1850年5月 スマトラ島
貿易のためか、貿易船の警護のためか、あるいはそれ以外の理由で探索者はこの島を訪れていた
そこで人食い部族と名高い「バタク族」の男スカルノから、部族が死病の流行り病「マカマカ病」に侵されていると助けを求められる
探索者達は純粋に病人を救うためか、見返りを求めてか、またとない人食い部族の実地調査に惹かれてか協力を申し出る
集落を訪れた探索者は、村を襲う恐るべき病と人食い文化の一端に触れることとなる
スマトラ島
スマトラ島はおおよそ、スマトラ島北部を支配するアチェ王国と、南部を植民地化したオランダ東インド会社、そしてどちらにも属さない部族の三つに分かれている
言語はオーストロネシア語族から派生した幾つかの言語が使われている。アチェ王国は言語はアチェ語、マレー語、アラビア語が公用語となっている。
熱帯雨林気候であり、一年の平均最高気温は32度、平均最低気温は23度、月の平均降雨日数は18日を占める
東アジアとインドの中継点である他、香辛料や珈琲の産地であり航海時代にはかなりの人と物と金が動く夢の地だ
バタク族
スマトラ島中央の高地に位置する世界最大のカルデラ湖であるトバ湖を拠点に住む部族
部族はカロ、シマルングン、パクパク、トバ、アンコラ、マンディリンの6グループに大別され、バタク語を話すが、グループによって4つの方言に分かれる
第一次産業が主で,水稲,陸稲,タロイモ,ヤムイモ,トウモロコシなどを栽培し,馬,牛,水牛,豚などを飼っている
彼らは人食い部族として東南アジア諸国に広く噂されている。
それは1834年にアメリカの宣教師2人が布教のために彼の地を訪れ帰らなかったことで、世界中の明るみとなった
そのためバタク族の住むトバ湖周辺を訪れる者はほとんどいない
東南アジアに関連する歴史的事件
年代 | 主な歴史的事件名 | 概要 |
1623年 | アンボイナ事件 | イギリス東インド会社がオランダに襲撃され、オランダが東南アジアから撤退 |
1757年 | プレッシーの戦い | イギリス東インド会社がフランス・ベンガル太守連合軍を破りインドの支配を本格化させる |
1799〜1815年 | ナポレオン戦争 | ヨーロッパ全土と各諸国の植民地で戦争が続く |
1824年 | 英蘭協約 | 従来、イギリスがアチェの独立を支援していた政策を転換し、スマトラ島の支配権をオランダに認める代わり、アチェとの交易権を獲得する。 |
1826年 | 海峡植民地の成立 | オランダがフランスに併合されたのに便乗し、マレー半島のマラッカ、ペナン、シンガポールを植民地とし、東南アジアに再進出する |
1840年〜1842年 | 阿片戦争 | アヘンを禁輸した中国とイギリスの間で発生した戦争。イギリスの勝利に終わり、南京条約が交わされ香港の割譲や貿易港の開港がされた |
1857年 | インド大反乱 | イギリスの綿製品がインドに大量輸入されたことによりインドで大量に失業者が発生し、インド全域で反乱が発生。 |
1858年 | インド統治法 | インド大反乱は鎮圧されるも、翌1858年にインドの統治権はイギリス国王に委譲され、東インド会社は事実上の解散となる |
1869年 | スエズ運河開通 | スエズ運河の開通により、ヨーロッパから東南アジアへの航路が短縮される |
1873年〜1904年 | アチェ戦争 | アチェ王国とオランダの間で行われた戦争。長年の抵抗虚しくオランダの勝利に終わる |
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