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紋章
詳細情報
家の標語「富よりも高貴であれ」
イェスパッシャン王国
当主リュリス・イェレミー・ヴィシニョヴィエツキ



概要

ヴィシニョヴィエツキ家(ヴィシュネヴェーツィクィイ家)は、イェスパッシャン王国の大貴族。ヴィシニョヴィエフ公爵を世襲する。
およそ聖暦800年代前半にまで遡れる古い歴史と、広大な領地を持つ王国随一の有力家門であり、「オルディナツィア」と呼ばれる特別な所領を今でもソルターヌィ県(別名:ヴィシニョヴィエフ県)に保持している。
現当主はリュリス・イェレミー・コリブート・ヴィシニョヴィエツキ(1976-)。

歴史

9世紀

ヴィシニョヴィエツキ家の家祖は、半島中部に勢力を持っていた諸侯の一人であるソルタン・ヴィシニョヴィエツキ・"クルィヴォニース"(ソルタン鷲鼻公)であるとされている。
伝承によれば、彼は紀元前に栄えたイベリウム王国の末裔であり、現在の一族の家名の由来となった旧根拠地ヴィシニョヴィエフに最初に入植し、拠点を築いたという。
ソルタンは軍事に秀で、現在のルブヌィ州全域に及ぶ広い地域を制圧し、大いに権勢を振るったとされる。(ヴィシニョヴィエフ公国)
しかし、ソルタンが亡くなると急激に一族の支配権は弱まり、また近隣で急速に勢力を拡大したエティコーン=プロヴィンサー?朝の攻撃に押されたことで領土は縮小。そして、聖暦893年に第2代当主ミハイロ・コリブート・ヴィシニョヴィエツキが王国に服属したことで独立国支配者としての歴史は終わりを迎える。
ミハイロは服属と引き換えに、現在のソルターヌィ県に凡そ30,000平方キロメートルの広大な所領を安堵され、現地に大小40の都市を有する王国有数の大領主となった。以降、ヴィシニョヴィエツキ家はイェスパッシャン王国最大級の貴族家門として、政治経済に大きな影響力を振るうこととなる。

10世紀から11世紀

イェスパッシャン王国の黎明期、ヴィシニョヴィエツキ家はその莫大な財産を背景とした軍事力をもって、国に大いに貢献した。
記録によれば、第3代当主ダヌィーロ・アポストール・ヴィシニョヴィエツキの軍役負担は兵士10,000人、軍役代納税として金貨15,000枚を納めておりその額は全貴族最大のものだった。しかし、当時一族の収入は年にその10倍以上あり、時に王家にも公然と援助を行うほどだった。
第4代ムィハーロ・ダヌィーロヴィチの時代になると権勢は更に増し、一族は本領に加えて15県の長官、6つの王領地代官、国軍総司令官などの顕職を務めるなど王国の政治を完全に支配していた。
ムィハーロ・ダヌィーロヴィチ

