二十二計 関門捉賊「門を関ざして賊を捉う(もんをとざして、ぞくをとらう)」
中国の戦国時代の有名で最大の戦いの一つに「長平の戦い」があります。
紀元前260年、秦軍50万と趙軍45万が激突したました。
秦の猛将白起率いる50万と、趙の趙括率いる45万が長平で戦った。白起の用いた策は、敗走すると見せかけて誘い込み、敵の補給路を遮断し、弱ったところを大将を狙い撃ちにして討ち取ったのです。
この秦軍の計略により趙軍の総大将は討死に、趙軍は降伏したのです。
残る40万の軍をどう処置すべきか、白起は決断を迫られました。
降伏を許して、元敵軍の兵を部隊に編入すれば、次回趙を攻略する時に寝返る恐れが出てきます。
だからといって、解放すれば国に戻って一致団結し、再び戦わなければならなくなります。
このことを考えて白起は「将来に禍根を残さないため」に、策を弄して残る趙軍を包囲し、謀を用いてことごとく生き埋めにしてしまったのです。
40万の趙軍の内、許されて帰国したのは、まだ幼少の二百四十人だけでした。
そして、40万の大軍を失った趙は、国力は急激に弱体化して行き、三十年後に秦に滅ぼされたのでした。
関門捉賊は、味方に比べて弱小な敵は包囲殲滅すべし、という敵を包囲し攻め立てて一網打尽にする計略です。
敵を包囲し、一網打尽にするのは、逃げるのを恐れるからではなく、逃した敵が他人に利用されるのを恐れるからである。
ですから、この計略を実行するにあたって、条件が2つ必要です。
一つは、敵が弱小で、戦意が低い事です。
二つ目は、これを逃したら、将来禍根に残る事です。
この二つの条件が整わなければ、関門捉賊は、敵を、窮鼠に追い込み、窮鼠猫を噛むが如く、激しい反撃により、逆効果になります。
特に、二つ目の「これを逃したら、将来禍根に残る事」という条件は重要です。もし、二つ目の条件がなく、一つ目だけの条件であれば、むしろ弱い者いじめの悪名が、その後、不利になってしまいます。
では、なぜ、「これを逃したら、将来禍根に残る事」が重要なのでしょう?
これは、 来禍根に残るような者、つまり、敵対を宿命付けられている存在であれば、今は自分の方が強くても、臥薪嘗胆で、将来、敵の方が強くなる可能性はあるわけです。
関門捉賊は、そう言う将来に禍根を残すような場合は退路を断って殲滅すべきであるという、もっと大局を見て判断する兵法だといえます。
歴史の中では情けが仇となった例は、数多くありますし何よりも、臥薪嘗胆という、敵を討とうとして苦労し、努力するという意味の慣用句があるほどです。
さて、包囲した敵を殲滅するのか、或いは、第十六計の「欲擒姑縦」を用いるのかは、そのときのリーダーの状況判断だといえるでしょう。
判断の基準としては、「欲擒姑縦」が相手の自適変化や心服を促すのに対し、「関門捉賊」は相手を逃して回復の時を与えてはならないときに用います。
さて、現代においては、関門捉賊は、どのような活用方法があるでしょうか?
意外にも、教育です。
教育の中でも、しつけ、叱り方がまさにそれにあたります。
関門捉賊は、策略というよりも、一つの覚悟を意味します。
人間というものは、口で言うだけではわからないことがあります。
なぜなら、やってはならぬと口で言うだけで解るなら、やってはならないことだと既に知っているはずだからです。
しかし、教育を受ける人は、知っている事は少ないわけですから、やってはならぬといっただけで、守る事は難しいのが現実です。
やってはならぬと口で何度言おうとも守れないのであれば、それこそ、すべての言い訳や慈悲を捨ててでも、教え込むしかありません。
もちろん、教育は戦争ではありませんから、口で言って禁止したことへの罰則としての関門捉賊であることを忘れてはいけません。
罰則を課すのは、人へではなく、罪を犯した心を殺す為のものです。
罰則は、罪に応じて考えるべきでしょう。
できることなら、自分の犯した罪の被害者の立場がわかるようなことの方がいいでしょう。
被害者としての立場に立つという意味で、その人の自己の正当化という言い訳の門は閉じられるからです。
ただし、罰則を受けた人は、罰則を科した人を恨みます。
さらに、事情の知らない人は、罰を科した人を悪者として扱うでしょう。
だれも、恨まれたり、悪者になってうれしい人などいません。
やってはならぬ事をこれからしないためにも、うらまれても罰則を科すという覚悟が、関門捉賊には必要ですし、それだけに、関門捉賊を使う場合は、関門捉賊を使う条件がそろっているかきちんと吟味する必要があります。
★
-------------
