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「千早ちゃん、パブロフの犬みたい」
ボクの隣でクスクスと笑いながら、雪歩はボクだけに聞こえるような小さい声でそう言った。
視線の先には、ソファに向かい合って座り、春香と会話する如月の姿がある。
雪歩が言っている意味は分からないが、最近変わった――というより、春香に対して心を開くようになった如月を揶揄する言葉なのだろう。
会話の内容はここらでは聞こえないが、はたから見ていても、二人が仲が良いことはわかる。
他の人が見れば、ボクと雪歩も同じように見えるのだろうか。
そんな意味のないことを考えながら、雪歩に尋ねる。

「パブロフの犬って?」
「パブロフの犬には噛まれちゃいけないんだよ、真ちゃん」
視線を如月の方に向けたまま、雪歩はそう言った。
「答えになってないよ」
不服げなボクの様子をちらりと横目で見て、雪歩はもう一度小さく笑ってから説明を始める。
「パブロフの犬ってのは――」
雪歩の話によれば、ロシアの生理学者イワン・パブロフが行った有名な実験のことらしい。
詳細は省くが、犬にベルを鳴らしてから餌を与えることを繰り返すことで、犬はベルを鳴らすだけで涎を垂らすようになる。
このような訓練や経験によって後天的に獲得される反射行動、つまり条件反射を発見したのがこの実験なのだそうだ。

「パブロフは最初、条件反射じゃなくて、精神反射って言っていたみたいだから。
千早ちゃんの場合は、そっちの方が適しているかもね」
「ふーん」
やっぱりよく分からないので、そんな生返事を返す。
要するに、春香が事務所に来る時間になるまでに何回もソワソワと時計を見たり、時々携帯を開いて、頬を緩ます如月の様子を言いたいらしい。
確かに、話題に春香の名前が出るだけで、尻尾を振る犬のように機嫌が良くなるところなど、まさにそれだ。
本人が自分の変化を自覚しているのか、いないのか。
その点に関して、雪歩が説明した『無意識的で自動的』であるという条件反射と『自覚的で主体的』な学習の違いおける違いについては問題ないのだろうか。
まあ、雪歩もそれほど真面目に言っているわけではないのだろう。

やはり、それは揶揄なのだ。

「そっか、やっぱり千早ちゃんは犬だったのかぁ」
再び視線を如月に戻して、心底残念そうに、そしてどこか嬉しそうに雪歩が呟く。
その呟きはボクだけにしか聞こえない。
「いくら口で独りが好きだなんて言ったって、リング・ア・ベルで涎を垂らしちゃうだね」
どうしてそれをボクに聞かせるのだろうか。
いや、ボクの存在などどうでも良くて、ただ隣にいるボクの耳に入っているというだけなのだろうか。

だろう、だろうと繰り返すしかないほど、ボクには雪歩のことがよく分からないのに。

「……嫌だなぁ」
痛みを堪えるかのように、雪歩が胸に手を当ててポツリと呟く。
その視線の先では、如月が天海に手を握られて、顔を赤くしている。
ああ、『いつもと同じ』だ。
雪歩が如月に向ける感情に、ボクが気づいたのは随分前のこと。
そして、心の中で如月のことを『千早』と呼べなくなったのもその時からだ。
ボクの胸に今湧き出ている、地獄の釜のように煮立っている汚い感情と引き絞られるような痛み。
雪歩が如月の方を向くたび――その度にこれはやってくる。

ああ、ベルの音がする。

「私、犬は嫌いなのにな。
どうして噛まれちゃったんだろう」
そう呟く雪歩の顔。
きっとボクは今、彼女と同じ表情をしているに違いない。
それだけはボクにでも分かる。
雪歩の次の言葉は、聞き取るのが難しいほど、本当に、本当に小さなものだった。
だからボクも、雪歩にだけ聞こえる声で囁く。

「ねえ、真ちゃん。
私、本当に犬が嫌いなんだよ?」

「うん、ボクも嫌いさ」

自嘲するようなボクの言葉。
それを聞いて、雪歩は微かな笑みを浮かべた。

終わり

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