ムィハーロの次男で若くして南部の総督となったペドロー・シュフィルスキ伯爵は、家門の繁栄を嵩に着た傍若無人な振る舞いで大いに怨嗟を受け、南方方言で「ヴィシィ(ヴィシニョヴィエツキの短縮形)」が「暴君」を指す由来となった。(ペドローはとっくに形骸化した初夜権を振り翳して領民の妻や娘を略奪した他、私兵達を率いて各地で暴れ回り、「盗賊伯」と呼ばれた)
だが、そうした繁栄は他の貴族達の嫉妬と、何よりも王家からの強い警戒を受ける様になり、やがて軍事衝突の形で爆発した。
聖暦995年に勃発した王国の内乱において、第5代当主パーヴロ・ヨーダシスは時の国王から大逆罪の疑いをかけられ、王都に誘い出されたところを謀殺される。この暴挙に対し、第6代オレクサンドルは公然と王国に対して反乱を起こしたが、それまでの一族の傲慢な権勢から呼応する貴族達はほぼ皆無であり、他の勢力と連携を取ることもできず一族は孤立。
聖暦1005年にオレクサンドルが戦死、第7代イヴァン、第8代ソルタン2世が相次いで王国の手に落ちて処刑されると勢力は激減。そして、1018年に第9代当主ボリス・ミハイロヴィチが領土の半分と財産の大半を引き換えに降伏と帰参を申し入れ、反乱は頓挫した。その後、1035年に内乱が収束するまでの間、ヴィシニョヴィエツキ家は叛逆者の汚名を背負い、冷遇と白眼の下雌伏の時代を過ごすこととなる。
1040年、内乱が終結したのち、ボリスは王家の命令で資金を拠出し、荒廃した地方の復興にあたった。彼は優れた施政者として名声を博し、各地で賞賛のための石碑が建てられた。また、彼自身は慎み深い性格で王家の命令をよく果たし、これまでの様な横柄な振る舞いを強く戒めた為に中央からの信頼も受ける様になり、最晩年の1062年には、一度叛逆者とされながらも大法官の地位についた。その後はヴァシーリーが継いだ。

12世紀から13世紀

聖暦11世紀末から12世紀を通して、ヴィシニョヴィエツキ家は中央官職の就職者を出すことなく、一地方貴族として栄えた。当主は第10代ヴァシーリー、11代ガシュパール、12代ガーボル、13代スタニスワフ1世、14代サムエル、15代ソルタン3世、16代ウカーシュ1世、17代スタニスワフ2世を数えたが、彼らはいずれも政治に関わることなく、莫大な財産を土地の購入と民政、或いは芸術家の後援に費やした。
この140年間は、政治的には何ら大きな事件は起きることは無かったが、平穏な地方の雰囲気に惹かれて多くの文人や芸術家がヴィシニョヴィエフの城下町に移住し、「小ルネサンス」と呼ばれる文化が花開いた。
特にホロール大司教を務めたシェオファン3世は、ヴィシニョヴィエフの大聖堂に巨大な天井画「主の再臨」を描き、多くの人々を驚嘆させた。
しかし、聖暦1204年に第18代当主サムースィー・ヴィシニョヴィエツキが登場すると、彼らは単なる地方貴族から再び中央の大貴族として復権を果たす。
サムースィーは、当時対外戦争と災害により財政難となっていた中央政府に対する多額の金銭援助を背景として、1212年にサマルト県の長官に就任。その後、現地の民生復興と地方政府の汚職根絶に辣腕を振るったことを評価され、1328年にボリス以来の大法官に就任した。
サムースィーの跡を継いで当主となったユーリィ1世は、引き続き大法官と今度は王国首都長官の職を兼帯し、司法と行政に大きな権力を持った。当然これには旧来の宮廷貴族達から強い不満の声が上がったが、ユーリィは逆にそれらの声を財力と婚姻によって懐柔していき、宮廷貴族としての地歩を固めていった。
ユーリィ・ヴィシニョヴィエツキ

ユーリィは1279年まで凡そ40年間にわたって大法官の職を務めたが、その間にヴィシニョヴィエツキ家は宮廷貴族としての勢力を急速に拡大し、かつての繁栄にも劣らない権威を持って朝廷に君臨した。そして、その努力は第19代ウカーシュ2世、第20代スタニスワフ2世を経て結実することになる。

