最終更新: izon_matome 2009年10月16日(金) 06:09:52履歴
作者:4-263氏
大陸の南西部、チェスタートン地方。その外れにバジョットという小さな町はあった。
大都市エインズワースへと続く街道沿いにあるその町には、様々なものが訪れる。
例えばそれは、旅人であったり、芸人の一座であったりだ。勿論、バジョットを訪れるのは人だけでは無い。
高価な宝物や遠い地方の特産物。海を渡った向こうから連れて来られた獣。珍しい書籍なども持ち込まれた。
雷鳴轟く闇夜のもとで、ロイドは本のページを繰った。燭台の灯りが淡く手元を照らす。暗い空を迸った雷光が、室内を白く浮かび上がらせた。風で壁が軋み、窓ガラスに大粒の雨が叩きつけられる。
――ひどい天気だ
ロイドはこの町の教会で神父をしている。二十八歳で司祭になり、この町の教会に派遣されて以降五年間、人当たりのよさで村人の信頼を集めていた。尤も、その人当たりの良さが穏やかな人柄を表しているのかと問われれば、ロイドは苦笑いせざるを得ないのだが。
――今日は安息日だというのに、神は私にゆっくりとした休みをくれる気がないらしい
ロイドはぱたん、と本を閉じると燭台の炎を手燭へと移した。
立派とはいえそれなりに歴史ある教会の建物は、ところどころ老朽化が進んでいる。どこから雨漏りするとも知れない。
こつこつ、と石畳に自分の靴音が響く。時折それを掻き消すように雷が鳴る。
ロイドはずらりと並ぶベンチを確認し、小さなステンドグラスが割れていないか点検した。
最後に、ホールの正面に鎮座する巨大な偶像に手燭を掲げる。手燭のオレンジの灯りに偶像がぼんやりと浮かび上がった。
ロイドは黙ってそれを見上げる。実のところ、ロイドはそれほど信心深い男ではない。むしろ信仰に否定的な考えさえ持っている。
それなのに何故神父などという職についているかと言えば、つまるところその道がロイドの前に示されていたからだ。
「ああ、主よ。貴方が本当に全知全能であるならば、温かいスープと上着を賜りたい」
偶像の下で、敬虔な町民が聞いたら卒倒しそうな不敬な台詞を吐くと、ロイドは肌寒さに腕をさする。
こんな夜はさっさと眠るに限る。一通り見回りを終えると、教会の奥の自室へと踵を返した。
その時、ホールに扉が軋む音が響く。乱暴に開け放たれた扉が大きな音をたてた。
雷鳴と雨音と共に飛び込んできた小さな人影にロイドは溜め息をつく。だから、こういう日は早く眠った方が良いと言うのだ。
「どうしましたか」
努めて穏やかに声をかける。人影はびくりと肩を跳ね上げ、ロイドへ、次いで周囲へと視線を走らせた。
女だ。それもまだ若い、少女の面影を残した女。濡れた黒髪が白い頬に張り付いている。
「ここ、教会なんでしょ」
女はロイドを睨み付けた。ロイドは顔面に笑顔を貼りつけて「ええ」と返す。
「なら、何も聞かずに私を泊めて」
ぽたぽたと薄手のワンピースの裾から滴る雨水には血が混じっている。細く白い手首には枷が填められていた。
――今日を安息日とした奴を呪ってやろうか
急に転がり込んできた面倒事にロイドは内心毒づいた。それでも表面上はにこりと笑ってみせる。
「神の御名のもとに、貴女へ温かいベッドと一切れのパンを」
******
ぱちぱちと火のはぜる暖炉の前に座った女は、先ほどよりも幾分顔色が良い。
幸いにも怪我はいずれも軽傷であった。止血を施し、簡単に包帯を巻くだけの処置だが大事には至らないだろう。
ロイドは女の向かいにしゃがみ込むと、その手首に填められた枷に手をかける。女は怯えたような目でロイドを見上げた。
「大丈夫、痛いことはしないよ」
見たところ枷は簡単な造りをしていて、容易に外すことが出来そうだった。無論、枷で封じられた人間自らが外すことは出来ないが。
