時は2000年、ナチスの「約束されし新世界−NeueNazi-Ordnung−」が崩壊してから45年が経った。

オーストラリア・ニュージーランド国
Austrlia Newzealand country

国旗

国章
国の標語Advance Austrlia Führer.
国歌進め美しのオーストラリア
{ &ref
公用語英語
首都ウェリントン
最大の都市シドニー
政府
 大統領 ボブ・ホーク
 ''
面積
総計  8,009,220㎢
人口
総計  2,0280,000人
GDP
3569億USD
建国
ボブ内閣成立 1990年4月4日
独立した日 1901年年1月1日
通貨オーストラリアドル
時間帯UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1AU/AUS
ccTLD.au
国際電話番号61
'

国名

歴史

18世紀末期における最初のイギリスの植民までの少なくとも4万年の間[16][17][18]、およそ250の言語グループに分類される言語話者の先住民が居住してきた[19][20][21]。彼らの食文化ブッシュ・タッカーは1970年代から注目された。

1606年におけるオランダ人探検家によるヨーロッパのオーストラリア大陸発見後、1770年にイギリスが同大陸の東半分を領有主張し、1788年1月26日からニューサウスウェールズ州の植民地に初めて流刑を通じて定住が開始された。その後の数十年間で同大陸の調査が行われ、人口は着実に増加し、さらに5つの自治王領植民地が設立されていた。

1901年1月1日、6つの植民地が連合しイギリス自治領として連邦を形成、事実上独立した。以後、6つの州及びその他特別地域から成る連邦議院内閣制及び立憲君主制の役割を果たす安定した自由民主主義の政治体制を維持してきた。2,360万の人口は、高度に都市化された東部の州及び沿岸部にかなり集中している[22]。

更新世の地球環境、人類の移動
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カカドゥの壁画
(ノーザンテリトリー・カカドゥ国立公園)
40000〜45000年前(60000年前、更にそれ以前とも言われる)、更新世の何回かの氷期の結果海面が100〜150m下降した更新世末期の、今日より低海面の時代にアボリジニがニューギニア方面から渡り、先住民となったと考えられている。南東のタスマニア島に人類が渡った時期は、同島に存在する最古の人類居住遺跡が形成された時期約38,000年前であろうと考えられている。また、その時期はバス海峡に陸橋が形成されたであろう時期と合致する[23]。

沿岸はティモール海域、ニューギニアに伸び、ともに1つの陸地(サフル大陸)であり、アラフラ海、カーペンタリア湾、トレス海峡をつないでいた。スンダ列島から海の短い距離の部分を渡って Sahul へ、続いて陸橋を渡って来たと考えられている。

考古学的証明では、西オーストラリアのスワン川上流に40,000年前、タスマニア(タスマニアも当時大陸に繋がっていた)には30,000年前に人類居住跡が見つかっている。また約42,000年前とされる人類の化石もニューサウスウェールズ州で発見されている(例:ムンゴマン)。

ニューギニア、インドネシアとの動物・植物種の共有は、当時の陸橋の結果で、最後の氷期の終わりに海面が上昇し、ニューギニアとの間は海でへだてられた。海面レベルは6,000年前から現代までほとんど同じである。

またカリオン(英語版)で発見されたヒエログリフやンガリンジェリ族のラミンジェリ人の高齢者の主張を基に、オーストラリアの先住民は古代エジプトから弓と突出した船尾を備えたボートで海を渡って11,000年前にオーストラリアや南アメリカ等世界中を周回した、と主張する者も居る[24][25]。

人類の居住と氷期の終焉
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木炭の発見から、火の使用も確認されている。狩猟採集民族は森林、硬葉樹林を開拓するためなどに使用した。耐火性の高いモクマオウ科、ユーカリ、アカシアなどが残った。

動物種では人間より大きい大型動物類の多くは絶滅し、多くの小型動物もいなくなった。ディプロトドン(全長3m、有袋類の草食動物で史上最大の有袋類)、数種の大きな飛べない鳥、肉食のカンガルー、体長5mのトカゲ、小型自動車ほどの大きさの亀などを含む、約60種の脊椎動物が絶滅した[要出典]。大規模な絶滅の原因は火、狩猟、気候変動などと考えられるが、最も大きな原因は人間の介入だと思われている[26][27]。

ヨーロッパ人による入植以前の人口は分かっていない。

13,000年前に更新世末期、氷期終焉を迎え、トレス海峡、ヴィクトリアとタスマニアの間のバス海峡、カンガルー島との間に海面が広がった。アボリジニの伝説によると、氷期の終焉は早く(あっという間に訪れた)、海面の上昇(陸地の失現)とともに、魚が天から降って来た、津波があったと伝えられている。そのとき以来、タスマニアアボリジニは地理的に孤立し、9,000年前にバス海峡の島々とカンガルー島の人間は消滅した。