14世紀

1309年、第21代当主プィルィープ・ヴィシニョヴィエツキは、一族の当主として初めて外務大臣に任命された。交渉上手であった彼は、当時急速に国力を伸ばしつつあったデニエスタ帝国との間の外交交渉で活躍し、度重なる国境紛争や海外領土利権の問題について、王国優位の結果を多く引き出した。
その結果、彼は国王の信頼を得て多くの荘園を加増され、かつての旧領にも劣らない広さの知行地を手に入れることに成功した。
この頃は王国が中央集権を志向し、旧来の諸侯や土地を持つ貴族の抑圧策を採った時代であり、そんな中でもヴィシニョヴィエツキ家は勢力を逆に伸ばし続けた。
また、プィルィープはイェスパッシャン王家とデニエスタ皇室の間の婚姻を仲介すると共に、自身もデニエスタの有力貴族の妻を迎えて密かに関係を構築し、王国内での立場を有利にしようと図った。
この婚姻政策は1331年に第22代当主にスタニスワフ3世が就任したことで大きな威力を発揮し、ヴィシニョヴィエツキ家は母系の血縁を通じて、帝国内のいくつかの荘園の継承権を得ることに成功した。また、帝国貴族との親交は必然的に両国の貿易利権が彼らに集まる様に働き、一族は莫大な財を成した。
1369年、第23代当主クィルィーロ・ポルボードクは新たな一族の本拠地としてクレメンチュークとルブヌィに都市を建設し、自らもそこに移った。河に程近い要地であるルブヌィはその後急速に発展し、中世から近世にかけて商業都市として知られることになる。
1406年、第24代当主にイェレミー・ソルタノヴィチ・ヴィシニョヴィエツキが就任すると、ヴィシニョヴィエツキ家は第二の黄金時代を迎える。

「栄光の」15世紀から16世紀

イェレミー・ソルタノヴィチ

1414年、スパーニエン王国の継承を巡って、デニエスタ帝国とイェスパッシャン王国の間に戦火が交えられると、当主イェレミーは旧来の軍役義務に従って出兵し、デニエスタ軍と干戈を交えた。
この戦争において彼は目覚ましい功績をあげ、ズバラシスク、ポルィアで数に勝る帝国軍を撃破し、5つの要塞を攻略した。
1415年に王国騎兵長官に任命されるとイェレミーはさらに活躍を積み重ね、戦力において劣る王国軍を率いて帝国軍と互角の戦いを演じた。
1416年の終戦後、彼は王国元帥、王都近衛軍総監に任命されると共に、王国中部に広大な世襲領地を与えられ、再び王国最大の貴族に名実共に復帰することとなった。
「オルディナツィア(不可侵の世襲領地)」と呼ばれるこの世襲領地は大小76の都市と120万の人口を擁し、一族の年収は金貨230万枚に達したという。また、ヴィシニョヴィエツキ家は合わせて18,000人の宮廷軍を合法的に抱えてオルディナツィア、及び国境の守りに充てることを許された他、領地の行政に関してほぼ完全な不輸不入権を保障されるに至った。
1428年、王女ソフィアが降嫁。持参金としてオーウルチ、プヤートカの荘園が下賜される。同年、王国軍最高司令官、大法官に任命された。また、子弟や縁戚達もそれに応じて続々と出世して行き、一時期には全国土の8%が一族の所有となったという。
1462年、イェレミーは79歳で富と名声に彩られた素晴らしき生涯を閉じた。王女ソフィアとの間には4人の子女が生まれ、それぞれ政府で要職を占め、また名家に嫁いだ。第25代当主、及び第2代オルディナト(「オルディナツィア」に由来。世襲領主の意)の地位は早世した長男コンスタンティンの息子ヤン1世に渡った。
聖暦1478年、広大な領地と莫大な財産を受け継いだヤンは、これまでの当主とは違って政治にはほとんど興味を示さず、閑職として忌み嫌われていた王立図書館の館長や宮廷の書記官長に就任し、かつての不遇の時代の様に文化事業に熱狂的に取り組み始めた。
彼の時代、殆ど手入れがされないまま放置されていた王立図書館は生まれ変わり、蔵書数は数倍に増加した。また、併設して貴族や優秀な平民を教育するカルドニア王立学院(現在の王立カルドニア大学、及び附属諸学校)が建てられ、各国から費用を惜しまずに優秀な教授が招聘された。これらは全てヴィシニョヴィエツキ家の財産から拠出された為、ヤンは「教育の父」と讃えられている。
聖暦1531年、ヤンが81歳という当時としては驚異的な天寿を全うすると、第26代当主と第3代オルディナトはその長男スタニスワフ4世が継承したが、彼もまた60歳の老齢であり、目立った功績のないまま5年後に死没。
聖暦1536年に跡を継いだウラーシュは祖父を引き継いで王立図書館長、学院総長に就任したものの1559年に伝染病に罹患して長男ともども没した。
その後、次男のヤロスワフが当主として家を率いたが、この頃になると本宗家は王国一の所領と財産、そして強大な宮廷軍の武力に安住して政治的な権力を求めない様になり、王立図書館長や学院総長、ないしは宮廷の大家令といった名誉以外に何らの恩典も伴わない役職のみを務める様になっていった。
1588年に第28代当主、第6代オルディナトととなったペレスラフ・ボルボチャーン・ヴィシニョヴィエツキの時代にその傾向はより強まり、彼は23歳にして王国軍元帥、王室近衛隊総監などの顕職に就いたが、程なくしてこれを退き、王立学院総長と教育大臣の地位に甘んじた。
以後、本宗家の当主はこれらの閑職に就いて政治の中心からは遠ざかって領地の発展と文化の振興に尽くす様になり、政界の主役は分家の人々に移ることになる。

