帝国の竜神様29

1942年6月18日 ゴーリキー ソ連軍総司令部

 スターリン粛清後、ソ連はモロトフやゲオルギー・マレンコフ等を中心として「戦争指導委員会」なるものを立ち上げ、書記長不在で集団指導体制をとっている。
 それは、裏返せばスターリン以上の傑出した存在がいなかった事の裏返しともいえよう。
 モスクワ陥落後に力尽きたレニングラードは別として、モスクワ防衛の予備兵力と極東からの増援が集結しつつあり反攻は可能だった。
 だが、頭のいない集団指導体制の欠点がここに出て露呈する。
 意思決定があまりにも遅いのだ。
(戦力回復の時間が取れたと考えるべきか)
 ジューコフは達観した顔でコーリキーに集められたソ連軍を眺めた。
 スターリングラードから戻った兵力に極東からの増援を含めて200万のソ連軍がこの街を中心に集結している。
 しかも800両を超えるT34を持ち、野砲も十分にある。
 これがあればモスクワは落ちなかっただろう。スターリングラードはどうなったか分からないけど。
 それでも、ロンメルがバクーに向かった背後をつけば良かったと今でもジューコフは思っていた。
 ソ連軍モスクワ開放作戦『バグラチオン』は、東と南からモスクワを包囲する形で進められる。
 幸いにもというか、皮肉にもモスクワの落し方はドイツによって教えられている。
 南から迂回して西からモスクワを分断して包囲殲滅する。
 皮肉な言い方をすれぱ、スターリングラード戦で当初しようとしたドイツ軍を都市で拘束してその裏手に回りこむという作戦をモスクワでもしようという訳だ。
 問題は、我々もモスクワを取り戻さないと政治的外交的にまずいという事なのだが。
「同志ジューコフ。問題が起きた」
 そう言って、入ってきたのは同志フルシチョフ。
「同志フルシチョフ。
 君が来る時はいつも問題があるのだな」
 皮肉を言ってみたが、この男に皮肉は通用しないらしい。
 ベリヤ死後のNKVD長官職を得た彼に皮肉を言うのも政治的にまずいような気がするが、現在のソ連で全体的な作戦指導ができるのがジューコフしか残っていなかったのだから、少しは強気でも許されるだろう。
 なお、ゴーリキー到着後にジューコフが元帥昇進しているのも、戦争指導委員会がジューコフを取り込もうという表れであるのは間違いない。
「問題が無い時に互いに顔を見る為に会うというのは、勤労時間の怠慢かつ反革命サボタージュとして……」
 能面のように言い立てるが口が笑っているので多分冗談なのだろう。きっと。
「同志。問題があるのではなかったのか?」
「おお、そうだった。同志。
 問題はモスクワなんだ」
 無数に出てきたスターリン死後のソ連において一つだけいい事があったといえば、冗談を言っても粛清されなくなった事だろう。
「モスクワがどうしたのだ?
 同志フルシチョフ。
 順調に行けば7月にも戦争指導委員会の許可をへて『バグラチオン』が発動され、モスクワがナチの手から解放される予定だが?」
 ジューコフは『バクラチオン』については極めて楽観視していた。
 何よりもモスクワ防衛の為に独軍の機動力が都市に拘束され、その独軍自体がモスクワ攻略時の再編が終わっていない。
「できれば、作戦を早める事はできないか?
 シベリヤや中央アジアを中心に動揺が広がっている」
「分からないではないが、この作戦が失敗すると、同志が言った地域はおろか祖国そのものが動揺するぞ」
 軽口を言っていた時と違ってNKVD長官職に相応しい笑みでジューコフを睨みつけた。
「同志ジューコフ。ならばこう言い直そうか?
 『戦争指導委員会』内部に動揺が広がっていると」
 ジューコフの顔も変わった。
「具体的に言ってくれるのだろうな?」
「ナチの工作だ。
 『モスクワ返還条件に停戦。
 ベラルーシとウクライナのドイツ併合』」 
 即答で答えるフルシチョフにジューコフが唸る。
 普段なら認められるはすが無い。
 だが、今のソ連はその普段では無かった。
 スターリンが死に、ソ連側から見てだが英米に裏切られ、首都を失って反ナチを旗印にかろうじてまとまっているに過ぎない。
 既に市民を含めた損害は1000万に達しようとしているこの戦争に誰もが疲れているのだった。
「その条件で講和を飲もうと考えている輩がいても不思議ではない。
 むしろ、ここで停戦して体制を建て直し、英がしたように今度は独を英とかみ合わせるべきだとの声もある」  
「で、その声の出所は?」
「私だ」
 流石にジューコフの目が点になるのを避けられなかった。
「何かの冗談か?同志フルシチョフ」
「いや、けっこうまじめに言っているつもりだ。
 バクーとモスクワが戻れば祖国はいくらでも立て直せるのだ。
 幸いにも同志スターリンが工場を疎開させた成果がここにきて現れている。
 英米のトラックが少ないので、運送に手間取っているがね」
 生真面目に説明を続けるフルシチョフに冗談の色も欠片も見られなかった。
「おかしな話だ。
 なんで継戦懐疑派の同志が作戦を速める?
 まるで……」
 そこまで言って、ジューコフの言葉が固まった。
「『失敗を望んでいるようだ』とでも言いたかったのかね?
 同志ジューコフ。」
 にこやかに微笑んでみせるフルシチョフだが、背筋が寒くなるのをジューコフは自覚せざるをえなかった。
「今の体制だと意思決定が遅すぎて、決定的な時に決定的な行動がとれない。
 だから、人事を刷新して新たなる戦争指導によってナチとの決戦を図る。
 まぁ、よくある話ではあるな」
「同志フルシチョフ。
 同志は一つ忘れている。
 もし、『バクラチオン』が失敗したら私も多分シベリア行きだ」
 実にわざとらしく、フルシチョフの目が点になるのをジューコフは苦々しく見つめた。
「まぁ、冗談だ。
 幸いかな、今の戦争指導体制では銃殺はおろか、シベリヤに送る事すらできまいよ」
 白々しく笑うフルシチョフにジューコフは政治的に踏み込んだ一言をはなつ。
「では、同志が中心となる戦争指導体制下では、私は失敗すると粛清されるのかな?」
 眼光だけ鋭く、けど顔は笑顔のままでフルシチョフは言ってのけた。
「シベリアに送るのにも鉄道を使うし、粛清する弾をナチ兵に使う方が効率がいいと思わないか?
 何よりも、作戦指導において同志以上に勝る人間がいない。
 次の戦争において英雄になってもらう同志を粛清するほど、赤軍と共産党は人材が豊富ではないのだよ。
 同志ジューコフ。冗談に長々と付き合わせて悪かった。
 『バクラチオン』の成功を祈っているよ」
 乾いた笑い声をあげてフルシチョフは部屋から出て行った。
 後に、混乱を必死に制しようと頭をフルに働かせるジューコフが残る。