ヨーロッパ人の到達

イギリスのジェームズ・クックは、エンデバーを指揮してボタニー湾に上陸、領有宣言を行った。

州設立の歴史
周りは荒い海であったために、16世紀頃の世界地図にTerra Australis Incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ、「南方にある未知の大地」という意味)と表されていた。

1606年に当大陸に最初に到来したヨーロッパ人はオランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーン(英語版)[28]であった。赤道に近い熱帯の北部地域に上陸し地図を作成したが、交易に値する物品はないと判断し、入植しなかった。

1770年にスコットランド人のジェームズ・クックが温帯のシドニーのボタニー湾に上陸して領有を宣言し、入植が始まり、東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。なお、決定的証拠はないが、1770年に上陸したジェームズ・クックよりも150年も前に山田長政が先にオーストラリア大陸を発見していたという説がある[29]。

アメリカの独立により、1788年からアメリカに代わり流罪植民地としてイギリス人の移民が始まった[30]。初期移民団1030人のうち、736人が囚人 (男586人・女242人という説あり) で、その他はほとんどが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でも当地に流刑されたという。1791年の第2回囚人護送は1017人で、航海中に281人が死んだが、植民地での食糧難を加速させたため、政府は1年を待たずして自由移民を募り農地を拡大させた。

白人入植以降、先住民族であるアボリジニは白人による娯楽としての狩猟(スポーツハンティング)の対象となり虐殺された。その後も政府の政策によりタスマニア島を含むアボリジニの人口は激減した。

1828年に全土がイギリスの植民地となり、開拓が進んだ。その過程で先住民のアボリジニから土地を取り上げて放逐、殺害した。1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅させられた(ブラック・ウォー)[31]。19世紀の初めにはスペイン産メリノ種羊を改良し、以後、羊毛産業が発展した。なお、羊が重宝されたのは羊毛に関してだけでなく、まだ冷凍船がなかった頃、肉類の中で羊肉が長持ちしたためである。

1851年にビクトリア内陸部で金が発見され、ゴールドラッシュが発生した。これ以降は南ヨーロッパや中国などイギリス以外の国籍の移民が増加した。 特に中国人は、1850年代に3万人以上が労働者として渡来。当時200万人に満たなかった大陸人口の中において、中国人の増加は問題視されるようになった[32]。後に、中国系の移民に対する排斥運動が起こり、後の白豪主義につながったといわれる[33]。金の発見により内陸部の探検が活発になり、中東から持ち込まれたラクダを使った探検隊が編成された[34]。1860年の「バーク・ウィルズ探検隊」は有名である。

事実上の独立後
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詳細
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。
1901年の、事実上のイギリスからの独立後もイギリス国王への忠誠からイギリスが参加した戦争には度々参加した。第一次世界大戦ではオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC) として英仏軍と共にガリポリの戦いに参加し、オスマン帝国軍との激戦を経験した。ANZAC軍のガリポリ上陸記念日である4月25日はANZACの日として国民の祝日となっている。

1927年にはシドニーとメルボルンによる首都争奪戦のすえ、妥協案として両都市の中間地点に新都市キャンベラを建設し首都とした[35]。

第二次世界大戦では、日本軍機によるダーウィン周辺などの北部都市への度重なる爆撃や通商破壊作戦、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃を受けた。また、ニューギニアやボルネオから沖縄戦をはじめとする広範囲で連合国として日本軍と戦い、ノルマンディー上陸作戦以降はヨーロッパ西部の地上戦にも参加した。日本占領にもイギリス連邦占領軍の一員として多数の部隊を派遣したり、極東国際軍事裁判(東京裁判)の裁判長ウィリアム・ウェブを出すなどして参加した。

戦後はヨーロッパが人口激減と経済復興を経験したこともあり、白人移民は減り続けた。国力の基礎となる人口増加が鈍化したため、1960年代からは白豪主義を徐々に撤廃し、世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行した。朝鮮戦争やベトナム戦争にも積極的に参加し、アメリカと共に戦い、その後ベトナム難民を数多く受け入れた。1975年、ニューギニア信託統治地域がパプアニューギニアとして独立した。英米と協同歩調を取った2003年のイラク戦争にも参加した。

もっとも地政学的要因から、必ずしも北半球の欧米諸国の一員として行動していられない場面も多い。特にフランスによる南太平洋ムルロア環礁での核実験の際には、北半球の欧米諸国が黙認するなかで、隣国のニュージーランドと共に猛抗議した。このときは市民の間にもフランス製品に対する不買運動が広がり、大都市のフランス有名ブランド店には一時休業を余儀なくされたところもある。

