最終更新: loopool_swt 2019年08月18日(日) 17:45:47履歴
陰と陽は、何方か片方のみでは生きられぬ。
陽が無ければ影が出来ぬ様に。燈が無ければ闇を照らす事が出来ぬ様に。
森羅万象、生きとし生けるもの全てが刹那の瞬きを繰り返す世であるからこそ、常世は美しい。
幕切れが有れば、何れ幕開けが訪れる。
是は、其の刹那を生きた者達の記録であり、帳が降りる様子を描いた物である。
また、何れの幕開けへと繋がる為に。
PCより
PLより
一.
蒸し暑く陰鬱な天気の続いていた梅雨がようやく明け、今日は朝から燦々と輝く太陽が澄み渡る青空に浮かんでいる。
晴明屋敷の庭にある木々からは、まばらであるが蝉の声が振って来る。
濡れ縁から庭を眺めている男は、紫陽花や桔梗が日光に照らされる姿を見ながら満足気に頷いた。
「うむ。予定通り出立日和であるな」
かの安倍晴明が梅雨明けの予想を外すなどという心配は微塵もしていなかったが、実際に久方振りの日光を目にすると、やはり感嘆せざるを得ない。
男は名を望月 義道といい、武官の家の息子として生まれた武芸者である。
歳の頃は二十代半ばで、男ではあるが長髪を一つに結って纏めている。
武官の息子とはいっても三男坊であり、それなりに自由な位置付けにいた彼は、
剣の道に魅入られた果てに家を飛び出し、武者修行の旅へと出たのである。
そうして、何の因果か平安京にて安倍晴明に呼び止められ、彼に誘われるままに二度程手を貸す事になったのである。
望月は、およそ一年前に起こった、現世を護る為の闘いのことと、其れを奇跡的に乗り越えてからの京での出来事を思い出していた。
二.
初めて安倍晴明の誘いを受けた時、望月は既に武芸者として一つの高みに上り詰めていた。
剣を振るうぐらいしか能の無い男ではあったが、それゆえ並の武人や獣達が相手であれば遅れをとる事などありえない。
剣の腕前を他人の前で自信満々に語ったことは無いが、心の片隅では僅かながらにそう考えていた。また、事実そうであった。
だが、陰陽師 安倍晴明が鎮めに出向く程の異形達は、まさしく理外の存在ばかりである。
直視する事が憚られる、恐ろしい外見。
近付くだけで自然と息が詰まる様な、計り知れぬ重圧。
認識してしまうだけで心の奥底が掻きむしられ、とても平常心など保っていられぬ。
望月も道を究めんとする一人のもののふであったから、過酷な鍛錬の果てに心に幾らかの修羅を宿していた。
だが初めて見る魑魅魍魎の前には、人間の心の闇など些事でしかなく、見ただけで全身が震える程の恐怖に飲まれる事もあった。
そして、その様な異形の存在を鎮める為に集められた晴明の友人もまた、並々ならぬ猛者達であった。
異形の存在を紐解いてゆく為の、豊富な宗教知識を持つ者。
異形を封じ込める術式を為す為の、鮮やかな楽の才を持つ者。
異形の暴力から人々を護り、時として捻じ伏せる為の研ぎ澄まされた武の腕を持つ者。
かつて彼らと協力した際には、未熟を晒した己を恥じ、上には上がいる事を身を持って理解した。
だからこそ、更なる研鑽を持っていずれは追い付いてみせよう、と奮起したものである。
二度目に安倍晴明達と再会を果たした時、望月は既に常人の域を脱し、達人の境地へと足を踏み入れていた。
心の修羅を静める為に吹き始めた篳篥の腕も、並の楽士では到底及ばない程の領域に到ってはいたが、
本人が誰かと楽の腕を比べ合おうとも考えず、大衆の前で披露し評価を受けた事も無かった為、実力を自覚していなかった。
だが剣の腕に関しては、以前よりも自負の念が高まっていた。
ある日を境に、自分の剣が確実に変わったという手応えを、感じ取っていたからだ。
今の自分ならば、とても敵わぬと心が折れかけた異形の化物にも太刀打ち出来るかもしれない。
今の自分ならば、己以上の技量で二刀を操る陰陽師にも、獲物を仕留めるのに矢を余らせないと噂された狩人にも、並び立てるかもしれない。
その様な思いを抱きながら、彼等との合流を果たし、事情を聞いて現世救済の旅路を共にする事にしたのだ。
そして迫りくる異形の群れを迎え打った時、そんな望月の自信は早々に打ち砕かれてしまった。
剣の細やかな技巧こそ評価されたが、前述の二人は総合的な武力において確実に望月以上の存在であった。
猛者達と肩を並べて戦場を駆けられた事は誇らしかったが、同時に、この世には逆立ちしても勝てぬ人間がいるのだと明確に悟ってしまった。
いや、そもそも。世界そのものを掌の上で転がす様な神々と相見えてしまったのだ。
人の世界の中で強さに憧れたからこそ強さを追い求めたが、己の上には常に誰かが、人の上には常になにかが立っているという宿命を否が応でも理解させられた。
―――最早これ以上、強さだけを追い求める道の上は歩けぬ。
三.
現世を護る為の闘いからは、奇跡的に五体満足で帰ってくる事が出来た。
精神に負った傷は大きかったが、幸いにも数ヶ月の精神治療で完治出来る程度の傷であった。
これまで積んできた修行も、存外全てが無駄だった訳ではないのだな、と思えたものである。
しかし帰ってきた平安京の損壊は激しく、道の端々であらゆる生命の屍の山が築かれていた。
そこで、晴明と共に現世を救うべく奔走していた者達は、各々の全力を尽くし都の救済を始めた。
祇園神社に仕える巫女は、亡くなった者達の埋葬と供養に勤しみ、救済と安寧を求める人々に神仏の教えを説いて回った。
人は抗うべくもない大災害を体験してしまった時、それが人智を超えた神が如き存在によって引き起こされたものだとしても、
やはり神仏の奇跡に縋りたくなるものなのだろう。
京全域を渡り歩いていた曲芸師は、平安京に長らく留まり、人々に惜しげも無く芸を披露した。
先の見えない不安に押し潰されそうな気持ちを晴らすには、やはり笑顔が一番だ、とその曲芸師は語っていた。
平安京復興に一役買う事で、知名度を更に広げようという強かな考えも持っていた様だが、其の辺りは流石は芸人と言ったところか。
人に力を貸していた剛力の鬼は、人間化の術を用いて平安京に入り、建物の修理や再建に大きく役立っていた。
人間化しても尚巨大過ぎる肉体は、最初はやはり人々から恐れられる事も多かった様だが、
同伴者達の説得や本人の働きぶりもあって、少しずつ受け入れられているらしい。
その他にも、陰陽師達は方々で乱れた気の流れを整えていき、医術の心得がある者達は人々の心身を癒し、
地位の高い者は其の立場と財力で都の復興を助け、腕の立つ狩人は多くの獲物を仕留めて食料を配り歩くなどしていた。
望月も、精神の落ち着きを取り戻してからは力仕事を手伝ってみたりしたが、人並みの成果と大差は無く、
どうすれば皆の様に効率的に役立てるのかと思案する日々が続いていた。
己が編み出した剣の型や理合を纏めた兵法書を書いてみたりはしたものの、他を斬る為に研鑽した技術を世に広めるのはあまり気乗りしなかった。
邪神の一柱が爆散した際の、言い表せぬ程に強烈な光……否、情報の波を浴びた際に、世界の片鱗を見ていた。
どうやらこの国では、やがて争いの絶えぬ戦乱の世が訪れる様だ。
であればこそ、現世を救った己の技術を後世に残す事によって、其れを受け継いだ者同士が斬り合うかもしれない可能性を生み出したくなかったのだ。
哀しいかな、今の京には自分の為せる事は殆ど無いらしい。
ならば此の風来坊が為せる事は、最早ただ一つ。
現世崩壊の危機は去っても、人の世が続く限り悪鬼の類は現れるだろう。
その様な悪鬼共を退け、人々の命を護る旅に出るとしよう。
風の噂では、平将門を討ち取ったとされる藤原秀郷が、近江にて山を七巻半する大百足を退治したという。
世界そのものを手中に収める巨神に一太刀浴びせてみせたのだ。自分にやってやれぬ事はなかろう。
そういう訳で、望月は梅雨明けの日に平安京を発とうを決めていた。
四.
昨夜は清明に頼み込み、現世救済の仲間達を呼び集めて別れの前の宴に興じた。
皆それなりに別れを惜しんでくれたが、たまに都に帰って来ては顔を見に行くつもりだと望月が伝えると、それならばと笑顔で送り出してくれた。
そして一夜が明け、今は晴明屋敷の門の前で、晴明と博雅の二人に見送りをしてもらっている。
晴明は一枚の札を望月に手渡した。
それは望月が予め用意を頼んでいたものであり、
「もし急ぎ人手が必要になりそうな時は、いつでもこの身を呼び出してくれ」
という望月の頼みを叶える代物であった。
博雅は、望月の無事を祈願する為に、笛を奏でてくれた。
天上の神仏すら酔いしれる、極上の音色。これが当分聞けなくなると思うと、名残惜しい。
「何から何まで世話になった。では、いずれまた会おう」
望月は深い礼を終えると、二人に背を向ける。
腰に下げた飛龍天という銘の太刀の柄を握り、これから長きに渡って苦楽を共にするであろう相棒に「宜しくな」と内心で声をかける。
顔を上げると、燕が上空でくるくると円を描く様に飛んでいた。
巣立ちしたばかりだろうか、まだ小振りな燕である。
自分と共に旅立つ仲間を探している様にも見えた。
「……さて」
夏の到来を告げる様な、からりと乾いた風が頬を撫でていく。
「ゆこう」
そういうことになったのであった。
五.
望月は、所定の住処を持たなかった風来坊ゆえに、二十歳を過ぎても嫁のいない男であったが、
旅先にて嫁を貰う機会があった様で、晩年には我が子と押しかけて来た二人の弟子に剣術修行の見学を許していたらしい。
そして、ある時、彼らにこう言い伝えたという。
うつし世を
闇より照らす
望月の
欠けぬ世のため
義の道をゆけ
たとえ表舞台に名を遺せなくとも、闇に蠢く怪異から人々を生かす為に。
満月の様に、何も欠けることの無い世を作る為に、義を貫く道を歩け。
望月義道という男がこの世を去ったのは、それから四日後のことであった。
蒸し暑く陰鬱な天気の続いていた梅雨がようやく明け、今日は朝から燦々と輝く太陽が澄み渡る青空に浮かんでいる。
晴明屋敷の庭にある木々からは、まばらであるが蝉の声が振って来る。
濡れ縁から庭を眺めている男は、紫陽花や桔梗が日光に照らされる姿を見ながら満足気に頷いた。
「うむ。予定通り出立日和であるな」
かの安倍晴明が梅雨明けの予想を外すなどという心配は微塵もしていなかったが、実際に久方振りの日光を目にすると、やはり感嘆せざるを得ない。
男は名を望月 義道といい、武官の家の息子として生まれた武芸者である。
歳の頃は二十代半ばで、男ではあるが長髪を一つに結って纏めている。
武官の息子とはいっても三男坊であり、それなりに自由な位置付けにいた彼は、
剣の道に魅入られた果てに家を飛び出し、武者修行の旅へと出たのである。
そうして、何の因果か平安京にて安倍晴明に呼び止められ、彼に誘われるままに二度程手を貸す事になったのである。
望月は、およそ一年前に起こった、現世を護る為の闘いのことと、其れを奇跡的に乗り越えてからの京での出来事を思い出していた。
二.
初めて安倍晴明の誘いを受けた時、望月は既に武芸者として一つの高みに上り詰めていた。
剣を振るうぐらいしか能の無い男ではあったが、それゆえ並の武人や獣達が相手であれば遅れをとる事などありえない。
剣の腕前を他人の前で自信満々に語ったことは無いが、心の片隅では僅かながらにそう考えていた。また、事実そうであった。
だが、陰陽師 安倍晴明が鎮めに出向く程の異形達は、まさしく理外の存在ばかりである。
直視する事が憚られる、恐ろしい外見。
近付くだけで自然と息が詰まる様な、計り知れぬ重圧。
認識してしまうだけで心の奥底が掻きむしられ、とても平常心など保っていられぬ。
望月も道を究めんとする一人のもののふであったから、過酷な鍛錬の果てに心に幾らかの修羅を宿していた。
だが初めて見る魑魅魍魎の前には、人間の心の闇など些事でしかなく、見ただけで全身が震える程の恐怖に飲まれる事もあった。
そして、その様な異形の存在を鎮める為に集められた晴明の友人もまた、並々ならぬ猛者達であった。
異形の存在を紐解いてゆく為の、豊富な宗教知識を持つ者。
異形を封じ込める術式を為す為の、鮮やかな楽の才を持つ者。
異形の暴力から人々を護り、時として捻じ伏せる為の研ぎ澄まされた武の腕を持つ者。
かつて彼らと協力した際には、未熟を晒した己を恥じ、上には上がいる事を身を持って理解した。
だからこそ、更なる研鑽を持っていずれは追い付いてみせよう、と奮起したものである。
二度目に安倍晴明達と再会を果たした時、望月は既に常人の域を脱し、達人の境地へと足を踏み入れていた。
心の修羅を静める為に吹き始めた篳篥の腕も、並の楽士では到底及ばない程の領域に到ってはいたが、
本人が誰かと楽の腕を比べ合おうとも考えず、大衆の前で披露し評価を受けた事も無かった為、実力を自覚していなかった。
だが剣の腕に関しては、以前よりも自負の念が高まっていた。
ある日を境に、自分の剣が確実に変わったという手応えを、感じ取っていたからだ。
今の自分ならば、とても敵わぬと心が折れかけた異形の化物にも太刀打ち出来るかもしれない。
今の自分ならば、己以上の技量で二刀を操る陰陽師にも、獲物を仕留めるのに矢を余らせないと噂された狩人にも、並び立てるかもしれない。
その様な思いを抱きながら、彼等との合流を果たし、事情を聞いて現世救済の旅路を共にする事にしたのだ。
そして迫りくる異形の群れを迎え打った時、そんな望月の自信は早々に打ち砕かれてしまった。
剣の細やかな技巧こそ評価されたが、前述の二人は総合的な武力において確実に望月以上の存在であった。
猛者達と肩を並べて戦場を駆けられた事は誇らしかったが、同時に、この世には逆立ちしても勝てぬ人間がいるのだと明確に悟ってしまった。
いや、そもそも。世界そのものを掌の上で転がす様な神々と相見えてしまったのだ。
人の世界の中で強さに憧れたからこそ強さを追い求めたが、己の上には常に誰かが、人の上には常になにかが立っているという宿命を否が応でも理解させられた。
―――最早これ以上、強さだけを追い求める道の上は歩けぬ。
三.