「何が言いたかったのだ?やつは?」
 声に出して呟く。
 フルシチョフの言葉は矛盾に満ちていた。
 『バクラチオン』を失敗させる為に侵攻を早めるのに、モスクワが我々の手に返るかのように話を進めていた。
「作戦失敗を条件に独ソが停戦?講和?
 馬鹿げている!
 ナチが約束を守るのなら、我が祖国がモスクワを失う事も無いだろうに!
 ならば……」
 腕を組んで考える。
 暫定的停戦で戦力回復は間違いなくソ連のほうが速い。
 一時的な停戦で英独をかみ合わせて漁夫の利を狙うという考えは多分本当なのだろう。
 机に置かれている地図を改めて見つめる。
 落ちたモスクワにレニングラード。
 ゴーリキーに終結しているソ連軍。モスクワ防衛の為の再編途上のドイツ軍。
 黒海の先に視点を持ってゆくと、クレタを奪還した英軍と爆撃圏に入ったルーマニアのプロエシュティ油田。中立を維持しているトルコがある。
「戦闘の話ではない……もっと上の、政治の話か……」
 ぽつりと呟く。
 おぼろげながら、何かを掴んだような気がした。
 独ソ停戦というのは、欧州大戦終結の一大エポックになる可能性がある。
 英独をかみ合わせるという可能性も、英独が手打ちをするという可能性もある訳だ。
 双方守る気の無い停戦を結んで、そのわずかの時間に何をしようというのだ?
 与えられた時間に何の意味があるんだ?
 決まっている。
 その間に不安定要素を各国とも取り除くつもりだ。
 欧州のドラゴンと、我が祖国についてはポストスターリン書記長の椅子。
「政治か……」
 軍人であるという誇りと権力にとりつかれた彼らに少しだけ同情するが、彼らの駒として失脚するつもりは毛頭なかった。
 ジューコフは自らの生き残りをかけて作戦を修正し、それが42年夏の政治状況にに微妙な影響を与える事となる。


