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パチパチパチ……
と拍手の音がして私――如月千早は酷く驚いた。
私が歌い終わった瞬間にその拍手が聞こえたのだから、その観客の賞賛は私に贈られたものなのだろう。
しかし、自分以外誰もいないはずの放課後の音楽室に拍手の音がすれば驚かないはずがない。
私の友人、萩原雪歩ならば心臓が止まっていたかもしれない。
「如月さん、歌上手なんだね。
全然知らなかったよ」
私が驚いたことなど露知らずといったような暢気な声で、ようやく私は拍手の主か誰か分かった。
「当たり前です。
私は今まであなたに歌を聴かせたことはありませんから」
速度を増したままの鼓動はともかく、外見だけでも平常心を保ったまま、声がした方をふり向く。
すると、いつの間にか音楽準備室へと続く扉の前には一人の女性が立っていた。
「……盗み聞きですか?
余り良い趣味ではないですね――天海先生」
驚かされた恨みを込めて、少しだけ嫌味を言ってみる。
すると私のクラスの担任教師である天海春香先生は慌てたように頭を下げた。
「ご、ごめんね。
でも、せっかく如月さんが楽しそうに歌っていたから、邪魔したくなくて……」
肩の辺りで切りそろえた髪がふわりと揺れ、音楽室の窓から差し込む夕日をきらりと反射する。
私はこの人以外、そんな風に生徒に対して簡単に頭を下げる教師を知らない。
そんな教師の威厳など微塵も感じさせない態度は、いつものように私を戸惑わせた。
「……別に、なんでもいいですけど」
だから私はいつもと同じ言葉を返す。
愛想もへったくれもない簡素な言葉。
ああ、そうだ。
『大人しいが無愛想で難しい子』という評価を周りから得ているであろう私に、わざわざ話しかけてくる物好きな教師も彼女以外にいなかった。
「でも驚いちゃった。
電気がついてない音楽室から、誰もいないはずなのに歌声が聞こえてくるんだもん。
あんまり綺麗な声だから、てっきりよくある学校の怪談かと思ったよ」
私の言葉をどう捉えたのか、先生は顔を上げ、ニコニコと微笑みながら近づいてきて――そして転んだ。
「あいたたた……」
「だ、大丈夫ですか?」
何かにぶつかるということはないだろうが、(というより、何もつまずくような物などないのだが)思わず駆け寄ると、先生は恥ずかしいのか小さい声で「ありがとう」と言った。
「うぅ……また転んじゃった、いつまでたってもこの癖は治らないなぁ」
そんなことをブツブツ言いながら、スーツのスカートを手で払いながら立ち上がる姿はとても10歳以上年が離れているとは思えない。
『担任の天海先生って、結構可愛いのよね』
『昔アイドルやってたって聞いたけど』
『年上とは思えない位の気さくさでさ』
『なんていうか、先生と生徒っていうより同年代の友達同士に感じちゃうよねー』
などと話していたクラスの女子達を思い出す。
そう言えば、誰かが天海先生は生徒に人気があるという話をしていた気がする。
きっと私に話しかけてくるのも、先生の『気さくさ』とやらによるものなのだろう。
「怪我がなくて何よりでしたね。
それでは特に用が無いのであれば、私はこれで失礼します」
何故だか急に苛立ちを覚え、この場から早く立ち去りたくなる。
先生は何も言わないが、もともと部活動以外の音楽室の無断使用は禁じられている。
そもそも下校時間はとうに過ぎているのだ。
きっと学校に残っている生徒も私くらいに違いない。
『あの家』には帰りたくはないが、学校で時間を潰すのもそろそろ限界だろう。
(次はどこに行こうかしら)
などと考えを巡らしながら、音楽室の扉に指をかける。
すると先生は、意外とでも言うような声をあげた。
「あっ、もう歌うのやめちゃうの?」
「……誰かに聞かせたくて歌っていた訳ではありませんから」
「えっ? あっ……うん……
そうだよね、私がいたら歌えないか」
思いのほか私の声の温度が低かったせいか、まるで空気が抜けたかのように先生はしゅんと肩を落とす。
どうしてだろう、まるで私が悪いことをしているかのようなこの罪悪感は。
「本当にごめんね。
せっかくあんなに楽しそうに歌っていたのに邪魔しちゃって」
まただ。
また先生はそうやって私に謝る。
別に先生は悪くないのに、我がままなのは私の方だというのに。
