【金の翼】//ヒルシャー、トリエラ
        //【】//General,//2009/09/03




    【金の翼】


 古都を歩く少女と男の歩みがスピーカーで何かを訴える声に立ち止まった。
褐色の肌の少女が利発そうな青い瞳で男に問いかける。
「デモでしょうか」
「いや。比較的穏やかな政治集会のようだな。だが巻き込まれないに越したことはない。
広場は避けていこう」
 担当官の言葉に、はいと返事をして歩き出そうとしたトリエラはふと立ち止まり、
広場の方向に顔を上げた。


 Va, pensiero, sull’ali dorate
  行け、思いよ 金の翼に乗り
 Va, ti posa sui clivi, sui colli,
  行って丘や小さな山に憩え
 ove olezzano tepide e molli
  そこにあたたかくやわらかく香る
 l`aure dolci del suolonatal !
  故郷のやさしい風が!

 Del Giordano le rive saluta,
  ヨルダンの岸辺に挨拶しておくれ
 di Sione le torri atterrate...
  シオンの打ち倒された塔にも

 Oh, mia patria si bella e perduta !
  ああ かくも美しい失われた祖国よ
 Oh, membranza si cara e fatal !
  ああ かくも愛しく悲しい思い出よ


「歌……?」
 広場から聞こえてくる大勢の人間の声に少女が呟く。
「ああ、“Va, pensiero, sull’ali dorate”――『行け、わが思いよ黄金の翼に乗って』だ。
ヴェルディのオペラ『ナブッコ(ネブカドネザル王)』の中の合唱曲だよ」
「ああ…イタリア第二の国歌という……」
「そうだ」
 記憶を巡らす少女に教官役である男はいつものように生真面目に説明する。
 バビロニア軍に捕らわれたヘブライ人たちの捕囚の悲しみと希望を歌った合唱曲、
“Va, pensiero, sull’ali dorate”。
 この曲は、オペラの上演当時にオーストリアの圧政下にあった北イタリアの民衆を奮い立たせ、
イタリアで起こり始めていた国家統一運動のシンボルソングとなった。
後年、第二次世界大戦の折にもイタリア国民の心の支えとなったという伝説の曲だ。


 Arpa d'or dei fatidici vati,
  運命を語る詩人たちの竪琴よ
 Perce' muta dal salice pendi ?
  なぜ柳にかけられたまま黙すのか?
 Le memorie nel petto raccendi,
  胸に秘めた思い出、再び燃え立たせ
 ci favella del tempo che fu !
  失われた日々を我らに語れ!

 O simile di Solima ai fati
  さもなくばソリマの運命に似た
 traggi un suono di crudo lamento,
  むごき悲しみの音、悲劇の詩を

 o t`ispiri il Signore un concento
  さもなくば神の妙なる響きを感ぜしめよ
 che ne infonda al patire virtu !
  苦しみに耐える力を呼び覚ます その響きを
 

「―――捕囚となり鎖につながれたヘブライ人が自由と故郷への想いを神に祈る、
象徴的な歌だよ」
 そう説明を締めくくり、男は何か物を思う眼差しで広場の方を見やる。
「……何をまた考え込んでいるんですか?」
「いや」
 なんでもないよと答えた男を、少女が下から覗き込むようにして見上げた。
「――私には故郷を見せてやることができないだろうな、なんて思っていませんか」
 図星を指され、男は言葉に詰まる。嘘の下手な担当官の反応に少女は言う。
「ヒルシャーさん、私には望郷の念なんてないんですよ。
あなたが突き止めてくださった私の故郷も、申し訳ないですが記憶のない私には実感はわきません」
 覚えていたところで楽しい思い出とは限りませんしね、と言う少女の台詞に
男は表情を曇らせる。
彼女の故郷であるチュニジアは北アフリカでは比較的豊かな国ではあるが、無論貧困層は存在する。
少女が人身売買組織に捕らわれていたのも、実の親の手で人買いに売られた故である可能性とてあるのだ。
洗脳によって彼女の過去の記憶が失われたのは、あるいはむしろ神の恩寵なのかもしれない。
 だが男の中にはいつも苦い思いがある。
死に瀕していた彼女を救いたい一心で自分がとった行動が、
結果として彼女を暗殺要員として公社に縛り付けることとなったのは事実だ。
あの時自分が公社を訪れず、他の方法を見つけ出していたならば、彼女の人生はもっと違ったものになっていたはずだ。
 沈黙する男に少女はちょっとため息をついた。
「ヒルシャーさん。私は確かに故郷の記憶はありませんけれど、
思い入れのあるものや心の支えになるものは、ちゃんとあるんですよ。
仲間や、あなたと過ごしてきた日々が」
 だから、と言葉を切って、少女は少し早口で続きをつぶやいた。

 あなたがいる風景が、私にとっては故郷みたいなものですよね。

 あっけにとられたような男の視線をかわして少女はくるんと後ろを向いた。
金の髪を結い上げたうなじはかすかに赤い。
 ああ、まったく。
 男は苦笑する。この子にはいつも驚かされる。
過酷な運命の中で、それでもこの子は常に現実を見つめて生きている。
埒もなく過去を振り返る自分となんという違いだろう。
苦しみ、悩みながらも前に進む勇気を、この子は持っているのだ。
 行きましょう、と言って歩き出した少女の背中には、金のふたつ髪が羽のようにひらひらと揺れている。
その様を見つめる男の顔には穏やかな表情が浮かんでいた。


  che ne infonda al patire virtu !
   苦しみに耐える力を呼び覚ませ
  al patire virtu !
   苦しみに耐える勇気を―――。


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