ということはつまり、この女は罪人ではないということだ。
ロイドはびしょびしょに濡れたワンピースに手をかけた。ボタンを一つ一つ外すたびに、白い体が露わになる。
女は緑色の瞳を不安気に揺らめかせて、ロイドを見つめる。
――人身売買か
街道を通り、エインズワースへ流れる珍しい商品。それには人間も含まれた。別に違法ではない。貧しい農民にとっての命綱でもあるのだ。
衣服を奪われ尚抵抗しようとしない様子と、貧相な体格。どのような環境に身を置いていたかなど、推して知るべしである。ロイドは目を細めた。
憐れんだわけではない。ただなんとなく、苛立ったのだ。
華奢な肩に毛布をかけてやり、枷を外した手に湯気をあげるティーカップを持たせる。
少し距離を置いて女の前に座りロイドは尋ねた。
「君、名前は」
女は唇を噛み、下を向いたまま顔を上げない。
「聞いてどうするの」
疑念にまみれた瞳で女はロイドを睨んだ。それにロイドは肩をすくめる。
「君を名前で呼ぶんだよ。決まってるだろう」
女は面食らったように目を丸くして、やがてぽつりと呟いた。
「クロエ」
この辺りでは聞かない名である。おそらくここより少しばかり東の方の出身なのだろう。
そうか、と頷きロイドは続ける。
「クロエ、どうしてこんな格好でここに来たの?」
名前を呼ぶと、クロエの瞳が一瞬だけ緩んだのが見てとれた。しかし、次の問いにその表情は再び強張る。
ロイドはその様子に溜め息をつきそうになるのを堪えて、優しく語りかけた。
「言わなければ何も分からないよ。言ってごらん。神は全てを許される」
かみ、とクロエは口の中で呟くようにしてロイドを見上げる。そわそわと毛布の上に指を滑らせた。
本当のところ、辛ければ辛いほど、隠さなくてはいけなくてはいけないほど、人間というものは喋りたくなる生き物である。そうでなければロイドのような職業が成り立つ筈もない。
「そう。だから、言ってごらん」
クロエの生乾きの髪の毛を指先で梳いて、ロイドは空いた手で暖炉の上の小さめの偶像を示した。
たっぷりの沈黙の後、一際大きい薪のはぜる音がしたのを合図とするようにクロエは口を開いた。
「私、売られて、それで、荷馬車に積まれて」
ロイドは黙ってクロエの髪を梳き続ける。時折白く滑らかな頬に触れた。
「でも、雨が降ってきて、荷馬車、みんな、谷底に」
「……落ちたのかい?」
クロエはこくりと頷く。
「君はどうして助かったの?」
「入り口の近くに座っていたから、馬が暴れだした時に投げ出されて」
ロイドは考え込む。ならば、その荷馬車の御者や他の“商品”を助けてやらねばならない。
雨が降りしきる窓の外を見やるロイドの胸にクロエはすがりついた。
「やだ……あそこには帰りたくないよ……」
潤む緑の瞳を視界から外して、ロイドはクロエの体を支える。
この天気だ。雨が止むまで救助は出来まい。となれば、早くとも明日の朝になる。この寒さの中では誰も助からない。
――ならば、誰に言おうが言うまいが同じことだ
「誰にも言わないよ」
教会には今ロイド一人しかいない。町民と交流あるとはいえ、神父という尊敬を集める身分故の隔絶。
――私だって寂しいんだ
人道に悖る?道徳に欠ける?余計なお世話である。神にも埋められない寂しさを自分で埋めるだけだ。
ロイドは全てを神に捧げられるほど殊勝な神職者ではない。だからといって、皆に崇められていると勘違いして驕ることが出来るほど馬鹿でもない。
「君は疲れてるんだ。続きは明日聞くよ」
そっち用の奴隷なのか、やたらと整った顔をクロエはこちらに向けた。その瞳に浮かぶのはロイドへの信頼。背後の神ではなく、ロイド自身へ向けられた感情。
そんな視線はいつぶりだろうか、と記憶を探り、容易に探し出せない自分に嫌気がさしてすぐにやめてしまった。