「……一曲だけ」
「えっ?」
「一曲だけで、良かったら」
下を向いたまま、ぽつりと私はそう呟く。
素直でない私にとってはそれが限界だった。
しかし、先生は私の言葉に驚いたのか一瞬目を丸くしたものの、すぐに嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「やっぱり如月さん、歌上手だね」
私が歌い終わった後、天海先生は手が痛くないのだろうかと心配するほど大きい拍手をしてから、開口一番そう言った。
見え透いたお世辞や追従などではない、心からの言葉。
そして、まるで初めてモーツァルトを聴いて感動した子供のような表情は、私にふと懐かしい顔を思い出させた。
「ありがとうございます」
だから素直に私も礼を言う。
あの頃のようにはいかないかもしれないが、それでもいつもよりは柔らかく微笑むことが出来たと思う。
「あはっ」
「ど、どうしたんですか?」
いきなり嬉しそうな声を上げた先生に慌てながらそう尋ねる。
「いやぁ、如月さんの笑った顔見たの初めてだなって思ったの。
やっぱり私が思っていた通りだな〜」
「お、思っていた通りとは?」
先生の言葉の意味が分からずに私は混乱した。
というより、私はどれだけ天海先生に無愛想だったのかと思い返し不安になる。
確かに私は滅多なことでは笑わないが、それは先生に限ったことではないはずだ。
いや……それも十分に問題なのかもしれない。
ひょっとすると先ほどの私の顔が可笑しかったのだろうか。
そう思うと、頬に両手をあててニヤニヤを必死で抑えようとする先生に怒りがこみ上げてくる。
そんな私に気づかないのか、先生は私の頭にぽんと手を乗せて、優しく撫でながら言った。
「如月さんは笑った方がずうっと可愛いって思ってたんだ。
初めて会った時から、笑顔はきっと可愛いんだろうなぁって」
顔から火が出るという慣用句の意味を私はこの時初めて理解した。
さっきまでの怒りは一瞬で霧消し、ゆっくりと撫でる先生の掌から伝わる温かさが心臓に直結して全身を駆け巡り、その何倍にも身体を熱くする。
ああ、顔から出る火とはこの熱が行き場を失って出ているに違いない。
「……な、なにをするんですか?!」
身体は硬直したまま1ミリも動かせなかったが、なんとかそれだけ絞り出した。
「いやあ、如月さんが余りに可愛いから撫でたくなっちゃって……」
「くっ……理由になっていません!!
いいから、頭を撫でるのをやめてください!!」
「ちぇ〜、伊織と同じで如月さんも嫌がるのか。
やよいは喜んでくれるのになぁ」
……この人はこんなことを他の人にもしているのだろうか。
伊織という名前が男の子か女の子のものかは分からないが、やよいというのは少なくとも女の子の名前に違いない。
なんだかよく分からないが、そういうことは決して誉められたことではないと思う。
思わず問いただしたくなるが、今の私がそれを聞くのもおかしい気がしたのでじっと見つめるだけに留めておく。
流石に先生も私の視線に何かを感じ取ったのか、明後日の方を向いていたが、やがて話題を変えるようにわざとらしい咳ばらいを一つした。
「ところで、さっき歌ってくれた曲だけど、一人で歌っていたのも同じ曲だったでしょ? よくそんな昔の曲知ってるね。
私もこの曲は思い入れがあって大好きだけど、たしかもう10年――ううん、9年も前の曲だよ?」
「この曲が好きなんです。
タイトルも誰が歌ったものかも覚えていないのですが、ずっと昔よく聞いて歌っていたもので……
私にとって大好きな、とても大事な曲です」
「えへへ、何だか如月さんみたいに素敵な子に好きって言ってもらえるなんて嬉しいなぁ」
ああもう、どうしてこの人はこんなにも自然にこういう台詞を言えるのだろうか。
先ほどおさまったはずの鼓動がまた跳ね始める。
「さっきの歌からも如月さんがとてもこの曲を大切に思ってくれているって分かったよ。
だから私、本当に嬉しいんだ」
まるで自分のこどもを誉められたかのように天海先生は嬉しそうに頭をかく。
「先生はどうしてこの曲が?」
その態度を不思議に思いながら、私は先生が自分と同じ曲を好きだと言ってくれたことが嬉しくてそう尋ねる。
「だってこれ『my song』(私の曲)だもの」
「『私の曲』?
