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寄生獣

 読みました。ようやく読みました。
 テーマは、司法修習顛末記や弁護士日記と一緒です。人間は何のために生きているのか、ということです。作中では色々な考え方の人が出てくるので何か一つの考え方を押しつけるのが作者の意図ではないと思いますが、私の考えは今も昔も一つです。人間は何のために生きているわけでもありません。強いて言うなら、死ぬのが怖いから生きているんです。
 そもそも生物というものが生まれたのは偶然の産物だし、それが進化を重ねてヒトいう種が生まれたのも偶然のできごとであるわけです。ヒトの一個体一個体も、その個体の意思で生まれたわけではなく、他者(両親)の意思によって勝手に産み落とされたものに過ぎません(原初受動性)。ヒトは進化の結果高尚な脳を手に入れたため、生物とは何かという問いを考えることができるようになったわけですが、ヒト(とあと寄生獣)以外の生き物はそんなことを考えていません。遺伝子の器に過ぎないわけです。本体である遺伝子に突き動かされて、遺伝子を増殖させるために動いているに過ぎません。その目的を聞かれても「ない」としか答えようがありません。生物自体が、そういう仕組みの存在なのです。
 なんのために生きているわけでもない以上、全ての生物は、生きていても死んでいてもどっちでもいいわけです。だから、人間にも、寄生獣にも、生きる権利というものはありません。これはそういうルールが作られてから初めて認められるものです。言い方を変えると、われわれ人間に生きる権利(=自らの同意なしに命を奪われない権利)が認められているのは、そういう法律があるからに過ぎず、そういう権利が(アプリオリに)存在するからそういう法律を作ったのだ、というのは順序が逆なのです。
 じゃあなぜそういう法律を作ったのかといえば、多くの人をできるだけ生かしておいた方が、社会が発展するからです。そういう法律がない北斗の拳みたいな世界では、北斗の拳の雑魚キャラみたいな、自分で自分の命を守れるやつしか生きていけません。スティーブ・ジョブスみたいな天才がいても、自活力のないひ弱な存在であれば、あっという間にモヒカンに殺されてしまうのです。それではいつまでたってもバカが「ヒャッハー」と言っているだけであって、人間社会が停滞してしまいます。全ての人に平等に生きる権利を認めた「ルール」(以下、このルールを、「生存権ルール」と呼称します)という存在は、人間が社会を発展させるために編み出した人間独自の知恵なのです。その証拠に、人間以外の動物では、同種個体による殺し合いが普通に行われています。
 こういうことを言うと色々と反論が出てきます。反論には感情的なものも理知的なものも色々とありますが、代表的なものに再反論を加えておきましょう。

反論1. 
 法律があるから初めて人間の命が守られるのだとすると、そういう法律がない社会というのも普通に存在するはずだが、現代においてはほぼすべての社会において人間の生きる権利が認められている。これは、人間の生きる権利というのが、(法律に先立つ)普遍的なものとして全ての人間に観念されているからではないか。

 これも、考え方を逆転させてみましょう。現代社会においてほぼすべての社会で人間の生きる権利が認められているのは、生存権ルールを作った社会(だけ)がそうでない社会との競争に勝って生き残ったから、であります。先述のとおり、生存権ルールがあるのは、社会を発展させるためです。生存権ルールがある社会は、ひ弱なスティーブ・ジョブスでも生き残って、どんどんと発展していきます。一方モヒカンの社会はいつまでたっても殺し合いと奪い合いを繰り返すばかりです。やがて前者は、人口でも富でも後者に勝り、これを併呑・淘汰するわけです。
 人間にも長い歴史があります。歴史を学べば、人の命が軽々しく扱われていた時代があったのも容易に分かることであります。そういう社会は、歴史の進展に従って徐々に淘汰されていったのです。
 こういう社会進化論的な説明は、社会進化論的というだけで無用な反発を受けてしまうのですが、その反発はあまり理性的な態度ではありません。
 付言するならば、社会進化論的な見方を徹底させると、生存権ルールも、人が知恵を出して生み出したものではなく、ある時ある社会に偶然生まれたものに過ぎないかもしれない、という考え方にも行き着きます。生まれは偶然でも、生存権ルールがある社会は、発展して生き残ることができるからです。

