1-509 那月懐かれ

 彼女はそれを、息苦しそうにこくこくと飲み下した。
 飲み下すと、口に咥えた長く硬いそれを離す。永い時間それを
咥えていたせいか呼吸が少し乱れていて、生暖かい吐息が瑞々しい
唇から忙しなく漏れ続ける。やっと息が整ったのか、大きく深呼吸
するとさっきまでだらしなく半開きになっていた口をきゅっと
閉じる。
 すると、つ――と口の端から、先ほど飲み干したと思われた
白濁液が一筋、零れた。
「おい那月(なつき)」
 俺が呼びかけると彼女――那月は「ん?」とこちらへ顔をあげる。
見ようによっては扇情的な口元になってしまっていることに気付いて
いない那月は、リスのように小首を傾げてじぃっと黒目がちな
くりっとした目で俺を見続けている。高校二年生にもなって未だに
小柄な那月のこんな仕草は、その手の趣味嗜好の人が見たらきっと
卒倒もんなんだろうなぁ……。同じ病院で生まれてからずっと一緒
だった俺にはよく分からんが。
 それはともかく。
「ほら、口。零れてるぞ、牛乳」
 指摘されてやっと気付いたようで、あ、と呟きそれを制服の袖で
拭おうとする。
「あー待て待て、そんなことしたら制服が汚れるだろ。ほら、
こっち向いてじっとしろ。拭いてやるから」
 慌てて那月が拭おうとして上げた腕を掴んで下ろし、その間に
もう片方の手でポケットからハンカチを取り出す。那月は素直に
俺が拭きやすいように顔を上げて少し口をこちらに突き出す。俺は
強く押し付けないようにしながら那月の口から零れた牛乳の雫を
優しく拭った。
 正直言ってこういった類のやり取りは子供の頃からン百回、いや、
ン千回と繰り返してきたことである。那月は少々抜けた所があり、
時々こうしてやらかしてしまう。それをほんの数ヶ月早く生まれた
からって、ほんの少しお兄さんぶって俺が世話を焼いたりしたのが
始まりだったと思う。家が隣同士でよく遊んだりもしたので、那月が
世話を焼く俺に懐くのにそう時間は掛からなかった。今ではすっかり
俺に世話されることがお気に入りのようで、自分から構って欲しくて
俺に寄ってきたりするくらいである。
 なのでさっきのやり取りも、俺にしても那月にしても普通のことで
あり、そう騒ぎ立てるようなものではない。断じて指笛を吹かれたり、
黄色い声を上げられたりするような、いかがわしい事をしているわけ
ではないのだ。だというのに……

「ヒュ〜、お熱いねえ」「飽きずにようやるよ」
「やっぱり付き合ってるのかなあ、田山君と柳原さん!」
「そりゃそうでしょ、あれだけラブラブなこと人前でやってるんだから」
 教室のそこかしこからのひそひそ話が嫌でも耳に入ってくる。……
毎度のことながら、鬱陶しいことこの上ないな。昼休みの昼食くらい
大人しく食わせてもらいたい。はあ……。
「ヒューヒュー! 憂鬱なため息が渋いぜ堅悟(けんご)! ヒュー!」
「……ナオ、お前いっぺんシバいていいか?」
 俺はギロリと向かいの席にいる男を睨みつける。睨みつけられた男――
長谷部直高(はせべ・なおたか)は「おお怖っ」とニヤニヤ気持ち悪い
顔を浮かべながら肩をすくめた。というか、使い終わったストローを
咥えたままぷらぷらさせるな。中に残ったコーヒー牛乳が飛び散る
だろうが。それに、那月が真似しかねんだろうが。
「でもよぉ、真っ昼間から教室のど真ん中でそんなことされたら、
誰だって興味本位で見ちまうって」
「こっちはいい迷惑だ、全く……」
「まあ俺や純は、一年の頃から見せつけられてるからもう慣れたけどさ」
 なっ、とナオは隣に座っている純に視線を送る。突然話を振られて
一瞬驚くが、すぐにいつもの人当たりの良さそうな顔に戻る。
「まあ、そうだね。僕も最初は堅悟の過保護っぷりを見たときはびっくり
したけど、今はそれが堅悟と柳原さんの普通なんだなって思ってるよ」
「お前にそう言ってもらえると助かる」
 俺がそう言うと純は「大げさだなぁ」と苦笑しながら、タコさん
ウインナーを口に運んだ。
「ま、今ぎゃあぎゃあ騒いでるのは去年一緒のクラスじゃなかった奴ら
ばっかりだし、あと二週間もすれば静かになるさ」
 ナオは咥えたストローの先を器用に俺へ指してフォローを入れる。
 ナオも純も高校になってから知り合った友達だ。ナオは少しばかし
五月蝿いが、わりかし優しい所があって気兼ねなく話せる奴で、純は
制服の上からでも分かるくらい線が細く中性的な顔をしていて、いつも
周りを和ませる不思議な雰囲気を持った奴だ。中学のときも友達はいた
にはいたが、この二人とより馬鹿やりあうような仲ではなかったと思う。
そういう意味でもいい親友である。