2013年、MIKTAに加盟した。

政治


政体は立憲君主制・連邦制である。成文憲法のオーストラリア憲法をもつ。イギリス国王・女王と同一人物であるオーストラリア国王が国家元首とみなされる。実際にはオーストラリア総督が国王・女王の代行を務め、その権限は専ら儀式程度に限られる。1975年には、上下院が対立して予算案が議会を通らずに労働党政府の維持が困難になった際に、ジョン・ロバート・カー総督が憲法に基き議会を解散、当時の首相であったゴフ・ホイットラムを罷免し野党党首のマルコム・フレーザーに選挙管理内閣を委ねる事件が起き、論議を呼んだ。政府は議会に対してのみ責任を負うイギリス型の議院内閣制で、政府機関には移民市民権省など特有の機関がある。

一方で「共和制へ移行して、名実共に英国から独立すべき」と主張する共和派も活動しており、君主制の是非を問う国民投票もこれまで何度か実施されたが、いずれも僅差で否決されている。2016年12月には、当時の首相だったマルコム・ターンブルが「オーストラリア共和制推進運動(英語版)(ARM)の大義はオーストラリアのための大義だ」として、共和制への移行を求める超党派ロビー団体ARMの会合で行った基調演説にて「女王エリザベスの退位後に行うべき」との旨を訴えていたことが報じられている[37]。

議会
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オーストラリア連邦議会
「オーストラリアの総督」も参照
議会は二院制で、下院が金銭法案の先議権を有するほかは両院の権限は対等であり、米国のような上院の独自の権限は存在しない。選挙権は18歳以上(義務投票制)。上院は任期6年(ただし特別地域選出議員は3年)で、通常は3年毎に半数が改選される。各州から12名ずつ、特別地域選出議員(首都とノーザンテリトリー)から2名ずつの計76人から構成され(単記移譲式投票)、州を代表する。下院は任期3年で、小選挙区から1名ずつ選出(優先順位付き連記投票)され、定員は150人。主な政党は労働党、自由党、自由国民党、国民党。このうち、労働党を除く三党は保守連合(保守党)を構成している。下院に基礎をおく議院内閣制であるにもかかわらず、上院は選挙制であり(カナダのように任命制の場合は、上下両院が対立した場合には、選挙制である下院が優越すべきとなるが、選挙制であるためこれがない)、上下両院は対等の権限を有している。そのため、上下両院が対立して政治危機となった場合にそなえて、上下両院の解散(下院のみの解散は、制限なく可能)の制度を有している。これは、下院で可決された法案が上院で否決された場合に行うことができるもので、この場合は上院も全数が改選となり得票の上位半分が6年、下位が3年となる。更に、この上下両院選挙によっても対立が解消されない場合は、問題の法案を上下両院合同会議に付議できるとしている。議会はイギリス流に「パーラメント」と呼ばれる。

「オーストラリアの政党」も参照
1943 World War II Japanese Aeronautical Map of Australia - Geographicus - Australia15-wwii-1943.jpg
地方自治
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6つの州と2つの準州で構成される。州の首相は「プレミア」準州では「チーフ・ミニスター」と呼ばれ、連邦政府の首相「プライム・ミニスター」と区別されている。首相は大臣を任命して内閣を組織する。歴史的経緯から州政府は強大な自治権を持っており、教育、医療、交通、警察の分野では主導的立場にある。

各州ごとの憲法あるいは地方自治体法[38]により設置された地方自治体[39]という単位で行われ、自治体のいくつかが統合されて広域自治体[40]となる場合もある。

2006年4月時点の地方自治体は656で、各州ごとの自治体数は次のとおり[41]。

軍事


オーストラリア陸軍、オーストラリア海軍、オーストラリア空軍からなる。オーストラリア大陸まるごとを国土とし、その広い領土・領空および長大な海岸線を防衛する必要性があることから、在外アメリカ軍を除けばオセアニア最大規模である。国防費も対GDP比1%台後半で推移しており、21世紀の主要先進国としては標準的か少し高い割合となっている。イギリス連邦諸国やアメリカ合衆国などとの国際協力にも積極的であり、湾岸戦争やイラク戦争にも派兵した。

行政

経済


混合経済であり、インフラの多くを国、州などが持つ。具体例は、電話のテルストラ、各種公共交通、英語圏最古の航空会社であるカンタス。

ベルギーと同時期・同規模の外債を幹事のモルガン・スタンレーなどが引受けている。

詳細は「オーストラリアの経済」を参照

オーストラリアは、農産物や鉱産物などの第一次産品の輸出国としての側面、および、第三次産業の割合が圧倒的に高い先進国型の産業構造を持つ側面との二つの顔を持つ。

シドニーは同国最大の金融センターであり、世界有数の世界都市である。
基本情報
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会計年度 - 7月1日から6月30日
加入している主要貿易関係国際組織:APEC、WTO、OECD
GDP:8640億 AUD
GDP成長率:3%
1人あたりGDP:43,000 AUD
産業 - 農業、鉱業、工業、サービス業
労働人口 - 1000万人
失業率 - 5.2%
貿易