ああ、そういうタイトルなんですか?」
「いや、タイトルは『my song』(マイソング)だよ」
「え? それじゃ『私の曲』ってどういう意味で……ってまさか――」
驚きの余り飛び上がりそうになる私の唇に、至近距離から天海先生の人差し指が当てられた。
思わず呼吸が止まる。
「あのさ、如月さん」
私の言葉を遮って、額が当たりそうな距離にまで寄られ、たちまちカチンコチンになる私に向かって、先生は反対の人差し指をピンと立てた。
そして、悪戯っ子が新しいイタズラを思い付いたかのようなワクワクした表情で話し出す。
「いつも、今日みたいに音楽室で歌っているの?」
吐息を感じるほど近くで囁かれる先生の言葉に、私はコクコクと頷くばかりしかできない。
それどころか私は、唇に当てられたままの先生の人差し指の感触に気が気ではなかった。
「実は、私も時々一人で音楽室で歌っているんだ。
さすがに公私混同は不味いから、生徒の皆がいる時じゃなくて今日みたいに残業で遅くなった時とかね。
だから、そんな時如月さんさえ良ければ、一緒に歌ってもらえないかな。
結構前から何度も隠れて聞かせてもらっていたけど、やっぱり盗み聞きは良くないし。
出来れば傍で聞きたいし、一緒に歌ってみたいんだ。
私、如月さんの歌が好きだし。
今でも歌うことが大好きだから」
そう言って茶目っ気たっぷりのウインク。
さりげなく色々と予想外の話をされた気がするが、「ね?」と首を小さく傾げる先生に何も言うことが出来なかった。
というより、人差し指で唇を押さえられては口を開けられるはずがない。
「その時にこの話の続きをしよう。
それでもいいかな?」
私が小さく首を縦に振ったのを確認して、先生がそっと私から離れる。
その瞬間、ようやく私は息を吐くことができた。
大きく深呼吸をして、冷たい空気で身体を冷やそうとするが、全身の力が抜けてふにゃふにゃと座り込んでしまう。
機嫌よさそうにニコニコと笑う先生からは私のような状態の変化は見てとれない。
何だか、私だけ自分の心臓の音が外に漏れていないか心配しているというのはとても不公平だ。
「あっ、そうだ。
あともう一つお願いがあるんだけど」
「……何でしょうか」
さっきのことに比べれば、これ以上驚くようなこともあるまい。
もう何でも来いと言った気分でそう返す。
「あのさ、如月さんのこと、名前で呼んでもいいかな?」
「はあ、名前で……名前でですか?!」
くっ、この人はどれだけ私の思考をかき乱せば気が済むのだろうか。
「いや、如月さんが嫌なら別に――」
私の反応が過敏だったせいか、少しだけひるんだかのように先生はもじもじと言う。
ひょっとすると私が嫌がっているとでも思っているのだろうか。
「せ、先生が!! 先生がそう仰るんでしたら…私は、あの全く構いませんが……
でも、私は生徒で、先生は……その」
「平気だよ」
竜頭蛇尾とでも言うように、徐々に小さくなる私の言い方がおかしいのかと先生が笑う。
「だってほら、私は如月さんの『ファン』だもの」
「――!!」
あとは言葉にならなかった。
嬉しいやら恥ずかしいやらで、また頬が熱くなる。
もう何度目か分からない胸の鼓動の急加速。
それでも、不思議とその早いリズムは心地よかった。
「さて、流石にそろそろ帰らなきゃ、だね」
はい、と私に右手を差し出して先生が微笑む。
「そうですね」
一瞬ためらったものの、その手を取って立ち上がり、私も笑った。
きっとそれは最初に見せた笑みよりは上手く笑えたと思う。
「うん、やっぱり千早ちゃんは笑っていた方が可愛いよ」
そう言って天海――ううん、春香先生はまた私の頭を優しく撫でてくれた。

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