最終更新: fugal_tokyo 2011年05月03日(火) 15:14:55履歴
「上野」という地名の由来には諸説有る。
一つは、藤堂高虎が、当地の地形が本拠地たる伊賀上野(いがうえの)に似ている点から「上野」と命名したという説。ただし、江戸名所図会によればこの説は間違いとされている。
もう一つは、小野篁が上野国(こうずけのくに。現在の群馬県)での任を終えて京へ帰る途中で、当地に館を建ててしばらく滞在し、その際地元の人が篁のことを呼んだ「上野殿」が地名になったという説。
一つは、藤堂高虎が、当地の地形が本拠地たる伊賀上野(いがうえの)に似ている点から「上野」と命名したという説。ただし、江戸名所図会によればこの説は間違いとされている。
もう一つは、小野篁が上野国(こうずけのくに。現在の群馬県)での任を終えて京へ帰る途中で、当地に館を建ててしばらく滞在し、その際地元の人が篁のことを呼んだ「上野殿」が地名になったという説。
当駅は、東京と行き来する東北地方・北信越地方の人々にとって長らく東京の表玄関の役割を果たして来た。そのために文学や歌謡曲の分野で当駅を扱った有名な作品がいくつかある。石川啄木の『故郷の訛り懐かし停車場』で始まる短歌は有名である。また、井沢八郎が歌った『あゝ上野駅』の歌碑が広小路口にある。1999年に使用を停止した後に線路を撤去した18番線は、集団就職で「金の卵」ともてはやされた東北地方からの若者を乗せた上京列車の到着ホームの一つでもあった。
中央改札上には、1951年(昭和26年)展示の、猪熊弦一郎作の壁画『自由』が掲げられていて、当駅を代表する光景ともなっている。その下にはLED式列車案内表示器が設置されているが、かつては、東北・奥羽・磐越西線は緑(杜の都・仙台をイメージ)、高崎・上越線は黄(越後平野の稲穂をイメージ)、高崎・信越線はピンク(信州のりんごをイメージ)、常磐線は青(太平洋の海をイメージ)、東北新幹線大宮開業時に設定された「新幹線リレー号」はクリーム色と、方面別に色分けされた木製の案内板が使用されていた。
グランドコンコースには朝倉文夫作のブロンズ像『つばさの像』、広小路口には『三相』がある。『つばさの像』は1958年、初の東北特急「はつかり」運転開始と当駅開業75周年を記念して台東区が寄贈し、当初は広小路口に設置された。
バブル期に磯崎新設計による地上300mの超高層駅ビルに建て替える構想があったが、その後のバブル崩壊と東北・上越新幹線の東京駅延伸による乗降客の減少などから、現在は立ち消えになっている。
南満州鉄道の大連駅と函館本線の小樽駅、および樺太庁鉄道(のち樺太西線)の真岡駅は当駅を模したとされる。
戦後、周辺地域で地下水を汲み上げ過ぎたために地盤沈下が発生し、周辺の地下水利用が制限されている。そのため、逆に地下水が余剰となってしまい、床下等に合計3万トンもの錘を設置し、浮き上がりによる駅構造の変形を防いでいる。
中央改札上には、1951年(昭和26年)展示の、猪熊弦一郎作の壁画『自由』が掲げられていて、当駅を代表する光景ともなっている。その下にはLED式列車案内表示器が設置されているが、かつては、東北・奥羽・磐越西線は緑(杜の都・仙台をイメージ)、高崎・上越線は黄(越後平野の稲穂をイメージ)、高崎・信越線はピンク(信州のりんごをイメージ)、常磐線は青(太平洋の海をイメージ)、東北新幹線大宮開業時に設定された「新幹線リレー号」はクリーム色と、方面別に色分けされた木製の案内板が使用されていた。
グランドコンコースには朝倉文夫作のブロンズ像『つばさの像』、広小路口には『三相』がある。『つばさの像』は1958年、初の東北特急「はつかり」運転開始と当駅開業75周年を記念して台東区が寄贈し、当初は広小路口に設置された。
バブル期に磯崎新設計による地上300mの超高層駅ビルに建て替える構想があったが、その後のバブル崩壊と東北・上越新幹線の東京駅延伸による乗降客の減少などから、現在は立ち消えになっている。
南満州鉄道の大連駅と函館本線の小樽駅、および樺太庁鉄道(のち樺太西線)の真岡駅は当駅を模したとされる。
戦後、周辺地域で地下水を汲み上げ過ぎたために地盤沈下が発生し、周辺の地下水利用が制限されている。そのため、逆に地下水が余剰となってしまい、床下等に合計3万トンもの錘を設置し、浮き上がりによる駅構造の変形を防いでいる。
タグ