輸出 - 1,270億 AUD
相手国 - 日本、中国、韓国、アメリカ、ニュージーランド
輸入 - 1,495億 AUD
相手国 - アメリカ、中国、日本、ドイツ
ODA出資:25億 AUD

産業
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小売業 - ウールワース、コールス・グループ
自動車 - 乗用車の製造が行われてきたが、2017年にオーストラリアドル高などを理由にトヨタとGMが撤退、生産国の看板を下ろすこととなった[58]。
詳細は「オーストラリア車(英語版)」を参照
農業 - 牛肉など輸出を行っている品目がある[59]ものの貿易に特化しているとは言い難く、多くが自給自足となっている。
牧畜 - 羊毛
畜産 - 牛肉(オージー・ビーフ)、羊肉
穀物 - 小麦、米[60]、ホップなど
青果物 - リンゴ、サクランボ、カスタードアップル、スターフルーツ、パイナップル、モモ、マカダミアナッツ、柑橘類、アスパラガス、ニンジン、タマネギ、レタス、ブロッコリーなど
詳細は「オーストラリアの農業(英語版)」を参照
鉱業 - 鉱物資源が豊富であり、鉄鉱石、ボーキサイト、チタン、ウラン、金、オパールが採れる。鉄鉱石の採掘者で近年もっとも活躍するのはフォーテスキュー・メタルズ・グループである。ボーキサイトの算出は、世界の約27%を占める。金鉱山はジョゼフ・グトニクによる開発が知られる一方、南アから来たゴールド・フィールドも操業している。化石燃料では石炭、原油、天然ガスなどが海域も含め存在する。
詳細は「オーストラリアの鉱業(英語版)」を参照
観光 - 豊かな自然のため、主産業の一つ。
カジノ - 庶民・観光客の娯楽となっている。
詳細は「オーストラリアの観光(英語版)」を参照
オールレッドライン
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19世紀前半にメリノ種の牧羊が普及した。1859年に持ち込んだウサギが牧草を食べてしまい、羊毛生産量を減じた。バサーストに始まったゴールドラッシュの開拓者に食わせる肉が必要だった。19世紀後半には鉄道が敷設されてゆき、ケーブル・アンド・ワイヤレスが陸揚げを果した。羊毛業はジリ貧となって、義賊ネッド・ケリーが出た。彼はメルボルン万国博覧会の期間中に処刑された。ベアリング恐慌が響いて1893年5月頭バンクホリデーに陥った。

パリ講和会議には、首相ヒューズが全権代表として参加した。太平洋の旧ドイツ領諸島の帰属について日本と激しく争った末に、赤道を挟んで北側をC式委任統治領として日本が確保することで妥結した。また、日本が提案した人種平等案に対してはカナダと共に反対し、これを阻止した。ワシントン会議では蚊帳の外に置かれたが、1925年には太平洋問題調査会がホノルルで発足、1961年まで活動した。

第二次世界大戦の終結年において、スターリング・ポンド圏にとどまる外交姿勢を堅持した[61]。1950年、フランク・フェナー博士が指揮する調査のあと、野ウサギを駆除するため天然痘の遠い親類が撒かれた。半年足らずで蔓延し、個体数を二度と繁栄できない数にまで減らした。1950年代にダグラス・コップランドが、オーストラリアのポンド圏残留によって、ニュージーランドとともにブレトンウッズ協定からくるドル不足から逃れたことを認めた。しかし同時に、この残留措置が経済成長を遅らせるという見解も示した[61]。1950から60年代、覇権をかけて、セカンダリー・バンキングが途上国から引き上げたポンドとUSドルを投下した。

マーチャント・バンクの機関化
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1960年代と1970年代は激動期であった。羊毛主体であった産業構造は鉱業主体となった。この間にまずポセイドン・バブルが起きた。それから国際的に遅れて変動為替相場制をとった。また、この期間にオーストラリア系銀行は日本・香港・マレー半島を除く極東地域で支店数を増やした。1961年にたった12店舗であったのが1978年に528店舗となり、これほどの急展開を諸外国の銀行に見ることはできなかった[62]。1980年マーチャント・バンクのニューガン・ハンド・バンクが倒産した。CIAの天下る同行は資金洗浄でもスキャンダルとなり、マーチャント・バンクの機関化する背景を成した。1986年、ロイズ銀行がスタンダードチャータード銀行に買収をしかけた。ホワイトナイトを演じたロバートは、スタンダードチャータード銀行のトップ・マネジメントに迎えられた[63]。クー・テクバはスタンダードチャータード銀行の重役を辞めた[64]。一番上の息子邱万福(Khuu Ban Hock)はブルネイ国立銀行元会長であったが、同行で金融犯罪に手を染め折り悪く有罪を認めていた[65][66]。ブルネイ国立銀行はクーが王族と出資割合7対3で1965年に創立したが[67][68]、ブルネイ通貨委員会の設立が2年後であるのと比べて早い。この1986年にはHSBCと懇意の李嘉誠が万科城市花园别墅を中国光大グループに売却し内部者取引として非難を浴びているが[69]、2000年パワーコルオーストラリア を買収[70]、2013年パワーコルオーストラリア親会社の南オーストラリア電力の持つ利権をめぐって税務署と衝突し[71]、2017年1月現在も電力事業の買収を続けている[72]。

