【ザントマン】//ヒルシャー、トリエラ
        //【】// General,//2008/08/09




   【ザントマン】


「ヴィクトル、ヴィクトル。もうベッドへお入りなさい」
 就寝を促す母親の言葉に少年は不満そうに口答えする。
「でも母さん、まだ遊びたいよ」
「だめよ、もう夜も遅いわ。夜更かしするとザントマンが来るわよ」
「はい、母さん」
 渋々ベッドに入った少年に、母親はあたたかなほほえみと共に瞼にキスをおとした。
「おやすみなさい、わたしの坊や。よい夢が見られますように   




 寝台の上で片手で顔を覆いながらヒルシャーはため息をついた。
いい年をした男が母親の夢を見て目が覚めるというのは、誰が見ていなくてもいささか恥ずかしい。
 辺りはまだ暗い。枕が変わると眠れないと言うほど神経質ではないのだが、
珍しく夜中に目が覚めてしまったようである。
 隣のベッドを見ると、彼の居るベッドよりも一回り小さいエキストラベッドに眠る、小柄な身体がある。
パートナーである少女の眠りを妨げずにすみ男はほっとした。
ようやく緊張を解いて眠ることができるのだから、できるだけゆっくり休ませてやりたい。
 滞在を予定したホテルに爆破テロの予告があり突然の宿替えを余儀なくされた時には、
もしやこちらの正体がテロリストに知られたのかと相当に警戒した。
だが彼らの聞き込みと支局の裏付け調査により、
それは同ホテルに関わりのある政府高官に対する恐喝行為であったことがほぼ判明したのだ。
 またその偽りのテロ予告により、彼らフラテッロが暗殺対象としていた
テロリストらは当局の介入をおそれて隠れ家を引き払い、散り散りに潜伏してしまった。
隠れ家を強襲するならフラテッロ一組で十分だが、状況が変われば作戦内容も変わる。
今は次の指示を待って待機中だが、おそらく一度ローマに引き揚げることになるだろう。


 急な宿替えだったため、テロ予告があったホテル側から代替えの宿泊先にと用意されたのは、
シングルルームにエキストラベッドを追加した形のこの部屋であった。
 エキストラベッドは備え付けのベッドに比べて多少寝心地が落ちる。
当然のこと自分がそちらに寝るつもりだったヒルシャーは、
身体の大きさから考えてもそれは合理的でないとトリエラに申し出を拒否された。
 作戦行動に入れば、自分よりも少女の方が危険率の高い行動を強いられるのだ。
せめてその前にはできるかぎり快適な眠りを提供してやりたいと思うのだが、少女は少女で、
担当官の身の安全を確保するのが第一義であるべき義体の在り方として、それはおかしいと一歩も譲らない。 
 かたくなな少女の態度にどう対応して良いのか分からず、
彼女の拒絶にあえば、大抵の場合自分は引き下がらずを得ない。
同僚には情けない兄貴だと呆れられるが、これが自分たちフラテッロの在り方なのだから仕方がない。
勿論、この状況を改善したいとは常に願っているのだが。