「それよりお前、いつまで那月ちゃんの口拭く気だ?」
「あっ」
 ナオに言われて、まだ那月の口にハンカチを押し当てていることに
気がつく。俺はすぐにハンカチを那月の口から離す。
「そら、終わったぞ」
「ん、ありがとう」
 お礼をそこそこに、那月はかじり掛けのクリームパンを再び食べ
始めた。
「というか那月、お前も黙って待ってないで何か言え」
「堅悟が、じっとしてろって言った」
「いや、それはそうなんだが……」
「それに、堅悟に口を拭かれるの、好き」
「まあ、俺も嫌いじゃないがな」
「二人のそういう会話が周りをそういう風に誤解させると気がつかない
辺り、さすがとしか言いようがないわね」
 と、純の更に隣、くっつけた机で俺の対角線にいる席から冷静な
ツッコミが返ってくる。俺は声の主の方へ顔を向ける。
「斎条、さっきの会話の何がまずかったんだ?」
「うん、分からないならそれでいい。そのままの方が見ているこっちは
面白いから」
 そう言う斎条の言葉とは裏腹に、表情は能面のように無表情だ。那月も
感情をあまり顔に出さない方だが、この斎条に関して言えばその比じゃ
ない。少なくとも俺はあいつの笑った所を見た覚えはない。もし笑った
所を見たことがある奴がいるとすればそいつは……
「付き合ってもいない俺達よりも、実際に付き合っているお前たちを
茶化せば良いものを」
 斎条と、隣にいる純に目線を向ける。
「うーん……僕と風音(かざね)の場合、小学校からの付き合いだし、
大分落ち着いてきてるから」
「あなた達とは違って学校では自粛してるしね」
 純は困ったような顔で頭を掻き、斎条は恋人の話題を振られても
相変わらずのポーカーフェイスでぱくぱくとタコさんウインナーを
啄ばむ。……斎条よ、毎日純に弁当を作ってきて、それが夫婦茶碗
ならぬ夫婦弁当箱で、隣に座って食べるのは自粛してるとは思えんの
だが、これ如何に。それに、自粛という面では那月もこれでかなり
しているんだぞ。家に帰ったらもう……って、
「……那月」
「ん?」
 はむはむと齧っていたクリームパンを離し、こちらを向く那月。
その口周りにはクリームが見事なまでの一文字を刻んでいた。