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大陸の南西部、チェスタートン地方。その外れにバジョットという小さな町はあった。
大都市エインズワースへと続く街道沿いにあるその町には、様々なものが訪れる。
例えばそれは、旅人であったり、芸人の一座であったりだ。勿論、バジョットを訪れるのは人だけでは無い。
高価な宝物や遠い地方の特産物。海を渡った向こうから連れて来られた獣。珍しい書籍なども持ち込まれた。
雷鳴轟く闇夜のもとで、ロイドは本のページを繰った。燭台の灯りが淡く手元を照らす。暗い空を迸った雷光が、室内を白く浮かび上がらせた。風で壁が軋み、窓ガラスに大粒の雨が叩きつけられる。
――ひどい天気だ
ロイドはこの町の教会で神父をしている。二十八歳で司祭になり、この町の教会に派遣されて以降五年間、人当たりのよさで村人の信頼を集めていた。尤も、その人当たりの良さが穏やかな人柄を表しているのかと問われれば、ロイドは苦笑いせざるを得ないのだが。
――今日は安息日だというのに、神は私にゆっくりとした休みをくれる気がないらしい
ロイドはぱたん、と本を閉じると燭台の炎を手燭へと移した。
立派とはいえそれなりに歴史ある教会の建物は、ところどころ老朽化が進んでいる。どこから雨漏りするとも知れない。
こつこつ、と石畳に自分の靴音が響く。時折それを掻き消すように雷が鳴る。
ロイドはずらりと並ぶベンチを確認し、小さなステンドグラスが割れていないか点検した。
最後に、ホールの正面に鎮座する巨大な偶像に手燭を掲げる。手燭のオレンジの灯りに偶像がぼんやりと浮かび上がった。
ロイドは黙ってそれを見上げる。実のところ、ロイドはそれほど信心深い男ではない。むしろ信仰に否定的な考えさえ持っている。
それなのに何故神父などという職についているかと言えば、つまるところその道がロイドの前に示されていたからだ。
「ああ、主よ。貴方が本当に全知全能であるならば、温かいスープと上着を賜りたい」
偶像の下で、敬虔な町民が聞いたら卒倒しそうな不敬な台詞を吐くと、ロイドは肌寒さに腕をさする。
こんな夜はさっさと眠るに限る。一通り見回りを終えると、教会の奥の自室へと踵を返した。
その時、ホールに扉が軋む音が響く。乱暴に開け放たれた扉が大きな音をたてた。
雷鳴と雨音と共に飛び込んできた小さな人影にロイドは溜め息をつく。だから、こういう日は早く眠った方が良いと言うのだ。
「どうしましたか」
努めて穏やかに声をかける。人影はびくりと肩を跳ね上げ、ロイドへ、次いで周囲へと視線を走らせた。
女だ。それもまだ若い、少女の面影を残した女。濡れた黒髪が白い頬に張り付いている。
「ここ、教会なんでしょ」
女はロイドを睨み付けた。ロイドは顔面に笑顔を貼りつけて「ええ」と返す。
「なら、何も聞かずに私を泊めて」
ぽたぽたと薄手のワンピースの裾から滴る雨水には血が混じっている。細く白い手首には枷が填められていた。
――今日を安息日とした奴を呪ってやろうか
急に転がり込んできた面倒事にロイドは内心毒づいた。それでも表面上はにこりと笑ってみせる。
「神の御名のもとに、貴女へ温かいベッドと一切れのパンを」
******
ぱちぱちと火のはぜる暖炉の前に座った女は、先ほどよりも幾分顔色が良い。
幸いにも怪我はいずれも軽傷であった。止血を施し、簡単に包帯を巻くだけの処置だが大事には至らないだろう。
ロイドは女の向かいにしゃがみ込むと、その手首に填められた枷に手をかける。女は怯えたような目でロイドを見上げた。
「大丈夫、痛いことはしないよ」
見たところ枷は簡単な造りをしていて、容易に外すことが出来そうだった。無論、枷で封じられた人間自らが外すことは出来ないが。
ということはつまり、この女は罪人ではないということだ。
