当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

 2016年7月1日放映の「アメトーーク&金曜 ロンドンハーツ姉妹番組3時間スペシャル!!」を見た。

 この両番組は、今年の4月8日にも合体スペシャルをやっていたが、合体していることに「まとめて告知できる」以上の意味はなく、両番組間に関連性や一貫したストーリーみたいなものは一切ない。順番に二つの番組をやっているだけである。
 なので、基本的にはアメトーーク部分とロンドンハーツ部分の感想を独立に書くことができる。

 本稿では、このうちロンドンハーツ部分の感想を記す。

 で、一言で言うと、「ロンハーもここまでダメになったか」という感想に尽きる。

 ダメなところを一つずつ記していくとかなり膨大になってしまうが、できるだけコンパクトにまとめようと思う。
 企画は、「輝く! 日本ドッキリスター大賞」というタイトルである。レコード大賞の番組名をもじってはいるが、特にレコード大賞のパロディになっているわけではない。名前を似せただけなので、単なるダジャレと一緒である。
 中身も、番組が用意したドッキリを順番に見せていくというものに過ぎず、個々のドッキリの演出上のつながりは極めて希薄である。単に個々のドッキリをひたすら積み上げていくだけの「足し算の番組」になっている。

 同じようなドッキリを複数の出演者にかけているという意味でのつながりはあるが、それは笑いにつながるものではない。一応、各部門で優勝者やグランプリを決めて表彰するということはされていたが、この表彰自体もターゲットを「おもしろかった」と「褒める」シーンにしかならず、笑いは一切生まれていなかった。つまり、お笑い番組の演出としてこの表彰という仕組みを設けている意味がないのである。すなわち、個々のドッキリをつなげる「表彰」という仕組みを設けて、「足し算感」を糊塗するための煙幕でしかないのである。

 ドッキリ自体も、ギミックに金はかかっていたが、穴に落ちるとか、水に落ちるとか、粉まみれになるとか、泥まみれになるとかいった30年前からある「オチ」が大部分を占めており、全く目新しさがない。1回目から飽きる。それも同じ仕掛けを複数の出演者にかけるのだから、見ているうちに乾いた笑いすら出なくなる。
 ドッキリにかけられた演者はさすがで、例えば水をかけられるドッキリでは避ければいいのにその場に止まって水を浴び続けていた。これは、ドッキリにかけられた演者の動きとして理想的なのだが、筆者には嘘くささが鼻についた。こういう演者の好意に乗っからなければいけないギミックがそもそもダメなのである。
 ワイプで見ているザキヤマ・竹山・ジュニア・大吉みたいな実力派も、一応このドッキリをおもしろがってはいるのだが、それは演者のプロとしての仕事だからである(演者が笑っている方が、視聴者もつられて笑いやすくなるのである。逆に演者がつまらなそうに見ていたら、見ている方は笑えるものも笑えなくなってしまうだろう)。彼らみたいな実力派芸人が、こんな古臭いドッキリをおもしろく感じるはずはないだろう。彼らに嘘くさいリアクションをさせている番組に腹が立つとともに、空しくなってくる。
 笑いは、ズレから生まれる。ズレは、何度も繰り返すとそれが普通になって、ズレでも何でもなくなってしまう。だから笑いでは新しいことを考え続けて、常に客の意表を突いていくことが肝要なのである。古臭いギミックを使い続けるのはこの笑いの本質に悖る所為である。思考停止以外の何物でもない。

 あと、あまり細かいことは言いたくないが、細部の演出も全体的に褒められたものではない。笑うべき場面で女性の笑い声が入り、驚くべき場面では女性の「え〜」「お〜」といった声が入る。アメトーークと違ってスタジオにも客が入っている様子はなかった(スタジオの客が映るシーンはなかった)ので、これは後から足したものだろう。アメトーークではスタジオに客が入っており、この客の笑い声が入るので、この人たちが笑ったシーン(=つまりの客の多数派がおもしろいと思うシーン)でしか笑い声が入らない。でも今回のロンドンハーツでは、笑い声は恐らく後から入れたものなので、番組側が笑って欲しいシーン(=すなわち、実はおもしろくないかもしれないシーン)にしか入っていないということである。大しておもしろくないシーンに偽者の笑い声が入り、古臭いギミックに「お〜」と偽者の驚嘆が入る度に、貼りついたような嘘くささにイライラする。
 ナレーションや字幕も、これらの偽者の客の声と同じようなタイミングで同じようなものが入る。視聴者に結果に固唾を飲んでほしいシーンで「どうなる!?」みたいな字幕とナレーションが入り、狩野がドッキリにかけられた「笑うべき」シーンで「さすがドッキリスター狩野」みたいな字幕とナレーションが入る。全体的に、客に対して「ここでこういう風な感想を持て」というレールを敷きすぎなのである。こういったような古いテレビのうるささがテレビ離れを生んだのではなかったか。この演出の背後にあるのは、「おもしろいものを作れるのは俺たちだけなんだから、俺たちがおもしろいと思うものに笑っておけばいいんだ」というテレビ屋の傲慢さである。テレビ以外の媒体にテレビよりおもしろいものがいくらでもでてきいるのに、そのことに気付いてすらいなさそうな無神経さに更に腹が立ってくる。

 この手の作られた笑いでは、見る方は「事前に内容を考えているからにはおもしろいのだろう」と考えてハードルを上げてしまう。そのため、その高いハードルを正面から超えるためにはよほど内容を練らないといけない。インターネットに転がっている天然ボケがおもしろいのは、見る方のハードルが上がっていないところで意表を突かれるからである。今やSNSの発達で、こういう天然ボケも数が集まるようになってきた。この強敵にバラエティの人工ボケで対抗するには、古臭い演出で笑うことを強制しているようでは覚束ない。

 ゲスくて尖った企画をやっていた2000年代前半のロンドンハーツはどこにいってしまったのだろうか。何が原因でこの体たらくなのかは筆者には分からないが、このままでは番組が終わっても仕方がない。

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