「クリーム付いてるぞ。あー待て、だから袖で拭こうとするな。ほら、
きをつけっ」
「んっ」
 俺が号令を掛けると、那月はぴしっと背筋を伸ばしそのまま微動だに
しなくなった。その間に俺は那月の口周りに残ったクリームを人差し指で
拭ってやる。
「ったく、だからそういうクリームとかジャム系のパンはやめろって
言ってるだろ? メロンパンとかシナモントーストとかも購買にあるだろ」
「むー……」
 俺の合理的な意見がお気に召さないのか、那月は下唇をちょこんと
突き出して不満そうな声を上げる。こいつはいつも自分の気に食わない
ことがあると、こういう仕草をするのですぐに分かる。ついでに言えば、
こうなると那月は絶対に自分から折れたりしないので俺が白旗を上げる
のもいつものことである。……こういうところ、こいつの保護者を自認
してる者としてはどうかと思うが、保護者だからこそ、その保護対象に
甘くなってしまうというか、生まれてからの付き合いだから身内贔屓
しちゃうというか。自分でもどうかとは思っているんだが……。
「分かった分かった、俺が悪かった。昼飯は自分の好きなのを食べればいい」
 両手を上げ降参のポーズをとると、那月は満足したのか突き出した下唇を
引っ込め、その代わりに口の両端を僅かばかり持ち上げ微笑んだ。……全く、
そんな顔見たら咎める気持ちも薄れるというものだ。
先程より心持ち上機嫌な顔でクリームパンをぱくつき始めた幼馴染みの
横顔を見つめながら、拭ってそのままだったクリームの付いた人差し指を
咥えた。……むー、やはり飯に甘いものはどうかと思うんだがなぁ。
と、そこになってやっとこちらに視線を送る三人に気付いた。
「……どうした?」
「いや……慣れてるって言ってもな。やっぱり見てると気が滅入るわけよ、ホント」
 そう言うナオは机にナメクジのように突っ伏しており、純はいつもの苦笑を
浮かべている。斎条は……っておい、斎条さんその手に持ってる携帯は
なんですか? 写メったか? 写メったんですか?
「ん? ああ、いざって時に使えるかなーって」
「いざって時って何だ。純、お前も見てないで止めろ」
「大丈夫だって堅悟。ただ構えてるだけで撮ってはいないから」
 このカップルは……。斎条もお茶目のつもりなんだろうが顔が変わらんから
冗談か本気か分からんし、純も純で彼女に甘い。お似合いといわれると
お似合いなんだろうが……。

こうしていつものようにお喋りしながら、いつも食べ終えるのが遅い
那月以外は昼食を済ませた。各々が満腹感をしみじみ感じつつ一息ついて
いるところへ、ナオは口を開いてこう切り出した。
「ところでよ、今度の休みなんだけど、またこのメンバーでどっか遊びに
行かねえ?」
「日曜? 僕も風音も何も予定はないし、いいよ。堅悟たちは?」
「構わんぞ。那月もいいか?」
 クリームパンの最後の一欠けらをごくんと飲み込んだ那月が、何事かと
俺の方へくいっと首をこちらへと向ける。どうやらパンを食うのに夢中で
聞いてなかったらしい。俺が話の旨を伝えると、那月はきょろきょろと
他の三人に目線を配り、最後に俺の方へくりっとした目が戻ってくると、
「行く」
 こてっと頷き、肯定する。
「それじゃあどこ行く? この前は駅前で遊んだよな」
「電車で少し遠くに行くのも良いんじゃない?」
「ごめんなさい。私、今月危ないからあまりお金は使えない」
 その後、わいわいと昼休みが終わるまであれこれと遊びに行く計画を
立てた。俺はあまり積極的に話すほうではないので、大体こういうときは
聞き手に回って相槌を打つ役割になる。
那月はというと、こいつも言わずもがな。自分から意見を言うことは
無く、ただただ聞き役に徹していた。しかし、だからといってつまんなそう
にしていたわけではなく、他の三人の話を聞いて時折ほんの少し口を
吊り上げ笑んでいた。
――以前なら。
以前の那月からしたら、これはかなりの成長だった。あいつはいつも俺の
後ろを付いてきて、他の人がいると俺の後ろに隠れて、話しかけられても
涙目になって嗚咽を漏らすばかりで、俺を困らせていた。小学校までなら
まだよかったが、中学に上がってもそれは変わらなかった。それで他の
男子は気を遣ってか俺とはあまり話したりもせず、生暖かい目で見られたりしていた。
遅ればせながら、さすがにこのままではまずいと思った。幸いにも
小中ともに那月はいじめの被害を受けたことはなかったが、このままでは
時間の問題だろう。いくら俺が一緒にいるとはいえ、絶対守れるとは言い
切れない。それに、社会に出てコミュニケーションが取れなくて一番困るのは
那月自身だ。引きこもりやらニートやらになられた日には目も当てられない。

そう思った俺は、高校入学を機に那月を外交的な人間にしようと考えた。
まず始めに俺自身が友達を作り、その友達と那月を仲良くさせることから
始めた。さすがに那月から友達を作らせるのはハードルが高いと思ったし、
俺の友達ということなら那月もそんなに嫌がらないと思ったから。
結果としては成功であった。席が近くですぐに意気投合したナオと純は、
那月のべったり具合に驚きはしたもののすぐに受け入れてくれた。更に純には
小学生からの付き合いである恋人――斎条がいて、そのおかげで那月は同姓と
接する機会を得ることができた。
最初こそ俺の後ろにこそこそと隠れたりしていたが、今ではこうして俺に
しか見せなかった笑顔を、控えめながらも見せるようになった。
那月が人と接するのが怖くなくなっていくのはとても嬉しい。
……のだが。
その反面、少し寂しいと思ってしまうのは俺のわがままだろうか。

