時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

イラン帝国
امپراتوری ایران


国旗

国章
国の標語مرا داد فرمود و خود داور است
国歌سرود شاهنشاهی ایران

国土
公用語ペルシア語
首都テヘラン
最大の都市テヘラン
政府
 皇帝 クロシュ・レザー・パフラヴィー
 首相 メフディー・バザルガーン
面積
総計  1,648,195㎢
人口
総計  56199024人
GDP
4363億1984万USD
建国成立 1925年12月2日
石油国営化 1957年8月21日
中東戦争 1961年3月10日
通貨イラン・リアル
時間帯UTC+3.33 (DST:なし)
ISO 3166-1IR/IRN
ccTLD.ir
国際電話番号98
イラン帝国は1925年に成立した、立憲君主制国家。首都はテヘランで、北部にロシア、西部にイラク、トルコ、サウジアラビア、東部にアフガニスタンと国境を接している。

国名

イランとは「アーリア人の国」という意味がある。元々は、ペルシアと称されていたが、1935年に「アーリア人の国」という意味のイランに変更され現在に至る。

歴史

建国

イラン近代史はいまだに政権を握るシャーに対して闘った1905年のイラン立憲革命、立憲君主制への移行を示す1906年の(暫定)憲法発布、1908年の石油の発見にはじまる。第一議会(マジュリス)は1906年10月1日の招集である。また、 地域の鍵となる石油の発見は英国によるものであった。地域の支配権をめぐるイギリスとロシアの争いは1907年の英露協商によって勢力圏分割で合意に達した。外国の支配と専制に反対し続けたギーラーンにおける立憲主義運動も1921年、パフラヴィー朝への王朝交替とともに終焉している。

第一次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍に占領されたが、基本的には中立を維持している。1919年、イギリスはイランに保護領を設定しようとするが、1921年のソヴィエト連邦軍の撤退で断念。同年イラン・ガザーク(コサック)旅団の軍人レザー・ハーンがクーデタをおこし、ついで1925年、皇帝に即位してガージャール朝にかわりパフラヴィー朝を開いた。レザー・シャーの統治は英国の秘密裏の援助によって開始されたが、やがて英国勢力の浸透を防ぎつつイランの開発を進める政策に転じ、約16年にわたった。

レザー・シャーの統治下、政治の非宗教化と部族および地方権力を掣肘し中央集権化がおこなわれてイランの近代化がはじまる。

イラン進駐

第二次世界大戦前後、イランはイギリスのアングロ・イラニアン社に石油利権の多くを握られており、一方的な搾取が行われていた。また、北部に位置するソビエト連邦との関係も良好とは言い難い関係であった為、列強の第三国との関係を強く求めた。当初、アメリカとの関係改善に取り掛かったが限定的な関係しか結べなかった為断念し、ドイツ国との関係を構築した。その後第二次世界大戦が開戦すると、イギリスとソ連が連合国になり、イランは連合国にとって重要な産油地帯の1つとなった。

アーバーダーン油田は1940年時点で年800万トンの石油を生産し、連合国の戦争遂行に欠かせない油田となったが、これをドイツの手に落ちる事を危惧した。それに加え、当時、ドイツはソ連領内を順調に進軍し、レンドリース法による武器供与を行うルートが限られた。そのため、南方のイランはドイツのUボートの脅威も無い安全な航路であった。

イギリスとソ連はイランに対して圧力をかけたがイランはそれに靡かず、それどころか連合国の鉄道使用を禁じた。この反応は英ソは武力行使を決意させる事となり、1941年8月に軍事侵攻を開始した。イラン軍は果敢に抵抗したが、多数の被害を出し、同年9月に完全に制圧された。

その後のイランは連合国の軍政状態に晒され、同地はイギリス・イラン総督エドワード・クイナンが同地を統治した。その為、イラン皇帝一家は一時的に政界から姿を消すことになる。

戦後

ペルシア回廊は連合国軍に大量の物資を供給し、油田と共に連合国軍の戦争遂行に大いに役に立ったが結果的に連合国は敗戦した。
戦後になるとレザー・パフラヴィーは再度シャーに復帰し、イラン自体もドイツ国庇護下の元で独立を果たし、アーリア人至上主義に理解を示すイランとドイツ国は1950年代の石油国営化まで密接な関係を築いた。

この頃、石油利権は敗戦国であるイギリスから取って変わってドイツのアーリアン・ガルフ・オイルに移り変わっいたが、アングロ・イラニアン・オイル時代よりも国内の状態は改善していなかった。そして更にその当時のカスピ海埋め立てによる農地の縮小やナショナリズム運動の影響を受けて反ドイツの風潮が広がって行った。

この頃、石油の国営化を目指した民族主義者のモハンマド・モサデクは国民戦線を設立。1949年頃に共産主義政党のトゥーデ党が非合法化すると唯一の反独勢力となりウラマーや社会主義者そして民族主義者に至るまで多数の国民からの支持を受けた。

石油国有化

1955年にドイツ総統ヒトラーが死亡し、後継者を巡って様々な勢力が武装蜂起を行い、ドイツ国にて内戦が始まった。この内戦の影響はドイツの友好国であったイランに普及し、国内は失業者で溢れた。結果として国民の反独感情は溢れかえり、国内各地ではモハンマド・モサデクなどの国民戦線支持者がデモや暴動を起こすようになっており、政府は警察力と軍隊を使用して押さえ込もうとした。

この状況にアメリカやイギリスを初めとする西側諸国はこの状況に目をつけ、秘密裏に資金を国民戦線に提供することにより政府転覆を目指した。
そして国内の状況に絶望したレザー・パフラヴィー皇太子は近衛部隊の一部を率いてクーデターを決行。中央政府の要所と宮殿を制圧した後、首相を失脚させ、父のレザー・パフラヴィーを強制退位させた。その後自らイラン帝国二代目皇帝として自ら即位し、首相としてモサデクを就任させた。
首相となったモサデクは早速石油国営化法をマジュレスに提出それが全会一致で可決されると、イランの石油産業を国有化させイラン国営石油会社が誕生した。

国民戦線分裂

石油を国営化を成功させ国内で多くの支持を得たモサデクだったが、その後首相の職を辞した。この当時、包括政党であり共通の相手を失った国民戦線の間では激しい勢力争いが発生。その結果、民族主義のノビン党と国民党、人民党が戦線を離脱。そして次に左派勢力が離脱し、トゥーデ党と合併。左派急進連合を組織。イスラム勢力もそれらのあとを追い離脱。残ったイラン党と汎イラン主義党は国民戦線の事実上の瓦解を表明し、その後自らも離脱を行った。
イランの挙国一致体制は崩壊し、その後は多数の政党による多党制が開始された。

政治

軍事

イラン帝国は陸海空の3つの軍種に加えて、内務省の管轄として憲兵隊を保有しており、地方の治安維持や国境警備任務、更に海上保安任務を行っている。

ロシア軍とは様々な戦争や軍事演習を通して近年では親密な関係を築いており、同軍の後方支援や共同で軍事作戦を行ったりなど数々の近隣諸国での安全保障問題を共に対処を行っている。

装備に関しては、アメリカ製兵器やロシア製兵器、更にドイツ製やスペイン製、南アフリカ製等国際色豊かな内容となっている。基本的に装備は輸入やライセンス生産に頼っているが、近年では自国の軍需企業への投資を大量に行っている。

司法

経済

交通

科学技術

国民・文化

治安

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