……眠れない。
もう羊を何百匹数えただろうか。
一匹ずつ増えていく羊をイメージしていくのはそれなりに楽しかったが、二百を超えたあたりから飽きてきた。
そして、その数が千に届こうと、眠気は一向に訪れてはくれなかった。
今日に限ったことではない。
最近、床につくと不意に襲ってくる、心を覆い締め付けるもの。
重い。息苦しい。
だがそれでいて、どこか歪んだ心地よさがある。
夜闇の中で自分を満たすソレは、渚砂の知っている言葉では上手く表現することはできなかった。
こんな良く分からない感情に囚われたのはいつ頃からだろうか。
深く考えるまでもなく、その答えははっきりと浮かび上がる。
そう、これはあの日―――エトワール選を終えた夜から、ずっと渚砂の心の中に去来し続けていた。
多くの人達の前で静馬の告白を受け、会場から抜け出すという映画さながらの大事件を起こした渚砂であったが、その後待っていたのは、驚くほど以前と変わらない日々だった。
勿論渚砂や静馬の様々な噂話は絶えなかったし、一部では「静馬×渚砂ごっこ」なるものが流行っていたりしているらしいが、渚砂自身の生活を変化させるほどのものではなかった。
静馬との関係も会う回数は増えているが、いわゆる……肉体関係を持つようなところまでは至ってはいない。
それでも渚砂は満たされていた。
もしかしたら、一生分の幸せがこのときに詰まっているのかもしれない。
そう思えるほどに。
だが、そんなこととは別に気になることがあった。
玉青のことである。
「いってらっしゃい」と背中を押してくれた玉青。
多分あの時玉青に背中を押されなかったら、渚砂は走り出す事はできなかった。
そのことには勿論感謝している。
だが……あの時玉青はどんな心境だったのだろう。
エトワール候補として選ばれたときの会長の話によれば、玉青は渚砂に対し、友情以上の感情を抱いてくれている、らしい。
エトワール選本番までは、ただひたすら静馬への感情を振り切る事だけに必至だったから、深く考える事はなかったが……
全て終わった今となっては、その事実が重い。
もし玉青に面と向かって好きと言われたら、どうしていただろうか。
渚砂には自分がどう答えるのか上手く想像できなかった。
……あれ?
そこで、ふと疑問に思った。
渚砂は静馬だけを想い続けてきた。
だから答えは最初から決まっているはず。
おかしい。
おかしかったから、もっと想像力を働かせてみることにした。
夕暮れの校舎。その屋上で向かい合う渚砂と玉青。
玉青は普段と違って俯きがちでどこかそわそわしている。
渚砂はそんな玉青の様子を不思議に思う。
「わざわざ屋上でお話って何かな?」
「えと、ですね。その……」
なんだか歯切れの悪い玉青を、まるで千代のようだと思ってしまう渚砂。
だが、その印象は玉青が顔を上げた瞬間一変する。
きつく結んだ口。色づいた頬。そして、決意に潤んだ瞳。
その全てに魅せられてしまう。
「私は、渚砂ちゃんのことが―――」
「うひゃぁ!?」
ベッドの中で、渚砂は思わず自分でもよく分からない声を上げていた。
顔が熱い。胸のドキドキが治まらない。
真冬の深夜だというのに。
しまった。超しまった。リアルに想像し過ぎた。
だいたいなんだ、夕暮れの屋上というベタなシチュエーションは。
いやそんなことよりもう玉青ちゃんの可愛さは異常というか、ってああ何を言っているんだ私は。
………。
とにかく落ち着こう。うん。
とりあえず、一つ確認。
玉青ちゃんはとても魅力的な女の子で、渚砂自身意識していなかっただけでかなり惹かれている部分があった、ということ。
静馬は強引に引き寄せ、前に立って導いてくれる。
一方、玉青はより添い支え、並んで歩いてくれる。
静馬を動とするなら、玉青には静。
どちらも方向性は違えど、女性としてパートナーとしての魅力を持った素敵な人だ。
そんな二人に、渚砂は惹かれていた。
もし、静馬より先に玉青と出会っていたら。
もし、もっと多くの時間を玉青と過ごしていたなら。
もし、玉青から愛を告げられる事があったのなら。
それでも渚砂は静馬を選んだだろうか。