※ ※ ※

 ただいま四月の半ば。日も徐々に高くなり温かくなってきているも、夜は
まだ寒さに油断できないこの季節。授業を終え、俺は早々に家に帰り自分の
部屋にいる。日も少し落ち、ほんのりと寒いかなと感じるべきこの時間だが、
俺は今間違いなく暑苦しかった。なぜなら……
「んふふ〜」
 俺の腕の中で天然湯たんぽが絶賛保温中……早い話、那月がすりすりと
擦りついているからだ。
きっかけは確か、子供の頃に外で遊んでいて、那月が転んで泣きじゃくって
しまったときだったと思う。わんわん泣く那月に、どうすれば泣き止むか
分からなかった当時の俺は、とりあえず自分が親にしてもらって泣き止んだ
方法――つまり抱擁を那月にしてやった。ぎこちない手つきで、腕ごと
ぎゅっと抱きしめ、左手で頭を撫で、右手でぽんっぽんっと背中を優しく
叩く。すると那月はゆっくりと、しかし確実に嗚咽を潜めていき、とうとう
泣き止んだ。……泣き止んで、すーすー寝息を立て始めたときは違う意味で
困り果てたが。
これだけなら心温まるお話だろうが、そうは問屋は卸さない。
那月は相当気に入ったのか、それ以来何かと俺に抱きしめることを要求し
始めた。二人っきりで遊んでいるときとかならまだ良いが、休み時間に
なってすぐに俺のいる教室に両手を広げやって来た時はさすが困った。
いつも鈍い鈍いと斎条に言われているが、俺だって男である。他の人の
見ている前で女性を抱きしめるなど、恥ずかしくてできるわけがない。

 なので、学校での抱擁禁止はすぐに俺と那月の間で取り決められた。
那月は不満たらたらであの下唇を突き出した表情を浮かべたが、家でなら
いくらでもよしと聞くと、すぐさまぱあっと顔を輝かせた。
 こうして学校から帰った後の抱擁タイムが出来上がったわけである。
……学校で抱きしめられない分、家に帰ってからの那月の引っ付き度合い
がかなり増している気がするので、結果的にこれで良かったのかはかなり
微妙なところだが。寧ろ那月の方から抱きついてきているような気も
するが。というか、黙っていれば本当にずっとそのままなので勉強も
できず、仕方なく新たに六時になったら一旦中止し、勉強するという
ルールも追加した。
 とにかく、今日も例に漏れず一度家に帰り私服に着替えた那月が、
俺の部屋へぱたぱた駆けてやって来たわけだ。そしてつい先ほど、
いつものようにベッドに背もたれた俺の足の間に那月がちょこんと
座り込み、俺の胸に自分の後頭部を擦り付け始めたところである。
 と、これまたいつものように那月の頭を撫でようとしたとき、それに
気付いた。
「なあ那月」
「ん〜?」
 俺の抱かれ心地を堪能していたのかいつもより甘ったるい声をあげる
那月。頬ですりすりと気持ち良さそうに俺が着替えた薄手のセーターに
擦りついている。
「お前、こっちに来る前に風呂に入ったのか?」
「? うん」
 どうして分かったの? とでも言いたそうに、こちらの顔を仰ぎ見る。
円らな瞳がぱちくりと瞬いた。
「髪、まだかなり湿ってる」
 肩に届くほどのさらさらとしているはずの黒髪は、水気を持った
いくつもの房となっており、やりはしないが手でぎゅっと絞ったら
ポタポタと雫が滴り落ちそうなほどである。よくよく気が付くと那月が
もたれていたセーターの部分が水分を吸っていた。
「全く……ちょっと待ってろ」
 「あ」と名残惜しそうな声を出した那月をひとまず置いて部屋を出る。
階段を下り洗面所に着くと、棚からバスタオルを適当に引っ掴んで部屋へ
Uターン。部屋に戻ると、那月が手持ち無沙汰にベッドに腰掛けびょん
びょん跳ねて遊んでいた。
「ほら、髪拭いてやるから、こっち来い」
 俺がベッドにもたれ股の間をポンポンと叩くと、那月は素直に跳ねる
のをやめてそこへすっぽりと収まった。頭が拭きやすい所へ那月の体ごと
微調整してやり、位置が定まると俺はバスタオルをぱさっと那月の頭に
乗せてそのままがしがしと拭き始めた。那月は俺にいいように拭かれ、
右へ左へ前へ後ろへ頭をぐわんぐわん揺り動かされる。