17世紀から18世紀

聖暦1630年、第29代当主、第7代オルディナトにスヴィアトスラフ・コルネーリィ・ヴィシニョヴィエツキが就任した頃、中央政界ではヴィシニョヴィエツキ家の分家の出身者と、そのほかの宮廷貴族達が激しく実権を巡って争っていた。
スヴィアトスラフ・コルネーリィ

その頃イェスパッシャンは帝国として脱皮し、急速に中央集権化と絶対君主制の施行を推し進めていた。故に、その権力は宮廷にあって官僚制・常備軍を担う貴族達に集まる様になり、必然的にそこでの争いが多発したのである。
マチョヨヴィツェに領地を持つアルベルト・ヴィシニョヴィエツキ伯爵は財務総監の地位を狙って盛んに策動し、政敵となる他の宮廷貴族らの追い落としに腐心した。彼は本宗家当主であるスヴィアトスラフにも助力を乞うたが、既に政治的な関心を失って久しい彼らはこれを断った。
するとアルベルトは、あろうことがスヴィアトスラフらを逆恨みして他の分家を巻き込み、本宗家の領地と特権を奪い自らが成り代わろうとしたののだ。
1638年、スヴィアトスラフはルブヌィで催された酒宴の中で密かに盛られた毒が原因で急死。子女は幼い長男ゲオルギーと15歳の長女エリーザベトが居るのみで、本宗家の力は一時的に消滅した。
この機を見たアルベルトらはすぐさま本邸のあるヴィシニョヴィエフに乗り込み、当主の証である印璽と宮廷軍の掌握にかかった。が、軍の指揮官を務めていたステパン・イェルモレーンコは分家の指揮下に従うことを拒否して交戦、俄に現地は騒乱状態に陥った。
一月後、事態を重く見た皇帝により使者が派遣され、アルベルトら分家の関係者は爵位と領地没収の処罰を受け、ゲオルギーが当主の座についた。だが、他方本宗家もこの騒動を口実として、宮廷軍の削減と一部領地の施政権召し上げを言い渡された他、幼年の当主補佐の名目で中央から目付け役の後見人が付けられることになった。一族の内紛は、絶対君主制確立の上で邪魔になるヴィシニョヴィエツキ家の力を削ぐ為の口実にされたのである。
1660年から1701年に亡くなるまで、ゲオルギーは大過なく教育大臣の職を務めたが、その立場は大きく変わっており、もはや彼の一族は武力と財力に裏打ちされた絶対的な権力を有する存在ではなくなっていた。
聖暦1710年、跡を継いで当主となったコンスタンティン・ヴィシニョヴィエツキは、他の貴族に倣って首都カルドニアに移住し、オルディナツィアを離れた。現地には名目上彼が任命した代官が置かれ、皇帝の指示に従って封建制の残渣を払い、解体していった。
1755年にコンスタンティンが亡くなると、第32代当主、第10代オルディナトにはユーリィ2世が就任したが、彼はカルドニアの生まれであり、生涯にオルディナツィアを訪れたのは僅か10度だけであった。ここに、地方の大領主として権威を振るったヴィシニョヴィエツキ家の歴史は一度閉じることになる。