呟き尾形の孫子の兵法自転へ
中国の戦国時代の有名で最大の戦いの一つに「長平の戦い」があります。
紀元前260年、秦軍50万と趙軍45万が激突したました。
秦の猛将白起率いる50万と、趙の趙括率いる45万が長平で戦った。白起の用いた策は、敗走すると見せかけて誘い込み、敵の補給路を遮断し、弱ったところを大将を狙い撃ちにして討ち取ったのです。
この秦軍の計略により趙軍の総大将は討死に、趙軍は降伏したのです。
残る40万の軍をどう処置すべきか、白起は決断を迫られました。
降伏を許して、元敵軍の兵を部隊に編入すれば、次回趙を攻略する時に寝返る恐れが出てきます。
だからといって、解放すれば国に戻って一致団結し、再び戦わなければならなくなります。
このことを考えて白起は「将来に禍根を残さないため」に、策を弄して残る趙軍を包囲し、謀を用いてことごとく生き埋めにしてしまったのです。
40万の趙軍の内、許されて帰国したのは、まだ幼少の二百四十人だけでした。
そして、40万の大軍を失った趙は、国力は急激に弱体化して行き、三十年後に秦に滅ぼされたのでした。
関門捉賊は、味方に比べて弱小な敵は包囲殲滅すべし、という敵を包囲し攻め立てて一網打尽にする計略です。
敵を包囲し、一網打尽にするのは、逃げるのを恐れるからではなく、逃した敵が他人に利用されるのを恐れるからである。
ですから、この計略を実行するにあたって、条件が2つ必要です。
一つは、敵が弱小で、戦意が低い事です。
二つ目は、これを逃したら、将来禍根に残る事です。
この二つの条件が整わなければ、関門捉賊は、敵を、窮鼠に追い込み、窮鼠猫を噛むが如く、激しい反撃により、逆効果になります。
特に、二つ目の「これを逃したら、将来禍根に残る事」という条件は重要です。もし、二つ目の条件がなく、一つ目だけの条件であれば、むしろ弱い者いじめの悪名が、その後、不利になってしまいます。
では、なぜ、「これを逃したら、将来禍根に残る事」が重要なのでしょう?
これは、 来禍根に残るような者、つまり、敵対を宿命付けられている存在であれば、今は自分の方が強くても、臥薪嘗胆で、将来、敵の方が強くなる可能性はあるわけです。
関門捉賊は、そう言う将来に禍根を残すような場合は退路を断って殲滅すべきであるという、もっと大局を見て判断する兵法だといえます。
歴史の中では情けが仇となった例は、数多くありますし何よりも、臥薪嘗胆という、敵を討とうとして苦労し、努力するという意味の慣用句があるほどです。
さて、包囲した敵を殲滅するのか、或いは、第十六計の「欲擒姑縦」を用いるのかは、そのときのリーダーの状況判断だといえるでしょう。
判断の基準としては、「欲擒姑縦」が相手の自適変化や心服を促すのに対し、「関門捉賊」は相手を逃して回復の時を与えてはならないときに用います。
さて、現代においては、関門捉賊は、どのような活用方法があるでしょうか?
意外にも、教育です。
教育の中でも、しつけ、叱り方がまさにそれにあたります。
関門捉賊は、策略というよりも、一つの覚悟を意味します。
人間というものは、口で言うだけではわからないことがあります。
なぜなら、やってはならぬと口で言うだけで解るなら、やってはならないことだと既に知っているはずだからです。
しかし、教育を受ける人は、知っている事は少ないわけですから、やってはならぬといっただけで、守る事は難しいのが現実です。
やってはならぬと口で何度言おうとも守れないのであれば、それこそ、すべての言い訳や慈悲を捨ててでも、教え込むしかありません。
もちろん、教育は戦争ではありませんから、口で言って禁止したことへの罰則としての関門捉賊であることを忘れてはいけません。
罰則を課すのは、人へではなく、罪を犯した心を殺す為のものです。
罰則は、罪に応じて考えるべきでしょう。
できることなら、自分の犯した罪の被害者の立場がわかるようなことの方がいいでしょう。
被害者としての立場に立つという意味で、その人の自己の正当化という言い訳の門は閉じられるからです。
ただし、罰則を受けた人は、罰則を科した人を恨みます。
さらに、事情の知らない人は、罰を科した人を悪者として扱うでしょう。
だれも、恨まれたり、悪者になってうれしい人などいません。
やってはならぬ事をこれからしないためにも、うらまれても罰則を科すという覚悟が、関門捉賊には必要ですし、それだけに、関門捉賊を使う場合は、関門捉賊を使う条件がそろっているかきちんと吟味する必要があります。
★
-------------
呟き尾形の孫子の兵法自転へ