1990年代、香港経済の脱英国化が進行した。この頃にマーチャント・バンクは機関化されていった。このとき動いていた機関投資家は欧米の投資信託や保険会社であった。これらはオーストラリアの機関投資家を内から蚕食していったものと考えられる。2001年3月15日、HIH保険がサウスウェールズの最高裁から暫定破産の許可を得た[73]。2001年8月27日には解散命令を受けることになり、負債総額は36億オーストラリア・ドルから53億に達した。HIHは企業編成をした1995年、アクサに持株会社を買収された。その後HIHは合衆国の保険会社を買収するほどの拡大経営を展開した。1998年8月、アクサは資本を引き揚げた[74]。1999年[75]、HIHは国内のFAI保険を公開買い付けで買収した。2000年9月13日にアリアンツへ国内個人向け事業を5億ドル近くの廉価で譲渡して[75]、翌日からすぐHIHの株価は低迷するようになった[73]。不自然な取引は調査に付された。バークシャー・ハサウェイの保険会社は、HIHの清算人へ200万ドルを払い込んでいた[76]。この事件は2005年、やはりバークシャー・ハサウェイの保険会社ジェネラル・リーで不正会計が問題となったときも振り返られたのである[77]。

金融スキャンダルの上書き
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ガーディアンが2009年3月から2018年4月までの銀行スキャンダルを年表に書いている[78]。中央銀行(オーストラリア準備銀行)とオーストラリア・ニュージーランド銀行について、それぞれ10件以上の記事がリンクされている。年表が全く取り上げない事実を補足しておく。世界金融危機のとき中央銀行はレポ市場から700億ドル超を借り入れており、ユーロ危機をすぎて2016年以降に再び600億ドル超を記録しようとしている[79]。世界金融危機時の貸し手は特定がむずかしいが、2014年以降のそれは海外機関投資家である[79]。これはつまり、アメリカのシャドー・バンキング・システムが規制されたので、そこへ資金を投下していた大物機関投資家がオーストラリアへ乗り換えてきたのである。自らの関わった世界金融危機を棚にあげて、オーストラリア経済の不祥事を追及し、経営を合理化し、年金債務を整理し、ガバナンスからも収益性を担保しようとした。

2014年7月、マレーシア・インドネシア・ベトナム各国政府高官と関係する汚職について、過去のものを含むあらゆるメディアが政府の命令で検閲を受けていたことが、中央銀行筋でウィキリークスの公開により明らかとなった。この翌年にマレーシアで1MDBをめぐる汚職が報道され、パナマ文書が捜査に活用された。

2017年8月3日、豪金融取引報告・分析センターが、資金洗浄の疑いがある取引について報告義務を怠ったなどとして、オーストラリア・コモンウェルス銀行を連邦裁判所に提訴した。不正の温床とされるのは2012年5月に同行が導入した新型ATMであった。原告によると、2014から15年に起きた香港の犯罪組織が関与したとみられる事件で、容疑者らは同行のATMから30の口座に2059万豪ドルを入金、その大半が即座に海外へ送金された[80]。2017年8月24日、ルパート・マードックの長男を幹事とするコンソーシアムが大手メディアを買収することについて、オーストラリア公取委会長は競争を阻害するものではないと声明を出した[81]。マスメディアは積極的に国内大手銀行の不正を報じて、それらを機関化する流れをつくろうとした。コモンウェルス銀行のスキャンダルをきっかけに、国内金融の不正を追及する王立委員会が設けられた。国内年金ファンドが反発したにもかかわらず、委員会は2017年末に設置され、翌2018年2月12日にメルボルンで公聴会を開催し活動をはじめた。4月19日、コモンウェルス銀行は委員会に対して、死亡した複数の顧客から財政面での助言に対する見返りという名目で手数料を取り続けていたことを認めた[82]。大手金融機関AMPも集団訴訟に直面してCEOが引責辞任する事態となった[83]。2018年7月、オーストラリア証券投資委員会が企業の登録料として実際のコストの数千倍に当たるほとんど内容のないに等しい手数料を請求し、2017年には総額8億170万豪ドルの関連収入を得たことが分かった[84]。王立委員会の考える「不正」については、銀行から反論がなされている[85]。

