PINKちゃんねる-エロパロ&文章創作板「依存スレッド」まとめページです since2009/05/10

作者:4-263氏


 山本京介は春の麗らかな日差しの下を、何をするでもなく歩いていた。時折、街の喧騒と子供らのはしゃぐ声に足を止めては目を細める。
 京介は物書きである。売れない物書きだ。心のうちでは、八犬伝のような皆に読まれる読み本を書きたいのだが、取り立てて才能があるわけでもなし。子供だましの戯作や御伽噺を書いては、お情けの稿料を貰い糊口を凌いでいる。
 そもそも、京介の家はそこらではちょっと名の知られた呉服商であった。あった、というのは、京介の商才の乏しさに由来する。
 算盤が不得手であるとか、騙されやすいとか、そういうわけではない。ただ、徹底的に向かなかったのだ。
 そうであるから、店を受け継いだ京介はとっとと店を畳んでしまった。誰かに切り盛りを任せて、悠々自適な若隠居をしてもよかったが、そういう気にはなれなかった。妻に次いで父と母まで失い、気が萎えていたのやもしれない。

 幸か不幸か京介に子はおらず、遺すべきものは何もなかった。店に残った品を全て売り払えば、細々とならば食うに困ることのない金子が手元に残った。
 店はそのまま残していたが、自分の使う部屋しか手入れをしないため大部分はここ十年足らずの間に半ば荒屋と化している。それでも引越を考えないのは、妻がいた店で妻の記憶と共に朽ち果てるのも悪くないと思ったからだ。

 京介は妻を愛していた。気乗りせぬ見合いで成った仲であったが、くるくるとよく働き笑顔を絶やさぬ妻を何より愛しいと感じていた。
 二歳年下の妻は嫁いだ頃は十七で、それから五年で世を去った。つまらぬ病におかされて、あっという間に死んでしまった。
 腑抜けた京介を追い立てるように父と母も亡くなった。妻と同じ流感であった。
 自分も同じ病で死ねぬものかと思ったが、その思いを嘲笑うかのように疫病神は京介のもとを素通りした。自分で命を絶つような度胸も彼には無かった。

 そうして京介は今日もねたの収集と称して町をふらついていた。張り合いも何もない毎日だ。死んでいるようで、生きている。生きているようで、死んでいた。

 ふいに聞こえた粗野な声に京介は顔を上げる。火事と喧嘩はなんとやら。京介は文の糧にでもなるかとそちらへ足を向けた。

 人だかりの向こうで、荒々しい男の声が聞こえる。野次馬の話を立ち聞けば、どうやら掏摸が捕まり、殴られているらしかった。
 一際強く殴打する音と共に人垣が割れる。京介の足下に土にまみれた褪せた緋の塊が転がり込んだ。

「――!!」

 一瞬、目が合った。穴のような黒い瞳が京介の表面を撫でる。
 泥と鼻血に汚れ、殴られた頬は腫れていたが、その顔は亡き妻によく似ていた。

「この盗人、同心につきだしてやる!」
 すっかり頭に血が昇った男が、その女――少女と呼んだ方が良いかもしれぬ――の胸倉を掴んで引きずる。白く華奢な鎖骨が露わになる様子を見て、京介は思わず男に縋った。

「なんだ、山本の旦那じゃねえか。邪魔しねえでくれ!」
「いや待ってください。それだけは勘弁してやって頂きたい」

 手を合わせ頼み込む京介に男はきまり悪そうに地面を睨んだ。頭が冷えてみれば、いくら掏摸とは言え女人相手にやりすぎたと思ったのだろう。

「どうか、私に免じてよろしくお願いします」
「……次はねえぞ」

 男は、ふんと鼻を鳴らして踵を返す。京介はその少女のもとに走り寄った。

(ああ、似ている)
 白い顔を汚す血を親指の腹で拭う。このままこの場で口付けてしまおうか。
 邪な思いを見透かしたかのように京介の手が振り払われた。

「さわるな」

 生まれたての馬のような覚束ない足取りで京介のもとを去ろうとする体を押し込める。
 黒い目がぎろりと京介を睨んだ。

「私を助けても何もない」
 返す言葉を探しあぐねた京介に少女は続ける。
「体ぐらいなら、好きにさせてあげてもいい」

 その言葉に頭がカッと熱くなり、それから急激に冷えた。

「女の子がそんなことを言うものじゃない」
 言って、痩せた体を支える。
「私の家においで。怪我の手当てをしなければ」

 手を引くと、少女は案外大人しく京介についてきた。

 京介の家に使用人はいない。呉服屋を営んでいた頃には大勢いたが、京介が暇を出してしまった。家には京介一人である。
 京介は、白い肌を前にごくりと喉を鳴らす。それを面には出さぬように、少女の背を固く絞った手拭いで拭いた。白い背に浮く青痣が生々しい。痣の上を拭うたびに、肩がひくりと震えた。

「ごめんね、痛かった?」

 京介の問い掛けに少女は少し俯くだけだった。
 土埃にまみれた黒い髪をゆすいで梳いてやり、腫れた頬に湿布を貼る。汚れ破れた緋色の着物の代わりに、妻の浴衣をゆるく羽織らせた。
 その姿がますます妻に似ていて、京介は気がおかしくなりそうだった。

「こんなものしかないのだけれど」

 見よう見まねで作った粥を匙で少女の口元に運ぶ。少女はわずかにたじろぎ、匙と京介を数回見比べると可愛らしい唇を薄く開けた。
 そこに冷ました粥を注意深く流し込む。唇の端を濡らす粥を舐めとりそうになるのを必死で抑えて京介は問うた。

「君、名前は?」

 少女は顔をしかめて、ない。とぶっきらぼうに答えた。無い?と聞き返す京介に少女は頷く。
 事実、少女に名はなかった。あったのかもしれないが、名を呼ぶものはいない。

「名前、無いのか。不便だね」
 京介は自分の布団に横たわる少女の顔を見つめた。少女の黒い瞳が京介を見返す。
「小萩、と呼んでいいかな?君の名前だよ」

 妻の名だ。
 少女は驚いたように目を丸くした。私の名前、と口の中で呟く。

「そう、小萩」

 こはぎ、と数回噛みしめるようにして呟くと少女は子供っぽく笑った。嬉しそうな笑顔を見て、京介はひどい罪悪感に押し潰されそうになった。



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