時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

イラン共和国
Großdeutsches Reich


国旗

国章
国の標語勝利と栄光
国歌イラン共和国賛歌

国土
公用語ロシア語、ペルシア語
首都テヘラン
最大の都市テヘラン
政府
 大統領 モハンマド・レザー・ハーン
 
面積
総計  1,648,195㎢
人口
総計  55,314,000人
GDP
3048億5800万USD
建国ロシア駐留軍反乱 1918年1月30日
タリーズ蜂起 1925年1月30日
クルディスタン戦争 1945年10月22日
イラク戦争 1974年2月8日
通貨イラン・ルーブル
時間帯UTC+3.33 (DST:なし)
ISO 3166-1IR/IRN
ccTLD.ir
国際電話番号98
イラン共和国(露:Исламская Республика)は、1918年のイラン革命によって成立した共和制国家。北にソビエト連邦、西にトルコ等を位置している。首都はテヘランでペルシャやペルシアとも称される。元々はペルシアという国名だったが、レザー・ハーン政権時にイランに変更された。なお現在もペルシアまたはペルシャとも称される事もある

国名

イランとは「アーリア人の国」という意味がある。元々は、ペルシアと称されていたが、レザー・ハーン政権時にイランに変更された。現在も1部ではペルシアまたはペルシャとも呼ばれる事がある。

歴史

1922〜1926

1922年ロシア本国は10月革命によりボリシェヴィキが政権を確保すると、ロシア帝国の保有している権益や不平等条約の放棄を打ち出した。しかし反ヴォリシェヴィキを掲げるロシア帝国の駐留軍の一部はこの決定に激怒し、イランからの撤退を拒否した。イギリスもこの決定に危機感を覚え反ヴォリシエヴィキの駐屯軍と協議し、ロシア・イギリス協定を制定を結び、以下の事が取り決められた。1つ目はイギリスの権益の一部の保護一部の放棄、2つ目はイランとイギリスとの防共協定、3つ目は軍の武装蜂起によりこの地に反共政府の樹立である。この決定通り1923年の1月に駐屯軍は武装蜂起を行い、同地に存在する赤軍やイラン軍と戦闘を行った。現地人の根強い対抗や赤軍のゲリラ戦術により多大な苦戦を行ったものの4年後の1926年7月にはテヘランを占領しガージャール朝は降伏宣言を発表した。蜂起時の反乱軍
その後のサンクトペテルブルク講和条約によって、ガージャール朝の廃絶と赤軍の撤退が決定された

1926〜1937

1926年7月、講和条約に調印した同日にサンクトペテルブルク宣言を発した。具体的な内容は、ガージャール朝の打倒とアレクセイ・バクシェエフを首長とする新政府の樹立等である。
ロシア帝国軍少将時代のアレクセイ・バクシェエフ
この日はイラン共和国の建国記念日として現在も祝日になっている。建国宣言当初はペルシア人の反対運動が続々と勃発した。元々イランでは反ロシアが叫ばれていた為ロシア人政権の打倒を国民は叫んだ。しかし、共和国政府は軍を動員し反対運動を続々と統制、取り締まっていった。その為反対運動はみるみる件数が増え1部では暴動になり死傷者が出るなど規模や危険度も上昇した。その結果1928年に北部タブリーズで反乱が発生、同地を反乱軍が東アーザルバーイジャーン共和国が成立されたが、軍の大量投入やイギリス軍の援助によって反乱を沈静化出来た。

反乱を沈静化出来たものの、反乱の恐ろしさを知った議会は反乱防止の為対策を取るようになる。まず手始めに反乱を起きた理由の1部には現地民では無い大統領に理由があるとして、初代大統領アレクセイ・バクシェエフを退陣させ、変わりに元イラン・コサック大佐のレーザー・ハーンを2代目大統領に就任させたコサック大佐時代のレザー・ハーン
レーザー・ハーンはまず、当時強力な力を持っていたロシアやソ連の影響力を弱めながら、宗教色を排して世俗化を進め、司法改革や初の憲法を制定しその中に民族平等の条項を作成した。また、宗教色を排し世俗化を進め、女性解放制度などの政策を打ち出した。その後、徴兵制を採用した近代的な軍隊の作成や、財政改革、イラン貫通鉄道を完成させ、産業の育成を行った。

この様な政策の結果、イラン国民の大多数からの信頼を得て、1929〜1936年までの7年の間政権を運営した。しかし、敵対していたイスラム過激派勢力に、そのまま死亡した。

この2週間後に大規模な国葬が開かれ、実にイラン各地から参列者が押し寄せた。

1938〜1950

1938年、オーストリア併合、スェーデン地方割譲が起きた年に、イランでもクルド人問題が生じていた。クルド人が現在のイラン西部にクルディスタン共和国を設立し、独立宣言を発表した。コレはソビエト連邦の後押しによるものであり、イラン共和国内の内政に介入理由を得る為の行動とされている。

イラン共和国政府はクルディスタン共和国を一時期黙認していた。また、世界大戦中にはソ連からの侵攻を受けないよう、原油を持続的に供給し続けた。しかし、1945年に連合国の敗戦が確定した為その隙を付くようにクルディスタン共和国に攻撃を開始した。初期は山岳地帯を使用した地帯戦術と、独立当初にソ連からの援助によって得た武器等の理由でクルディスタン軍が多少優勢だったが、補給の脆弱さや、制空権の喪失により戦況は逆転し、3ヶ月後には首都のマハーバードが陥落し、またその一ヶ月後にはが降伏宣言を発表した。
 
