆く者たちも現れた。彼らは自分たちの力で外国と接触する方法を模索し、流れ着いた外国の文物を手に入れて研究したり、外国の言葉を勉強したりする者が現れた。外国の書物の翻訳を試みる者もいる一方で、外国からの漂流物を密かに売買する者も現れるようになった。
またトプリ朝首長タークン、トロア朝初代首長クビイレらの外征時代に思いを馳せる詩人たちは盛んに英雄詩を作成した。
しかし、こうした一部の人々の熱意は大半の民衆の無関心に押し流され、実を結ぶことはなかった。
オーリーは子宝に恵まれず、晩年にようやく息子テタマヌアを授かり、すぐに死亡した。そして現在の首長テタマヌア・オーリーが、僅か1歳で即位することとなった。
テタマヌアが幼少だったので、長老会議の力はますます増した。とはいえ、2重鎖国下にあって変化のないモトゥタエ国は、特筆すべきこともないままテタマヌアの成人を迎える。ちょうどテタマヌアの成人と同時期にポマレ9世が崩御し、テタマヌアもその葬儀に参列した。
成人後も何ら特筆すべきこともないままに20年近い歳月がたった。その間にテタマヌアは二人の子供、息子パウアと娘ティーヴァに恵まれ、彼ら二人がどちらも若くして優れた統治能力を発揮したことで政治はますます安定した。長老会議は漁獲高と裁判の記録を読み上げるだけの会議となっていた。

眠り続ける国

こうした状況であったから、ラピタ王国本国の開国はモトゥタエ国にとって正に晴天の霹靂だった。マウサネシア、次いでカリオニアと本国政府が外交関係を結んだことで、モトゥタエ島にも外国人が足を踏み入れる可能性が浮上し、長老会議は慌てて対応を協議した。
しかし、ラピタ王国政府は多国籍租借地の開設に留まり、ライアテア島やマナルウイ島も含めて国の大部分は開放しなかった。そのため長老会議にも安心ムードが漂い、具体的な結論が出されないまま開国が議題に上がることはなくなった。
開国から10年を迎え、徐々に近代化の進むラピタ王国本国と異なり、モトゥタエ国は未だに停滞の中にいる。

社会

政治

首長を政治の長とし、その下には12人の長老たちがいる。首長は立法権を持ち、法律の制定・改廃を行う権限を持つ。また、長老会議の開催や解散の議決も行うことが出来る。
長老会議は、首長と長老の他に、モトゥタエ国の重要事項について協議する役割を持つ12名の議員がおり25名で構成される。議長は首長が務める。
人口が少ないこともあり、紛糾した内容は国の男たち全員による協議にかけられることが慣例である。そのため、モトゥタエ国の政治は男尊女卑的な傾向が強く、女性が表に出ることはほとんどない。

経済

漁業と海運業が主産業である。漁業では、主にアヴァリス湾で獲れる魚介類が主要な産物である。
また、良質の塩湖であるアヴァリス湾では製塩業が盛ん。また真珠貝が大量に生息しており、この真珠貝を加工して作られる真珠はモトゥタエ国の貴重な外貨獲得手段の一つとなっている。
しかし、近年は真珠採取量が減少しているため、モトゥタエ国としては、他首長国との貿易に力を入れる方針に転換しつつある。
貨幣制度は未発達で、基本的には物々交換が主流だが、貝貨が用いられることもある。
貨幣経済が未発達だからといって貧富の差がないわけではなく、むしろ大きい。
豊かなものは、耕作可能地や貴重品、家内奴隷のカウバなどを多く保有し、貧しい者は家内奴隷すら持たないことも珍しくない。
農業は、漁業と並んでモトゥタエ国の重要な基幹産業ではあるが、収穫量は少なく、生活水準の向上には寄与しない。
貧富の差を解消するため、庶民は魚や農作物など生産品の一部を首長に貢納し、首長それを貧しい者たちに分配する制度がある。

司法

神明裁判のような非合理的な仕組みが残っており、熱湯に手を入れて火傷を酷く負った方が訴訟に負けるなどの事例がある。
裁判官は宗教指導者が兼ね、民衆からの信望を集めて政治権力を握ることも少なくない。

治安維持

整備された軍事・警察機構があるわけではないが、守衛と呼ばれる戦士たちが治安維持を担っている。
彼らは普段は漁師をしているが、有事の際は武装した戦士となる。守衛たちは基本的に無口で、職務に忠実であり、寡黙で実直な者が多い。
守衛になるには、一定の武術の習得が求められるが、その技術の高さからモトゥタエ国でも一目置かれている存在であり、モトゥタエ国の少年たちにとっては憧れの存在でもある。
守衛たちの武装は原始的な槍で、使う場合は武器庫にある槍を貸し出される形になっている。
ただし、かつて200年ほど前にモトゥタエ島に流れ着いた外国の廃船に銃が積み込まれており、それをコピーするかたちで旧式の火縄銃が数丁のみ制作、保有されている。
銃は守衛の中でも選ばれた精鋭しか持てないとされているため、一般人が目にすることはほぼないが、非常に強力な武器であるらしいとの認識は持たれている。

