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パン、とすぐ近くでクラクションが鳴り、思わず振り向いた。

ミラーに当たったのだろうかと、すぐ側の路肩に停まっている車の運転席を見ると、よく知った顔がニヤニヤしながら言った。

「お嬢さん、ドライブでも行かない?」

  ※ ※ ※

「暑くてごめんね。エアコン壊れてるのよ」
「冷房は苦手だから、ちょうどいいわ」

運転席側も助手席側も窓は全開で、ぬるい風が勢いよく吹き込んでくる。
冷房は喉に良くないから家でも極力使わないようにしているため、暑いのは割と平気だ。

「それで、どこに行くの?」
「センシャ」
「センシャ?」
「車を洗う方の、洗車」
「あの、律子」
「何?」
「私は洗車を手伝うために、レッスンをキャンセルさせられたのかしら?」
「まあまあ、たまにはいいじゃない。ドライブがてらの洗車よ」

本来ならば、今日この時間はボイスレッスンを受けているはずだった。
そのため事務所へと歩いていたところを、車で待ちかまえていた律子に半ば強制的に連れ去られた。

「プロデューサーには、今日千早はドタキャンしますって言ってあるから」
「あらかじめ宣言するドタキャンなんてあるのかしら」
「私が責任取るから、安心しなさいって」
「まあ、いいわ。律子が何の考えもなしにさぼらせるなんて、あり得ないから」
「買い被ってくれて嬉しいけど、私はただ初ドライブに付き合ってほしいだけよ」
「初!?」
「だってつい最近だもの、免許取ったの。一応特訓はしたけど、一人で運転したのは今日が初めて」

怖いことを言っているが、その割に当の本人はリラックスしていて、楽しそうにさえ見える。
確かに律子の18歳の誕生日からは、まだそんなに経っていない。
空き時間に教習所に通っているという話は以前聞いたことがあるが、いつの間に免許まで取っていたのか。

「それにしても。こう言っては悪いけれど、随分古い車ね」
「ボロいでしょ。うちの商売で長年使ってたものなの。これなら明日廃車にしてもいいからってことで、もらったのよ」
「廃車になる現場には立ち会いたくないわね」
「今日一日くらいは保つわよ、多分」

車のことはよく分からないけれど、バンというのだろうか。
後部に荷物を積むスペースが広く取ってある、社用車によく使われているタイプだ。
色はごく平凡な白で、車体には細かい傷や汚れが沢山あった。
全体的に古びた雰囲気だが、車内は綺麗に掃除してある。

考えてみれば、タクシーや事務所の車以外の、いわゆる自家用車に乗るのは随分久しぶりだ。
両親と疎遠になるずっと前から、家族で車に乗って買い物やドライブに行くことなどなくなっていた。

「眩しくない?」

信号待ちで停車した時、律子が運転席のサンバイザーを降ろしながら言った。
Tシャツに七分丈のジーンズ、裸足にヒールのないシンプルなサンダルと、普段の律子にはあまり見られないラフな服装だ。

「大丈夫。たまには、うんと日光に当たるのもいいわ」
「誘っといてなんだけど、アイドルなんだから日焼けはだめよ」
「一応、日焼け止めは塗っているから」
「それならいいけど。あ、その水、適当に飲んでね。飲み物は沢山持ってきてるから遠慮しなくていいわよ」
「ええ。ありがとう」

ドリンクホルダーに立ててあるミネラルウォーターを指差す。
後ろの荷物を置くスペースを見ると、クーラーボックスがあった。
他にも洗車に使うのであろう、スポンジや洗剤などを入れたバケツ、リールに巻かれたホースが積まれている。
準備の良さが律子らしいなと、少し笑みが漏れる。

信号が青に変わり、また走り出す。
私は熱を吸って蒸しタオルのようになっているシートに身を預けた。

目的地がどこなのかは知らないが、窓の外の景色が市街地から住宅街に変わり、
更に段々と民家もまばらになってきたところを見ると、どうやら郊外に向かっているらしい。
つけっぱなしのラジオからは、80年代ポップスが流れている。
律子は運転に集中しているのか特に何も話さないので、私も黙ったまま、とりとめのない考えに耽る。

