最終更新: fugal_tokyo 2011年05月03日(火) 15:15:30履歴
江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。
明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」の異名もある。
明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」の異名もある。
周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6 m)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があった。大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。武士は編み笠をかぶり顔を隠していた。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とある(傾城とは城を傾けるような美女のことだが、ここでは遊女を指す)。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、金貸しである札差たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。吉原は女性を前借金で縛る人身売買の場所であったが、文化の発信地としての役割も持っていたのである。
1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。1842年には吉原以外の場所での売春が禁止された
1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。1842年には吉原以外の場所での売春が禁止された
明治以降、芸娼妓解放令が出され、1875年には遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」であり、自由な外出もできず、人身売買の実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態であった。明治の吉原風俗は『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)や『たけくらべ』(樋口一葉)といった作品からも窺える。特に樋口一葉は吉原近くの竜泉に小間物屋を構えるなど当地との縁が深い。1903年には、写真指名システムがはじまり(「写真見世」)、1916年には、張店が禁止された。
江戸時代には、1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年と度々火災に見舞われたが、近代以降も1911年(明治44年)4月9日には大火が発生した(「吉原大火」)。また、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。
第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街いわゆる赤線となった。赤線は1958年に消滅した。
江戸時代には、1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年と度々火災に見舞われたが、近代以降も1911年(明治44年)4月9日には大火が発生した(「吉原大火」)。また、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。
第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街いわゆる赤線となった。赤線は1958年に消滅した。
1958年(昭和33年)の売春防止法の施行により、赤線は廃止され、吉原は文字通り火の消えたような町になった。店は連れ込み旅館や下宿屋、トルコ風呂(1951年に登場した。1983年から「ソープランド」)などに転業していったが、やがてトルコ風呂が全盛期を迎えると、吉原=トルコのイメージが定着していった。トルコ風呂は1966年の風営法改正により、個室付き特殊浴場となった。
1948年に施行された「風俗営業取締法」は、1984年に公布された改正法により、大幅に内容が改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(1985年2月13日施行)」となり、ここにおいて性風俗営業の営業地域が大幅に制限されるに至った。特に個室付き浴場、個室マッサージ、モーテル類等(トルコ風呂、ソープランドの類)は事実上人の活動する区域においては営業が不可能となったが、同法律を受けて東京都が施行した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」においては、吉原の実情などを考慮し、「特例地域」として、現行の建物を使用する限りは営業を継続出来ることとなった。従って新規にソープランドビルを建設して営業することは不可能であるが、現行の建物を改装等して継続使用する限りはソープランドを経営することが出来る。
1984年、風営法の改正により、営業時間が午前0時までとなり、2006年、同法改正により、街頭での客引きが禁止された。
かつて、都内では「新宿区歌舞伎町の一部」及び「豊島区北池袋の一部」にも同様の特例措置が執られていたが、現在は条例の改正によってソープランドの特例処置は台東区千束四丁目の16番から32番、41番から48番に限られている。(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例第十条一参照)
1984年、風営法の改正により、営業時間が午前0時までとなり、2006年、同法改正により、街頭での客引きが禁止された。
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