同日 ゴーリキー ソ連NKVD本部

 フルシチョフがNKVD本部に戻ると、側近のレオニード・ブレジネフが彼を出迎えていた。
「おかえりなさい。同志フルシチョフ。
 同志ジューコフはいかがでしたか?」
 楽しそうに尋ねたがそれは結果を既に知っているかのようだった。
「まぁ、あれだけ言えば気づくだろうよ。
 気づかないほどの無能ならば、そのまま大祖国戦争の責任を取ってもらうだけの事だ」
 互いに、元帥の政治生命など笑い話でしかないのだろう。
「さて、同志。
 我々の仕事にもとろう。
 独ソ停戦後の欧州新秩序についてだ」
 ブレジネフがニヤリとしたままいくつかの書類をフルシチョフに渡した。
 彼にとっては、欧州新秩序ですら笑い話でしかないのだろう。
「我々にとっての同志スターリンの椅子と、彼らにとっては総統の椅子か。
 事実なのか?ヒトラーが病気になったというのは?」
「はい。我々の機関でも確認がとれました。
 ヒトラーはパーキンソン病を患っています。
 SSの勢力拡大と国防軍の反発が絡んで楽しい事になっているとか」
 事実だった。
 ヒトラー側近でも限られた者にしか知らされていないパーキンソン病の事をソ連は掴んでいた。
 ドイツ内部では『魔女達の復讐』によるSSの焼け太りと、ブレスト空襲とクレタ救援失敗によるゲーリングの失墜から内部権力が大きく変わろうとしていた。
 急速に勢力を拡大するヒムラーに政府や国防軍や突撃隊が反発するも、ヒトラー側近としての権力争いで一歩も二歩も劣っているのが実情だった。
 そのなかで、発覚したヒトラーのパーキンソン病は側近達の間に急速にヒトラー後の事を考えさせていた。
 モスクワは落としたがソ連は戦争継続を叫び、生命線どころかドイツの心臓部であるルーマニアのプロエシュティ油田はクレタ陥落に伴い、英軍の爆撃圏に入った。
 ドイツは戦争に勝ってはいるが、勝ったまま終わらせる事ができずにソ連のモスクワ反攻に備えているというのが実情だった。
 そんな状況でSSがNKVDに接触してきたのは、同じ秘密警察を持つがゆえに内部粛清権限を持ち、情報が集まるゆえに意思決定の遅い双方の政府に苛立っての独走でしかなかった。
「モスクワは、君たちの手に戻る。
 共に手を取り合って新しい欧州の秩序を作ろうではないか」
 ドイツ側の交渉担当者はラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将。
 『魔女達の復讐』によるドイツ占領地の女性の親衛隊志願を受け入れてSSの焼け太りを演出し、ベーメン・メーレン保護領副総督から本国武装親衛隊の師団編成に関わり、東部前線におけるSSの総司令官として辣腕を振るっている切れ者である。
 モスクワの返還を条件に停戦、ベラルーシとウクライナの独領併合を条件に講和という独側にとって実に虫のいい条件は彼の提案である。
 親衛隊主導による独ソ停戦は国防軍を主体とする内部敵対勢力の攻撃を跳ね返すだけの絶対的権限を手に入れる事ができるという内部事情も透けていたが。
「もっとも、それだけでは無いみたいですが」
 楽しそうにブレジネフが口を開く。
「親衛隊内部にも動きが。
 ハイドリヒはこれを機会に、ヒムラーを排除したい考えのようで。
 チェコでのハイドリヒ暗殺未遂に対するヒムラーの動きの鈍さにハイドリヒが見切りをつけたというのが真相みたいですが」
 欧州に現れたシチリアのドラゴンについてはオカルト好きのヒムラーの専管となったが、実際の被害でありイタリアを震源地とし深刻な爪跡を欧州に残す事となった『魔女達の復讐』はハイドリヒがその対策に当たっていた。
 シチリアで発見された吸血鬼騒動の情報があっというまに欧州各地に広がり、魔女狩りへと転化したのを戦争に集中する各国政府は抑えられなかった。
 公式には魔女狩りを止める様に政府や教会レベルでの通達が届いているのに、その行政機関の最小単位である村や町の長や神父達はもっとも保守的だった事が通達を無視して魔女狩り推進に繋がっていた。
