大正時代についてまとめるwiki

  • アドルフ・ヒットラー?:ナチ党を結成し頭角を現し始めていた。
  • 井上準之助?(いのうえじゅんのすけ)。第2次山本内閣で蔵相を務め、関東大震災の救済で実績を挙げた。
  • 宇垣一成:大正13年清浦内閣?の陸相となり、その後加藤内閣?若槻内閣?まで留任した。
  • 内田康哉?。大正10年の原敬暗殺と大正12年の加藤友三郎急逝の際、内閣総理大臣臨時代理を務めた。
  • 大隈重信?:1838.3.11-1922.1.10(83歳没)。肥前国佐賀出身。第8・7代総理。第2次大隈重信内閣は1914年4月16日〜1916年?10月9日。退任時は満78歳6ヶ月で歴代最高齢*1。1908年に野球のアメリカ大リーグ選抜チームと早稲田大の親善試合が行われ、大隈が始球式で投げた。記録に残っている中では日本初の始球式*2。この投球はボール球だったが、打者はわざと空振りしてストライクに。これが始球式で空振りする習慣の始まりらしい*3。ニックネームは「ザル碁の大隈」*4。「〜であるんである」が口癖*5
  • 桂太郎(かつらたろう):1848年1月4日〜1913年10月10日(65歳没)。長門国阿武郡萩村出身。第11・13・15代総理大臣。第3は1912年?12月21日〜1913年2月20日。在任62日で戦前最短。ニックネームは「ニコポン宰相」「巨頭公」*6
  • 後藤新平(ごとうしんぺい)。第2次山本内閣?で内相と帝都復興院?総裁を兼任。関東大震災後の東京復興計画を立案した。
  • 西園寺公望(さいおんじきんもち):第12・14代総理。第2次は1911.8.30〜1912年?12月21日。1924年松方正義?が死去し「最後の元老」に*7
  • 斎藤隆夫:大正元年に衆院選初当選。
  • 鈴木喜三郎。大正13年に清浦内閣の司法相を務めた。翌大正14年に立憲政友会に入党。
  • 寺内正毅(てらうちまさたけ):1852.2.24-大正8年11月3日(67歳没)。周防国山口出身。山県有朋、桂太郎に次ぐ長州軍閥の大御所*8。第18代首相。在任は大正5年10.9-大正7年9.29。ニックネームは「ビリケン」*9
  • 床次竹二郎(とこなみたけじろう):原内閣?高橋内閣?の内相を歴任。
  • 内閣総理大臣
  • 永井柳太郎?:大正9年に衆院選初当選。加藤高明?憲政会?に所属し、原敬内閣?を攻撃した。「西にレーニン?、東に原敬あり」の演説で一躍有名になった*10
  • 中野正剛?(なかの せいごう):大正9年にジャーナリストを辞して衆院選に当選。
  • 原敬(はらたかし)。1856.3.15〜大正10年11/4(65歳没)。陸奥国盛岡出身。第19代総理(大正7年9/29〜大正10年11月4日)。日本初の本格的な政党内閣とされる*11。年賀状の「賀正」を発案した人でもある。簡単明瞭を好んで「賀正」を用い、これを「内閣総理大臣年賀状」と呼んでいたが、その後民間でも使われるようになった*12。ニックネームは「平民宰相」「無爵宰相」。東京駅?で少年に刺され死亡。動機は「有名になりたかった」。背後関係は不明のままである*13
  • 牧野伸顕(まきののぶあき):大久保利通の次男。西園寺内閣?で文相・農商相、第1次山本内閣?で外相を歴任した。大正8年第一次世界大戦パリ講和会議?で次席全権大使を務めた。
  • 町田忠治?(まちだちゅうじ)。第1時若槻内閣?で農相を務めた。
  • 森恪(もり かく):大正9年に衆院に当選した。
  • 山本権兵衛(やまもとごんべえ):第16・22代総理。第1次は1913年2/20-1914年4/16。海軍の汚職事件であるジーメンス事件?の責任を取らされ辞任。第2次は大正12年9月2日から大正13年1月7日。虎ノ門事件?(摂政狙撃事件)で総辞職*14。ニックネームは「海軍の父」「ボッケモン」

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