……わからない。
わからないが、きっと渚砂のエトワール選は違った形になっていたはずだ。
「玉青ちゃん……」
思わず呟いてしまい、慌てて自分の口を塞いだ。
そういえば、ついさっきも変な声を上げたばかりだ。もしかしたら起こしてしまっているかもしれない。
そう思って声をかけてみる。
「ねぇ、玉青ちゃん……起きてる?」
少し待ってみる。
静寂の中、返ってくるのは玉青の規則正しい寝息だけだった。
ふぅ、と安堵のため息をつく渚砂。
安心し、落ち着きを取り戻した渚砂は―――そういえば玉青ちゃんの寝顔って、あんまりマジマジと見たことないなぁ―――という、どうでもいいことを思った。
本当に、かなりどうでもいいこと。
しかし一度気になり始めると、玉青ちゃんの寝顔を見たいという衝動は次第に大きくなっていき、気が付けば渚砂はベッドを出ていた。
そっと音を立てないように、玉青のベッドの方へ忍び足で近づく渚砂。
なんだかイケナイことをしているような妙なドキドキ感がある。
そして、ベッドで寝ている玉青の顔を覗き込む。
目は闇に慣れていたものの、見通しがつくほどよく見えるわけではない。
だから、自然に渚砂の顔は玉青に近くなった。
渚砂の鼻先十数センチの距離で、安らかな寝顔を見せる玉青。
その表情は本当に穏やかで、悩みなど一つもないかのように見える。
だが、それは見た目だけ。
実際には沢山の悩みを抱えているのだろう。
そして、その原因はきっと渚砂にある。
渚砂の言葉に、どれだけ傷ついてきたのだろう。
渚砂の行動に、どれだけ辛い思いをしてきたのだろう。
それでも、玉青は渚砂の隣にいて、笑い続けてくれた。
涙を流したい時もあったろうに。
いや、もしかしたら渚砂の知らないところで泣いていたのかもしれない。
それでも、玉青は玉青であり続けた。
そんな、玉青のことが……
ああ、どうしよう。なんだか、どうしようもなく―――
―――――愛おしくてしょうがないよ……。
自然に玉青の頬に触れようと手が出る。
柔らかな頬を撫でようとするその瞬間、渚砂の手はピタリと止まる。
触れたら玉青を起こしてしまうのではないか、と思ったからである。
今まで傷つけておいて、眠りまで妨げては……と、そういう発想が出てきたのだ。
渚砂は自分の手と玉青の顔を交互に見つめ、やがて名残惜しそうに手を引っ込めた。
だが、玉青に触れたい、という欲求は中々収まってくれそうにない。
一度だけ、ほんの少しなら……そんな思いがグルグルと渚砂の中で回っていた。
……では仮に、あくまで仮に、だが、一度だけ触れることが許されるのなら……渚砂は何処を触れるだろうか。
そんなことを思い、悩んでいるフリをしている自分に気付き、渚砂は滑稽な気分になった。
だって渚砂の視線は、さっきから玉青の唇に釘付けになっているから。
自覚してしまうと、もうその欲求に歯止めが利かなかった。
「ごめん、玉青ちゃん……」
そう呟いて、渚砂は玉青の唇に自分の唇を重ねた。
唇を通し、玉青の体温が伝わってくる。
その温かさが玉青の身の内に秘めた愛の温かさのようで、渚砂は思わず身を震わせる。
蕩けそうになるほどの甘く柔らかな感触。
いつまでもこうしていたかったが、そういうわけにもいかない。
ゆっくりと惜しみながら、唇を離す。
渚砂は思う。
この行為は裏切りだろうか。
静馬は勿論のこと、あの日自分を抑えて背中を押してくれた玉青に対しても……そう、きっと重大な裏切り。
でも、それでも。
渚砂は自覚してしまった。
自分の中の玉青への想いを。
友情という範疇に収まらない、でも静馬に対する想いともどこか違う感情。
それを、自覚してしまった。
渚砂は立ち上がり、ベッドに戻るべく玉青に背を向ける。
すると、後ろの方で衣擦れの音が聞こえた。
「お帰りなさい、渚砂ちゃん」
背中から突然かけられた声に驚きながらも、渚砂はごく自然に答えた。
あの時答えることの出来なかった言葉を。
「―――――ただいま、玉青ちゃん」
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