現世を護る為の闘いからは、奇跡的に五体満足で帰ってくる事が出来た。
精神に負った傷は大きかったが、幸いにも数ヶ月の精神治療で完治出来る程度の傷であった。
これまで積んできた修行も、存外全てが無駄だった訳ではないのだな、と思えたものである。
しかし帰ってきた平安京の損壊は激しく、道の端々であらゆる生命の屍の山が築かれていた。
そこで、晴明と共に現世を救うべく奔走していた者達は、各々の全力を尽くし都の救済を始めた。
祇園神社に仕える巫女は、亡くなった者達の埋葬と供養に勤しみ、救済と安寧を求める人々に神仏の教えを説いて回った。
人は抗うべくもない大災害を体験してしまった時、それが人智を超えた神が如き存在によって引き起こされたものだとしても、
やはり神仏の奇跡に縋りたくなるものなのだろう。
京全域を渡り歩いていた曲芸師は、平安京に長らく留まり、人々に惜しげも無く芸を披露した。
先の見えない不安に押し潰されそうな気持ちを晴らすには、やはり笑顔が一番だ、とその曲芸師は語っていた。
平安京復興に一役買う事で、知名度を更に広げようという強かな考えも持っていた様だが、其の辺りは流石は芸人と言ったところか。
人に力を貸していた剛力の鬼は、人間化の術を用いて平安京に入り、建物の修理や再建に大きく役立っていた。
人間化しても尚巨大過ぎる肉体は、最初はやはり人々から恐れられる事も多かった様だが、
同伴者達の説得や本人の働きぶりもあって、少しずつ受け入れられているらしい。
その他にも、陰陽師達は方々で乱れた気の流れを整えていき、医術の心得がある者達は人々の心身を癒し、
地位の高い者は其の立場と財力で都の復興を助け、腕の立つ狩人は多くの獲物を仕留めて食料を配り歩くなどしていた。
望月も、精神の落ち着きを取り戻してからは力仕事を手伝ってみたりしたが、人並みの成果と大差は無く、
どうすれば皆の様に効率的に役立てるのかと思案する日々が続いていた。
己が編み出した剣の型や理合を纏めた兵法書を書いてみたりはしたものの、他を斬る為に研鑽した技術を世に広めるのはあまり気乗りしなかった。
邪神の一柱が爆散した際の、言い表せぬ程に強烈な光……否、情報の波を浴びた際に、世界の片鱗を見ていた。
どうやらこの国では、やがて争いの絶えぬ戦乱の世が訪れる様だ。
であればこそ、現世を救った己の技術を後世に残す事によって、其れを受け継いだ者同士が斬り合うかもしれない可能性を生み出したくなかったのだ。
哀しいかな、今の京には自分の為せる事は殆ど無いらしい。
ならば此の風来坊が為せる事は、最早ただ一つ。
現世崩壊の危機は去っても、人の世が続く限り悪鬼の類は現れるだろう。
その様な悪鬼共を退け、人々の命を護る旅に出るとしよう。
風の噂では、平将門を討ち取ったとされる藤原秀郷が、近江にて山を七巻半する大百足を退治したという。
世界そのものを手中に収める巨神に一太刀浴びせてみせたのだ。自分にやってやれぬ事はなかろう。
そういう訳で、望月は梅雨明けの日に平安京を発とうを決めていた。
四.
昨夜は清明に頼み込み、現世救済の仲間達を呼び集めて別れの前の宴に興じた。
皆それなりに別れを惜しんでくれたが、たまに都に帰って来ては顔を見に行くつもりだと望月が伝えると、それならばと笑顔で送り出してくれた。
そして一夜が明け、今は晴明屋敷の門の前で、晴明と博雅の二人に見送りをしてもらっている。
晴明は一枚の札を望月に手渡した。
それは望月が予め用意を頼んでいたものであり、
「もし急ぎ人手が必要になりそうな時は、いつでもこの身を呼び出してくれ」
という望月の頼みを叶える代物であった。
博雅は、望月の無事を祈願する為に、笛を奏でてくれた。
天上の神仏すら酔いしれる、極上の音色。これが当分聞けなくなると思うと、名残惜しい。
「何から何まで世話になった。では、いずれまた会おう」
望月は深い礼を終えると、二人に背を向ける。
腰に下げた飛龍天という銘の太刀の柄を握り、これから長きに渡って苦楽を共にするであろう相棒に「宜しくな」と内心で声をかける。
顔を上げると、燕が上空でくるくると円を描く様に飛んでいた。
巣立ちしたばかりだろうか、まだ小振りな燕である。
自分と共に旅立つ仲間を探している様にも見えた。
「……さて」
夏の到来を告げる様な、からりと乾いた風が頬を撫でていく。
「ゆこう」
そういうことになったのであった。
五.
望月は、所定の住処を持たなかった風来坊ゆえに、二十歳を過ぎても嫁のいない男であったが、
旅先にて嫁を貰う機会があった様で、晩年には我が子と押しかけて来た二人の弟子に剣術修行の見学を許していたらしい。
そして、ある時、彼らにこう言い伝えたという。
うつし世を
闇より照らす
望月の
欠けぬ世のため
義の道をゆけ
たとえ表舞台に名を遺せなくとも、闇に蠢く怪異から人々を生かす為に。
満月の様に、何も欠けることの無い世を作る為に、義を貫く道を歩け。
望月義道という男がこの世を去ったのは、それから四日後のことであった。
PLより
PCより
PLより
一.
天元三年霜月十六日。
京の都は鈍色の雲に覆われている。昼過ぎからちらちらと雪が舞い、屋根に木々に人々に、区別なく薄く積もってゆく。
土御門大路にある晴明屋敷に二人の男の姿があった。
一人は狩衣を身にまとい、白髪交じりであり、顔や手足に皺こそ浮かぶものの、往時と変わらぬ涼やかな目元をした晴明であった。
柱に背を預け、三つ用意された酒杯の乗った膳の一つを手元に置き、酒飲んでいる。
もう一人は異装の男でった。全身を黒い皮衣で覆い、同じく黒い手ぬぐいで口を覆い、顔は眼元しか見えぬ。足元には彼の犬であろう黒犬が一匹丸まっている。
なれど、猟犬を思わせる鋭い眼元に見える皺や髪に混ざる白髪、齢のころは還暦を越えているであろう。
晴明に背を向けて濡れ縁に座し、用意された膳を脇に置きつつも手を付けず、庭の枯枝や椿の葉にしんしんと積もる雪を眺めている。
二人は無言であった。だが降り積もる雪が一寸を越えたころ、ぽつりと
「・・・・・今日は別れを告げに参ったので御座いますよ。晴明殿」
異装の男、人からは鴉羽の余一と呼ばれる狩人が口火を切った。
二.
「別れとは。」
晴明は、柱に背を預けたまま余一の背を見た。
「まず礼を。晴明殿」
その問いには答えず庭に積もる雪を眺めたまま余一はそう返した。
「……一つは式神を遣わせて、博雅殿が亡くなったことの知らせを届けていただいたこと。一つは私が博雅殿の法要に香を上げる仲介をいただいたこと」
「晴明殿の仲介なくば、友であるとはいえ、私のような山野の外れ物が博雅殿に香を差し上げるなど、望みえぬことで御座いますから」
「……俺だけではない。多賀家、桔梗一門など様々な後押しがあった。なにより、博雅はそれを望んだことだろう」
ええ、短くつぶやいた後、あいも変わらず振り返らぬまま、ぽつりぽつりと話始める。
「先だっては清重殿も逝き申した。そして博雅殿も。」
「私も還暦を超しました。右近殿や鬼一坊、そして小萩殿など化生妖交じりの方々は別でございましょうが・・・おそらく、多賀殿、鬼一殿など人の身の者は1年先か、10年先かはわかりませぬが。残りの命数は多くないことで御座いましょう。」
「……然もありなん。博雅がそうであるように、人である以上、終わりは来るものであろうよ。余一殿」
と晴明は手に持っていた盃を置き余一の背を見つめている。
「・・・あの時からおおよそ四十年でございますか。」
晴明の視線を背に受けつつ、独白のごとき、晴明との話は続く。
「・・・あれから鬼一殿と右近殿と共に化生、妖、獣、人の橋渡しも行いましたな。」
「あの時ほどではないにせよ、京の平穏を守るために弓を取り望月殿、多賀殿と化生退治に行ったこともあり申した」
「京に流行り病が蔓延したと言ってみずな殿と薬草を求めて山野を駆けずり回ったことも御座いましたな」
「なれど、歳のせいかもう以前のように弓は撃てませぬ。足腰も弱ってきております。そして…」
「かつては無鉄砲な若者であった鬼一坊も、最早坊とは呼べぬ思慮深い益荒男になり申した」
「望月殿は子を弟子として育てておられるようで御座います。」
「多賀殿の子は父の跡を継いだ立派な陰陽師で御座います」
「桔梗一門は言わずもがな、かの人らが育てた薬師たちは各地に散らばっております」
「…次代は育ち、時代は変わるのでありますよ」
「……いえ、とうの昔に時代は移り変わっていたのでしょう」
「なればもう、私のごとき老いぼれは不要でございます。もう、京を訪れることは無いでしょう。」
「山野で野垂れ死に、獣や蟲に腐肉を喰われ、そしてまた山野に還る」
「・・・その時まで、大江の山に籠るつもりでございます。」
余一は吐き捨てるかの如く話し切る。
「そうか。だが・・・それは嘘ではないのであろう。ただしすべての真実を話しているわけでもないのだろう」
そう、晴明は余一の背に言葉を投げかける。
「…叶いませぬなぁ。お見通しでございますか」
余一は初めて晴明に向き直ると泣き笑うかのごとき顔で告げる。
「弱き男と笑ってくだされ晴明殿。どんな形であれ私はもう、友の死に目を見たくないし、友を見送りたくないのでございます。そして友に私の死に目も見せたくはないし、見送らせたくもないのでございますよ」
「…笑わぬとも。余一殿」
「…最早今生で会うことは御座いませぬでしょう。長きにわたる友誼感謝に堪えませぬ」
「…ああ」
「…おさらばです。晴明殿。」
そう一言告げると編み笠を被り、黒犬を連れて、晴明の屋敷を辞した。
それ以降、異装の狩人を、京で見ることは終ぞなかった。
三.
長徳元年
土御門大路を一匹の黒犬が走っている。
全身に傷があり、毛は血と泥に染まり、足を一本引きずり、今にも事切れんばかりの黒犬が首に手ぬぐいらしき何かを巻き付け、ただひたすら走っている。
四半刻も土御門大路を走っただろうか。
一件の荒れ屋とも見える屋敷に犬は飛び込むとそこには髪は真白に染まり、手足は皺が寄り枯れ木のようになっているが涼やかな目元をした狩衣姿の老爺がいた。
「…確かに。ご苦労であった」
そう老爺は黒犬に巻き付けられた手ぬぐいをほどいて手に取り、黒犬に声をかけると。
黒犬は一吠えし、そのまま地に伏せ息絶えた。
「かの物からの10年ぶりの文・・・か」
老爺はそうつぶやきつつ手ぬぐいを開くと
そこには血を墨とした赤黒い文字が、たった一文だけ記されていた。
―――大江の山に鬼神現る。後事を託す。と。
天元三年霜月十六日。
京の都は鈍色の雲に覆われている。昼過ぎからちらちらと雪が舞い、屋根に木々に人々に、区別なく薄く積もってゆく。
土御門大路にある晴明屋敷に二人の男の姿があった。
一人は狩衣を身にまとい、白髪交じりであり、顔や手足に皺こそ浮かぶものの、往時と変わらぬ涼やかな目元をした晴明であった。
柱に背を預け、三つ用意された酒杯の乗った膳の一つを手元に置き、酒飲んでいる。
もう一人は異装の男でった。全身を黒い皮衣で覆い、同じく黒い手ぬぐいで口を覆い、顔は眼元しか見えぬ。足元には彼の犬であろう黒犬が一匹丸まっている。
なれど、猟犬を思わせる鋭い眼元に見える皺や髪に混ざる白髪、齢のころは還暦を越えているであろう。
晴明に背を向けて濡れ縁に座し、用意された膳を脇に置きつつも手を付けず、庭の枯枝や椿の葉にしんしんと積もる雪を眺めている。
二人は無言であった。だが降り積もる雪が一寸を越えたころ、ぽつりと
「・・・・・今日は別れを告げに参ったので御座いますよ。晴明殿」
異装の男、人からは鴉羽の余一と呼ばれる狩人が口火を切った。
二.