「あ〜……う〜……な〜……」
 本人は洗濯機に放り込まれた気分なのだろうか、頭を揺すられる
たびに謎の奇声を発していた。俺はそんな奇声もどこ吹く風と、掻く
ようにタオルで拭き続けた。それこそ、根本までしっかりと。まだまだ
夜は油断できない寒さが続いている。風邪でもひかれては困る。
「それにしてもお前、今日はどうして風呂入ってから来たんだ?」
 途中、俺は気になっていたことを那月に聞いてみた。思い返してみると、
いつもは俺が部屋の扉を閉めた途端にまた扉を開いて入ってくる那月が
今日は少し遅かった気がする。
「が〜……体育……ば〜……」
 それだけ聞いて俺は那月が言いたいことが大体分かった。伊達に
幼馴染み歴もうすぐ十七年目ではない。
今日最後の授業は体育で、内容は男子は野球、女子はサッカーであった。
那月ももちろん黒と白の球体を追って走り回っていた。男女で別々の
グラウンドを使っていたが、互いに見える位置だったためその様子は
簡単に確認できた。さすがに昔のように転んだりはしない。が、眠気を
誘うはずの春の陽光は熱気を放ち、もやもやした空気の中を走り回れば
嫌でも疲れるというもので、授業終了を知らせるチャイムが鳴ったとき、
那月は見事なまでに顔中が汗でだらだらだった。
余談だが、この授業で一生懸命走り回っていたのは那月一人である。
他の女子は汗を掻くのが嫌とかで、歩きながらボールを追っていた。更に
余談だが、どうやら那月の小柄な体が女子達の母性本能をくすぐるようで、
ある女子曰く「ボールに追いつこうとちょこちょこ走り回る姿が、
ハムスターみたいで可愛い」のだそうだ。
まあそんなこんなで、体操服越しに下着がうっすら見えてしまうほど
汗を掻いたわけだから当然、制服に着替えた後もべとべとで気持ち悪い。
なので家に帰ってすぐにシャワーでも浴びたのだろう。しかしすぐに俺に
しがみつきたい那月は体を拭くのもそこそこに、隣にある俺の家へやって
きた、と。大方そんなところだろう。気持ちは分からないでもないが、
もう少し大人になって欲しいものである。
「……よし、終わり」
 まだ少し水気があるが、これくらいなら自然に乾かしても頭を冷やす
ことはないだろう。終わったことの合図に、那月の頭に手を軽くぽんと置く。
 「ん〜」とまだ頭では洗濯機の中なのか、呻くように言った那月が少し
乱れた髪を手櫛で整えている間に、俺は湿ったバスタオルを洗面所の
洗濯籠に放り込みに行った。
部屋に戻ると、那月は暇だったのかベッドの横にあった目覚ましの
ベルの部分を指で弾き、チリンチリン鳴らして遊んでいた。が、俺が
戻ってきて座るやすぐにいつものポジションに居座った。

