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 障子と格子に囲まれた空気の澱む二階の部屋で、その人物は杯を片手に窓辺に体を
持たせかけていた。
 窓とは言っても、開けたところで見えるのは中庭の桜の樹と造り池くらいである。もとより
遊郭に景色を眺めに来る客はいない。ここを訪れる人々は、もっと別の花を観賞しにこの
大門をくぐるのだ。
 艶やかな着物の娘が、窓辺の人物に徳利を傾ける。猪口で受けた酒をその人物はしかし、
脇に置いた手桶にそのまま捨て流した。
 娘はそれをとがめもせず、すぐ傍に座って客に擦り寄る。客の白シャツのはだけた隙間に
手のひらをゆるりと差し入れる。客も遊女の肩を抱き寄せるとその顔を近づけ、瞳と瞳が
ほんの刹那絡み合ったかと思うと、互いの唇を吸い合った。
「……ん」
「ふぅ、っ」
 すでに二晩、この部屋に居続けている。今宵も間もなく日が暮れよう。
 枕元の灰皿には煙草の山がくすぶっている。……が、どれもこれも火を点けはするが、
一口も吸わぬまま焼けるにまかせていると知っているのは、この二人のみである。
「お酒は流して、煙草は燃して。どれもけっこう高いのに、町の人が見たらなんて思うかしら」
「このお店にはお金を落としに来ているのだもの、文句を言われる筋合いはないわ。どちらも
体によくないし」
 遊女の問いに、何事もないかのように答えるその声も男にしてはひどく高い。それはそうだ、
こんななりをしてはいるが中身は女なのだから。
「それもわざわざ素性を隠して、男の姿で現れて」
「事情をわかっているこの店の人ならともかく、通りすがりやひやかしに見咎められたら
春香、あなたが困るでしょう」
「そうなる前に早く身請けして欲しいんだけどな、千早ちゃんに」
 春香を芸妓としての名で呼ばないのは、千早と春香が二人きりの時だけだ。また酒を注ぎ、
また酒を捨てる。飲む気も吸う気もないがこれも店の、ひいては彼女の稼ぎになる。少々
空気が悪いのは、愛しい人の笑顔と相殺と考えることにしていた。
「そんなことを言いながらあなたはどんどん格を上げて行く。いくら稼いでも身請け代が
上乗せされていくんじゃ追いつかないわよ」
「私も苦労してるんだから。千早ちゃんが居づらくないように私が顔を利かせるためには、
それ以外の御用は断れないもの」
「ごめんなさい春香。あなたはここから一人では出られない身の上だものね。あなたといると、
時々それを忘れてしまうの」
「まあ、半分は望んで来た世界だもの。私にとってこの町は苦海じゃなくて楽の海。こうして
千早ちゃんも来てくれるしね」
「私のように自由は得ても、肝心のものが手に入らない日々よりは、そこを天秤に乗せたまま
好きな歌舞音曲を披露しながら暮らすあなたのそれもまた人生。私には真似は出来ない
けれどね」
「それは私も同じこと。こうして時々来てくれて、歌を歌って話を聞いて、一緒の布団で眠るのが、
私とあなたの夢の船」
「私も頑張って、いつか春香と大門を手に手を取って出てゆこうと思うわ。だから、もう少し
待っていて」
 滅法強い男装の無頼者がいる、という噂はこの界隈にいても聞こえていた。それが誰かと
いうことも、春香はとうに気づいていた。千早の手を取り、不安げな瞳で言い募る。
「千早ちゃん、危ないことはしないでね。千早ちゃんが怪我でもしたら、私どうしたら」
「大丈夫。相応には鍛えているし春香、あなたのためだもの」
 拳固や刀や鉄砲で交渉ごとを行なう人間とは思えぬ優しい表情で、千早は春香にそう言った。
彼女のためならどんな場所からでも必ず戻ってくる、その目は確とそう語っている。
「でも、そうね。あまり無理はしないように心がけるわ。春香が心配顔のままでは、お店に
迷惑がかかるから」
「ありがと、千早ちゃん」
 そっともたれる細い身を抱きとめる手もまたたおやかで、その手のどこから噂のような強力が
生まれてくるのか、春香にはわからない。ただ千早のその言葉はいつも、いつでも、彼女に
とっては嘘いつわりのない真実であり続けた。千早が平気と言えば、なにがあっても平気なのだ
と心から信じることが出来た。
「じゃあせめて、ここにいる間はゆっくり体を休めて欲しいな」
「……あなたが休ませてくれないのではなくて?」
「ああっ、ひどいよ千早ちゃん。私だけのせいなの?」
「そ、そうは言わないけれど」
「じゃあ、証拠を見せて」
「もう、言うそばから」
「って言いながら早速用意を始める千早ちゃんのこと、私は好きだよ」
「ふふ、その減らず口がきけないようにしてあげますとも、覚悟なさい」
「あん」
 宵闇降りる胡乱な町の、胡乱な店の胡乱な部屋に、似つかわしくない少女の嬌声。
 薄暗くなって世間の中でそこだけが、まるで昼間の野原のように明るく輝いて見えていた。





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