19世紀

ウカーシュ・ヴィシニョヴィエツキ3世

1808年、第33代当主、第11代オルディナトに就任したウカーシュ3世は、俄にこれまで一族が蒐集した美術品を展示する為の美術館建設を思い立った。
彼は、クレメンチュークの郊外にあった壮麗な宮殿を改装し、その栄華を伝える為の美術館を開いた。名前は「ウカーシュ・ヴィシニョヴィエツキ記念美術館」(ウカーシュ3世記念美術館)とされ、展示品だけで1万9000点、その他10万5600点に上る美術品が収蔵された。また、並行して彼は古い根拠地であるヴィシニョヴィエフの地に、一族が蒐集した古文書・稀覯本合わせて30万冊以上を集めた大図書館の建設を企画。あらゆる趣向を凝らし、美しい内装や天井画を施した建物を10年の月日をかけて完成させた。(オルディナツィア大図書館)。この二つの施設は現在でも、公爵家当主が所有し、同人が理事長を務めるヴィシニョヴィエツキ文化財団の手で運営される私立施設として多くの観光客を集めている。
聖暦1840年、ウカーシュ3世没。跡を継いだアダム・カロル・ヴィシニョヴィエツキは、父親の建てた偉大な美術館と図書館の維持費を稼ぐ為、二つの施設を有料で解放することを決めた。以降、この二つの施設から上がる収益は、公爵家の貴重な収入源となる。 
アダム・カロル・ヴィシニョヴィエツキ

聖暦1880年、アダム・カロル没。跡を継いだイグナツィは、来る20世紀に向けて歴史ある自身の家の今後を見据える決断を下すこととなる。

大領主の終焉と20世紀

聖暦1901年、第35代当主、第13代オルディナトであるイグナツィ・アダム・ヴィシニョヴィエツキは、世界情勢の変化と新時代の到来を知り、ある一つの決断を下した。
彼は時の皇帝であるフアン・カルロスに対し、一族の故郷であるヴィシニョヴィエフと、貴重な原生林が残っていたプシャースヌィシュ地方を除いた全ての領地を返上し、宮廷軍を解体することを申し出た。
如何にして彼がその様な重大な決断をするに至ったか、詳しく知る者は少ない。だが、皆一応に、「最早、貴族が地方を治める時代ではなくなった。すべての土地は国家が管理する時だ、と公爵は理解しておられた」と話している。
皇帝フアン・カルロスはその申し出を受け入れ、ヴィシニョヴィエツ、クレメンチューク、ルブヌィ、ホロールなど一部の歴史的都市を除いた大部分の領地を収公し、プシャースヌィシュの原生林3,086平方キロメートルを合わせた8,700平方キロメートル余りを、今後ヴィシニョヴィエツキ家が有するオルディナツィアとすることとした。
また、オルディナツィアとは別に各地に保有する私有地などは引き続き所有が認められた。
この存続劇については異論も多くあったが、中央政府は、「ヴィシニョヴィエツキ家による現地の支配は既に1,000年を超えて続き、オルディナツィアも創設されて500年が経とうとしている。既に現地にはそれを基にした伝統が根付いており、それらの保存の観点からも強引な解体は得策ではないと判断した」としている。
但し、存続した地域でも過去の様な貴族による専権は姿を消し、立憲主義と民主主義に基づく市民政治が敷かれる様になった。選挙によって選ばれた民衆の代表者が全ての権威を担い、当主は形式的なそれらの承認のみを職務にすることになった。
ここに、絶対的領主としてのオルディナトは名実ともに消滅し、伝統の保護者、地域の象徴としてのオルディナトに生まれ変わったのである。
「最後の大貴族」と渾名されたイグナツィは、その後二度の世界大戦で危機にさらされた文化遺産などの保護に尽力し、聖暦1946年に没した。長男のアダム、次男のコルネーリィはいずれも両大戦で戦死した為、三男のヤン2世が跡を継いだ。
ヤン2世は伝統的な貴族的風習から脱却し、単に年金や伝統的な地代から得られる収益のみならず、企業経営によって新しい時代に適応することを模索した。彼の創設した不動産企業ヴィシィ・グループは、現在は1万人を超える従業員を抱え、フリージアドルにして6億ドル以上の営業利益を上げる国際的大企業である。彼は公爵家が保有する大量の不動産の管理のほか、土地売買や投資などをこの企業を通じて行い、そこで得られた利益を文化財保護や慈善基金への寄付へ充てるなど幅広く活動し、「新貴族」の代表者となった。
聖暦1978年、ヤン2世は老齢により引退。歳の離れた息子であるイェレミー・イレーネが跡を継いだ。
1980年。イェレミー2世は王国議会選挙に当選して議員となり、政治活動に参画。特に地方自治体の振興について様々な法案を提出するなど、精力的に活動した。しかし、1989年、妻エリーゼ夫人と共に交通事故に遭い他界。残された一人娘である、当時14歳のリュリス・イェレミー・ヴィシニョヴィエツキが後継者として第38代当主、第16代オルディナトに就任した。