用もなく遠出するなど、いつ以来だろうか。
そもそも最近の私は、決められたスケジュールをただこなすだけの日々になっていたような気がする。

その理由については、分かっている。
春香。私が何年ぶりかに、歌以外に心を奪われた存在。事務所に入って以来、密かに想ってきた。
だけど、自分でその気持ちを認めたのとほぼ同時に、私の恋は終わった。
私と同じ視線で彼女を見ていた人は他にもいて、そして彼女も同じ気持ちでその人を見ていることに気づいた。
そして偶然見てしまった、二人が仲睦まじく身を寄せて微笑み合っていた光景。

何ということもない。
ただ、淡い初恋が実らず終わったという、それだけのこと。
春香の優しさ、人懐っこさを、少し勘違いしただけのこと。
誰でも経験する、少し時が経てば、青春のいい思い出になること。

努めてそう思うようにして、また元通りの日々に戻ろうとしているのに、これが喪失感というものなのだろうか。
あれほど好きだった歌の仕事にすら、集中力を欠いたりする始末。
私はこんなに脆い人間だったのかと、自嘲せずにはいられない。

今この身をじりじり焼いている太陽のように明るく、眩しいあの笑顔。
それが自分だけに向けられたら、という叶わない願いを、私はまだ捨てられないでいる。
もしも二人の仲が上手くいかなくなったら――。
傷心の彼女を優しく慰める自分の姿まで思い描いてしまうとは、なんと滑稽なことだろう。
もしかすると今この瞬間にも、彼女は愛する人の腕に抱かれて満たされているかもしれないのに。

「もう少しで着くわよ」

いつもと同じところで行き詰った思考を破って、律子の声が聞こえた。

  ※ ※ ※

洗剤を含ませたスポンジで車体をこすりながら、この作業は何かに似ていると思う。
こめかみから滴り落ちる汗を腕で拭って、ああ、プールの掃除か、と思い出す。
靴が濡れると困るから、ということで裸足に律子が貸してくれたビーチサンダルを履いているせいもあるのだろう。

今通っている高校は水泳の授業はないが、中学生の頃はプール開きの時期になると、掃除に生徒が駆り出された。
さぼって遊んでいる子も沢山いたが、じゃれ合う相手もいない私は黙々と、照りつける日差しの下でスポンジやブラシを動かしていた。
消毒の匂い。コンクリートに染み込む水滴。光の反射。白線。
まだ去年のことなのに、少し懐かしい気持ちになる。あまり楽しいと感じたことはなかったはずだが。

行き着いたのは、とある農家の庭だった。と言っても人は住んでおらず、空き家になっている。
親戚の老夫婦がここで農業を営んでいたのだが、最近廃業して老人ホームに移ったため、
買い手が見つかるまで律子の両親が管理を引き受けているという。
時々は様子見がてら来て掃除や草取りをしているとのことで、家屋は傷んでいる様子はなく、
この季節の割に庭の雑草もさほど生えていない。
今日も来たついでだから、と律子が雨戸を開け放って風を通している。

周りは一面田んぼに囲まれていて、青々した稲穂が時折吹く風に波のようにうねっている。
一番近い隣家でも2、300メートル先で、この家に続く道は私道しかないため、
真っ昼間にアイドル二人が誰にも気を使わず過ごすのには適していると言える。
もっとも、やっていることは洗車なのだが。

「全部洗ったかな。千早の方はどう?」
「ええ、こっちも終わったわ」
「じゃ、流すわね」

バケツにスポンジを落とし、庭の水道につないだホースから水を出して軽く手を洗う。
蝉の鳴き声が降り注ぐ木陰に入ってペットボトルの水を飲みながら、律子が車にホースの水をかけるのを見る。