国民

言語

独自の言語であるモトゥタエ語が島土着の言語としてあり、ラピタ王国で使われているラピタ語とは異なる。
文字はなく、音声言語としてのモトゥタエ語は、発音こそ複雑なものの、文法は簡単であるとされている。
ただし、今では庶民も含め多くの者がラピタ語を解しラピタ語を話すため、モトゥタエ語は廃れつつある。
ミッタと呼ばれる伝統的な韻文詩歌はモトゥタエ語で唄われ、こうした伝統文化の中にのみ存在するかたちでモトゥタエ語は受け継がれていくと考えられている。
ラピタ文字を導入しており、ラピタ語だけでなくモトゥタエ語にもラピタ文字による書法がある。正書法として確立されているわけではないが、小さな島なので基本的な書き方は自然と統一されている。モトゥタエ語独自の文字を作る試みも何度かなされたものの、モトゥタエ語自体が勢いを失っているため結局うまくいかなかった。

教育

整備された教育システムは、トロア朝2代首長のワイナ・クビイレが設立したが、今はない。村の大人が子供に漁の技術や基本的な教養を教えるが、識字率は高くなく、高等教育はない。
モトゥタエ国は貧しいため、優れた才能をもった子供が生まれればラピタ王国本国へ留学に出すのが当たり前となっている。
歴史を語り継ぐ専門職のナースガという人々がおり、各集落にナースガが代々伝える物語のようなものが存在する。これはとても重要視されており、子どもたちは幼い頃からこの話を聞かされて育つ。

宗教

ラピタ王国の宗教は祖霊崇拝、多神教であり、モトゥタエ国もその例に漏れない。モトゥタエ国の宗教観は自然崇拝・精霊信仰に近い。そのため、自然現象は神々の恩寵として解釈される。モトゥタエ国では、神は空の彼方に住んでおり、魔物は海の底に住んでいると言われている。
そして、大地の恵みは全て神のものであるとされ、あらゆるものに命が宿っていると信じられている。
年に一度の豊穣祭の日には、全てのものが感謝の祈りを捧げる。
また、モトゥタエ国では、死者は火葬されるか土葬されるのが一般的だが、特別な事情があれば木葬されることもある。
モトゥタエ国の人々は、死によって肉体という束縛から逃れた魂は、死後の世界へと旅立つと信じているため、葬儀の際には故人の思い出を胸に抱きながら歌い踊るのが習わしとなっている。
これは、葬送の際に行われる儀式であり、生前の故人の思い出を語り合う時間であり、故人の魂を慰めるための儀式であると考えられている。
また、死者の霊は、死者の国に行くまでの間、現世に留まるとも言われている。

神々

モトゥタエ国で信仰される神は多数いる。例えば、海の神オケアノ、森の女神ネリコ、太陽神ヘリメなど。
祖霊崇拝も盛んで、先祖の霊を祀る風習がある。
神話によればモトゥタエ島は大地が隆起してできた島であり、そこにはガ・トゥパという人々が住んでいたとされる。その後、ガ・トゥパは数を増やしていき、やがてモトゥタエ島の各地に分散していった。しかし、ガ・トゥパが増えるにつれ土地が不足し、争いも頻発するようになった。そこで、創造神ルガルはモトゥタエのアリイたち祖先である七人の男女を遣わし、モトゥタエ島に住む全ての民と土地を分割させた。そのおかげで、人々は平和に暮らしていけるようになったのだという。

文化

芸術・美術・工芸の分野では、ラピタ王国本国よりも劣ったものが多くあるが、工芸品などの質は高い。
衣服などもラピタ王国に比べると簡素で野暮ったく見えるが、織物の技術は高く、様々な模様の布が織られている。木の繊維を使った織物文化を持ち、家具などにも使われている。
食文化としては、魚の干物や燻製肉、貝や海藻などを塩漬けにして保存することが多く、また発酵食品も多く作られている。酒は麦や豆から作られるものが主流である。蒸留技術は未熟で、アルコール度数も低い。
塩湖の多い土地柄から、塩や香辛料は豊富で、調味料として使われる。また、魚醤や塩辛といった加工品も多い。
漁業が盛んであるため、生鮮食料品は豊富だが、畜産や農業は発展していない。
狩猟民族的な気質があり、特に男衆は銛の腕を競って磨き上げ、狩りをする。
また、モトゥタエ国では、男女ともに弓や投石の訓練を欠かさないという。

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