反論2.
 我々は人を殺すことに普通どうしようもない抵抗感を抱く。これは、ヒトという生物種に生得的・本能的に他の個体の命を尊重すべしという観念が備わっているからではないか。
 
 まず、この「どうしようもない抵抗感」は、後天的に植えつけることも可能なものであります。例えば、普通の人は公衆の面前で糞尿を垂れることにどうしようもない抵抗感を抱くでしょうが、これは幼少期に親をはじめとする周囲の大人から「糞尿はトイレという決められた場所で隠れてするものである」と繰り返し教えられて、「公衆の面前で糞尿を垂れるのはいけないことである」という価値観に洗脳されたからです。本来糞尿は(場所や状況に制約されずに)どこでも自由に垂れ流しできた方が個体の生存にとっては有利でしょうから、「公衆の面前で糞尿を垂れるのはいけないことである」という価値観が生得的・本能的に備わっていたとは思えません。現に革命前のパリでは道々に糞尿が投げ捨てられていた(そして市民がそれを普通だと思っていた)わけですから。「糞尿はトイレで」というルールも、生存権ルールとおんなじで、糞尿処理にかかるコストを押し下げるために人間が人工的に編み出した知恵なのです。
 だから、人を殺すことに抱くどうしようもない抵抗感も、生存権ルールが浸透した社会で、大人たちが子供に「人を殺してはならない」と徹底的に教え込んだ結果、刷り込まれたものであると説明ができるわけです。
 ただまあ、先述のとおり、現在は生存権ルールがある社会が長い歴史の淘汰の中で生き残ってきたものであるので、個人個人も、生得的にヒトを殺すことに抵抗を感じる人の方が生き残りやすいわけです。換言すればヒトを殺すことに何らの抵抗を感じない人は、刑罰等で淘汰されることになるわけで、その結果人を殺すことにどうしようもない抵抗感を抱く人が多数派になった可能性もあります。

反論3.
 この議論を認めるとヒトがヒトを殺すことが自由になってしまう。

 そんなことはありません。ルールが禁止していますし、ルールが教え込まれた個人個人の価値観もこれを禁止しています。
 この反論は、生存権ルールが徹底的に教え込まれた人にとってみれば、「本来人を殺すことなどルールさえなければ自由なのだ」という言説を見聞することすら一種の不快感を覚えるものであること(この現象を価値観の内面化といいます)から生まれる、感傷的なものです。そういう言説に不快感を覚えるから、反論3.のように無意識に反発や抵抗を覚えてしまうわけです。

 ここまでを前提とすると、全ての生物に生きる権利などと言うものはありませんが、人間は、今のところ人間でさえあればルールによって生きる権利を認めています。その他の動物は、扱いが様々です。家畜やペットのような有用な動物は一定の範囲で生かすルールを作っています。絶滅が危惧される動物も、(ヒトにとっての有用性が不明でも)保護するようなルールを作っています。ただまあ、これは人間が作ったルールに過ぎないので、力ずくで従わないのも一つの方針であります。ただ多くの動物は人間ほどの力も知性も持ち合わせていないため、そういうことは一切考えずに無思慮に生きたり死んだりしています。
 寄生獣は、人間の作ったルールを理解することができる知性を持った動物です。人間にとってこれを生かしておくかどうかは、人間が決めることです。人間にとっての有用性、危険性、知的生命体を殺すことへの抵抗感などを総合的に考慮して、どういうルールを作るかを決めることです。ただこれはあくまで人間が作ったルールであって、寄生獣に強制することはできません。寄生獣にも守ってもらえるルールを作りたかったら、寄生獣にとってもメリットがある内容にして、きちんとそのルールに従うことについて合意をとりつける必要があるでしょう。
 まあ、それだけのことです。

追伸
 散々言われていることでしょうが、バイオ4のプラーガはやっぱり寄生獣にそっくりです。リヘナラドール&アイアンメイデンも、ラスボスの後藤にそっくりです。

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