オルディナツィア

(現本邸のヴィラヌフ宮殿)
「オルディナツィア」とは、古代教会語の「不可侵」に由来する言葉であり、イェスパッシャンにおいては、ヴィシニョヴィエツキ家を始めとする強大な権力を誇った貴族に認められた、特別な世襲領地のことを指す。(世襲領主、自治領主とも表記されるオルディナトの語も同根の言葉である)
オルディナツィアは原則として、各家の当主と後継者に排他的に継承されるものであり、特許状を発行する国王の許可がない限り、分割相続や売却、借金の抵当などに入れることは出来なかった。また、1900年代に至り、女性当主が貴族としての権利を男性と同じ様に有すると認められる様になるまでは、女性が継承者になることもできず、適当な男子が立てられるか、さもなくば強制的に収公された。
領地内において所有者たるオルディナトは、単なる土地の所有権だけでなく、施政権や領主裁判権、農民達を農奴として人格的に支配する権利を有するなど、事実上の絶対君主として振る舞った。他の貴族達が所有した通常の荘園や土地に比べて、オルディナトの有する権限は非常に強大であり、全盛期にはまさしく国家内国家の様相を呈していた。(しかし、イェスパッシャン帝国の成立に伴う絶対王政の推進により、殆どのオルディナツィアは解体されるか、有名無実となって消滅した)
ヴィシニョヴィエツキ家のオルディナツィアは、現在のソルターヌィ県を中心とした半島の中南部に広がり、肥沃な黒土地帯を有することから、王国・ひいてはカーリストの穀倉地帯として著名であった。
広大な領地の中心となったのは、ヴィシニョヴィエフ、ルブヌィ、クレメンチュークなど、歴代のオルディナト達によって建設された諸都市であり、そこから農村、山林などに支配地が広がっていた。
近代になり、オルディナトが現地での直接統治を行わなくなると、事実上皇帝が派遣する代官が統治を代行する様になり、オルディナツィアは有名無実化する。そして、19世紀の末期に議会制民主主義が確立されると、本来私有地であるはずのオルディナツィアにも地方自治が行われる様になり、職名こそ「代官」のままであっても、その選出は民主的な選挙で行われる様になった。
現在では、貴重な原生林が残る自然遺産として保護されている、プシャースヌィシュの森と、かつて建設された歴史的都市を中心とした8,713平方キロメートルの地域がオルディナツィアとして存続し、その中には30万8,000人の市民が暮らしている。主な産業は農業であり、都市と農村の人口比はほぼ対等である。(約15万2000人が都市人口、14万8,000人が農村人口)
現在の当主の職務は、儀礼的な支配者として現地自治体の選挙結果を承認し、首長や地方議会の議員を任命する事である。
現地では新しく選ばれた首長が、ルブヌィにあるヴィラヌフ宮殿(現在の本邸)に伺候して、オルディナトに対して代官への任命を乞う儀式が今でも行われている。

