【金木犀】 // ヒルシャー、トリエラ
          // 【】 // Humor,//2010/11/15



   【金木犀】


 オフィス前に少し早足で現れた二つ髪の少女の姿を目にし、男はデスクから立ち上がった。
今日は彼女の訓練が予定されている。教官役であるドイツ人は少女の前に立ち、
では行こう、と短く声をかけた。はい、と答えて少女は男の横に並ぶ。
以前は作戦行動中以外は男の一歩後ろに付き従って歩いていた彼女だが、
近頃ではこうして担当官の隣に並んで歩くことが多い。
 少女の様子を確認するように、自分の胸あたりの高さにある彼女の頭部を見やった男は、
ふと何かに気付いて少女に言う。
「トリエラ、髪に何かついているぞ」
「え?」
 じっとしていなさい、と言いながら男は少女の髪に手を伸ばした。
側頭部で結わえた 二つ髪の根元を梳くようにして何かをつまみ上げる。
「―――花?」
 男の指先には小さなちいさなオレンジ色の花がちんまりと乗っている。
爪の先ほどの大きさのその花に少女は見覚えがあった。
「ああ、あの甘い香りのする花ですね」
 午前中、少女は穏やかな季節の訪れを告げるその香りに誘われて 年下の仲間たちと公社の敷地を散策した。
その際、秋風に吹かれて石畳に散り落ちオレンジ色の絨毯のようになったこの花を、
寄せ集めて宙に舞い散らせ花吹雪を楽しんだのだ。きっとその時についたのだろう。
「確かosmanto(金木犀)と言う花だ。―――まだいくつかついているな」
 言いながら男はまた少女の髪に手を伸ばす。
少女はあわてて片手を頭の上にやり、それをさえぎった。
「自分で取ります」
「自分では見えないだろう。『公社以外では咲いていない』と言うほどではないが、ローマでは珍しい花だ。
どこかで落ちて足取りを残すようなことになってはならないからな」
「今日は公社外に出る予定はないでしょう」
「突発事項が起こったらどうするんだ。こういう事は面倒くさがって後回しにしたりせず、
気付いた時にすぐやってしまうものだぞ」
 あくまでも生真面目に男は言い、少女の手をやんわりと退けると
しかつめらしい顔で 金の髪の間から小さな花を丁寧に梳き取っていく。
男の立ち位置は必然的に普段の立ち位置よりも一歩近く、
少女は気恥ずかしさに思わず上体を傾けて距離をとろうとする。
そうすると男は身を乗り出して作業を続けようとし、また少女が2センチほど逃げる。
「小さな子供みたいに落ち着きなく動くんじゃない」
 乙女心にうといドイツ人は思春期の少女をそう叱りながら、
いつもの困ったような表情で髪を梳き分け念入りにチェックする。
うつむいて固まっている少女の顔は心なしか赤い。
「さあ、これでいい」
 男は小さな花が床に落ちないよう、梳き取る度にそれを手のひらの中に握り込んでいた。
警官であった頃の癖なのか、証拠品でも保管するように内ポケットから取り出したハンカチに花がらを包むと、
またそれを元の場所に戻す。
「……ありがとうございました」
 少女が不機嫌そうな声音で担当官に礼を言う。担当官は、いや、と短く応えると少し眉をひそめた。
側頭部できっちりと結ってあった少女の髪が、くしゃくしゃに乱れてしまっている。
ああこのせいで不機嫌なのかと得心がいったヒルシャーは、少女に言った。
「トリエラ、射撃場に行く前に髪を結い直してくるといい。僕は寮の前で待っているから」
「え? いえ、いいです。手櫛で整えれば充分ですから」
「…そうか」
 少女の褐色の指先が器用に乱れた髪を整え直す様を、男はしばし見つめる。
身繕いをした少女はひょいと視線を上げて男を見やった。終わりました、という意味だろう。
男は軽く頷くと、予定された訓練に向かうべく少女を伴って歩き始めた。




 一日の仕事を終え自宅に戻ると、ヒルシャーは習慣通りスーツのポケットからすべての物を取り出した。
鍵や手帳はひとまとめに床頭台上のトレイに置き、ハンカチを取り出したところでふと動きを止める。
 用心深く折り目を開くと、布の上にはオレンジ色の小さな花が散らばっていた。
 男はしばらくそれを見つめると、印刷用紙のストックから未使用の真っ白な紙を一枚引き抜いた。
そして小さな花がらをひとつひとつ丁寧に白い紙の上に移し替え、慎重に包んで封をすると、
それをそっと引き出しの奥に収めたのだった。


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