「ふ〜……ん〜……」
 俺の胸に背もたれると、那月の安心しきったよう声が鼻から漏れた。
俺の暖かさをいっぱい感じようとその小さな体をめいっぱい捩じらせて
くる。俺はそれを、那月の体を肩越しに抱きしめることで受け止める。
彼女はその抱きしめている腕に、更に自分の腕をぎゅっとしがみつかせる。
俺の胸に預けていた後頭部を離し、今度は俺の腕に顎をちょんと乗せる。
そしてしばらくすると、てっぺんが見えていた頭が右にこてんと傾き、
さらさらになった髪の隙間から小さな形の良い左耳と、風呂に入った
ばかりのせいか少し薄紅色に染まった首筋が覗かせていた。またしばらく
すると今度は左にころんと傾く。こちらもまた柔らかそうな耳たぶを
覗かせ、前の方へ零れ落ちた何房かの髪が、襟から見え隠れする鎖骨の
窪みに掛かった。那月はふとすると甘ったるい猫撫で声を漏らしている。
完全にこちらを信用した、リラックスした状態で那月は俺に身を委ねていた。
今日、ナオ達と休みの話していたときの那月の顔を思い出す。いつか
那月も自分から友達を作れるようになるだろう。あの横顔を見ていると
そう思う。那月のほうも俺の考えを汲み取ってか、自分から他のクラス
メイトに話しかけることも最近はぽつぽつとやり始めていた。そうなって
くれることを俺は望んだし、そうなってくれて嬉しいと思ってもいる。
だが。
なんというか、子供の巣立ちを見送る親鳥の心境というか、娘を嫁にやる
父親の気持ちというか、そういう寂寥感が最近よく心に浮かび上がってくる。
しっかりと自立して欲しい。
いつまでも世話の掛かる子でいて欲しい。
そんな矛盾した二つの想いが同時に湧き上がってくるのだ。
こうして俺に擦り寄ってくる那月も、いつかは恋人を持って家庭を
持つのだ。そうなったら俺が抱きしめてやるこの時間も、那月を世話して
やることも、なにもかもがなくなってしまう。そう思うと、なぜか辛く
感じてしまう。
今もそんな気持ちがふっと水面へ昇っていく泡のように浮かんできた。
だからだろうか、知らず知らず口が勝手に開いていた。
「なあ、那月」
「ん〜?」
 無垢な声で応答し、俺の腕に乗せていた頭をまた胸へともたれ掛ける。
「あのさ、那月。ナオ達のこと……好きか?」

 何を聞いてるんだろう、俺は。そんなこと聞いてどうするんだ。
ナオ達と一緒にいる那月の顔を見れば分かるだろう? そんなの
無意味な問いだ。
それでもやはり、どこかでノーと答えて欲しいと思っている
自分がいて。そんな自分に嫌悪した。
那月はそんな俺の葛藤も知らず「ん〜……」と、唸りながら小首を
傾げ考える。そして顔を上げ、俺から見たら上下逆さまな顔をこちらに
向け、答えた。
「直高も、純も、風音も、みんな好き」
「……そっか」
 ほらみろ。こんなの聞くまでもなく分かっていた答えだろ? これで
良いんだ。そうなるように俺は頑張って、その頑張りが実っただけだろ?
……なのに。
なんなんだ。なんでこんなに、虚しいんだ。まるで胸の真ん中に
ぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われる。これじゃあまるで、
俺が那月にべったりみたいじゃないか。
俺の胸に降って湧いた虚脱感に、那月を抱きしめる腕から力が抜ける。
足も膝を立てていたのをべたっと床に貼り付ける。
――と。
「でも」
 那月が続けた言葉に思わず目を見開く。
 那月は俺に向ける視線をそのままに、体に巻き付いていた俺の腕を解き
体ごと俺の方へ向ける。
膝立ちしてやっと水平になる俺との目線。
「でも」
 もう一度同じ言葉を紡ぐ、小さく艶やかな唇。
そして――

「――堅悟と一緒にいるのは、もっと好き」

 ふわり、と。
隠れていた雲からゆっくりと、しかししっかりと優しく包み込むように
現れた、淡い満月の光のようにふわり、と。
くりっとした目を三日月のように細め、那月は、微笑んだ。

