【左耳のささやき】//ヒルシャー、トリエラ
        //【】// General,Serious, //2008/06/17




   【左耳のささやき】


 人間の左右の脳から延びる神経は交差しているから、
右耳から入った音は左脳に、左耳から入った音は右脳に入る。
 右脳は情緒的感覚を、左脳は論理的思考を司るものだから、
音楽を鑑賞する時には左の耳に意識を持っていって聴きなさい。
   そんなことを言われたのはいつだったろうか。


 私は彼の左側を歩く。
 彼は右利きだから、右側の空間をあけておいた方が、とっさの場合に行動がとりやすい。
私も、彼が自分の右側にいた方が、いざという時に盾になりやすい。
最悪でも、自分の腕で彼の心臓をカバーすることくらいはできるだろう。
私の定位置は彼の左側。それが公社の外で危険と隣り合わせの任務に就く時の必然だ。
 だから私はいつも、彼の言葉を右耳で聞く。
 暗殺要員である私に穏便な対応を求めたり、彼の身を守るための存在である私の身を案じたり、
人工の体を与えられた私を普通の子供のように扱ったり。
そのくせ、担当官として義体である私と距離を置こうとしたりする、
そんな論理的矛盾を抱えた一貫性のない彼の言葉を。





 正面に黒板を備えた講義用の部屋に、ぽつんと座る人物が二人。
手元のレポート用紙に文章をつづる金の髪の少女と、
同じ列の机の、二つ離れた左側の座席に座り物思いにふける男。
室内には少女がペンを走らせる音だけが響く。
 机の上に置いた腕時計に時折視線をやりながら、
トリエラはためらいのない筆跡でレポート用紙にドイツ語を記してゆく。
それは少女が義体化手術を受けて間もない頃からずっと続いているカリキュラムだ。
 人工の体を生身の体と同じように扱うためには、ある程度の訓練が必要とされる。
 指先の動きを多用する楽器演奏や書き取りが有効だと技師たちに言われ、
筆記訓練を選ぶあたりはいかにも無粋なドイツ人らしいと同僚は笑うが、
本来ヒルシャーは音楽を好む人間である。
それなのにあえて少女のカリキュラムに筆記訓練を選択したのは、
それならば彼自身が少女に教えることができるからだ。
 最初はイタリア語を、彼女がドイツ語を覚えたいと言い出してからはドイツ語を。
 少女は元からイタリア語の他に日常会話程度のフランス語を話すことができた。
筆記についても、同じラテン語系であるフランス語はドイツ語よりも遙かに修得は早かったが、
ヒルシャーはフランス語についてはあまり積極的には取り組んでいない。
 イタリアの政府組織に所属する以上、イタリア語の読み書きを習熟する事は必須事項だ。
だがフランス語は、忘れさせた彼女の過去の記憶に繋がる。
……少女がナポリ・マフィアによる人身売買組織に拉致される以前、
幸せに暮らしていた祖母との会話は、フランス語で交わされていたはずなのだから。
 彼女の幸せな過去を、彼は知らない。
彼が公社の調査記録から知っているのは、彼女の家族がもうこの世にいないということ。
彼がその目で見て覚えているのは、彼女が犯罪に巻き込まれ死に瀕していたこと。
   それだけなのだ。
 だからこそ、彼女のために、自分ができることがあるならば何かしてやりたかった。
 だがそうは言ってもヒルシャーは、子供は好きなのだが実際に接した経験があまりない。
自分が幼かった頃周りの大人がどう自分に接していたか、遠い記憶を探るのがせいぜいだ。
それにした所でそもそもが男女の違いがあるのだし、
ましてや思春期を迎えた難しい年頃の少女に、的確な対応が取れようはずもない。
 義体と担当官という特殊な関係に置かれた中、感情のままに振る舞うには生真面目すぎて、
役目に徹するには情が深すぎて。
この不器用なドイツ人は3年たった今でも、少女にどう接するべきなのか迷い続けている。

 ペンを走らせる音が止まり、代わってコツコツと軽く机をたたく音がする。
それは少女が書き終えた自分の文章を確認する時の癖だ。
男がそちらに視線をやれば、少女は空いた手で両側に結わえた長い髪の先をもてあそんでいる。
「長い髪は邪魔か?」
 金の髪がくるくると褐色の指先に巻き付けられてゆく様を見つめていた男が、問いかける。
唐突な問いに少女はぴくっと顔を上げ、左側にいる男の方に顔を向けた。
「なんですか?」
「それだけ長いと暑いだろ」
「平気です」
 少女は前髪をかき上げ、レポートに視線を戻しながら答える。
「昔からこうですし……気になりません」
「そうか」
 思いつくまま口に出してはみたものの、
年頃の少女の身だしなみについてそれ以上会話を続けることもできず、男は口をつぐむ。
「? 独作文、終わりましたけど……」
「うん」
 自分が一から教えたドイツ語をこの優秀な少女は完璧に修得し、
公文書のイタリア語訳までこなすようになった。
今ではもう、自分が彼女の文章を手直しする必要もない。
 誇らしさと、一抹の寂しさと。
そんな感情を覚えながら、男は手渡された少女の文章を評価する。
「良くできてるよ」
 彼の誉め言葉はいつもそっけない。だから大抵、少女もそっけなく受け止める。
よくやった、すばらしいと誉め上げれば、少女は返って不機嫌になる。
公社に強制的に課せられた役割を果たしただけで過剰な賞賛を受けるのは、
白々しくて腹が立つということなのだろう。
 けれど今日はなぜか、彼の評価を確認するように少女は自分の左側を見やる。
「そうですか?」
「ああ」
「そうですか」
 机に軽く突っ伏して自分を見上げる視線に少し戸惑いながらも、
少女を気遣って男は言った。
「ひと休みしよう。コーヒーでも持ってくるから、ここにいなさい」
「私が行きます」
「いや、いいよ。僕が行く」
 スーツの上着を手に立ち上がりかけ、ふと午後の予定を思い出して男は少女を振り返る。
「……ああ、この後検査があるからエスプレッソは避けた方がいいかもしれないな。
温かいココアで良いか?」
 自分が幼い頃、父親の飲むコーヒーの香りは大人の象徴であり、
母親が淹れるココアの甘さは愛情の証だった。問われた少女は微苦笑を浮かべて答える。
「おまかせします」
「そうか」
 未だに彼女の好みは砂糖なしの紅茶であることを知らないドイツ人は、
軽く汗ばむような陽気の中できちんと上着を身につけ、
少女のために甘いココアを用意しにゆくのであった。
  
 


 私は彼の左側を歩く。
 だから、彼の定位置は私の右側。
 私はいつも彼の言葉を右耳で聞き、左脳で考える。
 彼は自分にどんな立場を演じて欲しいのか、彼が私に向ける感情は何なのかと。
そして論理的矛盾を抱えた一貫性のない彼の言葉に迷い、答えの出ないその疑問に悩む。
 けれど時折、左の耳が右の脳にささやく。
 矛盾していたっていいじゃないか。彼が私に向ける感情に、いつも嘘はないのだから。
その感情にどんな名が付くのであれ、彼が私を想って言っているのは確かなのだから、と。



   ≪ Das Ende ≫   

     BGM // J.S.バッハ 『無伴奏チェロ組曲 第1番 プレリュード』

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

編集にはIDが必要です