「別れとは。」
晴明は、柱に背を預けたまま余一の背を見た。
「まず礼を。晴明殿」
その問いには答えず庭に積もる雪を眺めたまま余一はそう返した。
「……一つは式神を遣わせて、博雅殿が亡くなったことの知らせを届けていただいたこと。一つは私が博雅殿の法要に香を上げる仲介をいただいたこと」
「晴明殿の仲介なくば、友であるとはいえ、私のような山野の外れ物が博雅殿に香を差し上げるなど、望みえぬことで御座いますから」
「……俺だけではない。多賀家、桔梗一門など様々な後押しがあった。なにより、博雅はそれを望んだことだろう」
ええ、短くつぶやいた後、あいも変わらず振り返らぬまま、ぽつりぽつりと話始める。
「先だっては清重殿も逝き申した。そして博雅殿も。」
「私も還暦を超しました。右近殿や鬼一坊、そして小萩殿など化生妖交じりの方々は別でございましょうが・・・おそらく、多賀殿、鬼一殿など人の身の者は1年先か、10年先かはわかりませぬが。残りの命数は多くないことで御座いましょう。」
「……然もありなん。博雅がそうであるように、人である以上、終わりは来るものであろうよ。余一殿」
と晴明は手に持っていた盃を置き余一の背を見つめている。
「・・・あの時からおおよそ四十年でございますか。」
晴明の視線を背に受けつつ、独白のごとき、晴明との話は続く。
「・・・あれから鬼一殿と右近殿と共に化生、妖、獣、人の橋渡しも行いましたな。」
「あの時ほどではないにせよ、京の平穏を守るために弓を取り望月殿、多賀殿と化生退治に行ったこともあり申した」
「京に流行り病が蔓延したと言ってみずな殿と薬草を求めて山野を駆けずり回ったことも御座いましたな」
「なれど、歳のせいかもう以前のように弓は撃てませぬ。足腰も弱ってきております。そして…」
「かつては無鉄砲な若者であった鬼一坊も、最早坊とは呼べぬ思慮深い益荒男になり申した」
「望月殿は子を弟子として育てておられるようで御座います。」
「多賀殿の子は父の跡を継いだ立派な陰陽師で御座います」
「桔梗一門は言わずもがな、かの人らが育てた薬師たちは各地に散らばっております」
「…次代は育ち、時代は変わるのでありますよ」
「……いえ、とうの昔に時代は移り変わっていたのでしょう」
「なればもう、私のごとき老いぼれは不要でございます。もう、京を訪れることは無いでしょう。」
「山野で野垂れ死に、獣や蟲に腐肉を喰われ、そしてまた山野に還る」
「・・・その時まで、大江の山に籠るつもりでございます。」
余一は吐き捨てるかの如く話し切る。
「そうか。だが・・・それは嘘ではないのであろう。ただしすべての真実を話しているわけでもないのだろう」
そう、晴明は余一の背に言葉を投げかける。
「…叶いませぬなぁ。お見通しでございますか」
余一は初めて晴明に向き直ると泣き笑うかのごとき顔で告げる。
「弱き男と笑ってくだされ晴明殿。どんな形であれ私はもう、友の死に目を見たくないし、友を見送りたくないのでございます。そして友に私の死に目も見せたくはないし、見送らせたくもないのでございますよ」
「…笑わぬとも。余一殿」
「…最早今生で会うことは御座いませぬでしょう。長きにわたる友誼感謝に堪えませぬ」
「…ああ」
「…おさらばです。晴明殿。」
そう一言告げると編み笠を被り、黒犬を連れて、晴明の屋敷を辞した。
それ以降、異装の狩人を、京で見ることは終ぞなかった。
三.
長徳元年
土御門大路を一匹の黒犬が走っている。
全身に傷があり、毛は血と泥に染まり、足を一本引きずり、今にも事切れんばかりの黒犬が首に手ぬぐいらしき何かを巻き付け、ただひたすら走っている。
四半刻も土御門大路を走っただろうか。
一件の荒れ屋とも見える屋敷に犬は飛び込むとそこには髪は真白に染まり、手足は皺が寄り枯れ木のようになっているが涼やかな目元をした狩衣姿の老爺がいた。
「…確かに。ご苦労であった」
そう老爺は黒犬に巻き付けられた手ぬぐいをほどいて手に取り、黒犬に声をかけると。
黒犬は一吠えし、そのまま地に伏せ息絶えた。
「かの物からの10年ぶりの文・・・か」
老爺はそうつぶやきつつ手ぬぐいを開くと
そこには血を墨とした赤黒い文字が、たった一文だけ記されていた。
―――大江の山に鬼神現る。後事を託す。と。
京災害ののち、典薬寮に戻る。数年後洛外に屋敷を購入し、私塾を拡大。
塾長として教育を体系化し弟子の数を増やす。
典薬寮もやめ、また、医師薬師としての診察活動の大半を弟子に任せ
洛外の屋敷にて弟子の育成と医薬の研究に専念する共に、発狂期間中に書いた無数の意味不明の書付の解読と検証に多くの時間を費やす。
現在の課題は、弟子は多数育てど、流行り病などで彼らが死ねばすべてが無に帰すことため
みずなをはじめとする弟子の手助けを受けつつ、持っている知識を編纂し、書に残すこと。
それから、一向に嫁を取る気のない一番弟子と二番弟子をいかに結婚させるか・・・という二点である。
塾長として教育を体系化し弟子の数を増やす。
典薬寮もやめ、また、医師薬師としての診察活動の大半を弟子に任せ
洛外の屋敷にて弟子の育成と医薬の研究に専念する共に、発狂期間中に書いた無数の意味不明の書付の解読と検証に多くの時間を費やす。
現在の課題は、弟子は多数育てど、流行り病などで彼らが死ねばすべてが無に帰すことため
みずなをはじめとする弟子の手助けを受けつつ、持っている知識を編纂し、書に残すこと。
それから、一向に嫁を取る気のない一番弟子と二番弟子をいかに結婚させるか・・・という二点である。
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この項目では、平安時代の人物について説明しています。植物をはじめとするその他の用法については「蕺草 (曖昧さ回避)」、「ドクダミ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
蕺草(どくだみ)は、平安時代中期の医師、薬師、武人、下人。生没年不詳。
桔梗宮内、みずなとともに「平安の三草」と呼ばれる平安時代の医師の一人。
この項目では、平安時代の人物について説明しています。植物をはじめとするその他の用法については「蕺草 (曖昧さ回避)」、「ドクダミ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
蕺草(どくだみ)は、平安時代中期の医師、薬師、武人、下人。生没年不詳。
桔梗宮内、みずなとともに「平安の三草」と呼ばれる平安時代の医師の一人。
京にに生まれたとされているが明確な記録は残っていない。
蕺草の存在が出るのは典薬寮の女官桔梗宮内の日記[1]からで、
この資料から逆算すると天慶6年(943年)には桔梗宮内の下人をしていたとされる。
一般的な下人としての仕事の他に医師であり女官であった主人の助手をしていたことが明らかになっており
この時期を通じて、医師薬師として基礎を学んだとされている。
これらの事から桔梗宮内の一番弟子とされることが多い。
私塾桔梗一門
天慶10年(947年)ごろ、主人である桔梗宮内が自身の医薬技術の継承のため、私塾を開設した際
塾頭として塾生の取りまとめをしていたようである。またこのころより、ただの下人ではなく、
対外的にも桔梗宮内の助手として活動していた記録が随所に残る。(多賀家伝、源博雅覚書など)
同門であり終生の友でもあった「平安の三草」のひとりであり、桔梗宮内の二番弟子とされるみずなとはこのころに出会ったとされる。
またこのころ主人が精神を病んでおり、医師のしての活動ができなかった時期に人手不足解消を理由に
家より下人から見習い薬師として取り立てられ、経験を積ませるため兵部省の実働部隊に派遣されていたようだ。[2]
平安京災害
天暦2年(948年)に京を襲った災害の復興の際、桔梗一門として京人の治療を行っていた記録が残る。[3]
天暦6年(952年)に主人より薬師としての皆伝をもらい、兵部省の下人として正式に任命される。
以後軍付きの薬師として外傷を中心とした無数の怪我を診たため、この時期に外傷と人体構造に関する相当な知見を得たとされる。
これらの知見はみずなを通じて編纂され一門に伝播し、後年桔梗宮内及びみずながまとめた医学書の外科分野の記述の多くはこれらの知見によるものと思われる。
また兵部省の下人であると同時に一門の医師として、後進の教育や診察に携わっていたようだ。[4]
永観元年(983年)遠方へ派遣される武官に薬師としてついていった際重度の怪我を負い、兵部省を辞す。
怪我が治った後は兵部省に戻ることはなく、桔梗一門の講師、医師であると同時に、桔梗宮内の下人として勤めたとされる。
蕺草の存在が出るのは典薬寮の女官桔梗宮内の日記[1]からで、
この資料から逆算すると天慶6年(943年)には桔梗宮内の下人をしていたとされる。
一般的な下人としての仕事の他に医師であり女官であった主人の助手をしていたことが明らかになっており
この時期を通じて、医師薬師として基礎を学んだとされている。
これらの事から桔梗宮内の一番弟子とされることが多い。
私塾桔梗一門
天慶10年(947年)ごろ、主人である桔梗宮内が自身の医薬技術の継承のため、私塾を開設した際
塾頭として塾生の取りまとめをしていたようである。またこのころより、ただの下人ではなく、
対外的にも桔梗宮内の助手として活動していた記録が随所に残る。(多賀家伝、源博雅覚書など)
同門であり終生の友でもあった「平安の三草」のひとりであり、桔梗宮内の二番弟子とされるみずなとはこのころに出会ったとされる。
またこのころ主人が精神を病んでおり、医師のしての活動ができなかった時期に人手不足解消を理由に
家より下人から見習い薬師として取り立てられ、経験を積ませるため兵部省の実働部隊に派遣されていたようだ。[2]
平安京災害
天暦2年(948年)に京を襲った災害の復興の際、桔梗一門として京人の治療を行っていた記録が残る。[3]
天暦6年(952年)に主人より薬師としての皆伝をもらい、兵部省の下人として正式に任命される。
以後軍付きの薬師として外傷を中心とした無数の怪我を診たため、この時期に外傷と人体構造に関する相当な知見を得たとされる。
これらの知見はみずなを通じて編纂され一門に伝播し、後年桔梗宮内及びみずながまとめた医学書の外科分野の記述の多くはこれらの知見によるものと思われる。
また兵部省の下人であると同時に一門の医師として、後進の教育や診察に携わっていたようだ。[4]
永観元年(983年)遠方へ派遣される武官に薬師としてついていった際重度の怪我を負い、兵部省を辞す。
怪我が治った後は兵部省に戻ることはなく、桔梗一門の講師、医師であると同時に、桔梗宮内の下人として勤めたとされる。
枕草子回想章段の巻にて宮中の医療事情について触れられている。
その中で主人の桔梗宮内がさる貴族に「一門弟子衆の中で最も人を救えるのは誰か」と問われた際
「一生涯で最も人を救えるのは蕺である、一生涯という条件がないならばみずなである」
と返したとされるエピソードが存在する。
またその他の逸話から蕺は臨床方面の医師であった事がうかがえる。[5]
しかし、一門の技を受け継ぎ、後世に伝えるという点ではみずなの右に出るものはいなかったされる。[6]
みずなとは終生の友であり、生涯の好敵手として見ていたようで、みずなの持つ技を尊敬しつつも、張り合う仲であったらしい。
だが、一度後進の塾生とともに多数で酒を飲んでいた際お互いの嫁取りの話について口論となり大喧嘩になったと伝えられる。
「貴様こそ嫁を早く取れ、貴様こそ早く嫁を取れとお互い言い合い双方収まりがつかず、
見かねた塾長が仲裁に入り、二人とも仕置きとして雑役を言い渡される也。翌日双方肩を並べて薬草を刻みけり」
と当時の塾生が記録している。[6]
酒呑童子征伐の際、源頼光が桔梗一門に征伐に誰か一人医師の同行を求めた際、医は兎も角も、武に長けたものが不在のため
足手まといになると断れた際、その帰り道に足を引きずる下人姿の老人に呼び止められ源頼光に幾つもの薬を手渡したという。
またその際酒呑童子に気をつけろ、おそらく手傷を負って怒り狂っているはずであるからと警告したとされる。
源頼光がなぜそのようなことがわかるのかと聞くと彼の人がただ鬼に殺されるとは思えないとだけ答えたという。
実際酒呑童子には無数の矢傷があったと伝えられる。