ロイドはびしょびしょに濡れたワンピースに手をかけた。ボタンを一つ一つ外すたびに、白い体が露わになる。
女は緑色の瞳を不安気に揺らめかせて、ロイドを見つめる。
――人身売買か
街道を通り、エインズワースへ流れる珍しい商品。それには人間も含まれた。別に違法ではない。貧しい農民にとっての命綱でもあるのだ。
衣服を奪われ尚抵抗しようとしない様子と、貧相な体格。どのような環境に身を置いていたかなど、推して知るべしである。ロイドは目を細めた。
憐れんだわけではない。ただなんとなく、苛立ったのだ。
華奢な肩に毛布をかけてやり、枷を外した手に湯気をあげるティーカップを持たせる。
少し距離を置いて女の前に座りロイドは尋ねた。
「君、名前は」
女は唇を噛み、下を向いたまま顔を上げない。
「聞いてどうするの」
疑念にまみれた瞳で女はロイドを睨んだ。それにロイドは肩をすくめる。
「君を名前で呼ぶんだよ。決まってるだろう」
女は面食らったように目を丸くして、やがてぽつりと呟いた。
「クロエ」
この辺りでは聞かない名である。おそらくここより少しばかり東の方の出身なのだろう。
そうか、と頷きロイドは続ける。
「クロエ、どうしてこんな格好でここに来たの?」
名前を呼ぶと、クロエの瞳が一瞬だけ緩んだのが見てとれた。しかし、次の問いにその表情は再び強張る。
ロイドはその様子に溜め息をつきそうになるのを堪えて、優しく語りかけた。
「言わなければ何も分からないよ。言ってごらん。神は全てを許される」
かみ、とクロエは口の中で呟くようにしてロイドを見上げる。そわそわと毛布の上に指を滑らせた。
本当のところ、辛ければ辛いほど、隠さなくてはいけなくてはいけないほど、人間というものは喋りたくなる生き物である。そうでなければロイドのような職業が成り立つ筈もない。
「そう。だから、言ってごらん」
クロエの生乾きの髪の毛を指先で梳いて、ロイドは空いた手で暖炉の上の小さめの偶像を示した。
たっぷりの沈黙の後、一際大きい薪のはぜる音がしたのを合図とするようにクロエは口を開いた。
「私、売られて、それで、荷馬車に積まれて」
ロイドは黙ってクロエの髪を梳き続ける。時折白く滑らかな頬に触れた。
「でも、雨が降ってきて、荷馬車、みんな、谷底に」
「……落ちたのかい?」
クロエはこくりと頷く。
「君はどうして助かったの?」
「入り口の近くに座っていたから、馬が暴れだした時に投げ出されて」
ロイドは考え込む。ならば、その荷馬車の御者や他の“商品”を助けてやらねばならない。
雨が降りしきる窓の外を見やるロイドの胸にクロエはすがりついた。
「やだ……あそこには帰りたくないよ……」
潤む緑の瞳を視界から外して、ロイドはクロエの体を支える。
この天気だ。雨が止むまで救助は出来まい。となれば、早くとも明日の朝になる。この寒さの中では誰も助からない。
――ならば、誰に言おうが言うまいが同じことだ
「誰にも言わないよ」
教会には今ロイド一人しかいない。町民と交流あるとはいえ、神父という尊敬を集める身分故の隔絶。
――私だって寂しいんだ
人道に悖る?道徳に欠ける?余計なお世話である。神にも埋められない寂しさを自分で埋めるだけだ。
ロイドは全てを神に捧げられるほど殊勝な神職者ではない。だからといって、皆に崇められていると勘違いして驕ることが出来るほど馬鹿でもない。
「君は疲れてるんだ。続きは明日聞くよ」
そっち用の奴隷なのか、やたらと整った顔をクロエはこちらに向けた。その瞳に浮かぶのはロイドへの信頼。背後の神ではなく、ロイド自身へ向けられた感情。
そんな視線はいつぶりだろうか、と記憶を探り、容易に探し出せない自分に嫌気がさしてすぐにやめてしまった。
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