1-933 無題

甘い香りに目を覚ますと、こげ茶色のやわらかなネコっ毛が見えた。それだけじゃない。右腕が重い。動かない。
睡魔と混乱で再び閉じそうになるマブタをこじあける。視線をずらすと、見慣れた上掛けと見慣れた首筋のホクロがあった。
何で日曜の明け方に俺はこんな試練に立ち向かわなければならないんだろう。
くすーくすーと試練は規則正しい寝息をたてている。薄い耳たぶが時折覗く。噛みついてやろうかこんちくしょう。
……いやいや。早まってはいけないだろう俺。穏便にいかなくては、後々苦労するのは多分自分自身なんだ。
「うぅー」
ころん。と試練が寝返りをうつ。ふっくらとした頬と唇が……もう無理!
「起きろ!何でお前、俺の腕まくらで寝てるんだ!」俺の声に試練は不満げな声を上げて長いまつ毛を震わせ、目を開け……なかった。
かわりに細くて柔らかい腕が首に回る。ぬくもりがより近くなる。
ソプラノが鼓膜に触る。
「……も、ちょっと」
そして試練はレベルを上げたことに気付かず安らかな寝息をたてる。

神様、俺、何かしましたか?俺の安眠返せよ!
「すき、だ……よー」
すいません、本気もう勘弁してください。
俺の朝はどっちだ。



必死に円周率やルートを数え、九々を何度繰り返し、素数を求めていると、
ようやく窓の外で土鳩が鳴きだした。いつもは憎いそれがこんなに待ち遠しく感じたのは初めてだ。
「ん……」
聴覚を封印するんだ、俺。12の段を唱える。
イチゴの香りがする。近頃のシャンプーは持続性が高すぎやしないだろうか。
嗅覚は麻痺しているよな、俺。
初めて三角形の面積の公式を知った時の感動を思い出す。
喉元に規則的に微弱な風を感じるのも無論気のせいだ。
触覚は信頼できないものだ、俺。
そう、明るくなったせいでよりはっきりと見えるようになった白い胸元と鎖骨なんてこの世に無い。視覚を疑え、俺! ひとよひとよにひとみごろ、ふじさんろくにおうむなく!
……そうか! これは夢か。



「ふぁ、う……もとくん? あれー?」
夢のクセに寝ぼけるとは生意気な。さあ起きろ俺!
「ふふ〜、もとくんだぁ……ギュー」
今回の夢はすごいな。重さ、変化する圧力、ぬくもりその他諸々がある。まぁ、さすがに味覚はないだろうが。
ふっと拘束がゆるんだ。
「……ちゅーしてほしーなぁ……」
夢ってすごいなぁ、色素の薄い瞳も完璧だし。
「だめ? ね、だめ?」
うるみぐあいも最高だとかあぁもう!
寝起きで少し乾いた唇はそれでもやわらかくて、イチゴの歯磨き粉の味がした。
「んん……しあわせ〜。もう一回おやすみなさぁい」

神様、もう俺の負けでいいです。

続き
2008年07月20日(日) 13:24:53 Modified by amae_girl




スマートフォン版で見る