風貌の特徴や源頼光の手記に手渡された薬の薬効が類を見ないものであったと記述されていることから
この老人は蕺草でないかと考えられており、酒呑童子征伐の何らかの情報を知っていたものと思われる。[7]
医師としての活動が目立つがそれなりに剣の腕も立ったようであり鬼一享雲
(平安時代中期の陰陽師、武芸者。詳細は不明だが陰陽師としても武芸者としても当代五指に入るとされている)
を師として戦い方を学んだとされる。
後年師について尋ねられた際
「師が75の歳のころに師と立ち合いをした。師は老人であり肩も腰も痛め、剣など振るえる力などないことなど医師の私にはわかっていた。
だが、師の剣の前に立つと勝てる想像が全く思い浮かばなかった。武の極みとはああいう方の事を言うのだろう。だが怪我人であるのに酒を飲もうとする悪癖だけは主人と私で諫めても治らなかった」
と話したとされる。
また現代では望月怪奇譚の人物として知られる望月 義道とも繋がりがあったようで彼の人が京に戻るたびみずなとともに古傷の治療を行っていた記録が残る。
その際に望月 義道と立会いをしたことがあったらしく
「本人は謙遜するが、師とは方向性こそ違えど、精妙な技を持って為す武の極みの一人であることは間違いない。だが古傷を放置するのは頂けぬ」
との記述が残っている。[6]
下人ではあるが、多賀家、安倍晴明、源博雅などの高位の貴族ともつながりがあったらしい。
多賀家については特に頻繁に訪れていたらしく多賀家の門衛も蕺草の姿を見ると誰何もなく素通しの有様であったらしい。
このことについて多賀伊彦は、気持ちは理解できるが蕺はもう少し落ち着きを持つべきである。逃げられかねないぞ。と記し、
多賀清重はまあ良いではないか若人らしゅうてと記している。[8]
その中で主人の桔梗宮内がさる貴族に「一門弟子衆の中で最も人を救えるのは誰か」と問われた際
「一生涯で最も人を救えるのは蕺である、一生涯という条件がないならばみずなである」
と返したとされるエピソードが存在する。
またその他の逸話から蕺は臨床方面の医師であった事がうかがえる。[5]
しかし、一門の技を受け継ぎ、後世に伝えるという点ではみずなの右に出るものはいなかったされる。[6]
みずなとは終生の友であり、生涯の好敵手として見ていたようで、みずなの持つ技を尊敬しつつも、張り合う仲であったらしい。
だが、一度後進の塾生とともに多数で酒を飲んでいた際お互いの嫁取りの話について口論となり大喧嘩になったと伝えられる。
「貴様こそ嫁を早く取れ、貴様こそ早く嫁を取れとお互い言い合い双方収まりがつかず、
見かねた塾長が仲裁に入り、二人とも仕置きとして雑役を言い渡される也。翌日双方肩を並べて薬草を刻みけり」
と当時の塾生が記録している。[6]
酒呑童子征伐の際、源頼光が桔梗一門に征伐に誰か一人医師の同行を求めた際、医は兎も角も、武に長けたものが不在のため
足手まといになると断れた際、その帰り道に足を引きずる下人姿の老人に呼び止められ源頼光に幾つもの薬を手渡したという。
またその際酒呑童子に気をつけろ、おそらく手傷を負って怒り狂っているはずであるからと警告したとされる。
源頼光がなぜそのようなことがわかるのかと聞くと彼の人がただ鬼に殺されるとは思えないとだけ答えたという。
実際酒呑童子には無数の矢傷があったと伝えられる。
風貌の特徴や源頼光の手記に手渡された薬の薬効が類を見ないものであったと記述されていることから
この老人は蕺草でないかと考えられており、酒呑童子征伐の何らかの情報を知っていたものと思われる。[7]
医師としての活動が目立つがそれなりに剣の腕も立ったようであり鬼一享雲
(平安時代中期の陰陽師、武芸者。詳細は不明だが陰陽師としても武芸者としても当代五指に入るとされている)
を師として戦い方を学んだとされる。
後年師について尋ねられた際
「師が75の歳のころに師と立ち合いをした。師は老人であり肩も腰も痛め、剣など振るえる力などないことなど医師の私にはわかっていた。
だが、師の剣の前に立つと勝てる想像が全く思い浮かばなかった。武の極みとはああいう方の事を言うのだろう。だが怪我人であるのに酒を飲もうとする悪癖だけは主人と私で諫めても治らなかった」
と話したとされる。
また現代では望月怪奇譚の人物として知られる望月 義道とも繋がりがあったようで彼の人が京に戻るたびみずなとともに古傷の治療を行っていた記録が残る。
その際に望月 義道と立会いをしたことがあったらしく
「本人は謙遜するが、師とは方向性こそ違えど、精妙な技を持って為す武の極みの一人であることは間違いない。だが古傷を放置するのは頂けぬ」
との記述が残っている。[6]
下人ではあるが、多賀家、安倍晴明、源博雅などの高位の貴族ともつながりがあったらしい。
多賀家については特に頻繁に訪れていたらしく多賀家の門衛も蕺草の姿を見ると誰何もなく素通しの有様であったらしい。
このことについて多賀伊彦は、気持ちは理解できるが蕺はもう少し落ち着きを持つべきである。逃げられかねないぞ。と記し、
多賀清重はまあ良いではないか若人らしゅうてと記している。[8]
彼方に滲む茜を見送るべく、鈴虫や蟋蟀が凜々と鳴く頃である。都を覆っていた夏の気配は、仄かな残り香を置いて初秋の帷へと姿を隠した。夏の活気と、冬の静けさの狭間に有る嫋やかな空気が、蜜の如きとろみを帯びて径を充たしている。
内裏の門に篝火が燈り始める刻、土御門大路の一角に位置する、大凡貴族の邸には相応しくない質素な庵の濡れ縁で、夕涼みに耽る三つの人影が在った。一つは、勅命を切欠にして以降、庵に足繁く通っている人物である源博雅。その傍らで、柱に背中を預けつつ片膝を立てて寛いで居るのが、この庵の主にして陰陽師の安倍晴明である。そして二人の間で酌をしているのは、瑠璃の翅を持つ胡蝶より作られし晴明の式神、蜜虫だ。
凛々、凛々、劉々、劉々。
庵の中庭に咲く女郎花と桔梗が、叢から奏でられる自然の玉音に合わせて震え、朱に縁取られた風光を彩る。誰そ彼の暗幕が降りつつある最中でも、爽涼とした気に包まれた庵は、灯を焚いている訳でもないのに淡い蛍火を纏っているかの様な薄明りに照らされていた。
「美しいなぁ」
愛しみを宿す感嘆が、博雅の緩んだ口を衝いて出る。
庵の中庭に生える四季折々の草花を肴に、透き通った清酒を飲む。幾度となく繰り返して来た事だが、日々刻々と違った容貌を燻らせる様を目の前にした途端、どうにも博雅の口が回るらしい。この日も、閨を共にした女へ甘言を囁く様な蕩け切った声色と相好を隠しもせず、博雅は滔々と言葉を並べ立て始めた。初秋の冷涼さを物ともしない、火照った切望と感嘆が矢継ぎ早に飛び出す。
博雅は酒豪であるが、感性に長けた男であるからこそ、酒に酔わず場の雰囲気に酔い痴れる。極上の甘露を口にしたかの如く、博雅の語りは誰に当てるでも無しに、倩々と秋虫の鳴き声を縫った。
「この世はどんな宝玉よりも美しく、おれを魅了するのだよ。四季を繰り返しながらも、一度として同じ姿を見せた事はない。去年の今日、一昨年の今日、そして今。来年の今日も、人と自然とが共に在る限り、一日一日を鮮やかに紡ぎ織って行く。その模様は常に変化をして行くからこそ、人は前へ進み異なる風情を感じ入る事ができる。きっと、今のおれでは感じなかった事も、来年には感じているやもしれぬ。おれはそれが愛おしく、楽しみだ。どんな歌も楽の音も、伝え聞く桃源郷や常世ですら、現世の魅力には届かぬように感じる。それは、おれが人であるということや、まだ知らぬことが多いということも理由にはなるだろうが、なにより……晴明」
「……なんだ、博雅」
そこで、ふと間を置いて口に出された声に、晴明は笹の葉型の眼を中庭の景色から博雅へと移す。そうすると何時の間にやら、こちらを向いていたらしい博雅の団栗眼と視線が絡んだ。
博雅の表情は、穏やかであった。愛しみで弛んだ目許に細かな皺が刻み込まれているのが、薄明りの中でも見て取れる。
「おまえに出逢ってから、おれの知らぬ世を知った。それが善しか悪しか、おれには分からぬ。そういう難しいことには、とんと疎い。しかし、そんなおれでも、世の全てを善し悪しで定められぬ事を知っている。そんな世であるからこそ、おれは更にこの世が愛おしいと思う」
「ほう? 愛おしいと」
「うむ」
細い眉の端を少し許り吊り上げた晴明に、博雅は素直に肯いた。その所作に、一切の迷いは無い。
「人も獣も妖も、有り様は違えど、その理は同じものなのではないか? おまえはいつだったか、この世には見えぬものが有ると言った。笛一つとっても、その全てを知ることは難しい。その笛がどのような音色を奏でられるのか、それは奏者の腕や思いで異なることだろう。だからこそ、愛おしい。おれの知らぬものを秘めている、それはどんな風にも変われるということだからだ。物事の善し悪しは、立つ者や時の流れと共に移ろっていく。それとは関係なく、懸命に短くも一時を生き、次の世の者達が生きる糧として豊かな土壌となる有り様は、人かそうでないか関係の無い共通の理なのではないだろうか。……この世に、一つとして無駄なものは存在しない。その様が哀しくとも、恐ろしいものであっても────全て生きているという証だ。おれは、それがとても愛おしく、美しいと思うのだよ。生きるとは……命とは、生と死が交互に混ざり合うからこそ、どんなものよりも尊く輝いて見える」
言葉の端から端まで、精彩に充ちた声色にて明瞭に言い切るその姿には、つい先程までの甘やかな面影は無かった。時に惑って憂いながらも、直向きに己の知らぬ事柄をも含めたこの世界を愛おしいと、純真な想いで腕を広げている一人の男。それが、源博雅という人間であるのだ。
「おまえはどうなのだ、晴明よ」
一頻り語った事で高揚していた気も幾許か落ち着いて来たのか、空になった盃を黒漆の膳へ置いて博雅が身を乗り出す。
晴明は、必然的に近くなった博雅の黒い瞳を見据えた。冗談や茶化している気配は到底見受けられない、愚直な程に真っ直ぐな視線と純粋な疑問。
「どうとは、なんだ」
「なんだとは、なんだ。おれは、この世を尊いものだと思っている。それがいずれ消えるものだとしても、そうだからこそ命有るこの世が愛おしい。おまえは、この世をどう思うておるのだ、晴明。おれは、前からそれが気になっていたのだぞ。おまえは、出逢った時から不思議な男だったからな。まるで、この世の全てを知っているかのような顔をしているのに、それをおまえが語った事はない。だからこそ、余計に気になる」
博雅が晴明の庵に初めて訪れた時から、晴明は画に描いたような食えぬ男であった。内裏で狐の子であると噂されているのも、考えを読めぬ奇異な男であると囁かれているのも知っていたが、それを踏まえたとて有り余る不可思議な空気を纏いながら、幽世と現世のどちらに肩入れをするでもなく淡々と座している。晴明の在り方は、常に何処か浮世離れしていた。人や人でないものの理と真を手繰って、あるべくしてあるようにする。陰陽寮にて占星に励む陰陽師しか知らなかった博雅にとって、晴明は特異な存在と言えるだろう。
そんな晴明の口から、この世の在り方を聞く事は多くとも、この男自身がどう感じているのかを耳にする機会は極稀な事である。だからこそ、博雅は勢いに乗じて真摯に問うたのだった。
「……どうだろうな」
「はぐらかすな、晴明。おれは真面目に問うておるのだ」
「はぐらかしてなどおらぬ」
「いいや、はぐらかした。そうして時折おれを揶揄うのは、おまえの悪い癖だぞ」
「おれがそうしようとしている訳ではない、おまえがそうさせているのさ」
「おれが?」
「ああ、そうだ。おれは、別におまえを揶揄うつもりで話している訳ではない。だが、おまえの顔を見ると、どうにも戯れが勝ってしまうのだ」
事も無げに言葉を寄越し、内から滲む丹で彩られた肉薄な唇が、盃の縁を食む。晴明の貌が普段と寸分も違わず涼々としているのを後目に、博雅は返す言葉も無いのか口を真一文字に引き結んで唸り始めた。
「む、む……」
「戯れが勝ってしまうのだ」
「……む…………」
駄目押しの如く晴明の言葉を真似た蜜虫が、酒の入った陶磁の入れ物を両手に首を左斜め二十度の角度で傾げると、頭頂部の辺りで倭結いされた絹束の様な黒髪が、重力に従って音も無くしなやかに首元から肩口へと流れた。
いよいよ口が天岩戸と化した博雅を見兼ねてか、晴明は小さく両肩を揺らして含み笑いを漏らした。その手に有る盃の中で、太陽の軌跡を辿って昇り始めた円い月が、朧気な金色を放ちながら漣立つ。