俺は見開いた目を更に大きく見開く。
心臓が大きく一回、高鳴った。
高鳴って送られた血が、頭を熱くさせる。頭だけではない。力の
抜けていたはずの腕も、足も、その言葉と笑った顔にぴくっと震え
硬直し、その指先までもが一気に熱を帯びる。
おい待て、なんだこれは。なんでこんなにドキドキするんだ。
那月の笑った顔なんて、今までもいやって程見てきただろうが。
それがなんで――。
いや、違う。確かに那月の笑った顔は何度と見てきた。けど、
さっきの笑顔はこれまでのそれとは違う雰囲気を漂わせていた。
それは、なんと言えばいいのだろう。母性? 全てを包容して
くれるような、そんな優しさを含んだ微笑だった。
 那月は俺の混乱など知る由もなく、俺の方へ飛び込んできた。
「お、おい那月っ!?」
 柄にもなく上擦った声を上げてしまう。そんな俺などお構いなしに
抱きついてきた那月は、顔を俺の肩に埋め幸せそうな吐息を漏らす。
それを聞いた俺の耳から、ぞくぞくと震えが走る。大きく胸を打ち
つけていた心臓が、今度はきゅうっ、と痛いぐらいに締めつけてきた。
熱を帯びた頭はくらくらと思考を鈍らせ、逆にはっきりと悶々とした
想いが心の表面に首をもたげる。
密着させている子供っぽく華奢な体は、しかし女性的な腰つきと
柔らかさを備えており、それを俺の胸が、腹が、嫌というほど事実として
突きつけてくる。服越しからでも分かるほど風呂上りで火照った体が、
その熱を俺へと伝染させるように摩り寄せてくる。
今更になって髪から煽られるシャンプーの香りが鼻腔を刺激した。
正直、かなり限界だった。まさかいつも顔を会わせ、抱きしめていた
幼馴染みがこんなにも悩ましいほどに女だったとは思いもしなかった。
しかし、ここで本能に身を任せてはいけない。つい先ほど俺のことを
好きと言ってくれた那月を、そんな最悪の形で裏切ってはいけない。
俺はなけなしの理性を振り絞り、那月に呼びかけた。
「那月、あのな……」

「……すぅ」
 しかし、那月の応答は随分と間の抜けた吐息だった。
「な、那月……?」
 もう一度、声をかける。しかし返ってくるのは規則正しい呼吸音だけ。
よく見ると、那月の背中は大きくゆったりと上下に動いていた。
「寝て、る? ……あ」
 そういえば、六時間目の体育で忙しなく動き回っていたのだった。
それも、シャワーが必要なほど汗だくになるまで。それだけ動けば疲れも
溜まる。それが今になって出てきて、眠ってしまったのだろう。
「ふぅ……すぅ……」
 那月の心地良さそうな寝息を聞いていると、不思議と悶々としていた
気持ちも萎んでいった。とりあえず、助かった……。
いつの間にやら緊張してか、がちがちに固まっていた全身の力を抜き、
色々もやもやした気持ちを肺に溜まった空気と一緒に大きく吐き出した。
そしていつもの調子で俺は眠り惚ける那月の背中に手を添え、
とんとんと優しく叩いた。
「……んぅ」
 那月は少し艶っぽく呻くと俺の肩に回した腕を更にきゅっと強く
巻きつける。
そうして那月をあやしながら大分落ち着きを取り戻した俺は、先ほどの
那月の笑顔を思い出していた。あれは、もしかしたら俺の想いを感じ取って
言ったことなのかもしれない。
――何があっても、ちゃんと自分は側にいるよ。
そう伝えたかったのではないだろうか。それなら、あの時感じたなんとも
言えない雰囲気も納得できる。
「……結局、まだまだガキなのは俺の方だった、ってことか?」

 いつまでも世話の焼ける妹のような奴だと思っていた。
いつまでも俺が手を掛けなきゃいけないと思っていた。
けどそれは間違いだった。
こいつはこいつで、しっかり成長していたのだ。
この小さな体で、大きな心を育てていたのだ。
変わらなきゃいけないのは、俺の方だった。
でも……。
横目で那月の顔を窺う。穏やかな幼馴染みの寝顔がそこにあった。
「まだもう少し、こんな関係なんだろうな。きっと」
 こいつの成長の一片を今日は垣間見たが、世話が焼けるのはまだまだ
相変わらず。こうして抱きついて甘えてくるのも、相変わらず。これらを
卒業するのはまだ当分は先、か。けどそれまではこのまま、こいつの側で
こうしていたい。そう、心から思う。何だかんだで俺も、こんな時間を
楽しんでいたようだ。
ふと、部屋の壁掛け時計に目を向ける。時刻は午後六時十分前。
いつもならこの位に抱擁タイムを終わらせ、一緒にこの部屋で今日の
復習や明日の予習なんかをやるのだが……。
那月の寝息が鼓膜を優しく震わせる。それを聞きながら俺はやれやれと
嘆息した。
「ま、今日は十分延長くらいは大目に見るかな」
 そんな、気分なのだ。
俺は那月の頭を愛でるように撫でた。もうすっかり乾いてさらさらな
髪の滑らかな手触りが、手の平に心地良い。
「……ふふっ」
撫でられた那月の、微笑むような寝息が耳をくすぐった。

続き
2008年07月20日(日) 13:06:43 Modified by amae_girl




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