オルディナツィア構成自治体

オルディナツィアは独自に定義された6つの「地方(ラヨン)」と、その下に属する56の「共同体(フロマーダ)」からなる。それぞれの共同体には「代官」の職が置かれ、住民の選挙によって選出された候補者を、オルディナトが任命する形式を取る。(なお、領域の約35%を占めるプシャースヌィシュの森については、政府指名の環境保全の専門家が「狩猟地長官」に任命されている)

"6つのラヨン"
・ヴィシニョヴィエフ地方
・クレメンチューク地方
・ルブヌィ地方
・ホロール地方
・オルィカ地方
・プシャースヌィシュ地方


資産

(ヴィシニョヴィエフ城)

過去と同じく、現在でもヴィシニョヴィエツキ家はイェスパッシャン指折りの大富豪・大地主である。公爵は、オルディナツィア全域の土地所有権の他、カルドニアの一等地を中心に10万エーカー以上の不動産を国内に有しており、賃借料などで膨大な収益を懐に入れている。(オルディナツィア本体は、凡そ150億円の地代収入を生み出しており、これに観光収入と特産品販売の利益が加わっている)
また、所有する企業であるヴィシィ・グループは、世界数十ヵ国で事業を展開し、非公開企業の中では最大級の不動産企業として名を馳せている。
1990年度にフリージア連邦の経済誌が報じたところでは、現当主リュリス・ヴィシニョヴィエツキの総資産は総計158億FRD(凡そ2兆3,700億円)に達し、オルディナツィアや美術品の資産価値を合わせるとその数倍に達するのではと試算している。
但し、現在のその資産と収入の大部分は当主であるリュリスが幼いことから、イェスパッシャン王国政府の指名する者で構成された、「公室財産管理評議会」が共同管財人、及び後見人として管理し、年額2,500万円の貴族年金と所有する企業の収益の一部のみが当座の生活資金として手元に送られている。

創作の為の一口メモ

・リュリス・イェレミー・ヴィシニョヴィエツキ
 16歳。長い白髪に、赤みがかった目をしている花の様に可憐な少女。但し、父母を失ったショックと、公爵としての多忙な公務、そして多額の資産を狙って近づいてくる縁戚や、名声を利用したい政治家などのせいで精神が不安定になっており、人間不信の気がある。
 ニュースでよく見かけるラピタ王国の王女、リリィに強く嫉妬しており、同じアルビノとしての劣等感に苛まれている。そのせいか、響きの似ている「リュリス」と呼ばれることを強く嫌っており、ミドルネームのイェレミーを縮めた「イェシー」か、伝統的な家名の略称である「ヴィシィ」と呼ぶ用に使用人たちに命じている。

・ステパン・オハラ・サハイダーチュヌィイ
 20歳。リュリスの側に仕える執事。500年前からヴィシニョヴィエツキ家に仕える歴史ある執事家の跡取り息子。父親は現在使用人頭を務めている。
 子供っぽい童顔と明るい色の髪が特徴の青年で、いつもニコニコと楽天的に笑っている。
 リュリスとは彼女が生まれた時からの強い結びつきがあり、内心では心の底からの忠誠を誓っている。一方、彼女の方は彼に対して依存とも言える深い情愛を抱いているが、孤独とも言える辛い境遇からそれを表に出せず、刺々しい態度をとってしまう。

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