 問題は、かつての中世と違いはるかに社会的地位も権利も義務もある女性に男性が牙を向いたという事実だった。
 女達はこの未曾有の大戦を支えているという自負があるがゆえに、なおの事男達にの怒りをつのらせた。
 この騒動で当時、ベーメン・メーレン保護領副総督だったハイドリヒの対策が以下のとおりだった。
 彼は保護領外のドイツ本国からしがらみのない武装親衛隊を呼び込んで町や村の長や神父達に圧力をかけると同時に、女性達を親衛隊に志願させ彼女等の保護を行政から親衛隊の事項に切り替えさせたのだった。
 この結果ベーメン・メーレン保護領では魔女狩りの被害で殺害まで行ったケースは無く、更に成果の上がったこの方針をドイツ本国に通達、総統の許可をへて実施した事でドイツ本国およびドイツ占領地での魔女狩りは発生からわずか一週間で沈静化に向う事となる。
 逆に、ドイツおよびドイツ占領地と、そのドイツの脅威を受けており魔女狩りどころではないイギリス、女だからで片付いたイタリア以外での『魔女達の復讐』については凄惨を極めた。
 特にひどかったのはスペインで、前の内戦のしこりに地域間対立ときて止めに魔女狩りの性差差別問題が噴出。
 フランコ将軍のたくみな行政指導をもってしても、悪名轟く異端審問団の活動を封じ込める事ができなかったのだ。
 結局、スペインは東部戦線への義勇軍増派という報酬を持ってドイツに助けを請い、編成途上の女性SS師団で異端審問団を殲滅する事になる。
 42年6月現在、欧州で魔女狩りは行われておらず、人々は戦時下の平穏な日々を送っているはすである。
 だが、表向きに押さえつけられただけであり、深い闇がいつ吹き出てくるのか誰にもわからなかった。
 話がそれたが、ハイドリヒはこの『魔女達の復讐』でその治安維持に多大な貢献をしただけでなく、占領地の安定に保護した女性親衛隊員という彼の与党まで手に入れた。
 その権限はヒムラーを凌ごうとし、それを危惧したイギリスのチャーチルが「エンスラポイド作戦」という暗殺コマンドをチェコに送ってまで彼を殺そうとした。
 だが、『魔女達の復讐』による女性層のSS参加はチェコでのハイドリヒの安定した統治と重なって彼らの発見を促し、コマンド排除のきっかけとなった。
 その間、SS本部のヒムラーは何も動かなかったのだ。
 情報を掴んでいなかったのか、見殺しにしたかったのかそこまではブレジネフも分からなかったが、この一件でヒムラーとハイドリヒの対立が表面化する。
 そんな中でのクレタ陥落によるゲーリングの権威失墜であり、独軍のモスクワ陥落だった。
「皮肉なものだ。
 敵というのは常に中にいるらしいな」
 フルシチョフが感慨深く呟くとブレジネフも上司たるフルシチョフに追随して見せた。
「無能な味方は我々の足を引っ張ります。
 要するに、ナチよりも速く無能な味方を切り捨てればよろしいのです」
 フルシチョフが皮肉を浮べながら葉巻を口に咥えた。
「とはいえ、停戦などというナチとの約束など信じない方が祖国の為になると思いますが?」
 ライターを差し出してブレジネフがフルシチョフの葉巻に火をつけた。
「では、ナチを滅ぼすためにベルリンまで出向くかね?
 兵士や市民の損害が更に1000万増えるぞ。
 今の指導部にはその損害に耐え切れないだろう。同志スターリンなら別だが」
 紫煙をくべらして笑うフルシチョフを見てブレジネフは悟った。
「次なる大祖国戦争の為の停戦。
 今の指導部にはこの戦争で引退してもらいましょう。
 そして、モスクワを奪還するのは、貴方という訳だ」
 ブレジネフの追従にフルシチョフは何も言うわけでもなく、葉巻の紫煙をくべらせていた。


 帝国の竜神様 29
2007年06月03日(日) 10:59:08 Modified by nadesikononakanohito




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