交通

国民・文化


多民族国家であるオーストラリア国民のうち約70%がヨーロッパ系の白人であり、その他にアジア人が約12%、アボリジニ(オーストラリア先住民)などが約2%、アフリカ系の黒人が約1.5%となっている。移民は全体の約2割を占め、出身国はイギリス、ニュージーランド、中国、インド、イタリア、ベトナムが多い。

1975年に人種差別禁止法が制定されるまでは、「白豪主義」という国家政策に基づき白色人種以外の移民を受け入れることを基本的に禁止していた。2011年公開のイギリス映画『オレンジと太陽』で描かれた児童移民もいる。

言語
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詳細は「オーストラリアの言語(英語版)」を参照
公用語は英語(オーストラリア英語)で、人口の78.5%が家庭で英語のみを使用し、最も広く使われている。また移民の割合が高いため、非英語圏から来た移民あるいはその子孫の中には家庭で祖国の言葉を使う者もおり、中国語話者が2.1%、イタリア語話者が1.6%など少数だが存在する。先住民族の言語(オーストラリア・アボリジニ諸語、タスマニア諸語)は植民地化の過程で多くが消滅し、現在まで残っている言語もほとんどが消滅の危機に瀕している。

一部では、クレオール言語(オーストラリア・クレオール言語(英語版))も使用される。

人名・婚姻
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詳細は「オーストラリアの婚姻(英語版)」を参照
移民も多く、さまざまな人名が存在する。さらに、氏名の変更が比較的容易に可能である。また、婚姻の際には、夫婦別姓、結合姓、夫婦同姓いずれも選択可能である[86][87]。

宗教
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シドニー・セント・メアリー大聖堂
詳細は「オーストラリアの宗教(英語版)」を参照
宗教はキリスト教が主であり、2006(括弧内は2001)年の国勢調査によれば、ローマ・カトリックが25.8%(26.6%)、聖公会が18.7%(20.7%)等を含めたキリスト教徒全体が約64%、非キリスト教が約5%(4.9%)、無宗教が18.7%(15.5%)、無回答が約12%(11.7%)である。また別の統計によれば[88]、週に少なくとも1回は教会を訪れるのは、人口の7.5%であるという。

「オーストラリアにおける信教の自由(英語版)」も参照
教育
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詳細は「オーストラリアの教育」を参照
公立校は各州の教育省が管轄しており、州によってカリキュラム、中学校への進学学年、学期制度などが異なる。

6歳から15歳(日本の高等学校1年)、あるいはタスマニア州の16歳(高校2年)までが義務教育期間となる。小学校入学前の就学前教育機関はプリスクールと呼ばれ、デイケアなどが含まれる。プリスクールを幼児教育ではなく初等教育の一部とする州もある。小学校はプライマリー・スクールと呼ばれ、男女共学で6年生または7年生まで。中等教育はセカンダリー・スクールと呼ばれる中高一貫で12年生までが通うが、例外はタスマニア州で7年から10年までのハイスクールと11・12年のセカンダリー・カレッジに分かれている。大学やTAFEはターシャリー・エデュケーションと呼ばれる。大学は大多数が州立大学であり、国立と私立は少数である。オーストラリアの大学は留学生の比率が非常に高い。

初等、中等教育機関には私立校が多く、全体の約3割を占める。キリスト教主義学校とくにカトリックと聖公会に属すものが多い。教会直属の学校のほかに、イギリスと同様、インデペンデント・スクールと呼ばれる学校が多くあり、一部は名門校として知られている。授業料が比較的安いためカトリック系インデペンデント・スクールは人気があり、私立校の一分野を築いている。オーストラリアの私立校は政府から補助金を支給されており、運営費の約半分を占める。


シドニー大学
義務教育(高校1年あるいは2年)を終えた時点で終了試験を受け、合格すれば義務教育終了証を得るが、大学に進学しない者も3年生まで通って各州で統一された卒業試験を受ける生徒が多い。大学は卒業試験と、高校の最終2年間の成績をもとに入学審査を行う[89]。 職業訓練の要素が強い高等教育機関であるTAFE(州立)やVET(私立)を選択することもできる。

どの州にも共通しているのは

1月末から2月はじめの夏の終わりごろに新学期が始まる
公立校でも小学校から制服がある。紫外線が強く、通学帽としてだけでなく休み時間や屋外で行う授業でも制帽の着用が義務づけられている。
一クラスの人数は20人から25人程度で、教科書も各学校や学級ごとに異なる。
小学校から留年(該当科目だけ留年の場合もあり)がある
といった点である[90]。

保健
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詳細は「オーストラリアの保健(英語版)」を参照
医療
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詳細は「オーストラリアの医療」を参照
平均寿命は男性78.5歳、女性83.3歳(2005年)。社会保険制度は存在せず、一般税収を原資としたユニバーサルヘルスケアが達成されている[91]。