「おれは、あの男や都に関心が有るわけではない」
酒精で仄かな艶めきを宿す朱の口許に描かれた笑みは、上空の月とは正反対に下弦を象っている。
「晴明! だから、そのような────」
「まぁ、よいではないか」
相も変わらず帝の事を「あの男」と呼ばわる晴明に、漸く戸が開いて博雅が不服そうに眉を寄せた。
それを微笑った儘で柔く窘め、晴明は盃の中に映り込む月を見下ろす。遠く輝く金色の光は、何時だったか都から宙へと昇って行った、八百万の囚われし和魂の様である。眼の眩む光こそ無けれど、陽の光が当たっているからこそ姿を目の当たりにする事が出来る有り様は、幽世に住まう彼等そのものと言えよう。
「陰も陽も、共に有るからこそ世は成り立つ。おれは、その二つが傾いた時に均すべくここに居る。陰陽師とは、そのような存在なのだからな。……とはいえ、どうにもおまえと居る内に、世の有り様へ情というものが少しばかり移ったのは確かだ」
盃の縁に唇を添え、月を呑む。ほう、と晴明の口許から微かに零れた吐息に混じり、香り立つ酒精が静穏たる夜の気と絡まり合いながら、輪郭を失くしていった。
「おれは、何かの在り方を変えることはできぬ。それは、そのもの自身と辰が定めることだ。──そして、何かを変えるということは、それに関与するもの全てに影響を与えるということでもある。何事にも代償は付き纏う。万人が幸せな世というのは、正に桃源郷のような神域でしか成し得ぬだろう。誰かが幸福になれば、その陰で誰かが不幸になる。そうした循環を保ちながら、この世は回っているのさ」
「万象は多様な顔を持つ、と以前におまえが言っていた様に、物事を見るには広い眼を持たねばならぬという事だな」
晴明が空になった盃を蜜虫の方へ近付けると、あどけない顔立ちに純朴な微笑みを浮かべた蜜虫が、嫋やかな手付きで酒器の口を盃に近付けて清酒を注ぎ入れる。
盃に透き通った液体が満ちるに従って、再び逆さ月が姿を面に現して行く。夜空に散らばって瞬く星と共に金色の光を放っている月を、円く切り抜いた様であった。幾星霜と離れた場所から届く命の光は、一つ一つ大きさも色合いも異なっている。
博雅は目線を数秒左斜め上へ漂わせ、記憶を手繰ってから首肯いた。
「それを見守ることしかできぬが──危うい均衡の上に成り立つ人の世とは、何かと難儀な事が多かれど──そう悪くないものだな」
常の笑みを象った唇から流れ出づる言葉に、博雅は眼を大きく瞬かせた。
博雅とて、源氏を持つ血筋の一人である。内裏で渦巻く欲望や、覇権争いを知らぬ訳でもない。香と錦に覆い隠された向こう側で、毒々しい泥状の混沌が蜷局を巻いているのは、血筋と権威を絶やさぬが為の事だ。宛ら、蝉が命を賭して子種を残そうとするかの様に。博雅は、楽を好みはすれど、そういった物にはとんと疎く得意でもなかった。
博雅が、初めて内裏で晴明と擦れ違った時、人の情や諍いには何の興味も持たぬ男だという気がした。寧ろ、意図的にそれらを避けていたのかもしれない。しがらみを持たず、その涼し気な眼は何を映しているのか判らぬ。屈指の術使いであるという事実と、狐の子だという噂が、安倍晴明という男の本質を殊更に有耶無耶にしていた。
その男が、笑いながら人の世をそう評したのだ。
人間は、幾度も過ちを犯す愚かさと、頽れようとも立ち上がる根の強さを併せ持つ。様々な思惑が衝突し、思わぬ事態を引き起こす事も多かれど、その強さが有る限り何度でも人間は立ち上がるだろう。愚かさを根絶する事は出来ぬが、学ぶ事は出来る。過る事で学ぶ様が人間の理だと言うのならば、幾度となく大地が血で濡れようとも、それを倍の命で塗り替えて行くだろう。
「……そうか、……そうか!」
博雅は向日葵の大輪を顔に咲かせ、喜色に染まった笑い声を上げた。
限り有る命だろうと、次へ繋がる物は残る。だとすれば、──きっと。
「なぁ、晴明よ」
「なんだ」
博雅は気の高揚が少し落ち着いてから、弁柄重の狩衣の懐へと片手を差し込み、黒錦の布に包まれた細長い物体を取り出した。
鬼より譲られた、博雅の宝とも言える唯一無二の笛、葉二つである。
「おれは、この命が潰えても縁が巡り巡ったいつの時か、おまえに逢いに行く。その時は、この葉二つの音色を目印にしてくれ」
「ほう?」
「今から奏でるのは、おまえや鬼一殿、望月殿、余一殿──皆といずれ縁が巡り、出会える事を願う曲だ。おまえの言い方を借りるなら、呪であるな」
今度は、晴明が幾許か驚いた表情を呈する番であった。
呪の話をする度に、小難しいからと文句を漏らしていた男と同一人物とは思えぬ程、博雅の声は穏やかで迷いが無い。まるで、その時が必ず来ると確信しているかの様に。
「人は誤る。そして、それが人でないもの達をも脅かし、世の理が崩れることが無いように、おまえや皆の力が必要となるだろう。おれには、先の世のことは分からぬ。だが、おれとおまえが──皆が愛したものが失われないようにしたい。形有るものは滅びる宿命だということは、百も承知だ。ただ、例え滅びようとも、次に繋げることはできる。おれは、人と、この世の強さを信じているのだ」
一点の曇りも無い、水底をも透かす澄んだ意思である。
この源博雅という男は、人を信じ、妖を信じ、情を信じ、自らの命が危ぶまれる状況下であっても晴明を信じ、この世を信じる真っ直ぐな男であった。晴明とは異なる眼で見えぬものを捉えて、そこに形無きものを見出す才を持っている。それが数多の存在を救った事実を、博雅は全く自覚していない。
今も、この男は世の美しさと縁と可能性を謳い、尊んでいる。それは、晴明ではなく博雅であるからこそ出来る事であった。
虹を架ける胡蝶の羽搏きが、正に今、この時この場所で閃こうとしている。
「わかった。聴かせてくれ、博雅。いつか、おまえを探し出せるように」
晴明は、円を描く風に盃内の酒を緩やかに一回し揺らしてから、色白の瞼を閉ざす。それは、博雅の奏でる音色を聴き入る時の態勢であった。
「ああ!」
力強い返事と共に博雅は布を解いて、よく磨かれた横笛を月光の下で露わにした。
月の光を輪郭に受け、葉二つは仄かな燐光を纏っている。傷が付かぬ様に扱われているのか、長らく博雅と件の鬼が持っていたにしては、表面が滑らかだ。
葉二つが奏でた音色は数知れぬが、今宵奏でるのはこの世に二つとない音である。博雅が望み希うものを、幾重にも複雑で細やかな旋律に乗せた呪。己も知らぬ何時かの縁へと想いを託し、世の儚くも素晴らしきを謳歌する、名前の無い楽曲であった。
博雅が葉二つを手に取って唇を添えた瞬間、胸内に抵抗も無く入り込んで行く深みを帯びた音が、柔らかな温もりを伴って滑り出た。
蓮華が大きな花弁を一枚一枚広げる様に、鼓膜から入って体内に落ちた種は、羽毛の如く優しい華を開いて行く。決して脆くはない、雄々しい生命力と果てしない神秘を秘めた華だ。何時も世の、誰の胸にも有るもの。否────それは、命という小さくも広い世界であった。
生物の体とは、宇宙そのものだという。命とは、その存在一つ一つ自体が世界なのだ。盛衰を繰り返しながら前へと進み続け、次のものへと名残を托す。それがどんな終わりを迎えようと、どんなものを築き上げようと、それは蔑まれるものでも貶められるものでもなく、一つの可能性として輝き続ける。星明りが遠くから光を投げ掛けるのと同じ様に、どの存在も何かへと繋がり、それが在った事を主張するのだ。
輪廻とは、魂が巡る事ではない。ある存在の死が何かを齎す事然り、起因と結果が縷々と連鎖し続ける事を指す。
源博雅という男が、そうで在れと切に願ったのならば。揺らぎない信念を貫き通すのなら。その想いは年月と共に輪廻し、然る物を齎す事だろう。
「……いい音だ、博雅」
白昼夢に身を委ねて微睡みの淵に有るかの様な口調で、晴明が幽かな低い囁きを漏らした。
安倍晴明と源博雅の両者が没した際も、それ以降も、件の旋律に名前が付けられる事は終ぞ無かった。
今からほんのすこしむかし、この世界は大きくかたちをかえるところでした。
色んな国と国が手をとりあって、べつの国とたたかいながら、その力を大きなものにするきょうそうは、日がたつにつれてどんどんはげしくなっていきます(こうした大きなたたかいは、勝てばたくさんのお金をもらえたので、自分たちが強いことをじまんしながらお金がもらえて、とってもつごうがよかったのです)。どの国も、男の人はみんな国のためにたたかう兵士になる決まりがありました。
せかいのいちばんはしっこ、海の上にうかんでいる小さな国に、とある男の子がすんでいました。
たたかいで国と国がつながり、よその国の音楽、おようふく、おかし、せっけん、おけしょう品、色んなものがいっぱい入ってきたので、その小さな国は新しいものと古いものがごちゃまぜになり、ちょうちょの羽のようにチカチカしていました。
新しくめずらしいものを見ると、お金持ちの人たちはエサをまかれた鳥のようにあつまっていきますが、お金のない人たちは買うことができません。たたかいでたくさんのお金が行ったり来たりしていても、男の子のようなまずしい人たちにお金があたえられることはありません。男の子は、きれいなおようふくを着た同い年の子どもが、ぴかぴかの船や車、ひこうきのおもちゃで遊んでいるのを、ただ遠くから見ていることしかできませんでした。
この小さな国には、身分というものがありました。身分が高ければ高いほど、いっぱいお金をもらうことができて、いいものを食べたり着たりすることができます。身分が低いと、どんなにがんばってもスズメのなみだのようなお金しか手に入りません。男の子の家は、身分が低くてまずしい家でした。
そして、色んな国のものが入って来たのと同じように、色んな国の人たちもやってきました。とてもせいたかのっぽな人もいれば、見た目は似ているのにちがうことばで話す人もいて、泉の中に落っことしたビー玉のような目のきれいな人もいます。
男の子のかぞくは、まだ男の子が生まれるまえ──病気で死んでしまったおじいさんが三十のころに──その国のおとなりからやってきたのでした。どうしてこの国にやって来たのか、男の子はお父さんやお母さんになんどもたずねましたが、ふたりはそれまでどんなにたのしそうにしていても、そのはなしを男の子がするたびに、ふっつりだまりこんでむつかしい顔をするのです。それがどうしてなのか、男の子にはわかりません。ただ、きっとそうしなくちゃいけないことがあったのだと思い、しつこくきくことはしませんでした。
その国は、はなやかできらびやかな国でした。
いっときは、どの国ともおはなしせずにとじこもっていた国でしたが、ここなん年かで目を見はるしんかをとげつつあります。鳥のひなが巣立つためにとびかたをとっくんするように、ほかの大きく強い国とならんで立とうといっしょけんめいだったのでしょう。
町の中をあるいている人たちは、それまで着ていたふくではなく、ふんわりとしたレースやスカート、ぴっしりしたシャツなんかに体をつつんで、はなが高そうにしています。お金もちの人は、おもちゃなんかじゃない、ほんものの車をもっていることもありました。
町のたてものも、平たくてしっそなものではなく、上へ上へとせのびして、目がくらむネオンがお店のかんばんをかざっています。夜になっても、町は明るくてにぎやかです。たいようが空にいなくても、人にはでん気がありました。もう、あぶらや"ろう"をつけたさなくても、明るいばしょでおどったり食べたりのんだり、パーティをしてもいいのです。いつが夜で、いつが昼なのか、町にはもうかんけいがありません。
いつだって、だれかのたのしそうな笑い声と、ふわふわするおさけのかおりでいっぱいでした。
その国は、うすぐらくておそろしい国でした。
ぴかぴかにみがかれたメッキの下は、さわればくずれてしまうほどに黒くすすけています。
お金持ちがばらまいたお金を、いけすの中の人間たちはわれ先にと食らいついてとりあいました。お金をかせぐために、身分の低い女の人は自分の体をしょうひんにしなくてはなりませんでしたし、とくにべつの国からうつりすんでいる人たちは、いつも"とっこう"という人たちに目をつけられていました。
男の子には、その"とっこう"がどんな人たちで、なんのために、いつからいるのかわかりません。わかることといえば、その人たちにつかまった人を町で見かけなくなることがあるということと、いつもおなかをすかせたカラスのような目つきをしているということだけ。