陣地防衛を行うイラン共和国軍
その後も一部地域では戦闘が継続されたが、組織的抵抗は終わり、間もなく完全に鎮圧された。
クルディスタン戦争後の1949年に資源ナショナリズムの機運が高まった。とゆうのも、イギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン・オイル(AICO)はアバダンの石油を独占し利益を独占、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていた。そのような中、以前から存在した石油生産の国有化案を6代目大統領、モハンマド・モサディックは石油国営化に賛同し、石油国営法を1950年に最高議会に提出した。それが項をなし、1951年頃にはAIOCから完全な石油利権を取り返した。その時に英国と関係が悪化し、回復するのは1960年頃になる。

6代目大統領モハンマド・モサディック

政治

行政府は大統領と各長官により構成される。大統領は行政の長であり、直接選挙によって選ばれる。任期は2年で議会解散や大臣罷免権等を有する。各長官は大統領の指示を受け行政を行う

立法府は右院と左院で立法府の最高議会が構成される。右院は全国区制の直接選挙で選出され、定数は203議席で任期は3年である。一方左院は同じく全国区制の直接選挙で選ばれ、定数は101議席任期は5年である。
イラン共和国最高議会
イラン国民民政同盟(国民諮問評議会69議席、上院38議席、中道右派)イラン・イスラーム再生連合(国民諮問評議会63議席、左院32議席、中道左派)左派急進連合(国民諮問評議会57議席、左院26議席、左派)無所属(国民指紋評議会14議席、左院5議席)

軍事

軍事や安全保障は陸海空の三つの軍種からなる、イラン共和国軍が存在し、緊急時には沿岸警備隊等がこれに含まれる。現在の所属数は29万人(沿岸警備隊を覗く)で徴兵制はあり

司法

古代メソポタミアの法典、ウル・ナンムを元に、損害賠償を重点とする法を定めている。またハンムラビ王が定めたハンムラビ法典の影響を受けており、残虐性や計画性が非常に高い凶悪犯罪のみに限り「復讐刑」というものを導入している。被害者とその家族が望む限り被害者と同じ苦痛を与えるという内容で、過去数十年間で約26件のみ行われている。

経済

イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。

GDPにおける産業の割合
政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は1988年度の平均で18.4%、1989年4月には24.2%にまで達している。

イラン共和国憲法は富の平等も理念の一つとしていたが、実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり、海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府・軍高官の一族は「アガザデ」(高貴な生まれ)と呼ばれている。

財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、1984年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている。

近年は観光業にも力を入れており、毎年イランに訪れる外国人は70〜130万人。イランの観光は多様で、アルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキー、ペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など、様々なアクティビティがある。また、観光客数は年々増加傾向にあり、それに乗じてサービス業等の質の上昇も見込める

交通

国際線の拠点空港としてテヘランにエマーム・ホメイニー国際空港が存在している。 フラッグキャリアであるイラン航空が国内路線および国際路線を運行している。 また、アーリヤー航空 イラン・アーセマーン航空 サーハー航空も運行している。

エマイム・パフィラヴィー空港空港
鉄道
国有鉄道であるイラン共和国鉄道が全土を結んでいる。

主要都市では地下鉄として

テヘラン・メトロ
マシュハド都市鉄道
イスファハーン・メトロ
シーラーズ・メトロ
タブリーズ・メトロ
アフヴァーズ・メトロ
が設置されている。

テヘラン・メトロ
道路
以下のアジアハイウェイ 9路線が全土を通っている。

アジアハイウェイ1号線
アジアハイウェイ2号線
アジアハイウェイ8号線
アジアハイウェイ70号線
アジアハイウェイ71号線
アジアハイウェイ75号線
アジアハイウェイ78号線
アジアハイウェイ81号線
アジアハイウェイ82号線
また、首都テヘラン近郊では高速道路も建設されている。

ラシュカリ高速道路

科学技術

国民・文化

イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。ペルシア人(ペルシア語を語る人々: 66%)、アゼルバイジャン人、(アゼルバイジャン語を語る人々8%)ロシア人(ロシア語を語る人々: 7%)、ギーラキーおよびマーザンダラーニー(ギーラキー語、マーザンダラーニー語を語る人々: 6%)、クルド人 (5%)、アラブ人 (4%)、バローチ (2%)、ロル (2%)、トルクメン (2%)、ガシュガーイー(0.7%)、アルメニア人(0.5%)、グルジア人(0.3)、ユダヤ人(0.2)、アッシリア人(0.24)、タリシュ人(0.21)、タート人(0.12%)その他(0.75%)である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。

国際連合の統計によると、イランにおける総識字率は86.1%であり、女性の非識字率は79.4%に達する。

治安

スポーツ

サッカー

イラン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1970年にサッカーリーグのペルシアン・ガルフ・プロリーグが創設された。イランサッカー協会(FFIRI)によって構成されるサッカーイラン代表は、これまでFIFAワールドカップには数度出場しているが、いずれもグループリーグ敗退となっている。しかしAFCアジアカップでは、パタヴィア共和国や扶桑皇国に続き、3度の優勝を飾っている。イランの国民的英雄として知られるアリ・ダエイは「ペルシアン・タワー」の異名を持ち、サッカー界で十分な活躍を行っている。

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