少し前に、梅雨が明けたと天気予報では言っていた。
今日は本格的な夏の到来を告げるような暑さだが、快晴で湿気も少ないため、日陰に入ると思いの外涼しい。
暑い盛りに外で体を動かして汗を流したのも久しぶりで、適度に疲れた体を風が撫でて、なかなか気持ちいい。

たまにはこういうのもいいわね――。そう思いながら少しぼんやりしていると。

バシャアアアッ。
突然視界が塞がれて、とっさに目を閉じる。
続いて頭から肩、そして背中や胸へと水の流れる感触がして、恐る恐る目を開けると、
律子が満面の笑みでこちらにホースを向けていた。

「ちょ、ちょっと、律子!?」
「隙あり!」

ホースの先端を指で押しつぶしているため勢いよく迸る水が、放物線を描いて私の頭の上に降り注いでいる。
呆然としている間に、全身がずぶ濡れになる。

「涼しくていいでしょ?」
「もう、律子ったら。いいわ、そっちがその気なら」

仕返しすべく律子に飛びかかり、ホースを奪い取る。

「さあ、覚悟しなさい」
「いや、ちょっと駄目だって、あーっ!眼鏡が!!」

逃げ回る律子を追いかけて、容赦なく頭から水をかける。
追いついて捕まえると、Tシャツの襟の中へホースを入れる。

「うおーっ!!待って、パンツまで一気に!!」

それからは二人とも破れかぶれのようになって、交互にホースを持って走り回り、笑いながら水をかけ合った。
少し足がもつれたところを律子に抱きとめられ、そのまま二人で車にもたれる。
律子は片手で私の腰を抱いたまま、ホースを持った手を真上に伸ばす。
噴水のように舞い上がる飛沫が、きらきらと反射して降り注いでくる様を、二人で見上げて眺めた。

「天海春香のバカヤロー!!」

突然、律子が叫んだ。

「千早を何だと思ってんだコラー!!」
「律子!?」
「千早もやってみたら?気持ちいいわよ?」

悪戯っぽい笑みで私を見ている。
その向こうには、真っ青の空。大きく、息を吸う。

「春香のバカーーーー!!」

どこまでも青い空に向かって、思い切り叫んだ。確かに、気持ちよかった。

  ※ ※ ※

「はい。適当に選んできたけど」
「ありがとう」

ワックスがけなど残りの作業をしている間に、服はあらかた乾いた。
一通り終わって縁側に並んで座り、律子がクーラーボックスから取ってきた緑色の缶を受け取る。
プルタブを開けて一口飲むと、炭酸の刺激が広がる。

「ジンジャーエールって、こんな味なのね」
「飲んだことなかった?」
「ええ。なかなか美味しいわ」

律子の手には、ドクターペッパーの缶。
飲んだことはないけれど、確かすごい味だという話ではなかったかしら。
もう一口、ジンジャーエールを飲みながら、車の方を見る。

「綺麗になったわね」
「ほんと。まだまだ捨てたもんじゃないわ」

洗ったことで白がくっきりして、ワックスがけされたボディが日光を浴びて輝いている。

「律子」
「ん?」
「もう少しだけ、待ってくれるかしら」
「いつまでだって待つわよ」
「ありがとう」

律子の肩に頭を預けてもたれると、風が吹き抜けていった。

その後はまた律子の運転で帰った。
疲れたせいか、いつの間にか眠っていたらしい。起こされた時には、もう家に着いていた。

翌日、顔を洗う時に鏡を見たら、少し日に焼けていた。
水を被ったせいで、日焼け止めが流れてしまっていたようだ。

事務所に行くと、春香が目ざとく見つけて話しかけてくる。

「あれれ?千早ちゃんも日に焼けてるね。律子さんもなんだよ。二人でどっか行ったの?」
「ええ、ちょっとね」
「何なに?どこ行ったの?」
「内緒」
「ええ〜千早ちゃんのケチ〜」

不満げに口を尖らせる春香の向こうにいる律子と目が合い、二人でこっそり笑った。

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