男の子のお父さんは、とてもかしこい人でした。べんきょうねっしんで、しんぶんをつくるしごとをしていました。お父さんは、小さくて平べったい家でばんごはんを食べるとき、お母さんとなにやらしんけんにはなしていました。むつかしいことばがたくさんあって、男の子にはお父さんがなにをはなしているのか、まったくわかりません。男の子は、学校にかよっていなかったので、文字をよんだりかいたりすることも、どのことばがどんないみをもっているのかも、しらないままでしたから。
とうきょうにひっこしてくるまえ、べつのいなか町で、ほんのすこしだけ学校にかよっていましたが、男の子はすぐにいじめられました。先生からも、おなじ学年、ちがう学年のみんなからも。なにやらバカにしたふうに男の子を指さしてよぶのですが、そのことばがなにをいみしているのか、どうして自分がいじめられているのか、男の子にはわかりません。
ある日、家にかえって来たお父さんといっしょに木のおけのおふろに入りながら、がっこうのはなしをすると、お父さんはじっとだまりこくってしまいました。あんまりにもしずかなので、男の子はなにかよくないことを言ってしまったのかもしれないと、お父さんのかおをのぞきこもうとしましたが、そうするまえにとつぜん力強く体をだきしめられたので、けっきょくお父さんがどんなかおをしているのか見ることができませんでした。ただ、お父さんが耳もとで「ごめんな」とひとこと、おしよせるものをこらえた声でこぼしたことを、よく覚えています。
それからすこしして、とうきょうへひっこしたあと、男の子は学校へかよわずに、まいにち人目のつかないばしょでひっそりあそんでいるのでした。
なんかいめかの冬がおとずれ、おもたいなまり色のくもが、空をすっかりおおいかくしていました。ストーブやだんろのある家は、きっとあたたかいことでしょう。男の子の家には、そういったものがないので、古びた火ばちをつかってかじかむ指さきをあたためるのがせいいっぱいです。
いつものように、朝早くからしごとへいったお父さんがかえってくるのを、お母さんといっしょにまっていました。ずいぶんとむかしにお母さんがゴミすてばからひろってきたちゃぶ台の上で、なっぱのみそしる、子もちししゃものしおやき、ざっこくごはん(どういうわけか、お米やさんは男の子の家に白いお米をうってくれませんでした)、たくあんの切れはしが、わびしそうに身をよせあっているのをながめていると、口の中につばがわいてきます。それをのみこんで、男の子は火ばちにくすぶるほおずき色にじっと目をこらしました。そうでないと、お父さんをまてずにたべてしまいそうだったからです。
けれど、まてどくらせど、お父さんはかえってきません。へやの中でもいきが白くなるさむさの中、みそしるはすっかりさめきってしまっていました。いつもなら、夕方ごろにはかえってきているはずなのに。
「ぼう、ちょっとまっててね。家から出ちゃだめよ」
とっぷり日がしずみ、くらくなってしまったまどの外を見て、お母さんはすりきれたべに色のはおりを着ながらげんかんへと足早にむかっていきます。
それからのことを、ぼうやはあまりよくおぼえていません。
さむいへやで、ずっとひとりきりだったこと。
外がさわがしくなって、こわいかおをした大人たちが家にとつぜんやってきたこと。
びょういんのようなばしょへ連れていかれて、そこにお父さんとお母さんがかたい金ぞくの台の上であおむけになっていたこと。
青くまだらなはだになった二人のかおや体のあちこちに、黒いあざがたくさんあったこと。
よんでも、ゆすっても、なんのへんじもなかったこと。
どうして、なにが、なぜ、だれが──ぼうやは、なにもわかりませんでした。なぜなら、なにもしらなかったからです。
ただ一つわかったことは、もうお父さんとお母さんはいないということだけでした。
* * * * *
「それ、おいしい?」
長屋の影にかくれながら、くすねたばかりの大根を生でむちゅうにかじっていると、ふと後ろからふしぎそうなかん高い声が──女の子というよりも、声変わりをしていない男の子のようでした──聞こえたので、少年はたいそうびっくりして、思わず飛びのきました。
「だっ、だれだ!」
────まさか、畑の持ち主じゃ……。
そう言いかけた口を、少年はとちゅうで止めて声の主をまじまじと見つめます。
目の前にいたのは、二人の男の子と一人の女の子でした。この国の人たちではないということは、真っ白な手足と麦色の髪ですぐにわかりました。
男の子はうりふたつの顔をしていて、身長も体つきもまったく同じです。ただ、二人のかっこうがちがうので、それでなんとなくの見分けはつくように思えました。二人は少年よりもずっと年下で、かがみこんでいる少年の頭と立っている二人の頭の高さがあまり変わらないくらいには背が小さいようです。
声をかけてきたのは、白いお医者さんのような服を着ている男の子でした。白いひざが、ふんわりワンピースからのぞいています。ほんのりと、どこかあまいにおいもしました。
その横にいる男の子は、少年があまり見たことのないかっこうをしています。ズボンの片側は短く、もう片方は長い、ふしぎな作りをしていました。
男の子にはさまれた女の子は、少年と男の子よりも年が上に見えます。身長も、少年より頭はんぶんくらいは高いでしょう。
三人とも、おきざりにされたお年寄りと子供たちがくらしている、まずしい長屋がずらりとならんだこの場所には似合わないくらいに身なりがきれいです。まるで、紙にかいた町の絵の上にガラスをかぶせて、そこに人をのせたようでした。
「だれだっていいじゃないか。きみこそ、ここにすんでいるのかい?」
本当にそんなことは興味なさそうな口ぶりで、ズボンの方の男の子はあめ色の目をまわりへぐるりとやりました。「身寄りがないなら、教会に行けばいいのに」
「……きょう、か、い」
あまりこの国のことをしらずにいる少年でも、教会というものがだいたいどんなものなのかはしっていました。まだらな記憶のむこうがわで、十字のしるしをつけた西洋のおしろのようなたてものが浮き沈みします。
「…………かみなんか、いない」
手に持っている、土が外側についたままの大根を見下ろして、少年はかみしめるように返しました。
「どうして? いるよ」
しごくとうぜんだといわんばかりに、白い服の男の子は少年のそばに寄ろうとしますが、少年はそうさせまいと手に持った大根を投げつけます。
男の子はそれをよけようともせず、大根は男の子の胸あたりに鈍い音をたてて当たり、地面にむなしくころがりました。大根はさらに土まみれになりましたが、男の子の白い服はひとつぶの土もついていません。
「いない、いるわけない、いたら、いたら……」
「「いたら?」」
男の子二人の声が、それぞれ右と左の耳から少年の頭にひびきます。今までしらないふり、見ないふりをして自分にかくしていたものが、ほんのすこしだけ──風にゆられたカーテンのはしから、窓のむこうが見えるように──のぞき見えてしまって。
「おっかあとおとうは……死ななかった……!」
頭を両手でかかえこんで、あえぎながらしぼりだしたか細い声。あらい呼吸を大きく開いた口でくりかえすようすは、まるで水槽から外に出された魚のよう。
指の先からつめたくなって、耳の奥できーんとした高い雑音がなりはじめます。春をすぎて夏が来るころなのに、体がどんどんひえていきました。日に焼けて土でよごれた顔に、ぷつぷつと汗の粒が浮かび上がって顎をつたっていくのがわかっているのに、少年は頭をぶたれるいたずらっ子のようなしせいから動こうとはしません。
「……これ」
とても落ち着いた、女の子にしては低くパレットナイフのような声が、短く耳鳴りのむこうから辛うじて聞きとれました。
少年が青ざめた顔をゆっくり上げると、女の子が片手をこちらへむかってさしだしているのが目に入ります。けがでもしているのか、指に包帯が巻かれているのが見えました。
女の子の手の上にあるのは、にわとりのそれよりもひとまわり大きい卵です。ですが、それが少年のしっている卵でないということは、見てすぐにわかりました。からになるべきばしょは、白い半透明の膜になっています。膜のむこうに、腐った肉色の花のつぼみにも生き物の脳みそにも見える物体が、ぎゅうぎゅうにおしこまれてしわを作っていました。それは生きているのか、女の子の手の上ですこしだけうごいています。カタツムリの目に寄生する虫が、まさにカタツムリの体から目へと移動するときの動きによくにていました。
「ぃ、ひ…………ッ」
おどろいたのと、なんだか気分がわるいのとで、少年はなさけない声を上げて自分の口を両手でひっしにおさえこみます。
「あげる。あなたの神さまがいないなら、あなたが作ればいい」
「…………」
「これは、神さまの卵なの。ずっと持っておいてもいいし、どこかに植えてもいいし、水の中に入れてもいい。どんな神さまに育つのかは、あなたのこころと願いしだい。あなたがいちばんふさわしいと思ったときに、この神さまは本当の神さまになる。わたしたちじゃできない事だから、勉強させて。もし誰かにゆずりたくなったら、ゆずってもかまわない。わたしたちは、あなたの行動を観察してる。人は願う生き物なんでしょう? わたし、だから平和というものをしりたくて、平和を願うという原理をしりたくて、あなたにそれをゆずるの。それをつかって、平和を作ってみればいい」
「もちろん、それをすててもいいし、全部はきみしだいだよ。かみさまは、いるんだ。そのことだけ、おぼえておくといいさ」
少年は、女の子が言っていることの半分いじょうは、よく理解できませんでした。この、さっきからぴくぴく動いている肉のかたまりが神さまだとは、全然思えなかったのです。
目をふせて、少年はうんうんうなりました。うなって、うなって、いっぱい考えました。あの日から、ずっと止まっていた──いいえ、少年が自分でそう望んで止めていた時間が、少しずつまわりはじめようとしています。
「…………そのた、……ま…………?」
さんざんっぱら頭をなやませて顔を上げると、もうそこに三人の姿はありません。足音もなければ、かげもかたちもありませんでした。長屋のあいだをぬっている、いりくんだ道をはだしでかけずりまわりましたが、やっぱりどこにもいません。
何だったのかと首をひねりながらもどって来ると、さっき三人が立っていた場所に、あの生きている卵がぽつんと置かれていました。太陽がかたむきはじめ、ほんのり赤みの混じった陽射しが卵のてらてらした表面を焼いています。ななめにのびた卵の影も、卵のうごきといっしょにゆれているのが視界に入りました。
少年は、自分があまりにもなにもしらないこと、そしてしろうとしなかったことに気付きました。確かに、あの時の少年はとても幼くはありましたが、それでもしらないことだらけで、きっと同い年の同じ身分の子どもよりモノをしらないことでしょう。
何より、少年にはどうしてもしりたいことがありました。何がなんでも、しらなくてはいけないこと。
もし、もし────ほんとうに、かみさまがいれば。
少年は、ボロボロになってしまった着物を、腰のあたりで結んでいる帯へ卵をすばやくしまいこみ、バネのように立ち上がります。そして、土とほこりで黒くよごれた足で路地をかけだして行きました。
長らく少年が閉じ籠っていたこの場所から、ようやく外の世界への第一歩をふみだしたのです。
「神さまはいるよ」
ぽつりと、どこかで幼い男の子の声がしました。お芝居のセリフでも読んでいるかのような口ぶりで。
「人が望むような神ではないけれど」
女の子のたんたんとした声が、斜陽でかたちを歪める影を追いかけていきました。
「ちィと許し、頼み事なんだがよ」
「はい」
「お前に極東へ渡って欲しいンだわ。俺ァ、愈々武の旅に出ようかと思ってよう」
右ノ宰は然う謂って、赤茶の毛皮と大木の枝の様な角の付け根を鉤爪の先で掻いた。黒い唇の片端を吊り上げ乍ら、今から散歩でもして来るとでも謂いた気な軽い調子で吹っ掛けられた言葉。
右ノ宰は嘘が下手な部類だ。数年前に先立って行った元左ノ宰と比べる迄も無く。嘘を吐く時、右ノ宰は明るい調子で話す癖が有る。敢えて指摘をしないのは、其が彼の矜持の上での嘘だと解っているからに過ぎない。
卯は「然様で」と短く返す。右ノ宰は「そう云う所が彼奴にそっくりだなァ」と愉快気に幅の広い両肩を揺らした。