国民・文化

治安

スポーツ

オーストラリア国内では、オージーフットボールとラグビー(ラグビーユニオンとラグビーリーグ)、クリケットが絶大な人気を誇っている。特にクリケットの国際試合で活躍した選手は、国民的英雄の扱いを受けている。バスケットボールも人気があり、NBLというプロリーグも存在する。

テニスも非常に盛んであり、夏場にはほぼ毎日テニスの試合がテレビで放送されるほどである。レイトン・ヒューイットなどの有名なテニスプレーヤーを輩出していることでも知られる。近年は、若者を中心にサッカーの人気も上昇している。海水浴やマリンスポーツに適した海岸線が長いことから、サーフィンや海水浴客の救助から発祥したライフセービングなどマリンスポーツが盛んである。サーフィンに関してはスポーツ競技として捉え、政府公認の選手育成プログラムもあり、科学的なトレーニングを行っている。

ラグビー
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詳細は「オーストラリアのラグビー(英語版)」を参照
オーストラリアのラグビーはラグビーユニオンとラグビーリーグに大別できるが、いずれも世界的に見れば強豪チームである。ニューサウスウェールズ州やクイーンズランド州では13人制のラグビーリーグの方が盛んであり、プロリーグのNRLは全16チームのうち半数の8チームがシドニーに拠点を置く。その点は18人制のオージーフットボールのプロリーグAFLの全18チームのうち半数の9チームがメルボルンに集中するのと好対照である。また、代表チーム(通称カンガルーズ)は、ラグビーリーグ・ワールドカップで過去15大会中11回優勝している。15人制のユニオン代表チーム(ワラビーズ)は、ワールドカップで優勝2回・準優勝2回の強豪である。ブレディスローカップにおけるニュージーランドとの対戦では国中が盛り上がる。州ごとのクラブチームもスーパーラグビーに参加している。

クリケット
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クリケットは人気スポーツの一つである。世界での競技人口は3億人を超えており[102]、とりわけ英連邦で絶大な人気のあるスポーツである。クリケット界最高峰の世界選手権大会であるクリケット・ワールドカップでは、史上最多5回の優勝を数える。1909年には統括団体である国際クリケット評議会の正会員になった。国内ではトゥエンティ20の試合形式のBBLなどが人気である。メルボルンにあるメルボルン・クリケット・グラウンドは収容人数が世界最大級の約10万人であり、代表チームの試合やBBLの試合などに利用される。ドナルド・ブラッドマンは史上最高のクリケット選手と評されており[103][104]、ペレやモハメド・アリなどと共に20世紀を代表するスポーツ選手の一人である[105][106]。さらにシェーン・ウォーンは、クリケットの歴史の中でも最高のボウラーの一人である。他にもキース・ミラー、スティーブ・ウォー、グレン・マクグラス、アダム・ギルクリスト、リッキー・ポンティングは歴代の代表的な選手である。

サッカー
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詳細は「オーストラリアのサッカー(英語版)」を参照
ラグビーなどと比較すると人気は劣るものの、オーストラリアは英語圏及びイタリアやクロアチアなどヨーロッパからの移民が多いため、サッカーの競技人口自体は元から多い国であった。転機は2005年に起きたオーストラリア政府主導の国家プロジェクト『オーストラリアサッカー革命』である。その年はプロサッカーリーグの『Aリーグ』が発足した事に加えて、FIFAワールドカップの『2006年ドイツ大会』にオーストラリア代表が32年ぶり2度目の出場を決めると、国内のサッカー熱が高まりを見せた。

さらに2006年1月1日を以って、オーストラリアサッカー連盟はオセアニアサッカー連盟(OFC)からアジアサッカー連盟(AFC)に転籍した。そのAFCに転籍後、AFCアジアカップには2007年大会で初出場した。続く2011年大会では決勝に進出したものの、日本代表の李忠成に豪快なボレーを決められて0-1で敗れ準優勝に終わった。地元開催となった2015年大会では、決勝で韓国代表に延長戦の末に勝利して大会初優勝を遂げた。AFCチャンピオンズリーグでは、2014年大会でウェスタン・シドニーが同国のクラブとして初優勝に輝いた[107]。

著名な選手としては、長年に渡ってイングランドのプレミアリーグで活躍し続けた、ハリー・キューウェルやマーク・ヴィドゥカ、ティム・ケーヒルらを中心に、ブレット・エマートン、ミル・ジェディナク、ルーカス・ニール、マーク・シュワルツァーなどが存在する[108]。

バスケットボール
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詳細は「バスケットボールオーストラリア代表」を参照