 男は少女の寝顔を見つめながら、先ほど見た夢をふと思い出す。
ザントマンが来るよ、か。あれは元々、故郷ドイツの民間伝承だったな。
 目に見えない眠りの精霊であるザントマンは、砂袋を担いだ小さな老人の姿をしているとも言われる。
ザントマンが目の中に魔法の砂を投げ入れると、
それがどこであっても人は眠気に耐えきれずに目を閉じてしまうのだと幼い頃に聞かされていた。
 確か、アンデルセン童話の中にもザントマンを題材にした物語があったはずだ。
 眠りの精霊はこの世でもっとも多くの物語を知っている。
精霊は魔法の砂で幼子を眠りに誘い、夢の中で様々な話を聞かせる。
 眠りの精霊には兄弟がいる。兄は死神だ。
 死神は二つの物語しか語らない。
この世でもっとも優しく美しい話と、この世でもっともおぞましく恐ろしい話だ。
死神は青白い馬に死者を乗せて運ぶその時に、良き行いをして生きてきた者には美しい話を、
悪しき行いをして生きてきた者には恐ろしい話を語って聞かせる。   そんな話だったか。
 本意ではないとはいえ職務として人を殺める自分などは、さながら恐ろしい話を聞かされる死者達の側だろうが、
洗脳によって強制的に銃を握らされている義体の少女達は、美しい話を聞かせてもらえる側であって欲しい。
……この不幸な子供達に罪はないのだから。
責められるべきは、子供達に闘いを強いている自分たちなのだから。
 身体の8割を人工物に置き換えられた義体は驚異的な戦闘力を有している。
だが男の隣で眠る少女の寝顔はむしろあどけない。
穏やかに眠る彼女は今はどんな夢を見ているのだろうか。
 義体の少女達は夢の内容をほとんど覚えていない。時に涙を流しながら眠る少女達は、
封じられた記憶の断片を夢に見ているのかも知れないと義体技師達は言う。
少女の見る夢を知ることはできないが、できうるならば幸せなやさしい夢を見ていて欲しいとヒルシャーは思う。
 そう言えば、この子にはアンデルセン童話を読ませたことはあっただろうか。
義体棟の共用の書棚には、一般教養として児童文学の全集が収められているから、そこには多分あるのだろうが。
 いや。ヘンリエッタやリコ、アンジェリカらの年少の少女になら童話も良いが、
自分のフラテッロは子供とはいえさすがにおとぎ話を読む様な年ではなかろうと、
若草物語だとか小公女といったような本を与えたはずだ。
この話ならもう読みましたと言われて持ち帰ったそれらは、一度も開かれることのないままヒルシャーの書棚に並んでいる。
 それに並ならぬ知性を持ったこの少女はすぐに児童文学を卒業し、
読書好きなルームメイトと共に一般書や専門書を読みふけるようになった。
それからは、本に関しては少女の希望があった時にのみ買い与えるようにしている。


 ただ一方で、自分はあの童話集をこの少女に読ませたくなかったのかも知れない、とも思う。
 たとえば姿形が違うからと仲間から爪弾きにされたみにくいあひるの子。
たとえばクリスマスの夜に雪に凍えたマッチ売りの少女。
そして想いを伝えることもかなわぬまま海の泡と消えた人魚姫   
美しくも哀しく、どこか社会の冷たさを描いたそれらの物語は、波乱の人生を送ったアンデルセンの嘆きとも思える。
 あるいは暗く寂しい北の海にぽつんとたたずむ人魚姫の像の姿を、
またそのブロンズ像の頭部を持ち去るような心ない人間がいることを、自分は少女に話したくなかったのかも知れない。
   そんな自分の想いを知れば、くだらない感傷だとこの子はわらうだろうか。
 社会の暗部に属していながら、ヒルシャーは人の心の善なるものを信じている。   信じたいと願っている。

    大人達は大勢の子供を救えなかったけど……。でもこの子だけでも救うことができたなら、
あなたが言うように世の中まだまだ捨てたものじゃないって信じられる気がするの    

 それはかつて、自らの命と引き替えにこの少女を救った女性の言葉だ。
 少女に希望を託して逝った彼女の遺志は、男の意志でもある。
知らずにとはいえ少女に銃を持たせてしまった責は自分が負おう。
けれどもこの子には、たとえささやかでも喜びや幸せを見つけて生きていって欲しい。
少女の穏やかな寝顔を、ほんの時折見せてくれるかすかな笑顔を目にする度に、
ヒルシャーもまた人の善意を信じることができる   
守りたい大切な存在に彼はそっと手を伸ばした。
 一瞬わずかに顔をしかめた少女は、頬にふれたぬくもりを確かめるように男の手に小さく身をすり寄せると、
また安心したように力を抜いて静かに寝息を立てる。
 男は小さく微笑むと、夢の中で母親がしたように、少女の瞼にやわらかなキスを落とした。



   ≪ Das Ende ≫   

     BGM // シューベルト 『子守唄』

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