判らない筈が無い。初代左ノ宰も右ノ宰も、寿命を悟ったんだろう。異形と化した其の身だからこそ、誰にも気取られず看取られる事も無く、獣として死ぬ事を選択した。狐那を出た者は何体も居るが、墓標が無い者は何処かで獣として死ぬ事を望んだ者だけだ。
初代左ノ宰は、卯等に儒教を筆頭とする様々な学を教え、世界を渡って世を知る様にと説いた後、那の宰を別の者に譲って那を出て行った。右ノ宰は学ではなく、戦術や武の技を叩き込んだ師だ。今度は、彼が其の時を迎える番だと云う事か。
「もう片側には話を付けて有るンで、先に行ってる筈だ。向こうで合流してくれ。帝都に向かえ」
「御意」
右ノ宰の角は、伸びに伸びて大鹿をも超越する大きさに成っていた。動く度に、頭が重いとぼやいていた事を思い出す。後にも先にも、此の那から角を持つ者が出る事は無いだろう。
「……嗚呼、そうだな。お前にゃ彼奴の教えがよく効いてンのが解る。是以上、言葉は要らねえか」
襤褸布を巻いた斬馬刀を杖に、右ノ宰が巨体を揺らして緩慢に立ち上がる。彼が初代左ノ宰よりも後に残ったのは、偏に躰の頑丈さの御陰だと思った。
是が最期なのだと̪識っていても、感傷は湧かない。送る言葉も無い。
今や、此の那は狐のみの那では無かった。人も居れば鬼も付喪神も居る、遍く幽世の智慧を求め、常世に居場所が無い者達全ての楽園。異種族婚も当然の様に有った。……現に、卯は遡れば人と狐の合いの仔だ。
確約は果たされた。其の対価として、那から代表で二体の者が極東へ送られる慣わしとなっている。つまり、卯は其の片方だと云う事だろう。
「俺がお前を選んだ事にも、お前が此処に存在する事にも、意味が有る。其を見付けられるか否かは、お前次第だ」
無意味な物は殆ど無い────と。其は、誰が謂い始めた事なのだろうか。初代左ノ宰と右ノ宰の口癖の様なモノで、此の那にも浸透した教えだ。多面体の物事が噛み合うか否と云うだけの話で、全ての存在には意味が有る。向こうで何をする可きなのかは、既に判っていた。……ならば、卯が此の役割を担うのにも意味が有るに違いない。
「心得て居ります」
「本当、お前は良く似てるぜ。鉄面皮な所も、生真面目な所も」
銅色の眼に引かれる真一文字の瞳孔が、真っ直ぐ此方を向いている。其の視線が捉えている物は、恐らく卯ではないのだろう。
──強いて言うのならば。其の表情は、余りにも の様だった。
有り触れた日常とは、実に脆い礎の上に成り立っている物だ。異文化の波が混沌と渦を巻く脈動の時代を迎え、此の世界は亦一つ大きな楔を人類史に残そうとしている。何時均衡が崩れても可笑しくはない人理と云う天秤の上で、私は全てを見届ける為に此の地を踏んだ。
錆び付いた分厚い歯車が、軋み乍ら回転し続ける音。常に私の耳を犯す其の音は、業と云う名の永久機関にして此の世の理が循環している証だった。
瞼を伏せれば、薄らと紅蓮に燈る脈が血管の如く地の底を這い、曼荼羅模様を描いているのが視得る。万華鏡の様に乱反射して、刻々と形状を変えて行く。
陰と陽の激流に揉まれつつ有る、此の小さな島国の目前に何が待ち受けているのか──おれは識っている。
帝都、東京。大日本帝國。
おれは、来る可くして西から東へと分散した支流の末尾に名を連ねている。其が何の為に、何時の為に、何が必要なのか、物心が付く前には既に識っていた。
私は、万象の救世主ではない。
おれは、智慧を持たぬ者ではない。
陰陽師の流れを受け継ぐ姓を持つ為か、嫡男である私の兄が父上から陰陽道の手解きを受けていた。兄と父上は、私が生まれる前から姓を継ぐのに相応しいのは私だと感じているらしいが、私は断り続けている。
──其は少なくとも、おれの今の役割ではない。某日の夕涼みの際に然う伝えると、兄は私の眼を真っ直ぐ見据え、暫らくの間を置いてから大きく一度肯いた。
「お前が其の役割を全うする迄の間は、父上と俺が務めて見せよう。其の代わりに、役目を確と果たして呉れ。俺ではなく、お前でなければ出来ぬ事に違い無い。ならば、俺も俺にしか出来ぬ事をする。約束だ」
兄は、小指を立てた右手を此方へ差し出した。小指同士の契。宛ら児戯の様だが、兄の眼差しに迷いや不坐戯た様子は一点も無かった。其こそ、識る者だからこそ識る、互いの存在意義を信じての言動だったのだろう。
絡めた指先は、私の物よりも幾許か太く表面が掠れていた。そんな感触と同時に、力強い熱が伝わって来る。
生命の熱。形の有無や如何を問わず、森羅万象が宿す力。心臓の脈動と共に体温が流れて伝うのが判った。
此の温もりを愛しむ者達を、おれは識っている。
此の温もりの為に生を賭した者達を、おれは識っている。
此の温もりを愛しむ者達が居たからこそ、此の世界を愛した者を、おれは識っている。
智慧を識り、万象が塵芥と朽ちて往っても其を忘却せず、業の摂理を有るが儘に正す事こそが、おれの役割なのだ。惑う者に道を教え、全てを佳しとし、天秤が傾かぬ様に。
だが、此の先に必ず、私一人の役割では担い切れない物が出て来る。其は、此処から数えて然程遠い話ではない。其の為に結ばれた呪を、おれは識っている。
日々、常に耳を澄ませる。錆を撒き散らし乍ら回転する歯車の向こうで、聞こえる筈の物が有るから。
喧嘩には強い自信が有った。其でも、上には上が居る。仰いでも仰いでも見果てぬからこそ、茨道だろうが修羅道だろうが、飽きる事は無く只管に飢えを充たそうと足掻き続けられた。
我は、賢しい方ではない。小難しい事を考える程の脳も無い。
唯、強さと云う物一つに焦がれ続けて、大陸を渡った現在も尚、帝都の裏通りに存在する移民街の阿片窟で拳を振るう。
理解はしていた。我の眼が黒い内に、武を極める事は無い。極みと云うのは、眼に視得る物じゃあねえ。一つの区切りであって、限界を意味する言葉じゃあ無い。我の生の中に於ける"境地"と云うのは、無数に存在する内の片手で数えられるか否か程度だろう。嗚呼、畜生、其を考えるだけでも無性に腹立たしい。
────だが、とも思う。此の拳は、武を極める為に存在している訳じゃねえ。是は、来る縁の為にと砥がれた牙で有り、爪に過ぎない。其は百も承知で、我自身も那の我等も、先代も先々代も初代も、我欲以上の目的を以てして肉体を磨いた筈だ。
第一は、手前が信じる物の為に。我欲は二の次三の次で構わない。
「…………糞ッ、あーあ」
顔に撥ねた泥水を右手の甲で拭うと、土と溝水の合さった臭いが饐えて悪態が自然と漏れる。
帝都と云う響きに胡散臭さを感じては居たものの、案の定何処にでも"然う云う"事情は有るモンだ。異邦の血が流れる身で表通りを白昼堂々と歩くには、随分と肩身が狭い。だが、裏を取って返せば却って此の身は好都合だ。
血肉を啖らう獣には、其を好む変わり者が集まる。余りにも目を惹く事は出来ねえが、移民街に火薬と薬と腐肉の臭いと来れば、自ずと向こうの方から遣って来るだろう。其を生業とする存在が。
無論、其は仮初の役目で有って、手段の一つに過ぎないのは重々承知だ。本命は、未だ見えぬ縁。何にせよ、此の躰が血を浴び修羅を潜り、更に磨きを掛けられるのには違いねえ。本来の役目を果たせて先代とは異なる武の境地に至れるとしたら、冥利に尽きると言えるだろう。
ふと貌を上げる。表を照らす日光が周囲の細長い寂れた建物──ビル、と云うらしい──に遮られ、薄暗い影を落とす細い路地に立ち入る気配がした。
舗装されていない道に敷かれた砂粒を踏み潰す音の重さからして、相手は少なくとも其れなりに厚い底の靴を履いているらしい。此の御時世、然う云った履物を汚せる人間の階級や職業は自然と絞られる。
加えて、風上から漂って来るのは紫煙と阿片の臭いだ。煙草は此の辺鄙な場所に似合わない上物で、阿片の"純度"も高い。併せて、麝香の癖が強くも後が妙に甘い香り。
足元で意識を喪失して昏睡状態に有る異邦人の服装は、如何見ても此の国の物ではなかった。当たり前か。其を承知して此奴等の縄張りに足を踏み入れたのだから、然うでなけりゃ困る。
如何やら、我等は何処迄行っても裏方からの捻くれた支援しか出来ないらしい。元より承知で、其の心算では居たが。愚直な程に一方通行な方が、迚も我らしいじゃねえの。
「……待ち草臥れちまったよ、大哥」
虫食いの如く朽ちて斑に穴が開いたコンクリヰト壁に預けていた背中を、少し勢い付けて起こす。貌を気配の方へ向けると、望む通りに"当たり"を引いた事が理解って、口端が吊り上がるのを抑え切れなかった。
一見すると洋物だが、釦や袖口、襟元に異国風の装飾を施された衣装を身に纏い、平たい帽子を被った人影が路地を堂々と塞でいる。其の背面に控えていた三人の従者らしい面子の中に、覚えの有る貌が一つ有った。
紫明の輝きを帯びた銀の眼が、月明かりの様な視線を此方に投げ掛けて来る。
嗚呼、此の躰の中で沸き立つ高揚感は何と云う名の感情なんだったか。武者震いにも似た、────……期待、か。
役目を全うする第一歩を踏み出した事と、我の拳が何処迄届くのかを試せる事、今後相見える事になるであろう剛の者達への想い。
此の身を震わせる是こそが、我の命の在り方だと我は声高に叫ぼう。
未だ知らない者へ、然して世の全てへ届く様に。
声を殺して息を潜め、青々と茂る芝生との接地面積が少なくなる様に踵を浮かせ、爪先で立つ。磨かれた革靴は爪先立ちをするには足の指が痛むから、行儀が悪いと叱られるのは分かっていても脱いで左手に纏め持っている。
素足で踏む芝生は、薄い皮に草の一本一本が触れて擽ったい気分になると同時に、此の一寸程に刈られた草の先端を伝って大地の力強い温かさを感じられて俺は好きだ。曲りなりにも一介の華族と云う身分が独り歩きして、白いシャツとベージュのパンツを吊りベルトで肩に引っ掛けた姿に裸足で外を駆け回るのを家の者に見付けられると、手厳しいと迄は行かずとも軽い叱責は免れない。身分だ何だと、窮屈な出に生まれたものだと我乍ら溜息が出る。
其の日は初夏の頃合いで、逃げ水が地面を夢幻の如く這っていた。春の気配を仄かに残しつつも、項を焼く陽射しが蒼天高く燦々と降り注ぐ。
日本は四季が美しい国だ。折々で見せる貌が毎年異なる有様は、着物を変える気紛れな女性に似ている。御転婆かと思えば嫋やか、時に凛々しく、時に穏やかと俺の心を掴んで離さぬ。
何故賊の真似事を自分の邸の敷地内でしているかと云えば、偏に"写真"の為だ。
此の趣味も、余り褒められた物ではない事は識っている。何せ俺の家は日本の軍に従事している上、俺自身も軍将校では有るからだ。加えて、カメラが人の魂を吸い取るだのと本気で信じている者達が本当に居るのだから、俺がこうして暇を見付けては邸を抜け出し、様々な風景をカメラに収めるのを見られると都合が悪い。
脚を持った箱型だった頃は、秘かに運び出すのに苦労をしたものだ。そんな折、先達ての大戦争が一段落してから、軍将校と云う身分と趣味嗜好が手伝って出来た独逸の友人が、小型化された最新式のカメラを譲って呉れた。御陰で、脚が窓枠に引っ掛からぬ様に細心の注意を払って、人目を避け乍ら俺が開拓した隠し通路を駆け抜ける必要が無くなったのは有難い。
邸を囲む垣根を小走りで辿り、裏手に回る。勝手口から丁度ガスボンベの陰に隠れて見得ない箇所、垣根の下に秘密の抜け口が有るのだ。
俺には、軍将校と云う身分は合わない。少なくとも、兄達と違って、口八丁手八丁に言葉を並べ立てて堅苦しい制服に身を包むのは、窮屈で首が絞まる様な心地になるので好きではなかった。俺は、芸術に生きたい。誰もが気に留めぬ日本の景色とは、こんなにも美しいのだと皆に教えたいとすら思う。
垣根を腹這いに為って進み、掻き分けた繁みを元通りに戻す。家の者が邸の窓から覗いていない事を、敷地の外側に当たる垣根の裏から十分に確認し、其処で漸く靴を足に引っ掛けて目的地へと駆け足で向かう。車に乗っていては見付かるので、乗らない。抑々、是は俺の脚で向かうからこそ意味が有る。
目指すは高輪台、芸術と名立たる作家が住居を構える地域。兄達が勤める霞ヶ関の型に嵌った気配も無く、浅草のサイケデリツクカルチャアらしさも、新宿の艶やかさも無い、芸術の場所。様々な者達が思想を源に、其を形に為す可く集う区画。未だ何色にも染まらず、而して多色が入り混じって黒に成る事は無く存在をし続ける素晴らしい場所だ。
俺が撮るのは、華やかさだけではない。俺が美しいと、撮る可き物だと感じた物をカメラに収める。閑静だが、道行く者と顔を合わせて一度言葉を交わせば、延々と日が何度巡ろうと飽きぬ己の心象を語り合えると聞く。羨ましい事此の上無いではないか!