アンドリュー・ボーガット
外国人としては史上2人目のNBAドラフト1巡目1位指名選手となった、アンドリュー・ボーガットが最も有名。国内にはNBLと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。男子代表はこれまでオリンピックに11回、世界選手権に9回出場している。1996年アトランタ五輪と、続く2000年シドニー五輪で連続4位になるなど、オセアニアの王者としてだけでなく世界的にも強豪である。その後の2004年アテネ五輪や2008年北京五輪、世界選手権には出場し続けるものの、成績はやや不振気味。現在若手への世代交代の最中でアンドリュー・ボーガットを中心とした新たなチーム作りをしている。このボーガットを中心に、近年NBAにドラフト指名される選手が複数出てきており、復活の兆しが見えている。なお、ニュージーランド代表とは熾烈なライバル関係にある。

男子以上に世界的に有名で強いのが女子代表である。女王ローレン・ジャクソンをはじめ数多くのWNBA選手を輩出し、2000年シドニー五輪から2008年北京五輪まで3大会連続で銀メダル獲得した。2006年の世界選手権では遂に優勝を果たし、金メダルを獲得した。世界最強のアメリカ代表にとって最大のライバル国となっている。

競馬
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詳細は「オーストラリアの競馬」を参照

1861年から続くメルボルンカップ
競馬は馬が持ち込まれてすぐの1810年に初めて開催され、現在でも非常に盛んに行われている。一人当たりの馬券購入額は日本や英国を凌いでおり、競馬場の数は平地競走、障害競走、繋駕速歩競走、クォーターマイル用を全て合わせると大小480場を数える。サラブレッド生産頭数は約18000頭でアメリカに次ぐ世界2位であり、スタンダードブレッドも約6000頭でフランス、アメリカに次ぐ規模である。地域ごとに大レースがあり、それぞれカーニバルが並行され大きく盛り上がる。その中でも最大のメルボルンカップは、メルボルンの都市圏が祝日となり「国の機能が停止する」と表現されるほど盛り上がる。第3の都市ブリズベンでは、農業省の祝日であるエッカホリデーでの競馬が有名で、皆が正装(男性は主にスーツ、女性は主にドレス)し競馬を楽しむ。

野球
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野球は1850年代にアメリカから伝えられた。クリケットやラグビーが大変盛んであり野球の人気は劣るが、1888年にはMLBの世界ツアー慣行の際、シドニーやメルボルン等4カ所で試合行うと観客動員数1万人を超えた。2014年にロサンゼルス・ドジャースとアリゾナ・ダイヤモンドバックスがシドニーで開幕戦を行った際には、観客動員数が38,000人を超えた。さらにMLBにも選手を輩出しており、2019年までに31人の選手がプレーしている[109]。代表チームは1897年に初めて結成され、2004年のアテネ五輪では予選で日本に勝利し準決勝でも勝利し、決勝戦ではキューバに敗れたものの銀メダルを獲得した。2017年の第4回WBCでは本戦に出場し、4大会連続1次ラウンド敗退となったが、同年3月のWBSC発表の世界ランクでは8位となり過去最高位を更新した。1989年には国内リーグのABLが発足したが、1999年に財政難により消滅した。しかし、2010年にオーストラリア野球連盟とMLBの出資により、国内6都市に球団を置いて11月から2月までをシーズンとするプロリーグとして復活した。

モータースポーツ
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オーストラリアの国内選手権としてはスーパーカーズ選手権が知られ、複数の海外有力チームが参入している。また、スタジアム・スーパートラックやスプリントカーのような北米に強い影響を受けたレース文化を持つ。メルボルンではF1やMotoGP、WSBが年1回行われており、国内選手権なども盛んに行われ、数多くの年間王者を輩出しており高い人気を誇っている。著名な存在としては、WGPでオーストラリア人として初の王者となり日本のGTレースにも参戦したワイン・ガードナーや、1990年代のWGPで5連覇を達成したミック・ドゥーハン、ドゥカティに初のMotoGPタイトルをもたらしたケーシー・ストーナー、F1黎明期の王者であるジャック・ブラバム、インディカー王者のウィル・パワー、ダカール・ラリー二輪部門王者のトビー・プライスなどがいる。他方でラリー競技も盛んであり、隔年でWRCが開催されている。オーストラリアラリー選手権の独自規定であるAP4では多くの日欧メーカー車が作成されて人気を博し、FIAのアジアパシフィックラリー選手権にも輸入されている。

その他の競技
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「オリンピックのオーストラリア選手団」も参照
競泳の強豪国としても知られており、世界記録保持者が幾人も存在している。その中でもイアン・ソープは世界的に有名であり、2000年のシドニー五輪において5個の金メダルを獲得した。さらに南半球の国でありながらウィンタースポーツも盛んであり、中でもスノーボードにおいて名プレーヤーを輩出している。ショートトラックスピードスケートでは、2002年のソルトレークシティ五輪で番狂わせを起こし金メダルを獲得したスティーブン・ブラッドバリーも知られている。

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