其に加え、ビルやデパァトやカフェーと云う目立った建物が無く、手付かずの自然が残っていると云うのも俺が高輪台を選んだ理由でも有る。屹度、然う云った物が有るからこそ、作家も画家も刺激を受けたり癒されたりと様々な物を感じられるのだろう。
想像するだけでも胸が高鳴る。早く、早く向かわなければ。
御覧、陰と陽の気が流転して入れ替わろうとしているよ。
皺が幾重にも細かく刻まれた手を分厚い布手袋で包み乍ら、細身の男が広東訛りの中国語で低く何かを呟いた。何処か確認の旨を問う様な響きを宿した嗄れ声は、煙草と酒に灼けている。
肩を少し過ぎた位の白髪を後頭部の下辺りで一つに纏めた壮齢の男は、笹の葉型の黒い眼を目前に仰向けで寝転んでいる人物へ向けている様だ。
齢は二十程だと思しき若者は、所々綿が食み出した革張りの寝台上に体を寝かせた儘、金色の眸を瞼で覆う。無防備に晒した赤味の有る褐色の肌が、呼吸に合わせて僅かに上下する。
三秒の間を置いて、若者は同じ言語で小さく言葉を返す。力強く大地を踏み締めるかの如き声色であった。
手袋越しに、老人は若者の腹部を撫でる。右手に持つのは、朱色の液が滴る彫刻刀めいた刃だ。一寸の躊躇も無く、刃先は筋肉の凹凸が浮かんだ腹に軽く沈み込む。
───若者が欲するは、己と云う身一つで至れる最高の境地。
故郷で、無手の武術に長けた剛鬼が居ると云う話を聞き、若者は嘗て都として栄えた場所へ行脚した。頭部から指先に至る迄、体の部位と云う部位全てを武器とする。其の神髄に一目与りたい一心での事だ。
鞍馬山で発見した鬼は、若者の体躯を遥かに凌駕する肉体の持ち主であった。体積も面積も、筋肉の質量も、全く異なっている。だが、一見荒々しい大振りな身の振り方の内に、脳ではなく躰が"思考した"と判る精密さが秘められているのを目の当たりにし、若者は益々無手の技にのめり込んだ。
其処からは一足飛びに、大陸と鬼より学べる術を吸収する事だけに心身を割き、加えて世に住まう民草との接し方も身に着けた。
其の身が何十何百と年を経て、終ぞ本来の肉体が朽ち果て依代を必要とする物と成ろうと、鬼は生を謳歌していた。民草は、鬼を畏れつつも受け入れ、共存している様に見えた。
彼の景色こそが、最終的に長い年月を掛けて己が目指す場所で有り、此の拳は邪を打ち砕き縁を結ぶ為の物なのだと確信に至ったのだ。
だからこそ、強く在らねばならぬ。
若者は浅く息を吐いた。皮膚を裂かれる痛みからではなく、己の路を定める為の淀みを外へ吐き出す為の物である。
己の身に流れる烈火の如き血潮の一滴も残さず、己の意思と路の為に身を振るおう。焔は魔を祓い、燈火と成りて万象を導く物である。なればこそ、若者は陽の脈を司る者として人々を照らし、鼓舞せねばなるまい。
幾許かの後、老人が顔を上げると、若者の腹部には焔を纏い乍ら虚空を舞う紅緋色の朱雀が躍っていた。
高輪台の風景は、青年が想像していたよりも遥かに味わい深かった。人の手が多少入っている土地に吹き込むのは、限り無く透き通った空気。背の高い建物が少ない御陰で、空が広く高い位置に地平線の端から端迄アーチを描いている。
夢中で両手に持ったカメラを構えては、レンズ越しに風景を切り取って行く。
アスファルトに伸びた電柱の影と、其処に蹲り転寝をする三毛猫。質素な長屋の屋根から覗く木々と、木洩れ日。縁側でイデオロギィとは何ぞ也と語らう三十路程の男達と、辺りに広げられた数冊の洋書。パレットナイフに乗った油彩絵具がカンヴァスに触れる瞬間、暖色に閃く反射光。
カメラは青年に取って、第二の脳で有った。記憶と云う有限の物が青年の脳の奥底に眠って仕舞っても、其を引き出す為の鍵と成る。
殆ど無心で、子供に返ったかの如く駆け回っている内に、気が付けば斜陽が小高い坂の上から射し込む頃合いになっていた。所謂、黄昏刻と云う物だ。
陽が沈むと共に、地上を蒸らしていた暑さは徐々に冷えて行って、穏やかな夕暮れの風が薄らと汗ばんだ青年の首元を擦り抜ける。
青年は眩ゆそうに眼を細め、頬を緩ませた。体温を幾許か浚って行った微風が、丸で恋人の腕かの様に。然して、腰元に差込んで有った縦長の布に包まれた物体を取り出す。
長さは凡そ二十五センチ強と思われ、黒い布地に織り込まれた錦が夕陽を瞬かせた。擦れた猩々色の撚り紐を解いて布を取ると、其処から一本の龍笛が姿を現す。
材料は竹で、目を凝らせば特有の節が見て取れる。内部に鉛を入れた物ではなく、外側に是と云った装飾が有る訳でも無い。音の為に加工をする事も有るが、此の龍笛には然う云った類の細工は何も為されていない様だ。
此の笛は、青年が秘かに曾々祖父から貰い受けた物である。彼の曾々祖父は楽人で、天皇陛下の参加する行事は勿論、伝統芸能である雅楽を披露する際に龍笛を担当する演者だった。不思議と芸術の才に秀でた者が多い青年の家系の中、青年が特に惹かれたのは音楽であった。曾々祖父が未だ壮健だった幼少期──物心が付いていたかも怪しい時分──に、笛に強く興味を示した青年が、曾々祖父の仕草を真似て簡単な旋律を吹いた事が有ったらしい。其を見た曾々祖父が、其の笛は特別な笛なのだと云って、こっそり譲った。老衰で往生する間際迄ずっと、青年に其の笛を使って奏でる楽曲を教え続けたのだ。
数多もの曲を教わった。名立たる曲も、雅楽を識る者でなければ聞いた事も無いであろう曲も、教えられるが儘に覚えた。其の中で、唯一無銘の曲が有る。作曲が誰なのかも判らず、曲名も無ければ旋律譜も無い。
特異なのは、少なくとも楽の才を持つ者に代々伝わっていると云う事は、相応の時代から存在する楽曲にも拘わらず、雅楽と云う枠組みから外れた"揺らぎ"を持っている所が先ず一点。
雅楽にもロックにもジャズにも通用する話だが、一定のジャンルの属する音楽には決まったリズムが存在する。ロックにはロックの、ジャズにはジャズの、雅楽には雅楽のリズムが有る。だが、其の曲は決まったリズムを保たず、丸でクラシックの様にリズムを転々と変えて行くのだ。
第二点として、此の曲は文字通り題名が無い。だが、無名と呼ばれる事は無く、其の曲を識る者は"其"と云う曖昧な表現で曲を呼んだ。誰かが決めた訳ではないし、途中で誰かが名前を付けても可笑しくはない筈だった。だが、其の曲を識った青年は理解している。其の曲は"名前を持たぬと云う事自体に意味が有る"のだと。名前を付けた瞬間、其の曲は形を失って仕舞う。何となく、そんな気がして青年も楽曲名を付ける事はして居らず、其と呼んでいる。
最後の点として、此の曲は好きな時に奏でる曲ではないと云う特殊な素養を持っていた。別段、取り決めた訳ではない。奏でられるのは、伝える時のみである。其を聞くと何故か"此の曲は未だ演じる時ではない"と云う意識が自然と働くのだ。
笛を包んでいた布が風で飛ばぬ様に腰元へ端を捻じ込み、吹き口に唇を添えた。
今が"其の時"だ。
誰に謂われた訳でも無い、最初から然う決めた訳でも無い。唯、沈んで行く太陽が夜の帳を連れて凸凹した影を地平線に並べる姿を見て、此の気持ちを、其の心に感じる物を"誰か"と分かち合いたかった。
然る可くして、然る可きの為に。是も、全て此の世界が続けられたが為のエンドロォル、然してプロロォグ。
不意に青年の足が静止した為、傍を歩いていた少女は半ばつんのめる形で慌てて歩みを止め、テェプの逆回しの様に二歩後ろに下がった。
其の少女の齢は、恐らく五歳に満たないか否か程。鮮烈な鬼灯色の綾目模様の着物を身に纏っている所為で、真隣に佇む青年の色素の薄さと対比すれば存在感を喰って仕舞い兼ねない。着物の裾と二つに結った柔い猫毛から、虎柄の尾と耳が各々覗いている。時折、周囲の雑踏や遠くで響く人の声に耳が細かく動き、飾り物ではない事を主張している様だ。
不思議な事に、奇天烈な少女の出で立ちに目線を呉れる者は──隣の青年を除いて──誰も居ない。丸で、其処に何も存在して居ないとでも言いた気に。
「わわっ……とと、……どうしました?」
金色を帯びた琥珀色の団栗眼が、青年の横顔を不思議そうに捉える。
青年は、桜縮緬が踊るズボンの裾を暫らく柚にも似た夏風に靡かせていたが、躰の向きを突如九十度左へ向けたかと思いきや何かに引っ張られた風に駆け出した。
「ちょ、ああっ、待ってくださいよぅ!」
呆気に取られていた少女も、我に返って鉄砲玉の勢いで後を追う。
青年は普段から激しい運動をする性分でも無ければ、習慣が有るのでもない。何方かと云えば、一カ所に留まって山と積まれた本を速読して行く側だ。生粋の文化人の彼が走ると云うのは、滅多に有る事ではないと少女は識っていた。
少し許り、少女は横目で青年の顔を見上げる。多少は出の遅れを取ったとは雖も、青年より遥かに素早く体力も有る彼女が彼に追い付くのは非常に容易く、寧ろ今は彼の足取りに合わせていた。
青年は、只管に前を見つめていた。
正確に云えば、今現在走って居る目の前の路ではなく、未だ見えぬ目標地点を其の目に映している風である。
青年の足取りに迷いは無い。通った事が一度も無い路だろうと、地図でも諳んじているかの如く正確に辿って行く。
なあ、 。 殿、 殿、 殿、 殿、 殿、皆は壮健にしているだろうか?
再び、裸電球が一つ垂れ下がる許りの埃を被った室内に、一人の若者が仰向けで寝台の上に寝転んでいた。僅かに香るのは虚空を舞う塵と消毒液、墨の臭いだ。
先の若人へ対するのと同じく、老人と男の間で簡素な遣り取りが一往復為された後、未だ丹と乾き切っていない血に汚れた布越しの指先が、白人の如く黄味の無い男の胸板に宛がわれる。
男には、一つ決めている事が有った。
使える手札は全て使う。どんなに泥を被る事だろうが、罵声を浴びる事で有ろうが、結果の為に選択の余地が無ければ何だって遣って見せる。
其の為に、男は故郷で世界の情勢や薬学を始めとする学問に没頭し、一時は直々に薬師の名門と云われる門下生にも成り、式の扱いに長けた家系の者を尋ねて教えを乞うた。つまりは、影に潜む事を選んだのだ。相手の一挙一動から思惑を読み取り、常に何者かの背後で"隙"を窺う術も身に着けた。
嘗て、太刀を両手に立ち回って見せた人間が居たと聞けば、其の人物が没した後で生まれた男は生で其の技を見たと云う者に話を乞うた。手元で相手を惑わせて、一太刀を浴びせる幽玄の太刀。其の境地に到底至れはしないが、男は双つの刀を繰る技を頭と体に叩き込んだ。
同様に、空を一閃し魔を穿つ弓術の匠が存在したと聞けば、其の人物を識る者に仔細を尋ね回った。幸いにも、此の時代には銃が有る。無を射る事で対象に"射られた"と認識させ、心身が混乱に陥っている間に核を打砕く事は出来ずとも、男は両手に番えた拳銃を撃ち乍ら虚空で装填する技を覚えた。相手が常に近距離に居るとは限らない以上、何時何処に何が居ようと即応出来る様にと己を律する事だけを軸とする。
男の鎖骨から腰迄の範囲一杯に描かれたのは、白と黒の墨で描かれた骸だ。其は、男の在り方と意思の表明でも有る。
片割れが陽で在り続けるのならば、己は其の影と成ろう。光が在って初めて見得る、宛ら幽霊かの如き実体の無い存在として。
何れ程"待った"だろう。長かったか、短かったか。
息を切らせて走って来る足音に気が付いたのか、短く整えられた緑の黒髪を涼やかな風に揺らし乍ら、外来製のカメラを革のベルトで首から下げた青年が音源の方へ振り向いた。其に伴って、確り磨かれた龍笛を持つ節榑立った手は、彼の腰辺りに下ろされる。
青年の視界に入ったのは、彼の其よりも鼻先が隠れる程には長く、色素が薄い髪を耳に掛けた男だ。青年は歳の割にあどけない顔立ちだが、片や妙に落ち着き払っていて大人びた風な雰囲気を纏っている。背は数センチ程、青年の方が高い。歳が幾つかは不明なものの、恐らく青年と然程変わらないか若干若い程度だろう。
随分と長い間走って来たらしく、色の希薄な青年は己の両膝に手を当てて背中を短い間隔で上下させ、十秒以上も掛けて呼吸を整えている。
短い呼吸を最後に、青年が貌を上げた。自然と視線の先が双方の間で交わる。初夏とは雖も現在は日没の最中、加えて走っていたともなれば疲労困憊でも可笑しくは無いが、風に靡く柳の様な青年の貌には汗の一粒も見受けられず、何処か浮世離れした淡い微笑みが肉の薄い唇を彩っていた。
嗚呼、おれは是を識っている。
同じ場所に居るのに、軸が異なる場所に立って居るかの如き感覚に陥る空気。滝壺から飛沫く霧状の水滴に当たった時にも似た、涼やかな所作。柳葉型の眼。
間違える事等、有る筈が無い。
「謂っただろう、おまえを見付けると」
純朴で真っ直ぐな黒目がちな丸い眼、少し太目の眉。男らしく骨の太い指が、笛を奏でる時には繊細な動きをするのを、おれは識っている。
「嗚呼、屹度おまえは見付けるだろうと思っていた」
瞬きをする。変動する世界で、変わらない物の存在が声を上げた。
顔を上げた。誰かが我を呼んで居やがる。こんな辺鄙な所迄、届く様に。
ああ、もうぶたいのまくがあがろうとしているよ。いそがなくっちゃ、いそがなくっちゃ。
此の世界は何処迄も不平等で、何処迄も不幸せだ。なら、 が幸福にして見せる。
此の世に神様が居ないとすれば、 が神様に成って見せる。だって、 には其の権利と道具が有るんだ。此の世界の神様は如何しようも無いって事を、 が教えるんだ。
サブカルチャアと欲望、混沌のサヰケデリツク。
何時かの何処かでと笑って手を振った縁が、繋がった。
御待たせ、ようこそ諸君。大舞台を賭したグランギニョルの始まりだ!
長らく御付き合い頂き、誠に有難う御座いました。
諸々と言える事は多いのですが、何から語れば佳いのやらで。一先ず、このシリーズに限った話では有りませんが、公募卓と云うのは基本的に一期一会の縁だと思って居ります。
それが、ひょんな事からこうして長く繋がる事も有る。当KPの袖は不可視で見えるモノにしか見えず、見えぬモノには姿形を捉える事すら出来ない物。振った袖が掠めて様々な縁を惹いたのならば、是も一つの必然と巡り合わせと申しましょう。
相変わらず夢枕獏氏を目指しつつも自分の癖を抑え切れず、とんでも表現や造語を作ったりと多々有りましたが、拙卓が夢枕獏氏作の陰陽師のダイマに繋がり、加えてクトゥルフ神話の一つのスタイルとして楽しんで頂けたのなら何より。
時間切れやら半ボイセやらと、淡水で溶ける鬼が居たり、スケベ椅子が有ったり、陰陽師がブレイクダンスを踊ったり、無を取得したり、パコパコのホンだったり、壁舐めまわしていたり、面白かったです。(こなみ)
漸く一段落したので、後日譚も予定通り(?)書き上がりましたし、以降は不定期に時代物〜現代海外の卓をぽつぽつ開いたり、クトゥノイアを開いたりする予定です。
第七版が出る前に六版を遊び倒そうという魂胆。
では、一先ずは是にて。
御疲れ様でした。機会が有れば、何時かの何処かで御逢い致しましょう。
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